感触




「…まだ、本調子じゃねえんだろ」

夜の暗さが、夜明けの赤に溶けていく風景の中、舳先の方へ向いて
煙草をふかしている背中に向って、ゾロはそう声をかけた。

「…誰がだよ」
前を向いたままでゾロの方に見向きもせずにサンジは答える。
その肩に、ゾロは見張り台の上から盛って降りてきた防寒用の布をそっとかけた。

数え切れない試練と、たくさんの戸惑いを乗り越えて、二人は今、
お互いが一番よく見えるこの場所に立っている。

サンジは、この前立ち寄った島で流行っていた病に感染した。
発熱と下痢、嘔吐の症状が出たのは、その島を出て二週間も過ぎてからだった。

仲間は誰も発症しなかったのに、サンジだけが発症したのは、
「サンジだけが感染したのは、免疫がなかったからだよ」とチョッパーは言った。

ただ、同じ船に乗る仲間だった頃は、サンジの生命力の強さを信じきって、
どれだけ傷つこうと、どれだけ血まみれになっていようと、
目の前からいなくなる事など、考えた事もなかった。

だが、今日のこの朝を迎えるまでに過ぎていった時間の中で、
二人が、誰にも断ち切れないほど強く固い絆を築き上げて来た時間の中で、
ゾロは、サンジが傷つき、命の火が掻き消えてしまいそうになる瞬間を何度も見てきた。

大切だと言う想いは、失いたくないと言う想いに育ち、そしてまた、
失いたくないからこそ、大切にしたい、どんな痛みや苦しみからも守りたい、と言う
想いにまで育った。

そんな想いがいつもゾロの胸の中にある。
愛しく、かけがえがないと思えば、それが何よりも美しいと人は感じる。

今のゾロの目には、朝焼けの中に立っているサンジの姿が世界を染める薄紅に
溶けてしまいそうで、それでも、世の中の何よりも美しく見える。

「朝飯を作る為に早起きしたんだろうが、そんな薄着で甲板に突っ立ってたら体が冷えるぜ」
サンジは羽織った防寒布の前をそっとあわせて、
「心配し過ぎなんだよ、お前は」とゾロの言葉を笑った。





「心配させ過ぎるんだ、お前が」サンジの言葉をなぞって、ゾロも微笑む。

もう一時間と待たず、仲間達が起き出して、船がまた動き始める。

それまでのほんの僅かな二人きりの時間を、大切にする。
言葉にしなくても、そんな思いを今の二人は、分かり合えた。

自分の温もりを分け与え、そして相手の温もりを強請るように
どちらからともなくそっと歩み寄り、体を寄せ合った。

***

その日の昼過ぎ。
サンジが作った昼食を食べ終わり、順調に船は指針の示す航路を進んでいた。

「…おい、前方、右15時の方向になんか漂流物がある!」
見張り台の上のウソップがそう叫んだ。

「漂流物?そりゃ、なんだ?!」
ゾロは下から大声でそう尋ねた。
「なんだ!何があるんだ!難破船か!?」とルフィは早速舳先のフィギアヘッドへと駆けて行く。

「小さな船だ…避難用のボートだ、きっと」

双眼鏡を覗きながら、ウソップはそう答えた。

* **

「ありがとうございます。本当になんてお礼を言ったらいいか…」

何日も漂流していたらしく、老人はサンジが作ったスープを美味そうに飲み干した後、
やっとルフィに向かって頭を下げた。

「見たところ、貨物船か商船の残骸って感じだけど…他の人達は?」
「二日前の嵐で転覆して…。同じボートに乗り合わせて逃げたんで…」
他の者の安否はわからない、とナミの質問に、老人は力なくそう答えてうな垂れた。

助けたのは、年の頃70歳ぐらいの老人と、20歳を少し過ぎたくらいの青年が一人、
10歳前後の少年が一人。

「ところで、船長さんに頼みがあるんじゃが…」と、おずおずと老人はルフィを
上目遣いに見る。
「なんだ?」
「この船は、どこに向ってるんだね?」
「この船か?どこって別に目的地はねえよ。ログホースが示す方に進んでるだけだ」
「そうですか。じゃあ…」

老人は、ボロボロ担っている粗末な上着の内ポケットから、永久指針を取り出し、
テーブルの上に置いた。
それを合図に、数杯目のスープを飲んでいた男が、一度、食器から顔を上げ、
いずまいを正す。

「この永久指針が指す島にワシらを送ってくれんだろうか…?」
「ん〜」

ルフィは、テーブルの上に置かれた永久指針を手に取り、考えあぐねるように
口を尖らせた。

(なんか、胡散臭エ)
ゾロはそう感じる。
(他の奴等はどう思ってるんだ…?)と気になって、ラウンジの中、
テーブルを囲んで遭難していた三人を見ている仲間の表情を伺ってみた。

