涙の法則


命の終わりと始まりに、どんな法則があるのか、誰も本当の事は知らない。
命と魂は本当に永遠に輪廻転生を繰り返すのか、そこにはどんな力が働いて、人は、命は、何者に運命を決められるのか、誰も本当の事を理路整然と説明は出来ない。

人は死んで、魂だけになった時、どんな世界に飛んでいくのか、死者の魂になって初めてその世界の秩序がわかる。

* **

ゼフは、自分が死んだ事を知っている。
今、自分が存在している場所が、どんな風に時間が流れて、自分が生きていた世界とどんな風に接しているのか、そんな事は知らない。

ここが天国なのか、地獄なのかもわからない。
氷の塊の様な一面白い岩ばかりが続くところを一人で裸足で歩いている。
周りには人っ子一人いない。いつまでも絶え間なく百夜の様な光が空から降り注いでいて、
寒くもなければ暑くもない。腹も減らないし、疲れもしない。

分かっているのは、この歩く先に行き着けば、「ゼフ」と言う自分がいなくなる、と言う事だけだ。生まれて死ぬまで経験した全ての事を忘れて、真っ白な魂になる。
そして、新たなる命として、この時間の流れが曖昧な世界から、生きて死ぬまでの時間が限られた刹那の世界へと生まれ変わって出て行く。
それは抗う事は出来ない。ここの留まっていたくても、足を止めたくても、止められない。
(その前に…)
何もかも忘れて、何もかもなくなる前に、もう一度だけ。

ゼフは空のように見えるか細い光が降り注ぐ天井を振り仰いで、心の中で懇願する。
誰に願うのか、それも分からないのに、願わずにはいられなかった。

もう決して会えはしないと分かっているのに、別れ際に見た泣き顔が目に焼きついて、未だにそれがこんなに心残りで、このままでは死に切れない。

笑って、別れたかった。笑った顔だけを覚えておきたかった。
豪快に笑って、お前などなんとも思っていない、と言う強がった自分の顔を覚えておいて欲しかった。

最後に一度だけ、その願いを叶えよう。
ただし、決して、その願う相手にお前の正体は知られてはならない。
そして、その時間も満月の月が新月になるまでの間だけ。
もしも、その間に誰であれ、お前の正体を知られたなら、冥界の律にしたがって、その者の魂も存在も、お前と等しく、生者の世界から消えねばならない。それでも、その最後の願いを叶えたいか。

白い氷の岩山から吹く風の中、ゼフの魂はそんな響きを聞いた。

命にはそれぞれ担うべき運命がある。ゼフが生まれ変わる運命にあるのは、そうあるべき時期で、何かなすべき仕事があり、何かしらの意味がある。
誰かが、何かが、ゼフの転生を待っている。けれど、心残りと躊躇いがゼフの転生を邪魔するのなら、その心残りを除かねばならない。

もしも、ゼフの願いを運命を司る何かが何故、聞き入れたのか、その訳を尋ねたら、そんな風に答えたかも知れない。
けれど、浅はかで、ちっぽけな人間の問いになど彼らは答えたりはしない。
生きるのも、死ぬのも、全て彼らの掌の上。

ゼフは目を閉じる。それがゼフの答えになる。心地良い眠りに誘われる様に、意識がなくなった。

* **

(…消毒薬臭エ場所だな)

目を開けると、殺風景な天井が見えた。
体を起こして、辺りを見回す。薄いカーテンで区切られているけれど、側にはいくつもベットが並んでいるようだ。(どうも、病院らしいな)

となると、今際の際で、死に掛けて身動きできない老人の体にでも入ってしまったかと
ゼフは思いながら、ゼフは自分の体を触って、眺め回した。

胸にはぐるぐると包帯が巻かれて、頭にも傷がある。
だが、歳はかなり若い。恐らく、まだ20代だろう。

* **

ここは、海軍の要塞で、ゼフが入り込んだ体は、この海軍の要塞に流れ着いた身元不明の若者だった。歳も名前も誰も知らない。昏睡状態で、もう目が覚めずにそのまま死ぬと思われていたらしく、蘇生したので、軍医も驚いていた。
(…なんだってこんな場所に?)ゼフはこの現状が不思議でならない。

