(・・・なんなのよ、ここは一体・・・)
ナミは、立ち止まって周りを見回す。
ここは、グランドラインのとある島。
ログが指し示すとおりに進み、昨日の夕方に辿り着いた。
ナミは今、港町から離れた山の中にいる。
目的地に向って歩き始めた時は、まだ早朝とも言える時間で、空は良く晴れていた。
それからたった4時間程しか経っていないのに、ナミの視界は真っ白な
霧で覆われて、右も左もさっぱり分からない状況になってしまった。
山道は、土がむき出しだけれど、子供づれでも楽に歩けるくらいよく手入れされていて
歩きやすかった。いくつか分岐点はあるだろうが、それでも、道しるべぐらいは
あるだろうし、道なりに歩けば、なんの問題もなく目的地に着くだろうと、
そのつもりで歩いてきた。
だが、実際は(・・・この状況でウロウロ山道を歩いたら、ヤバい)
どんな危険な場所に迷い込むかわからない、とナミはそう考え、霧が晴れるまで、
動かずにいよう、と決め、その場で足を止めた。
立ち木に凭れて、辺りをうかがう。
しん・・・と静まり返った森の中に、時折、甲高い鳥の声が木霊し、風が吹いて、
それが吹き抜ける時にほんの少しだけ、暗い森の中が垣間見える。
心細い、と自覚しないようにしたいのに、どうしても、一人きり、全く視界の利かない場所にいることが、ナミを不安にさせる。
だが、ナミは、(・・・弱虫・・・っ)とそんな頼りない自分自身を罵り、
忌々しげに溜息を一つ ついた。
むき出しの肩を、雨水を含んだような冷たい霧がさやさやと撫でる。
(・・・はあ・・・・やっぱり、ロビンのエステが終わるまで待てばよかった)
心細いからではなく、ただ、退屈だから、そう思う。
ナミは自分にそんな言い訳をしながら、ゆっくりと木の根元にしゃがみ込んだ。
霧が流れていくのをぼんやりと眺める以外、何もやる事がない。
15分ほどそうやって座り込んでいたが、あまりにも退屈すぎる。
(・・・やっぱり、歩こう、迷いそうな場所に来たら、また立ち止まればいいわ、)と
ナミは立ち上がった。
突然、すぐ近くで鳥のキーっとけたたましい声が響く。
そして、バサバサ・・・っと鳥が飛び立つ音がした。
静寂を乱した、その音を警戒し、ナミは咄嗟に身構える。
土を踏みしめて誰かが霧の中を歩いてくる。
白い霧の中に影だけが見えてきた。背格好から見て、(・・・男だわ)とナミは思った。
(・・・どうか、悪いやつじゃありませんように・・・)と思わず、心の中で呟く。
例え、相手が男だろうが、天候棒さえ持っていれば、叩き伏せる自信はある。
それでも、視界を遮られたこの知らない場所で、見も知らない相手が近づいてくるのは、
腕っ節に関わらず不安になるのは無理もない。
「・・・あれ・・・ナミさん?」
霧の向こうから、耳に馴染んだ声がして、それから、分厚い霧の白い膜が薄れて行く様に、
その足音の主の姿が白い霧の中に浮かび上がってきた。
「・・・・サンジ君?!」
姿を見なくても、声だけで、それが誰かナミは分かった。
心細さも、不安も一瞬で消し飛んだけれども、それ以上にナミは驚きの方が大きい。
「「どうして、こんなとこに??」」
