牢屋を破って、ゾロはサンジを背負って走った。

抱き上げて走るよりもずっと早く走れるし、あれだけ腹の中が硬いのに、体を折り曲げたらきっと苦しさは増す筈だ。そう思って背負ったけれど、どうしても上手く背負えない。
サンジの意識は混濁していて、ゾロの背中に取り縋る力がないからだ。

ゾロは一度立ち止まり、腕に巻いた手ぬぐいを解き、サンジの両手首に結わえた。

(…どこへ運べばいい…)ゾロは数秒考え、また駆け出す。
この巨大な樹をくり貫いた砦の中、走り回ってチョッパーを探しても、すぐにサンジの手当てが出来る場所があるかどうかはわからない。
(まずは、すぐに手当てできる場所に…!)
「タワシ、」上手く言葉が出てこないゾロの意を汲んで、タワシは頷き、
「うん、薬のある、清潔なところだよね。こっちだよ!」と先に立って走り出した。

確かに、さっきの静寂と違って、すぐ側で大勢の人間の騒ぐ声が聞こえる。
きっと、ルフィ達がこの砦の中で騒動を起こしているのだろう。

(どうやって、チョッパーに知らせればいい?)
ゾロの頭はめまぐるしく動く。

サンジの膝裏から片腕を回して背負った体を支え、その手で「和道一文字」の鯉口を切った。そして、もう片方の手の指、人差し指の腹を刃に添わせる。

プツ、と皮膚と血管が切れる感触がし、すぐにその傷口から血が流れ出す。
ゾロは走りながら、所々の壁にその血を擦りつけた。
(これなら、匂いを辿るよりもずっと濃い道しるべになる、)

それに、この尋常でないやり様なら、ゾロがなにを伝えようとしているかも、
この方法ならきっとチョッパーは悟ってくれる。

「ここだよ!」とタワシが扉を開けた部屋の中に、ゾロは飛び込んだ。
入っただけで、ツンと消毒薬の匂いがする。

すぐに怪我人の治療などが出来る様にしてあるのか、その部屋の中は火気を嫌って
最小限の光源しかない廊下と違って、随分と明るかった。

怪我人を休ませる為の寝台などはなく、ただ治療する為だけのシーツもなにも掛かっていない、ただの台があるだけのとても狭い部屋だ。
大人が三人も入れば立っている事ぐらいしか出来ない。その代わり、医療器具や薬品棚も
全て、その台の側にあり、手を伸ばせばなんでも届く場所に整理されてある。

ゾロはゆっくりとサンジを、たくさんの血が染み付いた薄汚い台の上に横たえた。
苦痛に歪んだまま瞼を閉じているサンジの顔を見て、
(…俺は、これ以上の事を何もしてやれねえのか…!)
己に無力さが悔しくてゾロは唇を噛む。

ゾロが出来るのは、サンジの気力が尽きないように心の底から声を振り絞って
励ます事だけだ。
両手でしっかりとサンジの固く強張った掌を握りこむ。
狂ったような鼓動、体の熱さ、苦しみがその掌から伝わって来た。

「しっかりしろ!もうすぐチョッパーが来る!」と怒鳴ったゾロの声にサンジは
また朧げに意識を取り戻した。僅かにゾロへと顔を傾ける。
「…こ…ここは…?」熱に魘され、焦点の合わない目をしてサンジはそうゾロに尋ねた。

「船医のいる部屋だ。ここなら、すぐに腹の痛みを治せる。たくさん薬もある」
「チョッパーが来るまで、もう少しの辛抱だ」

そう言うと、その言葉を信じると言う意思表示なのか、サンジは深く、大きく、頷いた。
何か言いたげにすっかりかさついてしまった唇が動く。
「…なんだ」ゾロはその微かな声を聞こうと耳をその唇に近づけた。

「…まだ、…タワシと…した…約束が…果たせて…ねえ」
「か、…刀と…チョッパーの…道具…俺が…取り…か、…返しに行かねえと…」
それだけを言うと、サンジの薄く開いていた目から光が掻き消えた。
何度取り戻しても、サンジの意識は、すぐに激痛と時を追って悪化する腹の中の病に
奪われてしまう。
そんな生死すら危ぶまれるかも知れない状態なのに、サンジはまだタワシとゾロの間に
交わされた約束の事を気にしている。
そもそも、その約束の所為でこんな状況に陥ってしまったと言うのに、
そんな事をサンジは一切、恨んだりはしていない。
(…こいつ、そんな事ずっと気に病んでんのかっ…!自分がこんな状態なのに…)
それが却って、ゾロの胸を抉った。

声をかけて手を握り、励ます事しか出来なくても、それでサンジが少しでも気力を保ってくれたらいい。そう願って、ゾロは必死にサンジに呼びかけ続ける。

チョッパーが来るまでの時間が恐ろしく長く感じた。

やがて、遠くに聞こえていた騒ぎが静まる。
どのくらいの時間が経ったか、サンジを部屋に運んでからおそらく30分も経っていないだろうけれど、チョッパーを待つ時間は、ゾロにとって恐ろしく長かった。
側にいるタワシよりも、きっとゾロの方が長い時間を待ったような気がしていただろう。

