「…海を渡ったら、どんな世界があるんだろうな」
ようやく、傷も塞がり、熱も下がってサンジは布団の上で起き上がれる様になった。

真珠丸を作る過程の途中で出血した所為なのか、サンジの掌で結晶化する筈の真珠丸はまだ少しも固まらない。

障子を開け放し、昼下がりの穏やかな光が落ちる庭を二人で眺める。
鳴き交わす鳥の声に混ざって、遠く潮騒が聞こえた。

悲しみも苦しみも、今はほんの少しだけ遠い。
穏やかな、静かな昼下がり、和やかな陽だまりの中でゾロとサンジの心は泣き疲れた心を寄せっていた。

「出血の所為で、まだ体が弱っている」そうゾロはクロコダイル達に伝えてある。
彼らは、サンジに対して憐憫の情や労わりと言った感情を一欠けらも持っていない。
壊れかけた玩具を修理に出しているぐらいにしか思っていないらしく、ゾロの報告を鵜呑みにして、一度も直に顔を見に来る事はなかった。

「…この絵草子みたいに、綺麗な女の人ってホントにいると思うか?」
サンジが柔和に微笑んで差し出した絵草子を見て、ゾロは「お前…これ」と言ったきり、言葉に詰まる。
それは、幼い頃、字を知らないサンジにゾロが何度も声を出して読み聞かせた絵草子だ。

色褪せて、擦り切れてボロボロの絵草子。
数えられないほど繰り返し繰り返し、サンジはその絵草子を指でめくって、眺めていたのだろう。
ゾロは、サンジからその絵草子を受け取り、じっと眺める。

この二年の間、一体どんな気持ちでサンジはこの絵草子を見つめていたのだろう。
この数冊の絵草子達は、サンジの苦しみや悲しみを、サンジがゾロに賭けた気持ちを、
全部知っている。

「…それがあったから、…お前を待っていられたんだ」
「…証文みたいに思えてさ。これがある限り、お前は絶対に約束を守るって」

こんな幼い、粗末なモノにすらサンジは縋らずにはいられなかった。
その時のサンジの気持ちを思うと、またゾロの胸が痛くなる。

「…これは、大事にしなきゃいけねえな。ここを出た後も…」
「もう、二度とお前にこんな思いをさせない様に、俺を戒める為にも…」
だが、サンジは別の絵草子をゆっくりとめくりながら、
「…出来たら、全部、忘れられたらもっといい」と、ポツリと呟いた。
「生まれ変わるみたいに、人魚だった事も、この寺の事も全部忘れられたら…、もっといい」

その時のサンジの表情は、まるで死を覚悟した聖人の様に、とても透明で清んでいた。

あと、半月の間。
その僅かな時間ですら、どれほど二人が苦しまなければならないかをその時既にサンジは
覚悟していた。
いや、ゾロが半年、と言った時間の区切りも信じてはいなかった。

今、サンジが生きようとしているのはゾロの為にだけだ。
ゾロが約束を果たす、と言うのなら、その言葉を最後まで信じようとしているだけだ。

自分自身が生きたいと思っている訳ではない。

それが分かったのは、それから僅か5日後の夜だった。

「…もう、十分回復しただろう。今夜、寝屋の用意をしておけ」と、クロコダイルの部屋に呼びつけられ、ゾロはそう命じられた。

「…お前が来てから一度も人魚を可愛がっていないな」
クロコダイルの隣にいたルッチが冷ややかに光る目でゾロを見据え、舌なめずりをしそうな程卑しい顔でそう言い、ニタリと笑う。
「…前の御太刀衆の男の手当てよりも随分腕がいいのか、人魚の回復も早い様だ」
「久し振りに心行くまで嬲ってやるか」

* **

障子を隔てて、部屋の中には行灯の光が灯され、中にいるサンジとクロコダイル、そしてルッチの影がもつれ合い、激しく揺れる。

その部屋を背にしても明るすぎる月光と星の光が、その妖しい影をゾロが座している庭に落とした。

出来る事なら、振り返り、両手に刀を握って、クロコダイルとルッチの首を斬り飛ばしてやりたい。
(…駄目だ。あの二人を殺しても、追っ手が掛かれば逃げられねえ…)
陸続きならば、簡単に逃げおおせる事も出来るのに、船を押さえられてしまえば、島を出る事すら出来ない。それが分かっているだけに、ただ、両手を軋むほどに握り、ただ耐えるしかなかった。

それでも、サンジが耐えている苦痛に比べれば、これぐらい、苦痛ですらない。

サンジは、今、体を穢されいるだけでなく、男としての誇りも踏みにじられている。

聞こえよがしになのか、時折、ルッチとクロコダイルが「咥えて見せろ」だの、「自分で広げろ」などと命じる声が聞こえる度、ゾロの腸が煮えくり返る。

その地の下を這う溶岩に似た激しい怒りは、クロコダイルとルッチだけに向けられていた憎しみが別方向へと膨れ上がっていく。

(…こんな…やり方でしか作れない薬なんか、本当に必要なのか)
(こんなに人を苦しめて作った薬を飲んでまで、生きながらえたい奴がいるのか…!?)

