崖の上から、ゾロは縄梯子が垂らされた崖の下を覗きこむ。
「…あの船か?」と口の中で思わず呟いた。

漕ぎ手は頑丈そうな体つきの男が四人きり、矢立も一応は装備してある。
けれど、岸壁に打ち寄せては返す墨の様な波に揺れるに任せて、ただ浮いているばかりの小船は、この辺りの海を自由に暴れまわっている海賊の船と言うには、余りにも粗末で頼りなく見えた。むしろ、この島の漁師が持っている船よりも、まだ小さい様な気がする。
だが、不安がっていても仕方がない。
これから先は、全て、赤髪のシャンクスに任せてある。
何度か密会し、シャンクスなら信じられる、とゾロは自分で判断したのだ。
今になってそれを心許なく思っても、もう遅い。

「首尾よく事が運んだみてえだな、坊さん」、
そう言って追いかけてきたヤソップの声が背中ごしに聞こえてきた。
「…人魚の坊やも、よく頑張って走って来たな。小さくても、その分、あの船はどんな軍船よりも船足が早い。あれに乗りさえすりゃ、すぐに沖まで行ける」
二人を追い抜きざま、ヤソップはそう言って、緊張し強張ったままのサンジの肩をポンポンと軽く叩き、気安く声をかける。

「…さっきのあの妙な鼻の坊さん、仕留めそこなっちまった。さっさと行かねえと追いつかれて面倒な事になる。さ、早くしな」

ヤソップはそう言って、二人に手本を示すつもりなのか、縄梯子を猿の様に素早く、降り始める。
「…怖いか?」
ゾロは振り向いて、サンジにそう尋ねた。

崖の高さは、自分の身丈を三つ、縦に並べた程度だ。飛び込もうと思えば、飛び込めない高さではないにしても、海面には岩がたくさん突き出ていて、無闇に飛び込むのは危ない。

「…怖くはねえ」サンジが低く、小さな声で答えて首を振った。
「先に行け」、そうゾロがそう言いながら、サンジの背中を押す。
その時、サンジが呟いた。
「…さっきの坊さんの言った事、本当なのか…?」
「…え?」
煤だらけの薄汚れた顔を上げて、サンジはゾロの目を真っ直ぐに見ている。
大罪に怯え、戸惑い、それでいて、ゾロを責める様なサンジの眼差しに見据えられ、ゾロは竦んだ。

誰に責められても、誰に咎められても、絶対に躊躇ったり、畏れたりしない。
だが、ずっと「サンジの為、」ただそれだけの為に突っ走ってきたゾロの心を、サンジの眼差しが突然、竦ませた。

「俺を助ける為に、戦を起したって…」

そう言われて、ゾロは素直に「そうだ、お前の為だ」と言いたい気持ちを、唇を噛み締めて閉じ込める。
今は、そんな事をサンジに長々と話している時間はない。
心が落ち着き、平穏な時間の中で過ごせる時が来たなら、その時に気が済むまで話せばいい。

「その話は、後だ。早く降りろ。逃げ遅れたら、…二人とも、無駄死にだ」
そう言って、ゾロは半ば無理矢理、サンジを縄梯子に押し出した。

* **

小船は二人を乗せて、沖へ、沖へと進んでいく。

赤髪のシャンクス率いる海賊達は、戦には参加せず、二つの大名家が一つの小さな島を取り合う海戦を遠巻きに眺めていた。

「…人魚の坊や。この坊さんは、お前さんを助ける為に必死だった」
「この坊さんは、ぶっきら棒だが、誠実で実にいい男だ。だから、俺は手を貸した」
「俺の懐にいる間は、何も心配しなくていい」
「陸に上がるまで、少し、休んでるといい」

シャンクスは、自由気ままな海賊だ。
大名同士の戦に加担し、勝利を収めて恩賞を貰うよりも、僧侶一人の願いを聞き届けて、
それを叶える方に興味をそそられたらしい。

ゾロとサンジは、島から脱出して来た時に乗った小船から、大きな、武装した船に乗り換えた。

「…ずっと陸育ちの坊さん達には居心地は悪イかも知れねえが、何、疲れていりゃすぐに
眠れちまう。気分が鎮まるまで、ちょっと薄汚エし狭えが、ゆっくりしてな」
そう言って、ヤソップは船底に案内してくれた。

そこには、大勢の人間がひしめき合って、うずくまっている。そして、彼らは、焼け出され、煤けた顔のまま、一斉に二人を見た。

彼らを踏まないように避けながら、ヤソップは「…ちょっと、ごめんよ。通してくれ」と軽い調子で通り過ぎ、呆然と佇んでいるゾロとサンジを振り向き、「早く、こっちに来な、」と手招きをする。

「…さ、ここだ」そう言って、ヤソップがゾロとサンジを案内した場所は、部屋でもなんでもなく、区切り板もない。

一体、なんのガラクタなのかわからないものが雑多に積み上げられていて、それがただの船倉と船底の区切りと言えば、区切りになっている。
床のつもりか、ただ一枚、頑丈そうな板が引いてあるだけだ。
丸くて、小さな薄汚れた枕が二つ、ごろんと無造作に転がっている。