ロビンは、いつもどおりの一見穏やかな表情を浮かべているが、きっと内心は
ゾロと同じ様な事を考え、警戒しているに違いない。

ウソップはなんとなく気の毒がっているように見える。
ナミは恐らく、胡散臭いとは思っているだろうが、何か得する事があるなら、
きっと、彼らの望みを受け入れるだろう。

チョッパーは、老人と子供の健康状態が気になっているだろうし、なんとなく
胡散臭いから彼らが何者かを疑う、などと言う言う事は全く頭にないに違いない。

(あいつは…)とゾロは最後にサンジに目をやった。
そのゾロの目とサンジの目が合う。
恐らくサンジも、ゾロ同様、仲間の心境を推し量っていたのだろう。

(ちょっと、腹の中探ってみるか、)とゾロにサンジは目だけでそう言い、
「俺達は、俺達の行きたい場所へ行く。爺さん達は、そこから自力で帰るってのはどうだ」とわざと素っ気無い口調を装って老人にそう提案して見た。

ところが、老人は身を乗り出し、
「島には、病身の妻がおります。一刻も早く帰って安心させてやりたい」
「ワシが乗っている船が遭難したって事が知れたら、それだけで死んでしまう」と
サンジにではなく、ルフィにそう懇願した。

「俺もです。俺にも、もうすぐ子供が生まれる妻が島で待ってるんだ」
若い男がそう言って立ち上がって言い募るのを、
「あんた達、普段なにやってる?やけに日焼けしてるじゃねえか」
「まるで海賊か、海兵みたいだ」とサンジが遮った。

「海賊?とんでもない、ワシは長年漁師をしておったから日焼けしとるんだ」
「俺は貨物船の船乗りだ。オールを漕ぐ事と荷運びしか出来ねえけど…」
二人は大慌てでサンジの疑いを否定する。

「病気の奥さんがいるなら、早く帰してあげたいよ、俺は」
チョッパーがサンジやロビンの思惑に全く気がつかずに、漁師だったと言う老人と、
船乗りだという若者の肩を持つ。
だが、ルフィは「う〜ん」と腕を組んでまた唸った。

「麦わらの船長さん、わしらを疑っとるのか?わしら、海賊でも海兵でもない」
「礼なんて、殆ど何も出来ないけど…、とにかく家族に早く無事を知らせたいだけなんだ!」
老人と若者は、必死にルフィにまるで拝むようにして頼み込む。
その言葉の真っ最中に、ルフィは
「お前らの島って、なんか面白エ事、あるか?」と、あっけらかんと尋ねた。
「面白い事…?」

呆気に取られたのか、鸚鵡返しに聞き返したきり、老人と若者の言葉が途切れる。

「だってよお。何か面白エ事がないのに、寄り道はしたくねえもん」
「冒険出来るジャングルがあるとか、財宝が眠ってる山があるとか、見たこともない様な
珍しい動物がウジャウジャいるとかよお」

「あるよ」

助けられてから、まるで感情を表に出さないように躾けられたのかと思うくらいに
無表情だった少年が初めて口を開いた。

「お、なんだ、おめえちゃんと話せるのか」
「俺は、てっきり嵐が怖くて言葉忘れちゃったのかと思ってた、」
少年の声を聞いて、ルフィはアハハハ、喋れてよかったなあ、と朗らかに笑う。

「なんか面白エ場所があるって?」
椅子に腰掛けていた少年の視線まで自分の視線を降ろして、ルフィがそう尋ねと、
少年は頷き、
「虹の入り江って言うのがある。世界中どこの海より綺麗な場所だよ」
「伝説のオールブルーって言う海だって、もし、その海が本当にあったとしても、
虹の入り江には絶対敵わない」

オールブルー、と言う言葉を聞いて、サンジの顔が僅かに変わった。
彼らへの疑いが濃くなったか様にゾロには見える。

「ただの綺麗な入り江なのか?」
「虹色のヤドカリがたくさんいるんだ。海の底びっしり覆うくらいに」
「そこに、朝陽が射したら、海全部が虹色にキラキラ光って見えるんだ」
「おいら達…いや、僕達を連れて帰ってくれたら、おいら…いや僕が、
麦わらの船長さんをその入り江に連れてってあげる」
「ホントだな。よし、じゃあ、行くか!」
そのルフィの言葉で、麦わらの一味を乗せた船の進路が決まる。

だが、やはり、それは麦わらのルフィとその仲間達を陥れる為に、巧妙に仕掛けられた罠だった。


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