海軍のこんな大要塞の中に、サンジがいるとは思えない。

「…名前は?歳は?」目が覚めた時にはすっかり体は回復していたので、ゼフは軍医から色々聞かれたが、「…知らん。何も覚えてない」と何も答えなかった。
「…身元もわからん、記憶もない、と言う人間を放り出すのも無慈悲な話だな」
「いくらか金が溜まるまで、この要塞で働けばいい」と言う事になった。

鏡を覗き込み、ゼフはこの体と、この体の持ち主の事を考えてみる。
(…よほど恐ろしい目に遭ったのか、…)髪はちらりちらりと金髪が残っている程度で、殆どが白髪になっている。顔立ちは、鼻筋が整っていて、中々の美青年だ。
(…この男は漁師だったな)関節の太い手、鍛えられた二の腕、日に焼けた顔を見てゼフはそう思った。左肩の肉が削げているのは、恐らく、海王類に食い千切られたからだろう。

おそらく、この体の持ち主は、漁をしていて海に落ちた。海王類に襲われて溺れて、自分はもう死んだと思った。体は生き残ったのに、魂が先に命を諦めてしまった。
だから、ゼフがそこに入り込めたのかも知れない。
それとも、ゼフが理不尽な事を願った所為で、この青年は哀れにもそんな運命に見舞われてしまったのか。
いずれにせよ、人間ごときがその真相を知ったところでなんの意味もない。

何も考えず、折角、得た最後の望みを叶える機会なのだ。
ありがたく享受しておくに限る。

「左肩が引き攣って上手く動かせないだろうが、調理場の雑用ぐらいは出来るだろう」
「ちょうど、新入りが一人入ったばかりだが、そう難しい仕事でもないし、賃金は安いけど食事も食べれる。個室ではないが、ちゃんと宿舎も与えられる。何か思い出したら、いつでも私のところに来るといい」と親切な軍医が、願ってもない仕事をゼフに世話してくれた。

(…なんだか、申し訳ねえな)
自分とさして歳の違わない軍医に息子の様に親切にされると、ゼフはどうにも居た堪れなくて、申し訳なくなってくる。
それでも、真新しい海軍のコック用の制服を貰って着替え、教えられた場所へと出向いた。

ちょうど、昼の飯時が終わり、夜の仕込みの真っ最中だった。
下っ端のコック達が、野菜を刻んだり、昼間の食器を洗うのにまだ厨房は色んな騒音でやかましい。

ゼフはぐるりと周りを見回した。海軍の厨房など始めてみる。
サンジがこんな場所にいる筈などないと頭から思っているから、探しもしない。
それよりも、どんな調理器具があって、どんな配置になっているのか、どんな食材をどんな風に扱っているのか、そっちの方に興味をそそられた。

「おい、お前か、雑用の新入りは!」

厨房の扉を半開きにして立っていたゼフに、誰かがそう怒鳴った。
その声に、ゼフの心臓がゼフの理性よりも先にドクっと反応する。

「このクソ忙しいのに、ぼうっと突っ立ってんじゃねえぞ。仕事はいくらでもあるんだ」

ゼフは呆然として、言葉が出ない。
(…お前、こんなところで一体なにやってる…?)

