背を丸め、サンジは完全に亀の様に体を丸めて、地面に突っ伏した。
そんな不格好なサンジの姿にゾロは思わず息を飲む。
嫌な汗が全身に噴出してくる。
しかし、それとは比べ物にならないほどサンジの体には脂汗が浮き上がっているに違いない。
額を床に押し付けた、その額から頬へと幾筋か汗が伝って流れていくのに、
今のゾロにはただそれを見ている事しか出来ず、拭う事すら出来ない。
不格好でも、その姿勢をとったのは、どうにか痛みを堪え、意識を保とうと抗う為だろう。
サンジの細い喉が小さくゴクン、と音を立てた。
それから、固く、ギュ、と閉じられていた瞼も僅かに、震える様に動く。
「…し…」何かを言おうとして、痛みに挫けた様にサンジはまた顔をゆがめる。
咄嗟に、ゾロはその言いかけた言葉を聞き返すことを忘れた。
意識がおぼろげでも戻っている事に固唾を呑む。
体のどこを負傷しているのか、どんな状態なのか。
一秒でも早くその事だけを知りたい。例え、何も出来なくても、意識があるなら、
サンジと言葉が交わせる。
そう思うのに、口から出るのは同じ言葉ばかりで、その事にもゾロは焦れた。
だが、どうしようもない。
「…どこを撃たれたんだ!撃たれたところ見せろ、しっかり話せ!」
ゾロの懸命な声に、少しは気力を奮い起こせたのか、サンジの唇が微かに動く。
「…し…しくじった…。せ…折角、…」
「…刀…、もう少しで…。取り返せたのに…」
その言葉は、薄く、荒い呼吸に掻き消されてしまいそうにか細かった。
「そんなのは、どうにだってなる!今はお前の事を聞いてんだ!」
優しい声音で労わるように聞ける余裕などある訳がない。
ゾロは思わず喧嘩をしている時の様な、乱暴な怒鳴り声を上げてしまった。
その怒鳴り声の振動が辛かったのか、ビク、と小さくサンジの体が戦慄く。
「撃たれたのは、肩と腹か?」
「何発食らったんだ!?」
ゾロがそう尋ねると、サンジはようやくうっすらと目を開けてゾロの方へと視線を向けた。
そして、ゆるゆると頭を振る。
その間も、サンジの表情から苦痛の色は薄れもしなかった。
痛い、と言う事をゾロに隠さない。強がりもしない。
(…こいつがこんな…。弱り目を俺に晒すなんて…)と、ゾロの頭の中が真っ白になる。
サンジが頭を振ったその意味を考えるよりも、その事がゾロにとっては衝撃だった。
「…腹には…食らってねえ…。で…でも、腹中がガチガチに硬くなって…」
その一言だけを言うと、サンジはまた額を床に押し付ける。
そうして、雪の中に放り込まれたかのように、寒そうに体を震わせた。
「腹中がガチガチに硬い…?」
そう言われても、ゾロには一体、なんの事か分からない。
とにかく、腹には銃弾を撃ちこまれていない事だけは分かった。
「じゃ…腹が痛エのは、怪我じゃねえってのか?」と、ゾロがそう尋ねると、サンジは
僅かに頭を縦に動かして「そうだ、」と答える。
(…なんだ、それじゃだたの腹痛…)と、一瞬、頭に過ぎって張り詰めていた気が緩む。
が、それは本当に一瞬だった。
「…痛っえ…」サンジの喉から悲鳴が上がり、突然、サンジは丸めていた体を仰け反らせた。
そして、「ウ…うああっ…」悲痛な声を上げる。
サンジは今、腹を何かで串刺しにされて苦痛に悶えている。
それも、何度も何度も。
サンジの腹を抜いては刺し、貫いて、また抜き、再び刺し貫き、そのまま腸を切り裂いている
刃、目には見えないけれど、その刃の存在をゾロは目の前の有様を見て、はっきりと感じ取った。
(ただの腹痛なんかじゃねえ、)そう分かった時、ゾロの全身にゾっと寒気が走る。
命に関わる重篤な状況に違いない。
見得も意地もあのサンジから奪ってしまうほどの刃だ。
きっと、チョッパーが戻ってくるのを待っていては、手遅れになる。
ゾロは直感でそう思った。
思った途端、「誰か!来てくれ!」と、牢の外へ向って助けを呼んでいた。
何度何度も怒鳴って、ようやく、一人の男が「なんだ、ロロノア。小便か」と迷惑そうに
やってきた。
「小便なら垂れ流してろ」と言う男に、ゾロは食い下がる。
形振りなど構っていられない。何を言われても、自分達を捕らえている敵だと分かっていても、
助けを求められる相手が彼らしかいないのなら、縋るしかない。
「違う、そうじゃねえ。仲間の様子がおかしい」
「船医がいるなら、診てやってくれ」
「仲間の様子?」ゾロの言葉に、男は牢の中を覗き見る。
「ああ、…コックのサンジか」しばし、サンジの様子を観察していたが、
「…あいつはダメだな、船医に見せるだけ無駄だ」と淡々とそう言った。
「ありゃ、悪い病気に罹って腹ン中が腐っていってんだよ」
