そこは、とても古びた、静かで小さな宿だった。
音もなく、ただ静かに夜が更けていく。
ルフィに聞こえるのは、熱っぽいサンジの乱れた呼吸の音と、時折苦しそうに
寝返りを打つ音だけだ。
丸い月の明るい光が部屋の中に差し込んできて、青白く部屋の中を照らしている所為で、灯りを灯さなくても、ルフィには、サンジの寝顔を見ることが出来た。
この部屋には狭くて、一人分の寝床しかない。
ルフィはベッドの側の小さな椅子に深く腰を下ろし、腕を組んでサンジを見ていた。
(・・・困ったな・・・)とさっきから、同じ言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回っている。
どうすればいい、と言う選択肢を考える余裕がなく、ただただ、困っていた。
サンジを一人残して、チョッパーを呼びに帰るか。
それとも、チョッパーがここを探し出してくれるまで、サンジの側にいるか。
どうすればいいのか、ルフィにはどうにも決断できない。
何故なら、サンジがこんな粗末な宿にたった一人、身を隠すように潜り込んで、
熱で呻いている原因が、ルフィの我侭だからだ。
サンジは、さっきまで起きていた。
けれど、交わした会話は殆ど怒鳴りあいの喧嘩で、ルフィがここにいる理由も意味も、
サンジはまるっきり受け入れようとはしてくれないままだ。
きっと、目を覚ましたらとても迷惑そうな顔をして、「なんで、お前ここにいるんだよ」と
言うだろう。
(・・・あ〜あ、俺は仲直りしてえだけなのに・・・)とルフィはため息をつく。
サンジは、昼過ぎに急に船からいなくなった。
ルフィは、それを「勘」だけで追い駆けて、そして夜になってサンジを見つけて、
ここにいる。
どうすればいいのか決められずに、ここから動けずにいる。
二日前の夜には、こんな場所でサンジと二人、夜を明かすなど想像もしていなかった。
「・・・肉が食いたいって?しかも、野生の動物で今まで食ったことのないヤツがいい?」
亜熱帯の気候でもない、さわやかな初夏の頃合の風が吹く、自然の豊かな島に上陸するなりルフィの強請った言葉にサンジにそう聞き返してきた。
「ああ、トカゲとか、サイとかよ。珍しい肉がいいんだ」
それを聞いて、サンジは腕を組んで「・・・まあ、この島にそんなのがいりゃ食わしてやるが・・・」と、どうも煮え切らない返事をしてきた。
だが、ルフィはどうしても、腹一杯、たっぷりと脂の乗った肉をガツガツと食べたい。
サンジのはっきりしない返事では、到底引き下がれない。
「ゾロと狩り勝負しろよ」そう言って煽れば、サンジ一人で収獲するよりたくさんの肉が手に入る。そう思ったが、逆にその言葉にサンジの表情が急に険しくなり、
「・・・俺は、あのマリモ男と口も利きたくねえんだ」と不愉快そうにそう言って、
ルフィの思惑には乗ってこなかった。
(・・・なんだ、また ちわげんか ってヤツか)とルフィは最近覚えた言葉を
意味もわからずに心の中で呟いて、サンジの機嫌の悪い理由を推測してみる。
だが、ゾロとサンジがどんな理由で喧嘩しているのかなどは、ルフィには今のところ
興味がない。とにかく、大量の、脂の乗った肉を腹がはちきれる位食べる、と言う事だけにルフィの脳味噌は働いていた。
「こんな島にいるのかよ、サイだのトカゲだの」とサンジは全く狩りに出ようとは
してくれない。「・・・海辺にイグアナがいたけどな。あれなら、食えそうだぜ」
「捕って来たら、サバいてやるよ」と言ってくれたのが、まだ救いだった。
ナミやロビンは町へ行ってしまったし、チョッパーもウソップと買い物に出掛けてしまった。
ゾロは刀の手入れをするとかで、珍しくサンジを置いて勝手に行動している。
買出しもせず、サンジが一人で船に残るのは、ゾロが一人で行動するより珍しい事だ。
その訳をルフィはなんの気なしに、「どっか、体の具合でも悪イのか?」と尋ねたが、
その一言で、サンジの機嫌はますます悪くなり、「うるせえな!さっさとイグアナ捕って来い!」と
いきなり怒鳴られた。
(怖っエな〜〜。ゾロとちわげんかした後のサンジって)とルフィはそれ以上、サンジを
刺激しては、イグアナを料理して貰えない、と思い、すぐにイグアナを捕りに出掛けた。
ルフィが捕ってきたイグアナをサンジはいつもどおりの器用で、滑らかで、素早い動きで
美味そうな肉の塊に変えて行く。
食材を前にすると、さっきまでの機嫌の悪さが消えて、やっぱり楽しげで柔和な表情に
なってきて、ルフィはその表情を見て、気持ちが和むのを感じた。
「内臓も食いてえ、牛の内臓って生で食っても美味エだろ」
サンジが汚れたキッチンを洗い流しながら、捌いたイグアナの内臓を捨てようとしているのを
見咎めて、ルフィは慌てて、サンジが捨てたイグアナの内臓をそれが入ったバケツごと持ち上げた。
「イグアナの内臓?そんなの生で食うモンじゃねえ。っていうか、食った事なんかねえぞ」
サンジは鼻先に突き出されたその内臓の入ったバケツを見て、迷惑そうに顔を顰める。
けれど、ルフィは食べる、と決めたモノは何が何でも食べたくなる性質だ。