二人は向かい合って、口にした言葉は、全く同じで、全く同じ口調だった。
サンジが、こんな山の中にいる筈がない。
「それはこっちのセリフよ!こんな山の中、一人で何してるの?」と
思わず、ナミは声を荒げる。
ほんの数日前、海の上で偶然出くわした海賊と、一戦交えた。
その時、サンジは胸に一発銃弾を受け、その衝撃で肋骨も折れた。
直撃したのではなく、大砲の砲身に当たった弾が跳ね返っての被弾だったのと、
骨に当たったおかげで肺の中まで弾がめり込む事はなく、さほど呼吸に支障はない。
それでも、胸の中には傷が出来ていて、肋骨も確実に折れている。
その時、胸に受けた衝撃も、甲板に叩き付けられた背中に負った打撲も、
決して「かすり傷」とは言えない。
三日前まで、食事を作るどころか、立ち歩く事さえチョッパーに止められていた。
「サンジは船で安静にしておいて」と、今朝も言われていたのを、ナミは確かに
聞いている。
サンジは、今、本当なら船に残り、男部屋で横になっていなければならない。
それなのに、何故、自分の目の前にいるのか。
ナミは驚き、そして、チョッパーの指示を守らずに歩き回っている、サンジの無責任さにカっとなったのだ。
「・・・ナミさんこそ、一人でどうしたんだよ?ロビンちゃんは?」
サンジは、ナミの険しい顔を見、すぐに機嫌を取り繕う、としたのだろう。
いつもの、甘えるような、軽薄そうな、薄ら笑いを浮かべる。
だが、そんな事でナミは誤魔化されたりはしない。
厳しく追及し、叱り付けなければ、サンジはまた、無茶をし、支離滅裂な行動をし、
自分に気を揉ませる事態を、きっと引き起こす。
そう思うから、自然、ナミの口調は荒くなり、高圧的になり、感情的になる。
「私が先に質問したの。どうして、こんなところにいるの?サンジ君は、
船で休んでなきゃいけない筈でしょ?!」
サンジは、ナミから困った様に目を逸らし、咥えていた煙草を指で摘んで、
口から煙を吐き出した。
「・・・ケホっ・・・・」その途端、サンジは苦しそうに繭を顰め、小さく咳をする。
(・・・肺に傷がついているのに、・・・煙草を吸うの、止められないのかしら)
何故、苦しい癖に煙草を吸うのか、ナミにはそれも分からない。
このなんとなく、どこか現実世界とは思いがたい場所で、
サンジが側にいてくれる事は、随分心強い。
だからと言って、チョッパーの指示を無視して出歩いているサンジを許せば、
自分も、無責任である上に、仲間の信頼を裏切る事になる。
つまりは、一蓮托生だ。(・・・冗談じゃないわよっ・・・!)とナミは思った。
なんとしても、サンジは船に帰ってもらわねばならない。
チョッパーにこっぴどく怒られる、そんなとばっちりは食いたくない。
ナミは、腕を組んで、サンジに詰問を続けた。
「・・・どうやって、船を出てきたの?」声が低くなっている事に自分でも気付く。
「・・・寝て、起きたら側に誰もいなかったから、誰にも止められなかったよ」
サンジの笑顔が、だんだん気弱になり、少しづつ、上目遣いになってくる。
どうも、口車と愛想笑いではナミの機嫌を直すことが難しい、と分かって来た様だ。
(ゾロはまた、寝てたのね!全く!役に立たないんだから!)