目の前には、自分と同じ服を着たサンジが立っている。
ここにいるのが当たり前のように、海軍のコックの服を着て、偉そうに腕を組み、顔を隠しもせずに堂々と。

「…俺の面に何かついているか」
「…いや…」
ゼフが、マジマジと顔を見た所為で、サンジの顔に警戒の色が浮かんだ。

「…てめえ、俺の顔をどこかで見た事があるか」重ねて、サンジはゼフにそう尋ねた。
「…ない」ゼフは、サンジから目を逸らしてそう答える。

胸の中は、もうそれだけで何か熱いものが膨れ上がっていて、爆発しそうだ。

海賊と言う種の人間が持つ独特の牙を、目の前のサンジは持っている。
バラティエから見送ったあの時には、生えたばかりでまだ小さく、頼りない牙だったのに、今、目の前にいるサンジがもっている牙は、その頃と桁違いに鋭い。

きっと、数々の死闘を乗り越えて、その度にその牙を鋭く研いで来たに違いない。
姿形は何も変っていないのに、眼差しや言葉の底にある雰囲気がまるきり違う。
今、目の前にいるサンジは、剥き出しにはしない様に抑えてはいるけれど、凶暴で、けれども恐ろしく冷静で、底知れない強さをゼフに感じさせる。

従順そうな海軍のコックの服など身に纏ってはいるが、中身はこれ以上望むべくもない程立派に海賊だ。(海軍のコックなんかに成り下がった訳じゃなさそうだ)とゼフはほっ、と安心する。

海賊のコックなどよりもずっと身は安全だが、そんな自分の夢から外れた場所で楽々と生き伸びている姿を見るのは やるせない。

ゼフが自分の正体を知らない、と答えた事で安心したのか、サンジは
「…名前はなんだっけか」と穏やかな表情の仮面を被った。
「知らん。勝手に好きに呼べ」と答えると、「…なんだ、態度のでかい奴だな」と不快そうに顔を顰めた。

サンジとゼフの仕事は、本当に雑用だ。けれども、二人とも手際がいい。
手が開いた分、暇になる訳でもなく、どんどん仕事が増えていく。
お互い、無駄な口は一切利かない。けれど、サンジの立ち働く姿を側で見ていられるだけで、ゼフはもう十分満足出来た。
(…どんな目的でここにいるのか知ったこっちゃねえが…)
サンジの仕事は丁寧で、雑用だからといって、適当に手を抜く、と言う事をしない。
ゼフをズブの素人と思っているから、ゼフの仕事にも細かく目を配っている。
わざと粗相をして見せれば、それを厳しく指摘してくる。そんな悪戯めいた事をするのも、ゼフは楽しかった。

夜の食事が終わって、コック達が全員引き上げてからやっと、ゼフとサンジの仕事が終わる。
数人が同じ部屋で、狭いのに二段ベッドが向かい合わせに三つ並んで設えられていて、サンジとゼフがそこに戻った時には皆、疲れきって眠っていた。
「…こんな狭いところに12人も押し込んでるのか」とゼフは呆れた。
海賊船の中の様に男臭い。
「…明日、俺達が一番早いんだ。さっさと体拭いて寝ろ、新入り」サンジはそう言って、ゼフに一番窓際のベッドを顎で指し示した。
そして、サンジはゼフに指し示したベッドの下に潜り込む。
体は慣れない仕事で疲れていたのだろう、ゼフはベッドに倒れこんでそのまま寝入ってしまった。それから数時間経った時。サンジが起き上がる気配でゼフは目が覚めた。
部屋の中は、何時の間か灯りが落とされて、ほのかにランプが灯っているだけで殆ど真っ暗だ。
その中、サンジは物音一つ立てずに、ドアを開けて外へ出て行く。

(…やっぱり、なんか目的があって潜り込んでやがるみてえだな)
どんな風にサンジがこの要塞を内側から突き崩すのかを見るのが今から楽しみだ。
手助けなど絶対にしない。どれだけ成長したかを、側で黙って、ただ見守るだけだ。
ゼフは後は追わずに音もなく閉まったドアを見つめて、ほくそ笑む。

* **

ゼフが、周りの人間にそれとなく聞けば、麦わらの一味の航海士、「ナミ」と言う女がこの要塞のどこかに囚われているらしい。
正面切って攻め込んでも、人質を取られていては動き辛い。
麦わらの一味がこの要塞に乗り込んでくる前に、彼女を取り返し、安全な場所に確保して置けば、逃げるにしても、報復するにしても、ずっと動きやすくなる。その為にサンジはここに一人で潜入したのだろう。

