立て続けに嵐と海賊と海軍とに出会ってしまった。
船長以下、乗組員の全員は疲労困憊。
目の前に断崖絶壁がそそりたつ、ログに関係ない無人島に上陸して
夜明かししよう、と言う気さえ起こらないほど、全員が疲れていた。
「岩礁も多いし、座礁するのが目に見えてるのを判ってて苦労して近付くのは」
「今は、避けた方がいいわ」と航海士のナミの判断で、ゴーイングメリー号は
その島を目の前にして、沖合いに碇を下ろした。
目の前に大きな瀑があった。
そそり立つ崖の上からほとばしる様に海に向かって流れ落ちる滝は、
滝、と言う優雅な響きで現すより、もっと神々しく、偉大な風情と規模だった。
沖に停泊していてもその瀑音は波音よりもはるかに大きく響いてくる。
それでも、嵐の海の狂暴な海鳴りや人間の怒声に疲れた耳にとっては
自然がかなでる、やや、盛大過ぎるその音さえ心地良く眠りを妨げる事はない。
朝が来れば、全員の疲労はどこかへ消し飛んでいるだろう。
そうなれば、暢気に腹が減るに決っている。
疲れて眠りたいと思っても、翌日、目を醒ました仲間の空腹をすぐに満たしたいと言う
欲求の方が強くて、サンジはただ一人、キッチンでその準備をしていた。
(これだけ離れて、こんなに聞こえるんだから、相当でかい滝だな。)と
生地を捏ねる手を止めずに、滝の音に耳をそばだてる。
はあ・・・と大きく溜息をついて、首を左右に1度づつ、傾けて凝り固まって重い様な
肩の肉を解してみるが、気休めにもならない。
予定していた作業を終えて、サンジはそっと足音を忍ばせて甲板に出る。
皆、好き勝手なところでまどろんでいるに違いない。どこで誰が寝ているか、
見当もつかないから、サンジは猫の様に静かにフィギアヘッドの方へと歩いて行った。
頬に一瞬、撫でるような風が吹きつける。その風は上空の月を覆っていた雲を柔らかく
千切った。
降り注いだ月光で、嵐の余韻で濡れている甲板の板にサンジの影がくっきりと写る。
サンジは月を見上げて、大きく背伸びをする。無意識に欠伸も出た。
フィギアヘッドのメリーの視線の先には、大きな滝がある。
サンジはぼんやりとその滝を眺めた。
(ん?)
目を凝らす。滝壷となっているのは当然、海面でその海面にはあまりの高さ故に
水飛沫が霧のように細かくなって流れ落ちる滝の水の周りに飛び散っている。
そこへ月光が差し込んでいた。
サンジはそれを初めて見た。
真夜中の海の上に、虹が見える。
それはとても小さいけれども、確かに虹だった。
常識ハズレな風景に唖然として、数秒、頭の中になにも言葉が浮かばなかった。
月が雲に隠れたら、きっともう見えなくなる。
サンジは踵を返して、一目散に見張り台を目指した。
どうして、そんなに慌てて、何故、その男を起こしに行こうと思ったのかなど
なにも考えない間に体が勝手に動いていた。
「おい、起きろ。」と珍しく、瞼を閉じて眠っていたゾロを声を顰めて起こす。
「なんだ?」「いいから来い。」
いつもなら、蹴り飛ばしたり、大声で怒鳴ったりして起こすのに、今夜は
誰にも知られることなく、ひっそりとゾロだけを起こしたかった。
瞼を擦るゾロにサンジは口早に、有無を言わさない調子で「ついてこい。」と言い、
すぐにロープを滑り降りる。
月はまだ冴え冴えと明るい。
ゾロは何も聞かずにサンジの後を同じくらいの速度で歩いて来る。
「あれ、見えるか。」とサンジはフィギアヘッドのすぐ側まで行き、身を乗り出す様にして
薄く、今にも消えそうな虹を指差した。
ゾロはサンジの指の先へと素直に視線を投げる。そして、やはり、サンジが最初に示したのと同じ様に唖然として、数秒、その虹を見つめた。
「虹だな。」とゾロは誰に言うともなく、呟く。
サンジは誰を起こしに行こうともしないで、何も言わずにゾロが虹を見入っているのを
傍らで見ていた。
(これを俺に見せる為に起こしに来たのか。)とゾロはサンジの行動の意味にすぐに
気がつく。
そして、この自然の気まぐれが起こす美しい神秘を自分達二人だけで共有したいが故に、仲間の誰も起こしに行かないのだと言う事にも。
ゾロの心の中が、「嬉しい」と言う言葉以外に表し様のない感情で満たされていく。
「他のヤツらにも見せてやろうぜ。」とサンジの気持ちを知っていながら、わざと
