それから、二年。ゾロは、必死に鍛錬に鍛錬を重ねた。
寺の教えに絶対的に従い、尚且つ、どんな状況であっても人魚を守れる武力を持っている事、それが「御太刀衆」の条件だ。
その条件を満たす為、ゾロは、逸る心を抑えて鍛錬と修業に明け暮れ、誰よりも寺の教えや規律に忠実に従った。
兄弟子や、師達の言う事には盲目的に従い、模範的で優秀な僧として振舞った。
急いては、事を仕損じる。助ける、と決めたなら、その時こそ、間違いなくサンジを助け出す、その事だけを必死に念じて、ゾロは焦る気持ちをぐっと堪え、厳しい修業や、理不尽な仕打ちに耐えた。
腹の内を決して誰にも見せず、いや、腹の内に密かに願う事がある事すら誰にも気付かせずに、ただただ従順であり続けた。その努力が実り、とうとう「少年の頃に人魚を連れて逃げるなどと言う愚かな事をしでかしたが、今ではすっかり心を入れ替えたらしい。ロロノアほど、腕も立ち、教えもしっかりと理解している僧はいない」とすら言われる程になった。
そうして、周囲の目を欺いて、二年が経ち、ゾロは遂に「御太刀衆」に任じられた。
* **
ゾロの前任の「御太刀衆」は、人魚に邪な思いを抱き、その体と交わって悶死したと言う。つまり、ゾロはその男の代わりとして、奥の院に幽閉されているこの世でただ一人の人魚であるサンジの世話役兼、警護役となったのだ。
今、「水晶主」となっているのは、ルッチと言う男。
僧になる前は、大家の大名家に使える忍びをしていたと言う噂だ。
もう一人は、「クロコダイル」と言う男で、この男は、僧になる前、海賊だったらしい。
どちらも、名うての大悪人であちこちの大名達から命を狙われており、この寺を隠れ蓑にしているだけで、寺に長く居つく気はない様だ。普通の人間と肉体の交わりが出来ない体になった、と言っても、それは相手が毒にやられて死ぬだけの事で、自分達は痛くも痒くもない。
退屈な寺暮らしの中で、自分を研鑽する事もなく、怠惰に生きていて、その中で
「性欲を満たして、それだけで敬われて、好き放題出来る役職」にありついた。
ルッチとクロコダイルと言う二人は、そんな男達だった。肉体だけでなく、心根までもが
図太い。そんな人間でなければ、「海水晶」の毒に耐える事が出来ないのだろうか。
「…貴様、死にたくなかったら、人魚に手は出すなよ」
ゾロは朝の冷気がまだ山から去らない早朝に奥の院に入り、彼らの居室を訪れ、
初対面の挨拶をした。
その時、ルッチは卑しげな薄ら笑いを浮かべて、そう言った。
ゾロは思わず、袖の中に隠した拳をギュ…と握り締める。
(…ここまで来るのに、二年掛かった…!)
サンジを連れて、ここを脱出する時、この二人はきっとなぎ払うべき最初の障害になる。
正面に座るだけで、ルッチとクロコダイル、この二人が如何に強いかが気配でわかった。
込み上げてくる闘志を押し隠して、ゾロは黙って頭を下げる。
(…手を出すな、だと…。俺があいつにそんな事するもんか…!)
(そんな事をする為に、ここに来たんじゃねえ…!)
そう思った途端、目の前の二人に激しい憎悪を感じた。
「…ちょうど、昨夜、真珠丸を仕込んだところだ」
「四日後までに、体力を回復させろ。…俺達二人が、欲情出来る様に、しっかりと見目良く身支度を整えさせて、四日後の夜、庭の離れに連れて来い。それが出来なければ、貴様を殺す」
「…今、人魚はその離れにいる。以上だ。さがれ」
「…は…」
ゾロはクロコダイルの言葉に短く返事をし、退室した。
* **
奥の院の廊下から、庭に降り、細かく、白い石が敷き詰められた地面を突っ切って歩くと、秋には葉の色が移ろう木々が植えられ、濡れ縁から見下ろせる場所には、前任の「御太刀衆」の男が細やかに手入れしていたのか、可憐な花々が咲き乱れている。
その花と、青々と瑞々しい緑に抱かれるように、小さな建物がひっそりと建っていた。
「…ここか…」
ゾロは、労わるような優しさに満ちたその建物を見上げた。
辛いのなら、せめてこの花を見て心を慰めてください。
そんな想いが、木々の陰にも、揺れて香る花達にも纏わりついている。
この温もりと優しさの向こう、手を伸ばして、薄い障子を開いた先に、サンジがいる。
ゾロの手が障子に触れる、その一瞬前。
「…ギンか…?」
障子に映った人影を見てか、それとも気配を察してか、中から人の声がした。
その声が直接、ゾロの心臓を叩いた。途端、目の前の風景がぶれる。
(…この声)
最後に聞いた言葉と声が、ゾロの頭の中で蘇える。
「…わかった。何があっても…お前が来るのを待ってる。約束だからな」
泣き笑いしながら言ったその声を、一日たりとも忘れた事はない。
その声と、今、胸を叩いた声とがゾロの胸の中で、ぴったりと重なった。
ドクン、と心臓が震えた。その戦慄きが指先にまで走る。
ギン、と言うのはゾロの前に「御太刀衆」だった男の名だ。
人魚に心を奪われ、邪な所業に及んで死んだ、とゾロは聞いている。
その男の名をサンジは、弱々しく助けを求めるように呼んだ。
何かに背中を押されるように、ゾロは声を立てず障子を開ける。
自分の影が、畳に落ちた。うっすらと差し込む光が障子に透けて、畳に格子柄の
