第三章 【夕立】
第二話 「約束」
「…ゾロ、あの音…!」
サンジが、足を止めて、寺の方へ振り返った。
耳を済ませると、森の中を吹き渡る風に混じって、カーン…カーン…カーンと、何かを急かす様な、どこか敵意を感じさせる半鐘の音が聞こえてくる。
「…追っ手が掛かった」
ゾロはそう呟き、慌てて、手に持っていた松明を雪の中に突っ込んで火を消した。
「夜明けまでまだ間がある。暗いうちに港まで行くぞ」
そう言って、ゾロはンジの袖を掴んだ。
「…でも、…」だが、怯えた様にサンジは立ち止まろうとする。
それを構わず、無言で、ゾロは強引に引き摺るように歩き続ける。
(どれだけ追っ手が掛かろうが、今更、ビビってられるか)
捕まれば、自分がどうなるかなどはゾロは全く考えなかった。
ただ、サンジの為に、それだけの為にゾロはサンジを引き摺るようにして進む。
未来と希望を手に入れる為には、前へ進むしか道はないのだ。
だが、サンジはまだ意気地なく半鐘に気を取られている。
「…あの半鐘は、武装して戦えって音だろ、海賊とかが攻めて来た時に鳴らしてる音と
同じだ」
「お前みたいな腕の立つ大人の坊さんが、100人以上で追い駆けてくるんだぞ、逃げ切れねえよ」
「…戻ろうぜ。今なら、ただ、散歩してただけって言い訳が…」
「うるさい!」
ぐずぐず言うサンジに向ってゾロは思わず怒鳴った。
今、自分がどんな状況に置かれいるのか、知らないからサンジはそんな子供のような事を言うのだ。
その時のゾロは完全にそう思っていた。
* **
もう寺の者だけでなく、島にいる武器が持てる者全てがゾロとサンジの敵となった。
たった二人の少年が、武装した200人の大人相手に一体、何が出来ただろう。
サンジを奪い返そうと、大人達はゾロには遠慮なく襲い掛かってくる。
二人は、それを懸命に薙ぎ払い、必死に逃げた。けれど、もうどこへ逃げていいのかすら分からない。突破口があればそこに駆け込む。けれどすぐに囲まれ、また包囲網を突破する。
「坊主は、殺しても構わん!だが、人魚の子は絶対に生け捕りにしろ!傷一つつけるな!」
そんな命令のもとに、大人達はゾロだけを狙った。
サンジも類稀な運動神経を持っている。庇われているだけではなく、ゾロが危険だと思えば雪を蹴散らして、大人達に挑み、何度もゾロを援護してくれた。
それでも、一瞬でも気を抜けば、サンジを奪われる。
いつの間にか、右肩には矢が深々と刺さっていた。
力任せにそれを引き抜く。途端に、血が吹き出て、右腕に激痛が走った。
(もう右手は使えねえ…。持って来た刀もボロボロだ。これが折れたら…)
そう思いながら、打ち下ろされた剣戟を受け止めた途端、その刀は遂に折れた。
一瞬、ゾロの血の気が引いた。
返す刀で斬られる。そう思った。
「…諦めろ、小坊主!」「うるせえ、黙れ!」
だが、勝ち誇った大人の僧侶にそう嘲笑われた瞬間、打ち下ろされてくる刃を体を捻って避けながら、その反動すら利用して、折れた刀の柄でその僧の横っ面を思い切り殴った。
(…負けてたまるか!)倒れた僧の刀が目に入りざま、折れた刀を捨て、新しい刀を引っ手繰る。
立ち上がって、すぐにサンジの手首を掴んで、また走り出す。
痛みで目が眩み、サンジの手を掴んだ血まみれの手にも力が入らない。
すっかり夜が明けて、憎らしいくらいに空は晴れていた。
二人とも、履いていた筈の草履もいつの間にか脱ぎ捨てていて、我に返った今、雪の冷たさが足に食い込んでくる様に痛い。
「…ここ…どこだ…」
サンジが力なく呟いた。
右を見ても、左を見ても、生い茂る樹しか見えない。
まだ、二人は寺の中から出る事すら出来ずにいる。
広大な、寺の森の中に追い込まれただけで、港になど全く近付けていない。
サンジのその呟きは、そんな現実をゾロに思い出させた。
森の中は今は静かだけれど、じきに追っ手達の敵意を孕んだ騒々しい音が聞こえてくるだろう。
ゾロは黙って、僧衣の袖を引き千切った。そしてその布を持ち、サンジの足元にしゃがむ。
「…足が傷だらけだ、お前。素足で人を蹴ったりするからだ…」
悴んだ手が上手く動かない。
特に、射抜かれた右手がブルブル震えて、血が流れて痛くて冷たそうなサンジの足を布で
覆ってやりたいのに、たった、それだけの事が思う様に出来ない。
自分が望む事は、こんな簡単な事ですら、何一つ自由にならない。