だが、サンジがこの要塞に雑用として潜り込んで10日程経つと言うが、まだその航海士をどうこうする動きは見せない。

捕虜がどこに囚われいるかくらいはもう調べていて、逃走経路も頭の中ではきっと完璧に組み上がっている。後は、麦わらの一味が戦闘準備を万全に整えて、この要塞にやって来るのを待っている。それまで、その航海士の安否に気を配り、その時になって要塞の中でなんらかの騒ぎが起こるように準備を整えている。今はきっとそんな状態なのだろう。

ゼフが雑用として働き始めて、三日目。
サンジは、「…三日も賄い料理を食ってたんだ。同じ物を作れとは言わねえが、50人前くらいの賄い料理なら作れるだろ。昼食の賄い、作ってみろ」と朝のコック達の賄い料理を作っている最中にゼフにそう言った。
「…わかった」(50人ぐらい、どうって事ねえ)ゼフは素直に頷く。
「…お前、ズブの素人じゃねえだろ。手つきが良すぎる。漁師だったかも知れねえ、って聞いてるが、漁師なんかじゃねえ。料理人だった筈だ」
「…そうかもな。でも、そんなどうでもいい。…で、材料は何を使ってもいいのか」
ゼフはそう答えながら、サンジの表情を伺って見る。
自分なら、こんなに態度がでかい雑用など絶対に許さない。だが、サンジは違った。

「…賄い料理に何を使うか、分かってるだろ」と淡々とした口調で言い返してくるだけで、言葉遣いも態度も詰らない。

ただ、不思議そうな、何かを探るような目でゼフを見ている。
その眼差しの中には、警戒心も敵意もない。

「…お前、俺の良く知ってる奴に雰囲気がそっくりだ」
「俺と大して歳が違わねえのに、そのジイさんみたいな口の利き方…でも、違和感ねえし」
「雑用の癖に偉そうだし、自分がどこの誰かわかんねえ癖にやけに堂々としてやがるし…」
「…変な奴だな。気に食わねえと思うのになんか嫌いにはなれねえし」

そう言って、サンジは初めて、雑用のゼフに向かって笑った。
「…フン」鼻でサンジの言葉を笑いながらも、ゼフもサンジに微笑み返す。
サンジの知らない男の顔だから、サンジは自分がゼフだと知らないから、皮肉にも、お互いが素直になれた。
素顔のまま、あのひげを蓄えた顔のまま、こんな風に向き合って笑い合った事は一度もなかった気がする。
「…俺もそう思う。気に食わねえが、嫌いじゃねえ」
「立派な腕を持ってるのに、鍋一つ洗うのも手を抜かねえお前エがな」
そう言うと、サンジは不思議そうにまた首を少し傾げた。

「…俺はお前の前で大した仕事してねえぞ。なのになんで…」
「手は貸さなくていいぞ。50人ぽっちの賄い料理なんざ、片手でも出来る」
サンジの言葉を遮って、ゼフはすぐに準備に取り掛かった。

すぐに食べれて、腹が膨れて、栄養もある賄い料理。
ゼフは、バラティエで、サンジがよく作っていた料理を作った。
家族とも言うべき、仲間達の為にサンジが作り出した味。
美味い、といつも思っていたのに、一度も褒めなかった味。
敢えて、自分の技は一切使わずに、下準備も、煮込み時間も、スパイスの量も全て、ゼフはサンジの技を、サンジの味を模して、サンジの前に再現して見せる。

サンジはそのゼフの側で、少し間の抜けた顔でポカンとその様子を眺めていた。

大勢の海兵達の胃袋を満たす為に、ちょうど昼を迎えた調理場の中はそれこそ戦場の様に騒がしい。その片隅で、ゼフとサンジだけが、一つの大鍋を前にして静かに向き合っていた。