空惚けた。サンジの口から、口が無理なら、行動から、もっと自分に素直に
サンジの気持ちを伝えて欲しいからだ。
判っている事でも確認したい。確認する事で、嬉しさはもっと膨らむ。
ゾロの言葉にサンジは困惑した。
何故、他の者、こんな綺麗な自然現象をナミやロビンに見せたいと思う前に、
ゾロと二人だけで見たいと思ってしまった事を急に自覚する。
「見せたいんなら、自分で起こしてやれよ。」とサンジは軽く落胆の気持ちを
抱えて、それでも、そんな気持ちをゾロに知られないように強がって、
感情の薄い声でそう答えた。
(バカか、俺は)と自分で自分に腹が立つ。
真夜中の海に虹が出ている、ただそれだけの事がゾロにとってはどうでもいい事で、
自分が綺麗だと思ったモノは、下らない、興味のないモノだ、と言われたような気がした。
「見せたくねえのか、ナミ、さんや、ロビン、ちゃん、に。」とゾロは
背中を向けたサンジへ サンジの口調を混ぜ、軽く笑みを浮かべて皮肉を言う。
「別に俺は。」と見せたくない訳じゃない、とサンジは言い掛けて口を噤む。
「別に俺は?なんだ。」と振り向いてみれば、ゾロは体はまだ滝の方へ、
顔だけをサンジの方へ向けて やけに嬉しそうにニヤニヤと笑っている。
「うるせえな。なんだよ。」サンジの顔面は、急に火照った。
「俺が聞いてるんだ。"別に俺は、"その先はなんだ」とゾロは笑いっぱなしのままで
サンジにそう尋ねた。
「皆で見るほどのモンじゃねえし。」とサンジはバツが悪く、咥えていた煙草を新しいものに取り換えようとシャツのポケットやズボンを弄るが、見つからない。
(こんな時に煙草がないなんて間の悪イ)と舌打ちしたくなる。
「"皆で見るもんじゃねえし?"それからなんだ」とゾロは落ち着きのないサンジを見て、
とても柔和な顔で笑っている。
「一人で見るのも勿体無エし。」とサンジはブツブツと小声で呟く。
何か、言い訳をしないとゾロがどんどん調子に乗る。
「で?」とゾロは腕を伸ばしてポケットに突っ込んでいたサンジの右の手首を掴んで、
引き寄せた。
「月が翳るぜ。一人で見るのが勿体無エから、それで?」とゾロは鼻先が触れるくらいに
近付いてまだ、そう言ってサンジをからかい、ヤケを起こしてサンジが本音を
喚くのを待っている。
「うるせえな。もう、」
うざったい言葉ばかりが零れてくる唇を塞いで、ゾロが反射的に瞼を閉じた瞬間、
サンジはゾロの胸を突き飛ばしてすぐに離れ、腹立ち紛れのような口調で、
「黙って見てろ。」と怒鳴ろうとして、その声を絞った。
「黙って見やがれ、」と囁く様な声でそう言うと、ゾロはまた、ニ、と嬉しげに笑う。
「っとに、憎たらしい言い方しかできねエヤツだな。」と大仰にゾロは溜息をつく。
「起こして悪かったな。興味無いなら、さっさと寝ちまえ。」それを見たサンジが、
嫌味たっぷりに言うと、
「いや、俺はお前みたいにひねくれてねえから、あの虹が消えるまでは寝ねえ。」と
ゾロは勝ち誇ったような目をしてサンジを見た。
「あんな珍しいモノ、滅多に見れるモンじゃねえからな。」
「珍しい眉毛が生えたヤツと二人きりで見るのも、悪くねえ。」
「お前もそう思ったんだろ?珍しい人間マリモと二人きりで眺めてえって。」
(この野郎、どっちがひねくれてるんだ)とそのゾロの言葉を聞いて、
サンジはなにもかも見透かされてしまった事と、ゾロが今、サンジから何を
欲しがっているかが判った事でサンジは気恥ずかしくなる。
だが、ヤケでもなんでももう素直に言ってしまった方がいい。
薄い雲がまた月を隠してしまう前に、蛍の光の儚さに似た虹を二人で静かに
見つめる為に。
「ああそうだよ、二人で見たかったんだよ。」と照れ隠しに吐き捨てる様に
そう言うと、ゾロは顔をクシャ、と歪めて笑った。
これ以上は、どこをどう突付いても素直に言葉を言う筈がない。
「二人で見たかった、」と言う言葉を聞く事が出来ただけでも十分だった。
「綺麗なモンだな。」
「花火みてえだ。」
雑談をしながらも、二人は真夜中の海に掛る不思議な虹を見つめていた。
同じモノを見つめる為に、二人の視線は同じ方向へと注がれ、虹の上で一つに重なっていた。
月と海が織り成す魔法が作り出す奇蹟はやがて、二人の影も一つに重ねる。
(終り)