そう思い知らされて、ゾロの目に涙が滲んだ。
零れないように、そしてサンジにそれを見られないように、ゾロは唇を噛み締め、歯を食いしばる。
ゾロの前にサンジもしゃがんだ。
「…お前だって、…血だらけだ…」
そう言って、サンジはそっと労わる様に、柔かくゾロの傷口に触れた。
もう、どこへも逃げられない。うっすらと、けれど確かに二人はそう感じ始めた。
もっと強ければ、誰が、自分達を立ち塞いでも、それをなぎ倒して進めるほど強かったら。
そんな風に言葉に出して、自分の無力さを嘆いたら、無様にも涙が零れるかも知れない。
だから、それ以上、何も言えなかった。
この期に及んで、サンジはゾロに、ゾロはサンジに涙を見せたくない。
それが、最後の強がりと最後の意地の張り合いだと、二人ともが分かっていた。
「…ちょっと…休もうぜ。もう…走れない…」
その最後の意地の張り合いにサンジが負けた。
サンジはそう言って、太い樹に凭れて座り込む。
ゾロもその隣に力なく腰を降ろした。
その瞬間、枝の上に降り積んだ小さな雪を浚った風がヒュルル…と二人に吹き付ける。
その寒さ、冷たさに二人は同時に首を竦め、目をギュ、と閉じる。
数秒、意識を失っていたのか、体中どこもかしこも寒くて冷たくてたまらなかったのに、
突然、体が羽で包まれているかのような温もりを感じ、ゾロは慌てて目を開ける。
気が付くと、ゾロはサンジの着物の袖の中に抱き寄せられていた。
「…ごめんな…ゾロ。もう、いいよ…」サンジはそう言ってうな垂れている。
「何がいいんだよ…!まだ、追っ手は来てねえだろ…!」
口では気強くそう言えるのに、声は掠れて体にも力が入らない。
「…もう、いいんだ。ホントは俺…全部、知ってるんだ…」
サンジのその言葉を聞いて、ゾロは力を振り絞って起き上がる。
「…何を知ってるって…?」
「…俺がもうすぐ奥の院に入れられる事…。その中で、人魚が何をするかって事…」
目を伏せてそう言ったサンジの睫毛の先に、透明な雫がたまって、今にもそれが滴り落ちそうにふるふると震えている。それを見ていると、ゾロの胸がギュ、と痛んだ。
サンジは顔を伏せたまま、やはり、ゾロに涙を見せたくないのか、拳でグイ、と目を拭う。
「…俺が逃げたら、…人魚の村がどんなに困るか…。寺のやつらに責められて、また俺の代わりにまだ小さな子を親から引き離して無理矢理連れてくるだろうし…」
「…だから、逃げちゃダメだって分かってたんだ。逃げても無駄って事も…」
「でも、…お前となら…逃げたいって…逃げられるかも知れねえって…思ったんだ…」
「…ごめんな…」
サンジはゾロの肩に顔を埋めた。サンジの目が当たる肩あたりが温かな雫で濡れる。
声を噛み殺し、体の震えを堪えて、サンジは涙だけを流していた。
「…なんで…」
(…なんで、お前が謝るんだよ)
今まで、一度だって俺に謝った事なんかねえ癖に。
初めて聞く、サンジの「ごめん」と言う言葉にゾロは戸惑う。
心が苦しくて、息すら出来なくなる。
「…昨夜、お前が俺を連れ出しに来た時、イヤだって……逃げたくないって言えば良かった」
「そしたら、お前、…こんな怪我しなくて良かったんだ…」
顔を伏せたまま、くぐもった声でそう言って、サンジはゾロの肩口の傷を袖で覆った。
「…バカ野郎が…。そこは謝るトコじゃねえよ…」
「悪いのは…」俺が弱エからだ。
そう言いたいのに、ゾロは後はもう言葉に出来なかった。
後悔と、無力感と、敗北感と、悔しさと、悲しさと…色々な感情が混ざった涙がゾロの目からも遂に零れ落ちた。
「…絶対、助けに行く…。絶対、今よりもっともっと強くなって…助けに行くから
それまで…何があっても、生きてろ!」
その言葉にサンジはゾロの肩に伏せていた顔を上げ、少し体を離した。
凍えた頬が、涙で濡れて、目の淵にもまだ大きな涙の粒が膨らんでいる。
ゾロの言葉にサンジが深く頷いた途端、その大きな粒はポトリと二人の間に零れた。
「…わかった。何があっても…お前が来るのを待ってる。約束だからな」
そう言って、サンジは泣いているのに、安心したように笑って見せた。
必ず、サンジを助けにいく。
ゾロを信じ、何があっても生きている。
それが、二人が交した「約束」だった。
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