「…味見するか」そう言ってゼフは一口分だけ盛り付けた小さな皿をサンジに差し出す。「…ああ」サンジは訝しげな顔をしてその皿を受け取る。

そして、それを口に含んだ。
「…」美味い、とも何も言わない。

どうして、こいつがこの味を出せる?なんで、こいつがこの料理を作れる?
驚きと謎だけがサンジの頭をぐるぐる回っているだろう。
どんな言葉を投げてくるのか楽しみで、ゼフはじっとサンジの表情を伺う。

「…お前、バラティエって店、知ってるか?」
「知らん」
「東の海にある、レストランだ」
「行った事もないし、聞いた事もない」

ゼフの答えを聞いて、サンジの表情がますます複雑になってくる。
その表情は、幼い頃、「これに何が入ってるか当ててみろ」と言ってソースを舐めさせて味覚を鍛えていた時の事をゼフに思い出させる。

「…こうやって、作ったらきっと最高に美味い料理になる」
「そう思って作っただけだ」

ゼフがそう言うと、サンジの瞳が大きく揺れた。
サンジには聞き馴染まない声の筈だ。顔立ちも姿もまるきり他人だ。
だが、サンジはまるでゼフにそう言われたかの様な顔をする。
その顔のまま、数秒、じっとゼフの顔を凝視していたが、ふ…と微かに笑い、
「…そうか。そうだよな。お前、あんまりジジイに口調が似てるから、一瞬、あのクソジジイが俺の事褒めた様な気がしちまった」と、言って眼を伏せた。
「あのジジイが俺の事なんか褒める訳ねえのにな」

その言葉を聞いて、ゼフの胸がズン、と重たくなる。
(…そういえば、出会って、別れるまで俺は一体何回コイツの事を褒めただろう…)
サンジの腕を認めてはいた。けれど、一度も褒めた記憶がない。

サンジはゼフが渡した皿を弄ぶ手に目を落として、
「…ジジイはさ…俺の師匠はさ、…最後の最後まで褒めてくれなかった」と静かにそう呟いた。
「…別れ際、風邪引くなよ、なんて言ったんだ。そんな心配をされるより、…なんでもいいから、
料理の事褒めて欲しかった…って、時々思う」

「でも、もしもあの時褒められてたら、俺は自分に慢心して、精進する事をやめてたかも知れない」
「だったら、別れ際にジジイがああ言ったのは、…俺が自分の腕に驕らねえ為だったのかも知れない、結局俺の為だったのかも知れない…なんて都合よく思ったりして」

(…そこまで考える程こっちも深くねえよ、大バカ野郎)
そう言いたい言葉をぐっと飲み込んで、ゼフは黙って鍋から立ち上る湯気に目をやる振りをしてサンジから顔を逸らした。悲しそうに、寂しそうに笑う顔を直視出来ない。
意気地なく、「…お前がそう思うんなら、きっと…そうなんだろう」などと、当たり障りのない言葉しか言えなかった。

(もう十分だ…。もう、いつ、消えてなくなっちまっても、心残りはねえ)
新月の夜まで、あと数日。それまで、後何回こうしてサンジと料理を作れるだろう。

お互いが素直になって、二人で料理を作る。
それは、もう二度と取り戻せないと諦めていた時間だった。
ゼフが生きて、刻んだ時間の中で、その瞬間こそが一番幸せだったと言える。

ゼフの元を去ってから、どれ程の冒険をして来たのか、それもサンジは話さない。
料理人として心を開いてはいても、自分が海賊だと言う事を、サンジはゼフに隠している。
ゼフがゼフだと言う事も、サンジがサンジと言う海賊だという事も、お互い知らない顔をして、向き合っている。無意識に、お互いを傷つけないようにしているからこそ、正体を明かさずにいる。そして、その事をお互いが気づいている。

「…名前くらい、つけてやろうか?」そう言うサンジの言葉を、ゼフは「余計なお世話だ」と跳ね付けた。
この体に入り込んで指を折って数えれば、残り時間はあと二日。
新月の夜が来たら、サンジとは本当に永遠に別れなければならない。