影を作る。
ゾロはその影の先を目でなぞった。
細い、向日葵色の髪が白い敷布の上に散らばっている。
薄い光の中でもその艶かしさがわかる肌が、その髪と絹の白い着物の隙間から見えた。
力なく投げ出された手には力が全く入っていない。
苦しそうに、荒く、小刻みな呼吸音にゾロははっと我に返った。
(…真珠丸を仕込んだ)、そうルッチが言っていた事を思い出す。
今、サンジの体は毒に冒されていて、その苦しみに耐えている真っ最中の筈だ。
サンジはゆっくりと寝返りを打つ。
気だるげにサンジは起き上がった。
衣擦れの音がして、サラリと白い絹布の衣が肩から滑り落ちる。
(…何を話そう…)
サンジに会ったら、まず、何を話すか。
沢山の言葉が、津波の様にゾロの心に押し寄せて来る。
なのに、二年と言う月日がゾロを躊躇わせ、その躊躇いが喉の奥でその全てを急き止める。
会いたかった。どれだけ、お前に会いたかったか。お前の事を考えない日は一日だって
なかった。辛かっただろう?どれだけ辛い日を送っているかを考えると、夜も眠れなかった。でも、ようやく、俺はここに来れた。よくぞ、今日まで俺を信じてくれた。よくぞ、今日まで耐えてくれた。
喉で堰き止められた言葉が、ゾロの目の奥を熱くさせて、透明で熱い雫にかわる。
瞼の縁に膨らむ雫が、視界を遮った。
サンジの姿をもっとよく見たいのに、その雫の所為でぼやけて見えない。
瞬きをした途端、それは睫毛を濡らして、霞んだゾロの視界を漱ぎ、頬を流れ落ちた。
サンジが横たわったまま、薄く目を開いてゾロを見上げている。
肌蹴た白い胸元には、痛々しくも、いくつもの赤い痣が残っていた。
「…良かった。昨夜、…お前を殺したってあいつらに聞いて…」
微かな、か細い声で呟くようにサンジがそう言った。
(…え?)ゾロは自分の耳を疑った。
そして、愕然と目の前のサンジを凝視して見る。
瞼も重たそうに、半分だけ開いた目は確かにゾロを見ている。
恐る恐る手を伸ばし、ゾロはサンジの目の前に自分の手を翳した。
鼻先に触れる程掌を近づけて、ゾロはサンジの視界を手で遮る。
だが、サンジはただ、横たわったままで、瞬き一つしなかった。
そのゾロの行動を咎めもしないし、訝しがる様子もない。
(…目が見えてないのか…?)
自分の側にいるのが誰なのか、その気配すら今のサンジにはわからない。
あれだけ鋭かった嗅覚も、聴覚も、視覚も、サンジの五感の全てを、ルッチとクロコダイルの二人が仕込んだ毒が奪っている。その事に気づいた時、ゾロの全身は壮絶な怒りで戦慄いた。
サンジをこんなに衰弱させ、弱らせると分かっていて、かわるがわるサンジを犯しているルッチとクロコダイルに対しての憎悪。
そして、(…こんな場所で…こんな目に遭う場所で、俺は二年もこいつを待たせてたのか…)
と言う自分への憤り。その二つの感情がゾロの中で渦巻き、全身が熱く震えた。
「…すまなかった…こんなところに二年も…」
そのゾロの呻くような謝罪の声も、サンジの耳には届かない。
頬を伝って流れる雫も、サンジの目に映ることはない。
「…お前…ギンなんだろ…?」サンジは、そう言って不安げな表情を微かに浮かべた。
「…違う」
ゾロは手を伸ばし、サンジを抱き上げた。
二年前、傷ついて凍えたゾロを抱き締めて、温めてくれたサンジ。
その体は、あの頃よりも大きくなって、けれども、ゾロと比べると肉付きが薄く、酷く華奢で、思い切り抱き締めたら、折れてしまいそうだ。
その狂った様な熱さがまたゾロの胸を抉る。
「…誰だ、お前…?!」サンジの体が、腕の中で強張った。
「…ギンじゃねえのか…?ギンは…じゃあ、あれは…」
震え、熱くなるサンジの体をゾロは黙ってギュ、と抱き締める。
「…昨夜、…クロコダイルの奴が血まみれで来て…ギンを殺したって…」
「…前の御太刀衆の男は、…もういない。今日から俺がお前の側にいる」
ギン、と言う男がどれだけサンジに尽していたか、その時のゾロにはわからない。
その男が何故、死んだか、その真相など知らなくていい。
「…覚えてるだろ…?俺とお前が交した約束…」
「お前は、その約束を守って今日まで耐えてくれたから…今度は、俺が約束を果たす」
ゾロはサンジの耳元でそう言った。言葉だけなく、心の底から同じ言葉があふれ出して、掌に伝わる。
例え、ゾロの声が微かで遠く小さな音にしか聞き取れなくても、その言葉はサンジの心に
直接響くと信じて、ゾロは声と腕と心でサンジを抱き締めた。
そして、そのゾロの想いはサンジに届く。
「…約束…?」そう呟いて、サンジは僅かに顔を動かした。
もどかしげに手でゾロの顔に触れる。何かを探すように、その手が髪に伸びた。
ビクン、とその指が何かに驚いた様に震える。途端に、力なくその手から力が抜けた。
「…サンジ…?!」
薄く開いていた目がゆるゆると閉じられていく。
腕の中に包んでいた体から一切の力が抜け、ますます熱が高くなっていくのがわかる。
熱の所為でほのかに赤みを帯びていた頬が、みるみるうちに蒼ざめていく。
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