「お兄ちゃん、お兄ちゃん!?」

アデルの声がとても憂鬱な空気の中で立ち竦んでいるシュライヤの耳に
木霊する。

目を開いているつもりだったのに、瞬きをすると、
朝陽のさしこむ窓辺の、小さなベッドの上だった。

「凄い汗だよ。」とアデルが心配そうに覗きこむ。

(夢か。)とシュライヤは今、目の前にあるものと、それを包む空気の優しさに
額の汗を拭って溜息をついた。

「怖い夢を見てた。」とシュライヤは、バツが悪そうな表情を敢えて大袈裟に作り、
アデルに寝転んだまま笑いかける。

アデルは不安げな顔をしていたが、シュライヤの笑顔を見て、
安心したのか、
「大人なのに、変なの。」と言っていつもの、可愛らしくも生意気な口調でそう言った。

「悪い夢とか、怖い夢は人に話した方がいいんだよ。」と
アデルは、シュライヤが着替えてベッドに放り出したパジャマを丸めながら、
無邪気にシュライヤに話し掛ける。

「そんな事したら、」とシュライヤは、さっさと着替えをすませつつ、
「今度はアデルが怖い夢を見る。」とポツリと呟いた。

「そしたら、今度はお兄ちゃんが聞いてくれればいいんだ。」とアデルは
朗らかに言い、
「朝ご飯、まだ作って無いんだ。お兄ちゃんに作ってもらおうっと。」と
パタパタと駆け足で先にキッチンへ向かって行った。

(おかしなモンだな。)とその小さな背中を見送り、シュライヤは
また、ベッドに寝不足の様に鈍く痛む額を手の平で押えながら仰向けに寝転んだ。

(こんな)毎日、心穏やかに、些細な事が楽しく、生きていて良かったと
何かにつけて思うような日々なのに、
賞金稼ぎをしていた頃には見なかった、過去の夢ばかりを見る。

技を鍛える為に敢えて、自分よりも強い相手に挑み、何度も何度も追い詰められ、
その都度、「もうダメかもしれない。」と言う恐怖に駆られた時の夢。

「殺さないでくれ」と懇願する海賊の胸をナイフで一突きにした、
その時の恨めしそうに自分を見上げる血だらけの男の夢。

首に縄を縛りつけ、崖から突き落とした海賊の命の重量を握りこんだ掌の痛みに、
のたうち回る夢。

近頃は、そんな夢ばかりを見て、隣で眠っているアデルを起こしてしまっては、
心配させている。

今朝もそうだった。

「処刑人」と言われ始める少し前の夢。

もう、何人の海賊を処刑台に送りこんだか、もう数えているのが面倒になり始めていた頃の夢を見た。

とある島だった。
賞金首、だと認識すれば、賞金額に関わらず、シュライヤは狙う。
狙った相手は必ず、仕留めて来た。

そして、だんだんと雑魚よりも、金額にこだわる様になり、つまり、
強い相手を求めた。

強くならなければ。
両親、妹、友達の仇を取る為に強くなり、ガスパーデの前に辿り着くまで、
なんとしても、生き抜かねばならない。
シュライヤが生きて行く上で、望む事はその時、それ以外に何も無かった。

その島で、シュライヤは港で少女を見掛けた。
年の頃、妹のアデルが生きていたならちょうどそれくらいにはなっているだろう。
髪の色も良く似ていた。

すれ違っただけのその少女の姿にシュライヤの目が無意識に追い駈ける。
(もしかしたら)と有り得ない想像が心をよぎった。

だが、すぐに自嘲を浮かべて否定する。
燃え盛る港の運河の流れに3歳の女の子が飲まれたのだ。
その光景は今でもはっきりと瞼に焼き付いている。あの状況でアデルが生きている筈がない。生きていて欲しかった、と言う願望が名も知らない少女に妹の面影を
偲ばせただけだ。

あの時、アデルだけでも生きていたなら、きっとこんな血みどろの生き方など
しなかっただろう。幼い妹を抱えて生きて行くだけで必死だったかも知れないが。

決して、寂しさを感じないでいられただろうとも、思う。
世の中で、信じられるものは己の力のみ、と言う状況はまだ、少年と言ってもいい年頃のシュライヤにとっては、凄まじい孤独だ。

その孤独で萎えそうな心を宥めるには、常に命を危険に晒せば良い、と
シュライヤはもう悟っていた。

この島にも、海賊がいる。
港に堂々と海賊旗を掲げて停泊しているのだし、また、盛り場に行けば、
手配書で見覚えのある顔がゴロゴロいるに違い無い。
そう思って、シュライヤは夜を待つ。

風の吹きぬけていく町中を地形を覚えながらぶらついて歩いた。
海賊を自分の優位な地形へと誘い出し、その場所にあらかじめ、武器を隠しておく為だ。

身軽なシュライヤには、高低差のある、狭い場所がいい。
複雑な地形ならば、より複雑な方が都合がいい。

ロープだろうと、釘だろうと、物干し竿だろうと、針の1本であろうと、
シュライヤの手にかかれば、殺傷力を持つ武器になる。

民家の途切れた場所に石造りの廃墟があった。
(こりゃ、ちょうどいい。)とシュライヤはほくそ笑む。
かなり大きな屋敷の跡らしく、
シュライヤが武器を隠す場所はいくらでもあるし、
火を燃やそうが、爆薬を使おうが、なんの関係もない善良な島民を
巻き込まなくてもすむ。