どこの誰とも知らない相手なら、別れてもいずれは忘れられる。
だから、名前など、例えあだ名でも呼ばれなくて良い。お前呼ばわりで十分だ。
掻き消えるように、サンジの目の前から消える。死に際を晒す様な事だけは決してすまい。
そうゼフは覚悟を決めている。

「…ちょっと来い」

コック達の昼食も終わり、夜の仕込みも一段落ついた。
そんな昼下がりに、サンジはゼフをそう言って誘った。
途中、武器庫を通り抜けたり、通気口に潜り込んだり、朽ち掛けて、貝が張り付いた防波堤の上を歩いたり、波で穿った穴を歩いたりして、やけに複雑な道筋を辿る。
そうして、到底誰も来そうにない要塞の外れにある岬の天辺に二人は辿り着いた。

「なんだ、こんなトコへ連れてきて」
「いいか。よく聞け」

何もない岸壁を背にして、先に歩いていたサンジはゼフを振り返った。
眼下には、無数の武装した船が碇を下ろしていて、対岸の崖にはいくつもの砲台が見える。

吹き付ける強い潮風にサンジの髪が乱れた。
「…明日、月が昇る頃、夜になったら何があっても、ここを目指せ」
「雑用を頼まれても、何もしなくていい。どんな騒ぎが起こっても、俺の姿が見えなくなっても、とにかく、お前はここに来て、騒ぎが静まるまでじっとしてろ」

(…明日の夜)ゼフはサンジの言葉を心の中で反芻する。
明日の夜、サンジは動く。月のない、闇が夜空を支配する夜だ。そして、ゼフが消える夜。

「…わかった」
「…へ?」何も言い返す事無く、頷いたゼフにサンジは拍子抜けしたのか、妙な声を出す。
「随分、聞き分けがいいな。何か聞く事はねエのかよ」
そう言って、サンジは煙草をズボンのポケットから出して口に咥えた。

「…聞いてもどうせ何も言わねえだろう。だったら聞くだけ野暮だ」
「…ヘマしねえように、せいぜい気をつけろよ」
「…何?」
ゼフの言葉に、煙草に火を着けようとしていたサンジの手が止まる。

「銃も撃てねえ俺が要塞の中をうろうろしてたら、流れ弾にでも当るかも知れねえからな」
「何も知らなかった方が、後で面倒にもならねえだろうし。色々…ありがとうよ」
お構いなくゼフがそう言うと、サンジはまた何か言いたげな、複雑な表情を浮かべる。

そして、翌日の昼。
ゼフは、サンジと一緒に最後の賄い料理を作った。

野菜を刻む音、鍋が沸き立ってクツクツ…と鳴る音、食器のこすれる音、鮮やかな食材の色、匂い、目に映るもの全てが愛しかった。
一秒一秒を忘れたくないと心に刻む。
あと、数時間もすればこの記憶はどんなに心に残していたいと願っても、全て消えてしまう。そう分かっていても、目に映るもの、耳に染みるサンジの声、二人で作り上げていく料理の香り、五感に感じる全てのものが、ゼフの心に刻まれていく。
こうやって、向かい合って料理を作ったこの数日間の間に、何度こんな風に幸せを噛み締めた事だろう。
明日からは、どんなに願っても、もう二度と会う事は出来ない。
それを知っているから、悲しくて堪らないけれど、思い残す事無く消えていける。
どんな運命のめぐり合わせかはわからないけれど、再びこうして出会えた事で、(…いい人生だった)、そう心から思えた。

「…元気でな」

コック達が食べ散らかした食器を洗っているゼフの背中に、サンジは声を残して消えた。

* **

日が暮れ掛けて、夕焼けの紅が新月の闇夜に飲まれていく頃。
要塞のあちこちでほど、同時刻に火の手が上がった。

要塞の中は、それこそ蜂の巣を突付いたような騒ぎになる。
調理場の中でも、食材倉庫の中から突然何かが爆発し、炎が燃えがあった。

(…あらかじめ、周りに油を配置してやがったな!)
側にいたゼフでさえ、何時の間にそんな細工をしていたのか気付かなかった。
発火した周りには、油、酒などがいつの間にかずらりと並べてあり、それに次々と引火し、調理場も騒然となる。