船番と、サンジの見張りにとゾロを船に起きてきたのに、きっと側で寝こけたのだ。
ナミはそう決め付ける。
二人が二人とも、バカで、勝手だ。そう思うと同時に、それに対して怒っている自分が
ふと、可笑しくなる。「・・・ふん、何をいまさら・・・」と思わずナミは口に出して
呟いていた。
「何しに、こんな山の中を歩いてるの?」
「・・・ちょっと、街で耳寄りな話を聞いて・・・もしかして、ナミさんも
同じ場所に行くつもりだったんじゃない?」
そう言われて、ナミはすぐにサンジがここにいる理由を理解する。
「サンジ君も、ブランデーを買い付けに来たの?」
「やっぱり、ナミさんも?」
ナミの言葉にサンジは本当に嬉しそうににっこりと笑った。
それは媚びたり、甘えたり、機嫌を取ったりする作り笑顔ではない。
同じものに価値を見出してくれる相手と巡り合った、その偶然を喜ぶ、素直な笑顔だ。
(・・・そんな顔したって、ダメなんだから)ナミは思わず、自分を戒める。
それくらい、目の前のサンジの笑顔は、何をしても許してあげたくなるくらい素直で純朴だった。
「もう、絶滅した天然種の葡萄で作った、30年もののブランデーの樽を開けて、
瓶詰めするんだって。30年もののブランデーだよ!しかも、もうその葡萄はこの世にないんだよ」
サンジはそう言って、目を輝かせている。
(・・・そっか、サンジ君はそのブランデーの味を知りたいのか)
料理や、デザートに使うのか、それとも、そのブランデーを料理に添えるのか、とにかく、サンジはそのブランデーに対して、料理人としてとても興味があるらしい。
ところが、ナミの興味はブランデーの味ではない。
(・・・1本10万のブランデーが、10倍にも20倍にも・・・ううん、もしかしたら、
100倍にはなるかも知れない)、そう思って、買い付けに来たのだ。
樽の数も限られている。まして、サンジの言うように、この上なく美味だったけれど、
この島の気候の変化によって、自生する事が出来なくなり、改良を重ねていくうちにどんどん劣化して、今ではもう種さえなくなった、天然の葡萄が原料だ。
希少価値はかなり高い。今、ここで手に入れておかねば、二度と手に入らない。
絶対に、いずれは大金に化ける酒だ、とナミは値踏みした。
そう思う輩は絶対にたくさんいる。
出来るだけ早く、買えるだけ、船に詰めるだけ買わなければ。
そう思うと一分、一秒が惜しい。それで、一人でそのブランデーを造っている蒸留所へ
行こうとしていたのだった。
サンジの純粋な気持ちに対して、自分の欲が気恥ずかしくなり、今度はナミの方が
サンジから目を逸らした。
「・・・この話、私は、街の酒場で聞いたの。サンジ君は?」
「俺は、買出しに行った酒屋で聞いた。なんか、珍しい酒はないかって」
「それで、そのブランデーをナミさんや、ロビンちゃんに飲んで貰いたいなって思ってさ」
(・・・もう・・・)ナミは心の中で不思議なため息をつく。
やるせないのか、嬉しいのか、照れ臭いのか、呆れているのか。
それとも、サンジの理屈に自分が折れた事が悔しいのか。
ナミは、何故、そんなため息をついたのか、自分でも良く分からない。
ただ、サンジを追い返す言葉がもう一つも考え付かない、と言う事だけは確かだ。
怪我をしていて、無理をして、チョッパーにあとで怒られると分っていても、
その貴重なブランデーを自分とロビンに飲んで欲しい、と思うサンジの気持ちは本物だ。
サンジは鬱陶しいほど媚びてくるけれど、口先だけで言葉を操るような薄っぺらい男ではない。
歯の浮く様な華美な言葉は、料理で言えば、付け合せの野菜のようなもので、
それが耳に心地よいと思えるのは、その言葉と一緒に誠実な思いやりと気遣いを
感じられるからだ。だから、「ナミさんや、ロビンちゃんに飲んで貰いたい」と言う
サンジの言葉を一切、ナミは疑えない。
ナミがどうしたものか、考えあぐねて言葉を言いよどんでいると、サンジは
もうナミの機嫌が治りかけている、と思ったのか、また小さく、一つ「・・・コホッコホっ・・・」と軽い咳をした後
「・・・この山を越えて、つり橋を渡った先の村にその蒸留所があるんだってね」