後は、日がくれてから、適当な酒場に入って海賊に喧嘩を吹っかけて、
ここに誘い込めばいい。
天気が悪くなりそうだが、石造りの床はぬかるむ事も無く、足場としても申し分無い。

仕込みを終えて、シュライヤは一旦、繁華街の方へと引き返した。
(風の強い町だ)と真正面から吹きつけてくる潮風に目を細めて歩いていると、
舞い上がった風に煽られた紙クズがシュライヤの目の前を掠める。
それを避けようとした時、帽子が風に浚われた。

往来をコロコロと帽子は調子よく転がって行く。
その帽子をシュライヤより先に拾い上げたのは、偶然にも港で
すれ違った、アデルに良く似た少女だった。

「はい。」と当たり前の様に少女はシュライヤに帽子を手渡す。
「ありがとう。」とシュライヤはごく自然に少女に礼を言った。

彼女の父親が船乗りで、今晩、港に帰ってくる事。
やはり、アデルと同じ年である事。

「お父さんの名前は、」とその少女が口にした、彼女の父親の名前を
シュライヤは知っていた。
シュライヤが狙っている、
(1000万ベリーの賞金首だ)船乗りなどではない。

「一年に一度だけ帰って来る、今夜がその日なの。」と父親の来訪を心待ちにしている様子に、シュライヤは何も言えなかった。

(海賊の癖に)家族を持っているなど、シュライヤはその男に理由のわからない腹立ちを覚えた。

娘を騙している事が正しく無い、と思う故に腹が立つのか。
それとも同じ海賊に家族を殺され、何よりも海賊を憎んでいる自分にとって、
海賊が家族を持ち、その家族から愛されている事に嫉妬しているのか、
どちらか判らない。

(どっちにしろ、俺の知った事じゃねえ。)
狙いを定めたら、いかなる理由があろうと、必ず、仕留める。

手筈どおりにシュライヤはその男と、その仲間数人を自分の戦闘領域へと
誘い出した。

だが。
首を掻き切ってやろう、と例の少女の父親の胸倉を引っつかんで、
ナイフを首筋に当てた時、金の鎖が邪魔になった。

それを引き千切ると、それは小さなロケットになっていた。
それを見た途端、シュライヤはただ、海賊を無造作に殺す為に麻痺した人間らしい
血の通った感情が一気に吹き出した。

「貴様、なんで海賊の癖に家族なんか持ってんだ。」と
そのロケットの中身を見もせずにシュライヤはその男の胸倉を掴んだまま、
噛み付く様に怒鳴った。

「家族なんかじゃねえ。」と男はさすがに1000万ベリーの賞金の掛った海賊らしく、仲間全員がシュライヤに殺されたとあって、既に腹を括ったらしく、
憎々しげにシュライヤを睨みつけて、
「惚れた女が俺の子供を産んで、育ててるってだけだ。」
「俺ア、その女と子供が不幸せじゃなきゃ、それでいいってだけだ。」
「家族なんかじゃねえ。」と喚いた。

「贅沢ヌかすんじゃねえ。」とシュライヤは思いきりその男の横っ面を殴りつける。
「貴様の顔見て、笑ってくれる人間がいるって事がどれだけ贅沢な事か、」
「海賊のカラッポ頭じゃそんな事もわからねえか」と怒鳴って、
シュライヤは、その男を死なない程度にボコボコに殴った。

シュライヤは、その男を殺せなかった。
海軍に突き出す為に生け捕る事も出来なかった。

望むべくは、あの男が海賊から足を洗い、
アデルに似た、あの少女とその母親と三人でごく普通の家族として暮らして欲しかった。

幸せになれずに死んだ妹の替わりに、その少女には幸せになって欲しいと
シュライヤは賞金稼ぎになって初めて、海賊に情けをかけた。

けれど。
その島を出る時に、海賊の公開処刑が港で執行された。

嵐の所為で、シュライヤが乗る筈の船が出航できず、見たくも無いのに、
シュライヤはその処刑後の海賊達の骸を目にした。
海賊は、捕縛されると死体が朽ちるまで晒されるのだ。

そして、その光景をシュライヤは悪夢に見た。

そして、後悔したのだ。
あの時、情けをかけずに、男を自分が捕えておけば良かった。
自分が手をくだして、その屍骸を海軍へ引き渡せば、良かった。

そうすれば。

男の娘も、その妻も海賊達と海軍との戦闘の巻き添えになって、
死ぬことも無かっただろう。
例え、母子二人だけでも幸せに生きていられたかもしれない。

(俺が情けをかけたばっかりに。)
結果論だと言えばそれまでだけれども、
そんな理論ではシュライヤのやりきれない後悔は拭えなかった。

風に混じって雨が体に叩き付ける様に振るるその島の鬱陶しい空気の中で、
シュライヤは長い間立ち竦んでいた。

その光景が今でも、
自分が日の光に満たされる暮らしの中にいる今でも、
シュライヤの脳裏に焼きついていた。


(終り)