額に置いた手ぬぐいを何度替えても、サンジの熱は下がらない。
夜半を過ぎる頃、忙しなかった呼吸は鎮まって来たけれど、時間を追って、今にも止まってしまいそうな程に弱々しくなった。
酷く悪寒も感じるのか、眠ったまま体を丸めてガタガタと震えていて、それなのに、一向に熱が下がる気配がない。

ゾロは、一時も目を離さずにサンジの様子を看ていた。
高熱の所為で、寒そうにしている姿が痛々しくて、胸に抱き寄せ、背中を摩る。
生命力を分け与えるように、生きて欲しいと願う思いが掌からサンジの体へと染み込むように、ゾロはサンジの背中を摩る。

そうしていないと、本当に息が止まってしまいそうで、そして、
そうして温めてやらなければ、ゾロ自身の心が後悔の痛みで押し潰されそうで、
そうせずにはいられなかった。

やがて、空が白々と明けてくる。腕の中のサンジの呼吸が安定して来た事に気付いて、ゾロはそっとサンジを横たえた。

少しでも乱暴に扱えば、粉々に壊れてしまう。そんな風に、サンジに触れた。
横たえたサンジの目がうっすらと、虚ろに開いているのに気付く。
「…目が覚めたのか…?」

ビクン、と何かに怯えた様にサンジの表情と、体が強張った。
まだ、とても自由に体を動かせる状態ではなく、人心地もついていないのだろう。
だが、何かを話そうとカサついた唇が微かに動いた。

僅かに開いた瞼の中で、青い瞳が心の乱れをそのまま映す様に揺れるのを、ゾロはじっと見下ろす。

(…俺は、ここにいる)サンジの目の前にいる。これからはずっと側にいる。
それを早くサンジに知って欲しい。

サンジの目じりから、透明な雫が溢れて、一粒、流れ落ちた。
「…お前なのか…?ホントに…」
「…やっと、…来てくれたのか…?」

* **
「…俺も、ちゃんと約束を守っただろ?お前が来るまでは…待ってるって」
サンジはただ、それだけを言って、それ以上は何も言わなかった。
二年も待たせた事も、自分がいかに辛かったかも、サンジは詰らずに、ただ、本当に苦しみから解放された様な清々しい笑顔で、微笑んだだけだ。

「…今度こそ、…ここから助け出してやるからな」
再会して、三日目、サンジがやっと食事を摂れる様になった時、ゾロはそう言った。
だが、その時も、サンジは悲しそうに笑っただけで、頷きはしない。

部屋から障子を開けて見える庭を見つめ、サンジは生気の失せた声で
「…ギンは、俺を逃がそうとしてくれた」
「…俺が正気を保てたのは、あいつのおかげなんだ」
「庭に花を植えてくれたり、…身の回りの世話をしてくれたり…」
「…でも、…だから、あいつらに殺されたんだ…」
「俺を逃がそうとしたばっかりに…」と、ギン、と言う男についてポツリポツリと話した。

「…俺はそんなヘマはやらねえよ」
「…助けに行くって約束しただろ。今度こそ必ず、…その約束、守って見せる」
ゾロがそう言うと、サンジは庭を眺めたまま、「…ああ。わかってる。…ちゃんと信じてるさ」と、どこか上の空にも聞こえる様な口調でそう答えた。

けれど、ゾロが約束を果たして、二人が再会したからと言って、すぐに寺から助け出せる訳ではない。
二年間、従順な振りをして、ゾロはずっと確実にサンジと逃げる方法を考えて、密かに策を練っていた。
この寺が、この島がどうなろうとサンジさえ無事に逃がす事が出来たらそれでいい。

大きな戦になろうと、それで同僚だった僧達が死のうと、身勝手だと謗られようと、自分のやろうとしている事に迷いはなかった。
島を取り巻く潮流、寺の警備、武装した船の数、武器…など、ゾロは自分が知りうる限りの情報を、予め近隣の大名と、海賊達に流していた。

近々、必ず彼らはこの島に攻め入ってくる。
海賊が、どちらの大名につくかまではゾロの知るところではないけれど、いずれ戦になれば、そのドサクサに紛れて、サンジを逃がしてくれる様に、既にこの海域では最も義に厚い海賊の頭領に既に話はつけてあった。

「…もう少しの辛抱だからな」

子どもの頃は、サンジが何を考えいるのかわざわざいちいち聞かなくても分かった。

不安を感じている時、怒っている時、隠し事をしている時。
少し目を凝らして覗き込めば、サンジの心を見透かす事が出来た。
心と心が一つに繋がっているかの様に。

けれど、今は違う。表情の変化が乏しくなり、口数も減ったサンジが何を考えているかゾロには見通せない。けれど、不安を感じるより先に、今でもゾロはサンジと心が繋がっていると信じようとしていた。それを決して疑いたくはなかった。

もう少しの辛抱だから、と言ったゾロの言葉を、まるで聞き流す様に、サンジはまた頷かなかった。

* **

その夜、サンジは食事に使っていた椀を割り、その破片を首に押し当て、頚動脈をかき切った。

自分が死ねば、里の少年が身代わりになる。また、注意を怠ったと咎められて、御太刀衆も死罪になる。だから、今までサンジを始め、奥の院に連れてこられた人魚達は皆、どんなに苦しくても、自害せずに耐えてきた。