「俺達の仲間でもああやって、腹抱えて悶え死んだヤツ、たくさんいるからな」
「それに、俺達の船医は怪我専門で、腹の中が腐る病の治療なんて知っちゃいねえよ」
「可哀想だが、ここでその病に取り付かれたのが、そのコックの運の尽きさ」
それだけ言って、引き返していこうとする男をゾロは、吼えるような声で
「おい、待て!」と引き止める。
鎖で全身を緊縛されていても、ゾロにそんな声を出されると並みの人間は竦み、
怯える。男も、例に漏れず、まるで殺される直前の様な顔で振り返った。
「…それだけか?てめえは…こいつを見殺しにするって言うんだな…?」
「この牢屋から出た時、まず最初にてめえの首、叩っ斬ってやるから覚えとけ…!」
「…へ…へへ」ゾロの威嚇に一旦は怯えながら、男はよくよくゾロの鎖で拘束された姿を見て
冷静を取り戻したのだろう、馬鹿にした様に、ゾロの言葉を鼻で笑った。
「大剣豪様はおっかないなア。…へへへ…」
「そんな鎖でぐるぐる巻きにされても、まだ俺達に勝てる気でいらっしゃる」
「今、俺がこの灯りの」そう言って男は手に持っているカンテラを少し高くかざして見せ、
そして、「この灯りの油を、お前サンの頭にぶっかけて、火を着けても何も出来やしない」
「火達磨になって死ぬだけだ。それなのに、そんな偉そうな事言っていいのかねエ?」と言い、
ゾロを嘲る様にニタニタと笑った。
「生きてお前サン達を世界政府に突き出すって条件だが、勝手に病で死んでいくのを
助けてやる義理まではないね」
「仲間が悶えて死んでいくのを見るのが辛いって言うなら、トドメを刺してやる事くらいは
してやるよ」
「その決心がついたら、もう一度呼びな」
そう言うと、男はさも可笑しそうに高笑いをし、牢から遠ざかっていく。
再び、闇と静けさと、サンジと二人きりの空間に取り残された時、ゾロの胸の中は
後悔の渦で埋め尽くされていた。
(俺が…最初にこいつが来た時、すぐにここを出てれば…)
今になってどんなに後悔しても遅い事は分かっている。
後悔しても、どうにもならない事も分かっている。
後悔する事そのものが、愚かだと言う事も、ゾロは知っている。
けれど、だからと言って、胸中に吹き上げ渦巻く後悔をどうする事も出来ない。
「おい、…サンジ…サンジ。しっかりしろ、すぐにチョッパーが戻ってくる!」
その後悔に押し潰されたくなくて、ゾロはサンジを呼んだ。
そのゾロの声はサンジの耳に届いているのか、確かめる術もない。
時を追うごとに、呼吸は浅く、か細く、切迫して、突然、止まってしまいそうだ。
「…クソ…こんなトコで…死にたく…ねえ」そうサンジが呻いた。
顔色は月明かりでも分かるほど真っ青だが、きっと、とんでもない高熱も出ているだろう。
どれほど痛いか、どれほど苦しいか、どれほど辛いか、
見ているだけでこんなに伝わってくるのに、でも見ているだけではその苦痛を和らげる事は
何一つ出来ない。
この両腕を縛る鎖さえなければ、せめて壁と自分を繋ぐ鎖がもうほんの僅か長ければ、
硬い、と言っていた腹を摩る事も出来た。
そこに触れて痛いなら、せめて肩の銃創から流れる血を止める為に縛ってやる事ぐらいは
出来た。
ゾロの指にも、手にも、掌にも、サンジの頬や髪に触れた時の感触の記憶が刻み込まれているのに、
今はそれを思い出す事が却って辛い。
例え両腕を縛られたままでも、痛みと苦しさにサンジが挫けてしまわない様に、
高熱を孕んで蒼ざめる頬に触れ、耳元で励ましてやれたら、と思うのに、
歩けばたった二歩ほどの距離が恐ろしく遠い。
サンジの強張っいた体から突然、力が失せた。
目はうっすらと開いたままなのに、虚ろで何も見ていない。
「サンジ!」と必死に呼んでも、細い肩先や足枷が嵌った足が勝手にガクッ、ガクッと壊れたからくり人形のように痙攣するばかりで返事も反応もない。
「俺達の仲間でもああやって、腹抱えて悶え死んだヤツ、たくさんいるからな」
さっきの男の言葉がゾロの頭の中で木霊する。
(…死んだヤツ…)男の言葉を自分の声で心の中で反芻した。
もう何も考えられない。押し寄せてくるのは、後悔ではなく、恐怖だった。
この病で、人は死ぬのか
そんなに簡単に人は死ぬのか
くいながあんな風に死んだみたいに
あまりにあっけなく、儚く人は死ぬ。
こいつも たかが腹痛ぐらいで俺の目の前で、死んでいくのか
(それも…俺の所為で…!)
もうこれ以上、恐怖と後悔とを抱えていられず、
「…誰でもいい…!こいつを…助けてくれ…!」と我知らずそんな言葉が口から漏れるけれど、
そんな事出来ない事が尚更、ゾロは辛かった。
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