どうして、こんな薬の作り方を考え出したのだろう。
そして、それを何故、権力と地位と金を得る為の道具にしたのだろう。

1人の生贄さえ差し出して、安穏に暮らしている人魚達さえ、ゾロは憎くなる。

(…あいつ1人が、…そんな欲深い連中の犠牲になってるんだ)

「真珠丸」と言う秘薬を糧にして勢力を持ち、栄えているこの寺。
そんな寺の教えに従っている僧達。
この島のそんな仕組みに従順に従い、事を荒げる事を嫌って大人しく従っている人魚達。幾多の人魚達の死と悲しみの上に成り立っている平和の上に、何も知らずに平穏に暮らしている普通の島人達。そして、真珠丸を必要として生き延びようとしている見も知らない高貴な病人。

(…そんな奴等さえいなくなりゃ…あいつは自由になれる)
彼らさえ全ていなくなれば、もう、サンジは苦しまなくていい。悲しまなくていい。

そんな憎しみがゾロの胸に膨れ上がっていく。

* **

事が済み、クロコダイルとルッチがサンジの部屋から去ったのは、もう空も白み始めた頃だった。

「…今度こそ、死ぬかも知れん。だが、真珠丸が出来る三日の間はなんとしても保せろ」
ルッチは着乱れた着衣を気だるげに直しながら、庭に顔を伏せたままのゾロにそう言い放つ。その顔は、人間の顔ではなく、化け猫の様に変化していた。

その恐ろしげなルッチの顔を見て、ゾロは絶句する。
「…そうか、お前は初めて俺の正体を見たのだったな」
ルッチはゾロの顔を見て、その化け猫の顔のままさも可笑しそうに目を細めた。

「…昨夜は興が乗ってな。この姿で獣の様に犯せば、人魚がどうなるかを試した」
「怖がって、悲鳴を上げたが、そのまま犯した。まあ、…途中から気を失ったらしいが」
「腸を内側からズタズタにしたのだからな…。その上、飲み込ませた毒の量も多い」
「…さぞ、苦しむだろうが、…三日はしっかり介抱してやるがいい」
「もしも、回復したなら、お前に褒美をやろう」

それだけを言い置いて、ルッチはゾロの目の前から去った。

壮絶な悔しさと憎悪に体が小刻みに戦慄いて、止められない。
乱れる感情や、荒ぶる精神を平静に押さえつける鍛錬は嫌と言う程して来たのに、
今は、その衝動に任せて愚かな行動をしない様に、自分の体の暴走を止めるのが精一杯だった。

大きく、深く、呼吸を吐く。
(…もう少しだ…。もう少し、辛抱したら、絶対に…!)
ギュ、と目を瞑り、心を静める。

今は、ルッチやクロコダイルを憎むよりも、サンジの体を労わってやらねばならないのだ。

「…サンジ!」

障子を開け、部屋の中に入って、ゾロは思わずその匂いに息が詰まった。

情事の後の生々しい匂いなどではない。
それは、今しがた流れたばかりの血の匂いだった。

ゾロに、この浅ましい姿を見せまいと思ったのか、サンジはうつ伏せになり、寝具から這いいざって、脱がされて畳の上に無造作に放置された昨夜ゾロが用意した白い絹の寝屋着に手を伸ばしてそのまま気を失っていた。

その白い臀部と、内太腿から、膝あたりまでが血で濡れている。
さらによく目を凝らせば、逃げ惑ったかの様に、畳の上にも血の染みがいくつも出来ていた。

腸を内側からズタズタにしたのだからな…。その上、飲み込ませた毒の量も多い

そう言った、ルッチの言葉がゾロの頭を過ぎる。

「サンジ!」名を呼び、サンジの体を抱き上げる。
力が抜け、そして水風呂に浸かっていたかの様に、その体は冷たかった。

「すぐに手当てしてやる、しっかりしろ!」
そう呼びかけても、サンジの蒼ざめた瞼はぴくりとも動かない。
けれど、細くても微かに息はあり、心臓も動いている。

(…化け猫め…!)

真珠丸を肉体の内で作りだす為だけでも、五感が一時的に麻痺する程苦しむのに、
その上さらに内臓までをも傷つけるなど、戯れにしては惨すぎる。

「…俺…もう…ダメだ…」
ゾロの腕の中で、うわ言の様にサンジが呟く。
意識が混濁していて、少しも明瞭ではない。
意識があるのか、ないのか、自分でも多分、分かっていない。

「…大丈夫だ…!これがホントに最後だ…!」
「…ダメだなんて言うな…!」
「…もう、」

もう、お前1人の命じゃない。だから、諦めるな。

声と、サンジを抱き締める力にその想いを込めて、ゾロはサンジをそう励ます。

「俺を死なせたくないなら…諦めるな」
「お前がもし、このまま命を落とす事があったら…俺もその後を追う」
「…だが、俺はまだ死にたくねえ。俺を死なせたくないなら…」
「…もうダメだなんて言うな!諦めないでくれ…!」

そのゾロの言葉が届いたのか、サンジの頭がゆっくりと頷く。

* **

そうして、潮がゆっくりと満ち始める。
それと同時に、寺のある島を挟んで敵対しあう両国はゾロが予想していた通り、大潮の日を決戦日と定め、戦の準備を整えつつあった。


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