「この霧だし、道に迷うと厄介だ。ちょっと戻ったところに山小屋があったから、」
「そこで、霧が晴れるまで待とうよ」と言いながら、ナミをエスコートするかのように、
ゆったりと来た道を戻り始めた。
「山小屋?そんなのあった?気付かなかったわ」
ナミはとうとう、先に立って歩き出したサンジを追い駆けてしまう。
白い霧が森の色を塗りつぶしていく中、一人でいる不安に遂に挫けてしまった。
「実は、俺、ちょっと道に迷ったんだよ。だからたまたま見つけただけ」
そう言ってから、サンジはまた、「・・・コホっ・・・コホっ・・・」と、
風邪を引き始めた時のような咳をする。
道から少し逸れた場所にある小さな山小屋は、木こりが道具を置く為に建てたらしく、
中は埃だらけで、どうにも雑然としている。
霧が深い所為で、日が暮れていくのも早い。
どうにか、火を焚いたり、腰を下ろしたり出来る様にした後、外を見れば、
白い霧は少しづつ闇色に染まりつつあった。
気温も、昼間と比べてぐっと下がり、腕も肩もむき出しのナミには寒いくらいだ。
「霧が深い山の中、ナミさんと二人っきり・・・夢みたいなシュチュエーションだ」
サンジは喜んでいるけれど、ナミはその浮かれたサンジを適当に受け流し、
「一晩、明かす事になりそうだけど、夜露に濡れるよりマシよね」と、色々と
夜を過ごすための準備を整える。
(あのまま、あたしと会わなかったら、サンジ君、夜露に濡れてたかもしれない)
咳をするたびに、サンジは僅かに顔を顰める。
咳の衝撃が、骨に響き、おそらく、それが痛むのだろう。
咳が風邪の所為なのなら、これ以上悪化させてはいけない、とナミは思った。
寒くても、サンジが羽織っている上着を借りたい、などと思ってはいけない。
夜が更けるまで、二人は他愛ない会話を交して時間を潰す。
「お腹空いたんじゃない?」とサンジはポケットからコロン、と二つ、小さな
蜜柑に似た、柑橘系の果実を取り出して、床に置いた。
「サンジ君も、お腹空いたでしょ?」とナミも、金を入れていたリュックから、
コロコロ・・・といくつも、サンジが取り出したのと同じ果実を同じ様に床に転がした。
薪の火に照らされて、二人がもぎ取った小さな果実が埃の積もった粗末な床板の上に、
丸く、黒い影を床に落とす。
ナミの果実を見て、それからナミを上目遣いに見、サンジはクス・・・と笑った。
ナミも、サンジの果実を見、サンジを上目遣いに見、ナミも、クス・・・と笑う。
ナミはその一つだけを手にとって、膝の上に置き、丁寧に皮をむきながら、サンジに
尋ねる。
「なんで、これ、二つだけ取ったの?」
「あたしは、手当たりしだい、バックに入るだけ取ったのに」
サンジは、ナミの果実を拾って、胡坐をかき、その膝の上で皮を剥き始める。
「ナミさんと一緒に食べたかったから。だから、ナミさんと俺の分だけ」
「酸っぱくても、きっと、ナミさんは食べてくれる気がして」
そして、また小さく「・・・コホッ、コホ・・・」と咳をする。
外はとっぷりと火も暮れ、外からは夜行性の鳥が鳴く、ホ・・・ホ・・・と言う声しか
聞こえてこない。
「ナミさん、先に寝ていいよ。夜更かしはお肌に悪いよ」とサンジは言うが、
「怪我人を差し置いて寝るわけにはいかないわ」とナミは言い返す。
すると、サンジは「じゃ、二時間したら交代しよう。必ず起こすから」と提案してきた。
その言葉に甘えて、ナミは焚き火の側に横になり目を閉じる。
炎に向けている部分は暖かいけれど、背中や肩はやはり寒い。
それでも、いつの間にか寒さも感じなくなり、ナミは心地よく眠りに着いた。
「おはよう」と言われるまで、ぐっすり眠り込んでしまった。
目を覚ますと、もうすっかり夜が明けている。
「・・・もう!なんで起こさな・・・」
ナミの声をサンジは、「し・・・」と唇に指を立てて、止めた。
そして、古びたドアへと警戒の色を濃く滲ませた青い目は向いている。
(・・・何?)とナミは身を屈めてサンジに仔細を尋ねた。
(外に人がいる・・・。どうも、様子が変だ)
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