それから、一ヶ月、と言う月が過ぎるのは本当にあっという間だった。

もう誰も使わなくなり、長年風雨に晒されていた海女小屋に二人は住みついた。
朽ちかけた壁にはところどころ穴が開き、隙間風が入り放題、床もゾロが一歩、踏み出した途端に、腐って抜けた。

それでも、二人にとっては、苦難の末にやっと辿り着けた安住の住処だった。

けれど、その小屋を修繕するのにも、金が要る。
毎日、腹を満たすのも、心地良く寝るのにも、金が要る。

ゾロが引き起こした戦は、未だに決着がついていないが、その所為か、周りの港町は普段よりも活気付いていた。

火薬、兵糧、それらの運搬、軍船の造船、それらに携わる労働力が不足していて、
ゾロとサンジが一緒に働く仕事を見つけるのは、とても簡単だった。

空が青い事、そこに浮かんでいる雲がとても白く柔かそうな事、
夕焼けが見える時分になると、その色がそのまま、海に映る事、
海の上にはたくさんの星が見える事、
雨の粒がキラキラと一粒、一粒、光る事。

ずっと同じ世界に生きて来た筈で、そんな事は見慣れていたそんなありきたりな風景が、
やけに美しく、はっきりとゾロの目に映る。

「…俺達、こんな世界に生きてたんだな…」
仕事の帰り、渚を歩きながら、二人で真っ赤に染まった空を見上げていた時、ゾロは思わず呟いていた。

移ろい行く時間の中、目に映るもの、頬に感じるものがこんなにも優しく、美しい。
離れ離れで過ごした辛い時間の中では、自分達を取り巻く世界が、こんなにも美しいとは、気付きもしなかった。
サンジが側にいると、この世界は、光とたくさんの色が満ちて輝いている。

ずっと、こうして二人で暮れて行く温かな朱鷺色の世界の中にいたい。
けれど、時間は確実に流れ、じきに空は瑠璃色に塗りつぶされ、やがて漆黒へと沈んで、白い月が冴え冴えと浮かび、星が輝き出す。

幸せだと感じている時は、どうしてこんなに時は早く流れて行くのだろう。

* **

雑穀の方が多く混ざった飯、それと駄賃代わりに貰った干し魚。
粗末な食事だけれど、腹も心も十分に温まる。サンジが、ゾロの為だけに見よう見まねで作ってくれる飯だ。不味い訳がない。

まだ、夜具も買えず、灯りも買えない。飯を炊く為に熾した火が消えれば、小屋の中は真っ暗になり冷えてくる。けれど、少しも惨めだとは思わなかった。
二人でいる事、それ以外に特にほしいものなどない。
明日も、二人には荷運びの仕事が待っている。
二人は寒さを凌ぐ為にムシロを被って横になった。

「…何かあったら、起こせよ」
ゾロは目を瞑り、出来るだけ素っ気無い口調を装ってそう言った。

「…何かあったらって…何かって、なんだよ」
少し、自嘲を含んだ声でサンジが答える。

赤髪のシャンクスに助け出されて、この島に来て以来、毎晩、サンジは魘されていた。
どれだけ荷運びの仕事で疲れていても、夢は見るらしい。
はっきりとサンジがそう言った訳ではないが、サンジの魘され様を見ればどんな夢を見ているのか、ゾロにはわかる。

ルッチやクロコダイルに陵辱されて、その後、毒の為に苦悶する夢。
それ以外には考えられない。

あの時、痛さ、苦しさを少しでも楽にしてやろうと背中を摩ってやったように、
ゾロが柔かく包み込むようにサンジを抱き、背中を掌で強く擦り、摩ってやるとやっと
サンジは穏やかな眠りに落ちて行く。

二年と言う長い時間、苦痛しかない生活を過ごしてきたのだ。
どんなに穏やかに生活していても、その時の恐怖は心にこびりついている。悪夢に苛まれるのも無理はない。サンジの心は未だに傷だらけのままだ。
もしかしたら、何も癒されていないのかも知れない。魘される度に、そう思い知らされる。
(早く、そんな悪イ夢なんか見なくなればいい…)と、仕方が無いと分かっていても、ゾロは焦れてしまう。

「…あの絵草紙があれば、ぐっすり眠れる様になるかも…」
うつらうつらとしかけた時、サンジが小さな声でそう呟く声が聞こえた。
ゾロは閉じていた目を開いて、壁の隙間から差し込む青い月明かりにうっすらと浮かぶサンジの横顔を見詰めて聞き返す。

「…絵草紙?」
「…あぁ…?お前、まだ起きてたのか…?」

天井を見ていたサンジがゾロの方に向き直る。
息が掛かるくらい、いや鼻先が触れ合いそうな程近くにサンジの顔があって、
見慣れている筈なのに、か細い月明かりを吸い込んで煌く青い瞳を見て、ゾロの心臓が
トクン…と小さく震えた。

「…起きてちゃ悪イか」自分の小さな動揺を抑えて、ゾロは小馬鹿にする様な口調で言い、
煽るように笑って見せる。
「…面白エ寝言言わねえかな、と思って起きてたんだ」
「嘘吐け。寝入る直前だった癖に」