「じゃあ、食えるのか、食えないのか、わからねえだろ。食ってみようぜ」
「今、サバいたばっかりなんだし、新鮮できっと美味エと思うんだ」
纏わりつかれて、自分の作業が出来ない事が億劫に思ったのだろう、サンジは渋々、
「わかったよ。でも、水で晒して、それから俺が毒見をしてからな」と言って、
バケツをルフィから受け取った。
それから、数時間後。
そして、夜になりそれぞれバラバラに船を降りていた仲間が戻ってきた。
皆、思いがけない豪華な肉料理を前にして、大喜びし、食卓はとても華やいだ。
けれど、その食卓にはルフィが食べてみたい、と行った内臓の料理は一つとして出ない。
肉だけで充分に満足できる味と量だったから、ルフィは内臓の事を全く思い出すことはなかった。
ルフィがその内臓の事を思い出したのは、その夜の深夜だ。
(・・・ん・・・・?なんだ、うるせえな)
いつもどおり、男部屋のハンモックで眠っていたルフィは、いつもと少し違う気配と、
出入り口を何度もバタンバタンと開け閉めする物音で眼が覚めた。
むっくりと起き上がり、眠い目を擦って暗い船室を目を凝らして見ると、
サンジらしい足がはしごを上って、外へ出て行くのが見えた。
その足は素足で、夜目になぜかとても白く見えた。
まるで、血の気が全く通っていないかのように。
(・・・なんだ、どしたんだ?)ルフィは静かにハンモックを下り、サンジの後を追って、
甲板に出る。
サンジは船べりに手をかけ、海へ向って身を乗り出していた。
今、まさに海に向って飛び込もう、としているような格好だったから、ルフィは慌てた。
「サンジ!」と大声を上げて、サンジに駆け寄る。
「・・・あぁ?」
ケホ、と小さく咳をした後、サンジは袖口で口ぐい、と拭いながら、顔を上げた。
「・・・なんだよ、この夜中に」といかにも面倒そうにそう言われて、ルフィは思わず
声を荒げてしまう。「お前こそ、こんな夜中に何海に向ってゲロ吐いてるんだよ?!」
吐き気がして、頭が痛い。多分、船酔いだ、とサンジは言った。
だが、そんな事は有り得ない。
「・・・チョッパーを起こすほどじゃねえよ。適当に酒飲んで寝れば、朝には治る」
「でも、酷エ顔色だぞ」
ルフィは、サンジの顔色を見て、急に心配になった。
(・・・悪い病気なんじゃ・・)Iまだ、イグアナの内臓の事は全く思い出さない。
ただ、頭の中には、熱で倒れたナミの姿が過ぎった。
サンジはふらつきながらもキッチンへ行き、薄く割った酒をグラスに注いで、一口、口に含んだ。
それをゆっくり、ゆっくり、とても慎重に喉の中に流し込み、ゴクン、と飲み下す。
「・・・ふう・・・」と大きく溜息をつきながら、額を押さえる。
よほど、頭が痛いのか、眉間には皺が刻まれたままだし、煙草を吸う気も起きないのか、
テーブルの上に乗っているのに見向きもしない。
朝になっても、サンジの具合は治らなかった。
顔色はますます悪くなり、吐き気も酷くなる一方なのか、自分が作る食事の匂いさえ
辛そうだ。そんなサンジの状態にチョッパーが気付かないはずがない。
具合が悪そうだね、ちょっと診て上げる。
そんな風に穏やかに優しく声を掛けて、素直に診察を受けるようなサンジではないことを、
チョッパーはもう充分に知っていた。
何食わぬ顔で全員が食事を済ませ、サンジがその皿を片付けに来たところを、いきなり人型に
変形し、ギュ!とサンジの腕を掴んで、一言も声を上げさせないまま、
素早く掌をサンジの額に押し当てる。
普段なら、そんな突飛な行動でもサンジは充分に対処できる筈だ。
だが、そう出来ないのは、やはり、おかしい。
チョッパーはサンジの額に当てた手を慌てて離し、「うわ、熱!」と驚きの声を上げた。
「サンジ、やっぱり酷い熱があるじゃないか!」
熱がある、とバレた以上、大人しくチョッパーの診察を受けなければならない。
熱が出ていて、船に船医がいるのに、それを放っておけ、と突っぱねる事は、
せっかく料理を作っても、誰にも食べてもらえないのと同じ事だ。
熱がぐんぐん上がっていく。
脱水症状が酷くならないように水を飲んでも、すぐに嘔吐してしまう。
眩暈も酷いのか、サンジは時折、目をきつく閉じて、頭を軽く振る。
診察の時、キッチンにはルフィとチョッパー、サンジ以外、誰もいない。
「・・・サンジ、なにか変なモノ食べなかった?」
「・・・変なモノ?・・・俺は皆が食う食材以外のモノは食ってねえけど・・・」
そう言っても、チョッパーは納得しない。
「中毒だよ。毒性のある、なんかを食べてる筈だ」
「・・・そういえば・・・」ルフィはその時になって、やっと、イグアナの内臓の事を唐突に
思い出す。「サンジ、イグアナの内臓、どうした?あれ、食ったのか?」
「いや・・・一通り食ったが、どれも不味かった・・・・」サンジはそう答えて、崩れる様に
椅子にドスンと腰掛けた。こんなに重そうに体を動かすサンジをルフィは始めてみる。
たったそれだけの事が、ルフィの胸の中を少しづつ不安で膨らませていく。
戻る
★ 次へ
★