廊下の外から足音が近付いてきて、ゾロはハっと顔を上げる。
カッカッカッ…と言う蹄の音と、カツカツカツ…と、硬い靴裏で忙しく走る、
聞きなれた二つの足音だった。

「ゾロ!」
「ゾロ、サンジ君は?!」

ドアが乱暴に開かれ、チョッパーとナミが飛び込んでくる。

***

チョッパーは、すぐにタワシから荷物を受け取り、獣型から人型に変身し、
サンジに駆け寄った。
それから、ものの言わずにサンジの体を診始める。

「ナミ、なんで…」
確かに、確実にここに辿り着いて欲しいと血の跡を残したが、サンジがこんな状態になっているなどと、何故二人が知っているのかそれがわからず、ゾロは思わずナミに
そう尋ねた。
ナミは手早く、手を消毒しながら「牢番の人からサンジ君の事聞いたの」
「詳しい事情は後で話すわ」と口早にそう答える。

いつの間にか、しっかりと握っていたサンジの手は離れ、目の前にはナミの背中があった。
サンジの顔はナミの背中越しにしか見えない。

「サンジ君、聞こえる?!」
「もう大丈夫だから!」そう言ってナミはサンジの頬を少し強くピタピタと叩く。

その間チョッパーは、何かの注射をサンジの腰当りに打つ準備をしながら、
「ゾロ、ここは俺とナミだけでいい」
「もうすぐ、ルフィもここに来ると思うから、外で待っててくれ」とゾロを見ずに
そう言った。

「…俺もここにいる」
「こいつがこんな事になったのは、俺の所為だ。だから…」

「あんたがいても、何も出来ないじゃない」
ゾロの言葉をナミがどこか切迫した口調で遮った。
チョッパーとナミの動きに緊迫が漂っている。

それだけで、やはりサンジの状態は相当悪いのだと分かる。

「タワシと同じ病気だよ」
「ちょっと、…症状が進んでるだけだ」
「すぐに治せるよな?」
チョッパーの言葉が何故か、ただの気休めに聞こえて、今度はゾロがチョッパーの言葉を
遮ってしまう。

「…すぐには治せない」抑揚のない声でチョッパーはそう言った。
余程サンジの容態は悪いのか、視線を一度も向けてもくれず、ゾロへの気遣いは一切ない。
だが、サンジにはいつもと同じ、穏やかに、優しく
「サンジ、」と声をかけている。

「少し、痛みがマシになってきただろ?」
「ちょっとくたびれただろ?眠くなったら、寝ててもいいからね」
「ゾロにここにいて欲しいか?」

チョッパーのその声にサンジはどう反応するのか。
側にいたい、と言う気持ちと側にいて欲しい、と言う気持ちが重なって欲しい。
痛みをとることも、熱を下げる事も出来なくても、側にいるだけで力になれる。
お互い、そんな存在だと思い合っていると信じて来た。
きっと、側にいて自分が見守っていると分かれば、それだけきっとサンジは
心強く思ってくれるだろう。

窮地だからこそ、ゾロを求めてくれるだろう。

ゾロはサンジがそう答えると思いつつも、固唾を呑んで待った。

「サンジ…。わかるか?」
明瞭でない意識のサンジにチョッパーはもう一度尋ねる。

生命力を振り絞る為に、必要だとサンジ自身がそう思うなら、
ゾロはサンジの側にいるべきだ。きっと、チョッパーもそう思っている。
だから繰り返し尋ねているに違いない。

「ゾロに側にいて欲しいか?」

もう一度尋ねたチョッパーの声に、サンジはゆるゆると首を振った。
いや、いい…、と唇だけが動く。

もうサンジには声を出す力すらない。そんな風にゾロの目に映つり、同時に
決して切れないと信じていた確かな絆がプツリと音を立てて切られた気がした。

(…何もかもが俺の独り善がりだったのか)

そんな落胆に胸が塞がる。

「ゾロ…。タワシと一緒に外で待っててちょうだい」

ナミの言葉に、何も言い返す気になれない。
ゾロはタワシに手首をそっと握られ、廊下に連れ出されてしまう。

「大丈夫だよ、だって、俺の病気もトナカイの先生治してくれたもん」
「きっと、サンジの兄ちゃんだってすぐに治してくれるよ!」
そんな言葉も、今のゾロの耳には入らない。
(…あいつに…俺は…)拒絶された。

本当に力が必要な時は、これからだと思ったのに。
いつでも、苦しい時ほど、サンジは自分を求めると信じ切っていたのに、その想いは
一方通行の独り善がりだと思い知った。

その事に、今度はゾロの心が傷ついていた。

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