ゼフは、サンジに予め教えられていた通りの経路を通って、岬へと逃げようとした。
だが、どこもかしこも炎に煽られて逃げ惑う海兵達と、消火するのに懸命になる海兵達で大混乱になっていて、思う様に進めない。

充満する煙と、夥しい人の数と、麦わらの一味からの砲撃を受けた所為か、要塞の中の灯りが消えて視界が悪くなった事で、ゼフはサンジから教えられていた岬への道筋がわからなくなってしまった。

「…なにやってんだ、てめえ!」
通路を激しく行きかう海兵の中、すれ違いざま、一人の海兵がゼフの襟首を乱暴に掴んだ。
その勢いでゼフは尻餅をつきそうになる。バランスを整えて、振り返ると帽子を目深にかぶって、銃を肩に担いだ二人の海兵がゼフを振り返っていた。
「…さっさと逃げろっつっただろ。こっちに来たら、爆発に巻き込まれるぞ!」
「…お前…!」
ゼフは唖然と立ち尽くす。木の葉を隠すなら木の葉の中、と言う事だろう。
サンジは、囚われていた航海士と二人、海兵の中に潜り込んでいた。
「…誰?サンジ君?」
「…仕方ねえ。逸れないようについて来い。これだけ火が回っちまったら、通気口なんてもう通れねえ」
怪訝な顔をする航海士に答えずに、ゼフにそう言って、サンジは先に立って走り出す。

「…麦わらの船が湾内に入ってきた!白兵戦になるぞ!」
その命令に乗じて、サンジと航海士、そしてゼフは一隻の船に乗り込んだ。

漕ぎ出し、要塞から離れた機を見計らって、「…ナミさん、悪イけど、援護頼む」と言って立ち上がった。そして、屈んだままのゼフを見下ろす。
「おい、雑用。てめえは流れ弾にあたらねえように、物陰に隠れてろ」
「…嫌なこった」
そう言って、ゼフも立ち上がった。

サンジの前で死に際は晒さない、と決めていた覚悟がその時は頭から消えている。
海賊だった頃の血が騒いだ。
自分の体ではないけれど、この体は若い。そして、両足がある。
ニヤリと笑ったゼフの顔は、きっと善良な漁師あがりの青年の顔ではなかったのだろう。
サンジは目を大きく見開いて、ゼフの顔を見つめている。

「…呆けた面してねえで、さっさと動け、アホウ」
そう言って、ゼフはくるりとサンジに背を向けた。

その勢いのまま、目の前にいた海兵の一人を海の中に蹴り落とす。
反対側でも、水音が上がった。
「海賊だ!コックのサンジだ!」と海兵達が騒ぎ出す。

「撃て!」と命じる指揮官らしい男の腹を、
「この狭い船の中で、しかもこんな暗い中で撃ち合ったら、味方にも当たるだろうが、」とゼフは蹴っ飛ばした。砲弾が着弾していく海面にその指揮官は吹っ飛んでいき、大きな水柱を立てた。

「…なんだよ、お前!」サンジはゼフに向かってそう怒鳴った。
「よそ見するな、ボケナス!全員蹴り落とすまで油断するんじゃねえ!」

競い合うように、二人は次々と海兵達を海に蹴り落としていった。
月が昇る時刻まで、あとどのくらいだろう。
ふと、ゼフの頭にそんな事が過ぎった。

麦わらの一味の船に接近し、そして、航海士のナミが長く伸ばされた船長のルフィの腕に縋って引き上げられる。
サンジも、自分の乗るべき船に帰る時が来た。

「…お前も来いよ。ここには残れねえだろ」
そう言ってサンジはゼフに手を差し出す。
「…お前の船にコックは二人も多すぎるだろう」

二人とも、…危ない!