「…着物とか、…葛篭とか、色々あるんだな…」
溜息を吐き出す様にそう言って、サンジは腰を下ろした。
「ああ。これと引き換えに、何人か島から逃がしてやるんだ」
事も無げにヤソップはそう言って、葛篭を引っ張り出し、開けた。

「花嫁装束、一式か。高く売れるが、布団の替わりにはならねえなあ」
ヤソップがそう言って葛篭に蓋をした途端、近くで若い女が泣き伏す声が聞こえた。

一度、伏せた顔を上げて、サンジはその声の方へ振り返る。
「…その装束、…あの女の人のか…?」
「そうだよ。来週には祝言を挙げる予定だったらしい。ま、婿になる男も戦に狩り出されて、この調子じゃ生きて帰って来ないだろ。いっそ、島から逃げ延びた方がいいんだよ」
「…ええと、もっと綿がたくさん入った温い着物はねえもんかな…」

そう言って、ヤソップは手当たり次第に積み上げられた着物を漁り始める。
ヤソップはただ、疲れているだろう、サンジを労わりたいだけなのだろう。
だが、手縫いの子供用の着物や、老人が使っていたらしい半纏がサンジの目の前にばらばらと広がる度に、サンジの顔が曇って行く。

「…俺達は、生き延びる力のあるヤツしか助けられねえ。陸に連れて行って、それから先どうするかまでの面倒は見切れねえ」
「この着物を全部、売っ払って、それをここにいる皆で均等に分けて、逃がす」
「それがお頭のやり方だ。俺達が身包み剥いだ訳じゃねえんだよ、人魚の坊や」

そう言って、ヤソップはサンジの膝に温かそうな半纏をかけてくれた。

「…生き延びる力のあるヤツ…それ以外は…島に置き去りにしたのか…?」
「殺されるって…死ぬって分ってるのに…?!」
「…あんたが、それを言っちゃいけねえだろ?坊や」

やんわりと、しかし厳しくヤソップはサンジを黙らせる。
「…この戦を引き起こしたのは…お前さんら二人だろう」
「俺達が誰を助けて、誰を見殺しにしたのか、…そんな事をお前さんに詰られる筋合いはねえ」

詰ってるわけじゃない、と言いかけたサンジをゾロは腕を伸ばして止めた。

「…世話になった。俺達の事はもういいから…。明日、お頭には改めて礼を言う」
「…もう行ってくれ」

ゾロがそう言うと、ヤソップは何事も無かったかのように、ニッコリと笑い、手早く散らかした場所を片付けると、そこから立ち去った。

* **

船はどこへ向かっているのか、まだ陸には着かない。
サンジは船倉の壁に凭れて、随分長い間、黙りこくっていた。

本当に自由になった、その実感が湧かないのか、今のこの状況が本当に現実なのか、まだ
信じていないかの様だ。
きっと、色々な事を考えて、感じて、心が乱れているに違いない。
ゾロは、サンジが口を開くまでただ、じっと待っていた。

どのくらいの時が流れただろう。
「…なあ、ゾロ」と、サンジがようやく口を開いた。

「…俺、…ホントに自由になったんだよな…?」
「もう、…あんな…辛エ思いはしなくていいんだよな…?」
「自由になったって…喜んでいいんだよな…?」

サンジは、そう言って、ゾロを見詰めている。
自分の言葉全てを肯定して欲しい。同じ言葉を何度も繰り返し、自分に言い聞かせて、
信じさせて欲しい。そんな眼差しで、サンジはゾロを見詰めている。

やっと、サンジを取り戻せた。
やっと、自分の手が届く場所、いつも見詰めていられる場所にサンジが戻って来た。

その嬉しさが、突然、ゾロの心の中で弾ける。

どちらからともなく、腕を伸ばした。

早く、一秒でも早く、お互いの温もりを確かめ合いたい。
温もりの中からお互いを想い合う気持ちに一片の曇りのない事を感じ取りたい。
幼き日、身が切られる様な寒さの中で抱き合い、そして無力なばかりに引き裂かれたかけがえのない温もりが、まだ変らずにここにある事を早く確かめたい。

ゾロはしっかりとサンジを腕で包む様に抱き締めた。
どれだけサンジのこの鼓動をこうして誰よりも側で聞きたかったか、
どれだけサンジの温もりをこの腕の中で感じたかったか。
それを伝える言葉が何一つ思い浮かばない。
もう、二度とこの温もりを手放さない、とただ闇雲に思う。

自分が力強く抱き締める力に負けないほど強い力でサンジの腕がゾロの背中を抱いている。
ゾロの肩に顔を押し付け、震える涙声でサンジはまた聞いた。

「…俺、…ホントに自由になったんだよな…?」
「もう、…あんな…辛エ思いはしなくていいんだよな…?」
「自由になったって…喜んでいいんだよな…?」
その言葉に、ゾロも答える。

「ああ…!…もう、俺達は自由だ…」
「俺達は、…これから、どこまでもずっと一緒だ……!」

生まれて今日まで、感じたことのない歓喜に、声が震えるのが止められない。
しっかりとこの光景を心に焼き付けておきたいのに、目に映るものが全て曇って歪んでしまう。


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