ゾロの言葉を聞いて、サンジもまた馬鹿にした様な口調で言って笑う。
そして、一つ、小さく溜息をついた後、とても静かに穏やかな声で
「…俺…、辛くてたまらなくて、死にたくなった時、あの絵草紙を見てたんだ」
「そうすると、…なんか、気持ちが落ち着いた」
「あれを見てる時だけは、辛い事は忘れられたんだ」と呟いた。

幼い時、ゾロが何度も字の読めないサンジに読み聞かせた絵草紙。
それをゾロの約束の証として、サンジは苦難に耐えて来た。

「あれが無かったら、俺…絶対、お前を待てずに挫けてた」
「あれを置き忘れてきたからかな…悪イ夢ばっか見るのは…その所為かもな…」

(…絵草紙…そうだ、すっかり忘れてたぞ…)
サンジに言われるまで、ゾロは絵草紙の事を忘れていた。
あの島から出る時は、逃げる事だけに必死になっていて、絵草紙どころではなかったからだ。

寝不足、と言う状態ではないけれど、魘されるほど心が傷ついたままなのなら、一刻も早く、その傷を塞いでやりたい。心の痛みを消し去ってやりたい。
時が過ぎれば、何もかも解決するのかも知れないけれど、それは一体何時の事なのか、見通しさえつけられない。

「…絵草紙か…でも、もうきっと寺は焼け落ちてるだろ。今更取りに行ったところで残ってねエだろ。新しいのを買えば…」
「ダメだ、あの絵草紙じゃねえと」ゾロが言い差した言葉をサンジが静かに遮った。

「…ガキの頃からずっと見てたから、色も褪せてる。どこもかしこもボロボロだ」
「だから…いいんだ」
「お前がつけた手垢とか、汚エ字のフリガナとかも残ったまんまだったから」
「…あれじゃねえと…意味ねえんだよ」
「…多分、あの絵草紙、燃えずに残ってると思う」
「…何?」今度はゾロが聞き返す。

「そんな馬鹿な。どっかに隠してきたのか」
「ああ」

嬉しそうに答えながら、サンジはむっくりと起き上がった。
本腰を入れて、話を聞くためにゾロも体を起こす。

「どこに?いつ?」
「…あと半月の我慢だって言っただろ?…最後に…真珠丸を作った、あの後だ」

お前が半月後って言った。だったら、半月後に絶対に戦が起こる。
着のみ着のままで逃げる事になるだろうから、手に持って逃げれば、きっと打ち捨てなきゃならなくなる。
そうなったら困るから、起き上がれるようなったら、寺が焼け落ちても平気な場所に絵草紙を隠そう。そう思ったんだ。

サンジはそう言った。サンジも早く悪夢から解放されたい。その為には藁にだって縋る。そう思っての事だったのだろう。

「…どこに隠したんだ、それ」ゾロがそう尋ねるとサンジは
「…奥の院にある、人魚の墓。甕に入れて、水が入らないようにして埋めた」
「寺を攻めたとしても、古い墓石までほじくり返したりしないだろ?」
「…今でも絶対にあると思う」

サンジの言葉を聞き、ゾロは腕を組んで思案する。

(戦はまだ続いてるが…。…あの島近くでもう戦はしてない)

人魚が、寺の秘法が共に滅亡したあの島など、今となってはなんの価値も無いのか、
それとも雌雄を決する為の戦場は、お互いの潮目が読める海域の方が都合がいいのか、
いずれにせよ、寺があったあの小島近くでは大名の軍船どころか、海賊船すら寄り付かないと言う。

戦に巻き込まれて殺された僧達が、死ぬ間際に島に呪いをかけたとかで、
夜になると蛍のようにあの島の近くでは無数の人魂が飛ぶ、などと言う噂も伝え聞いた。

(…今なら、…取りに行けるかも知れねえ)

死にそうな思いまでして、そして戦ま引き起こして、逃げ出した島へ、
そして今は、人々に「恨み島」などと忌み嫌われている島へ、
しかも辛く、苦しい思い出ばかりの島へ、わざわざ絵草紙を取りに戻るなど、あまりにも愚かで馬鹿らしすぎる。

だが、ゾロはサンジの心が安らぐのなら、出来る事はなんでもしたかった。
だから、愚かだともばかばかしいとも思わない。
危険でさえなければ、取りに行くくらい、少しも億劫ではない。

「…わかった。取りに行って見るか」そう言うと、サンジは首を振り、
「…いいよ。俺一人で取りに行ってくる。…ホントにそれで眠れるかどうか、
わかんねえし。これ以上、お前に面倒かけられねえ」と言う。
「なに言ってんだ」それをゾロは相手にもせず、
「面倒かけてんのはお互い様だろうが。毎日、飯と弁当作ってくれる礼だ」
そう言い返して、サンジの肩に手を添え、ゆっくりと横たえてやりながら、自分も横になる。
「…明日にでもなんとかする。だから、今夜はもう寝ろ」

そう言うと、サンジは黙って頷き、安心しきったように目を閉じる。

その夜まで、ゾロとサンジは自分達の犯した罪の重さを忘れていた。
自分達が育った島、幼い頃の思い出を育んだ島、苦しみと悲しみの記憶が刻まれた島。
その島が、今、どんな地獄になっているのか、二人は想像すらしなかった。


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