航海士の悲鳴の様な声が遠く、ゼフに聞こえた。
鳴り響いた銃声がやけに尾を引いている。
背中を何か、熱くて硬いもので殴られた衝撃を感じた。

新月の夜の筈なのに、薄い雲に覆われた夜空に透けて見える満月が浮かんでいるのが見えた。

仮初めに宿った体から温もりが零れて、鉄の匂いが周りに立ち込める。
痛みも、苦しみも全く感じなかった。

(ああ…時間が来たか…)

こんな別れ方をしたら、きっとまた心に傷を残してしまう。
それがゼフは悲しくて、サンジに詫びたいと思った。

サンジの口がしきりに何かを言っているのに、何を言っているのか全く聞こえない。
目に映っているのに、少しづつ世界が隔たって行くのが分かった。

泣くな、とたった一言だけでいい。そう言いたいのにもう声が出ない。
その気持ちを篭めて、サンジの手を握り返すのが精一杯だった。

サンジの涙の雫の温かさを、握り合う掌に感じる。

何も残せないのに、幸せと温もりと大切だった日々の思い出がその一滴一滴に篭っていて、それに魂が包まれていく気がした。
いつまでも握っていたいのに、力がどこかへ流れていくように消えていく。

この手を離せば、もうサンジの事を思い出すことはない。

(…ああ、また…)
最後に笑いたい。笑って別れたい。
そう願っての再会だったのに、涙でサンジの顔が曇って見える。
それでも、サンジの目からバラティエを去ったあの日の様に、涙が止め処なく溢れているのが目に映る。

(逞しくなったと思ったのに…)
その姿を見れただけで、もう何もいらないと思ったはずなのに、
こんな泣き顔を見てしまったら、また心配になる。

言い残したい言葉がたくさんあるのに、これが本当に最期で、もう二度と会えなくなるのに、ゼフにはその言葉を何一ついえない。
言えば、サンジに正体を悟られる。そうなれば、サンジの命を奪う事になる。

(…俺とこいつは…こういう運命なのか…)
何度生まれ変わって、何度出会っても、別れる度に、ゼフはサンジに涙と悲しみしか残せない。自分はサンジから、数え切れない程の幸せを与えられたと言うのに。

喧嘩して、罵り合って、いがみ合って、でも、心は通っていた。
誰よりも、何よりも、自分の命よりもサンジが大切だった。
サンジと過ごした優しさと温もりに包まれていた日々は二度と取り戻せない。

「…お前の料理は…本当に…世界一美味い」
そんな言葉で、全てが許されて、全てが伝わるとは思えない。
「…いつかまた…腹一杯食わせてくれ…」

別れの言葉も言いたくなかった。
我侭でも、叶わぬ願望でも、何度サンジを泣き顔させても、どんな形であっても、サンジと出会いたい。自分の体ではなくても、涙が流れて頬を伝った。

その雫の温もりすら、ゼフにはもう感じられなかった。
感じるのは、サンジの手の温もりだけだ。
「…きっとまた、会える。早く…行け」

我からゆっくりと手を解く。サンジの温もりだけがゼフの掌に残った。
振り返り振り返り、ゼフを残して行くサンジの頬に伝う雫がやけに美しく見えた。

うっすらとしか開けないゼフの目と、サンジの目が合う。
「…ジジイなのか…?」
そう問い掛けた眼差しを振り切って、ゼフは目を閉じる。

また、会える。きっと、何度も何度も。

そうサンジに言い聞かせるように心の中で呟き、ゼフの魂は、二度と目覚める事のない、
深い深い眠りに落ちた。

終わり


最期まで読んで下って有難うございました。
このSSは、最近仕入れた曲「マタアイマショウ」を聞いて、どうしても書きたくなって
書いたネタでした。


こういうゼフとサンジのネタを書くのは大好きです。

戻る