幸い、ゾロの手当てが早く、出血は多かったが、どうにか命を取り留める事は出来た。

「…死なせたら、貴様も死罪だ。せいぜい、死なない様に世話してやる事だな」
クロコダイルとルッチにとってサンジは、快楽を貪る為の人形でしかない。
生きようが、死のうがさして興味もない癖に、サンジを嬲る為だけに早く治せとゾロを急かした。

真珠丸を作る時よりも、頚動脈を掠めた出血多量の重傷の方が、サンジの体にはずっと負担が軽かったらしい。

翌日の夜には、意識は戻り、話も出来る様になった。
「…どうして…。もうしばらくの辛抱だって昨夜言っただろ?」
血の気の失せたサンジを見て、ゾロの胸は痛む。
再会さえ出来れば、ずっと胸が弾み、笑顔でいられると思っていたのに、現実は、思い描いていた事とあまりにも違う。サンジの苦しそうな顔ばかりを見ている様な気がする。

そして、サンジの言葉がゾロの胸を抉った。

「…俺は約束を守っただろ?」
「…何があっても…生きてろって…だから、俺はお前が来るまでは生きていただろ?」
「…もう、…それで十分だろ…?もう十分、俺は…苦しんだんだ」
「…これ以上は、…あの二人に弄ばれるトコをお前に見られてまで生きてくなんて…」
「そんな力はもう俺には残ってねえんだよ…!」
サンジはゆっくりと起き上がった。
言葉は辛らつで、痛烈な恨み言でもある。
けれど、初めてゾロを真っ直ぐに見て、感情をむき出したサンジの目には、積もりに積もった苦しみと悲しみが吹雪の様に渦巻いていた。
「この怪我が治れば、またあいつらのオモチャにされて死ぬ様な目に合わなきゃならねえ」
「目も見えない、耳も聞こえない。息が苦しくて、体中を針で貫かれるみたいに痛くて、
雪に埋められたみたいに寒くなったり、体の内側で火が滾ってるみたいに熱くなったり…」
「…それでも、お前が来るまでは、生きてなきゃいけないって耐えてたんだ」
「…二年も、…そうやって俺は耐えてたんだ」
「もういいだろ?俺が死んで、それでお前が死罪になったら、…それなら、二人で一緒に死んだのと同じだろ!」
「…お前を殺して、俺も死ぬって言う事と同じだろ?」
「…お前は、…二年も…俺を待たせたんだ」
「悪いと思ってるなら俺の為に、…死ねばいい。…それが嫌なら、…ここから、逃げろ」

ゾロと再会し、けれど、その再会でサンジは希望を持たなかった。

ゾロとの約束を果たす事、ゾロともう一度会う事。
それだけが、サンジを生かして、どんなに苦しい事があっても耐えなければと思わせる力だった。
けれど、約束を果たし、願いを叶えた今、サンジの心は虚ろになり、まるで人生の終わりに到達したかの様に力が抜けてしまったのだ。

胸が痛くて堪らない。だが、子どもの頃の様に泣きはしない。
弱くて、無力でサンジを守れなかった昔とは違う。
そうサンジに信じて欲しいなら、涙など一滴たりとも流しはしない。

もう一度、最後まで信じ抜いて欲しい。
今ならサンジを守れる知恵も力もある。それでも、それを実証しなければそれをいくら言ってみても、サンジを励ます事は多分出来ない。ただ、空々しいと思わせてしまうだけだ。

サンジの悲痛な言葉に胸を抉られながらも、ゾロはその冷たい手を握った。
「…嫌だ。俺の約束がまだ果たされてねえ」
「俺は、…強くなって、お前を助けに行くって約束したんだ」
「…それを果たすまでは死なねえ。お前も死なせねえ」
「今度は、俺が約束を果たす番だ」
「…お前は、もう一人じゃねえ。もう、一人で苦しまなくていい。俺も、一緒だ」
「お前と一緒に、何があっても、…耐えるから、」
「もうほんの少しだけだから…耐えろ」
「いつまで…?」
ゾロの手を微かに握り返し、サンジはそう尋ねる。

「…多分、次の大潮の日」
「あと、半月ほどか…」
ゾロの答えに、サンジはぽつりと呟いた。

少しづつ、ゾロの手を握るサンジの力が強くなる。
本当に、あと半月すればこの苦しみから解放されるのか。
今まで、ゾロを信じ続けて、待ち続けたのだ。あと半月、何があろうと、二人一緒なら
耐えていける。

そんなサンジの感情が掌から熱になってゾロの心に伝わってくる。

「ゾロ…」
なんだ…?と聞き返す言葉が喉に痞えた。
溢れ出る想いが喉に詰まって、言葉を堰き止めてしまう。

こんなに強く、誰かにしっかりと手を握られた事はきっとない。
こんなに自分の名を呼ぶ声に、心を揺さ振られた事はない。

そして、こんなに誰かを愛しく思いながら、見つめた事も一度もない。

「俺、…ずっと、お前に会いたかった…」
「どんなにお前に会いたかったか…お前に分かるか…?」

再会してから、どこか隔たっていた二人の心が震えるサンジの声と言葉でやっと重なる。

思わず抱き起こし、掻き抱いた。もうサンジの涙は見たくない。
悲しい顔を見つめるよりも、こうして涙も温もりも全部体と腕で受け止めていく。

「…俺だってお前に会いたかった」

溢れる気持ちをサンジも腕と体で受け止めてくれた。

サンジは、ただの幼友達と言う存在ではない。
世界中の人間全てを敵に回しても、守りたい。
かけがえのない存在として、心からサンジを愛しいと思った。


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