それは、ただ、サンジの体を濡らしただけに過ぎない。
たったそれだけの、 ほんの僅かな時間その肉体に触れただけだ。

だが、ただの水に成り下がる直前、最期の悪足掻きをする様に、
サンジの体から生命の力を奪い取れるだけ、奪い取った。

***

サンジほどの男が、大量の水を被っただけでは気を失うはずがない。
それなのに、サンジは倒れ、目を閉じたまま、動かない。

「コックさん…?!」
ロビンは無我夢中でサンジを抱き上げた。
その途端、心臓が深く、大きく、澱んだ鼓動を打つ。

精も根も尽き果てたような青ざめた顔が、
一切の力が抜けた手首の細い白い腕が、
腕に掛かる小さな向日葵色の頭の重さが、
無防備に開く蒼ざめた唇が、ロビンを激しく動揺させる。

「コックさん!しっかり!」
甲板にへたり込むように座り、ロビンは同じ言葉を繰り返しながら、サンジの呼吸と
心臓の音を確認した。

(…何なの、一体これは…!)

そのか細さ、頼りなさ、遠さにロビンは戦慄く。
腕に抱いているのに、目に見えない命の欠片がその体を濡らす水に溶けて流れていくような気がした。
あの「クソでかいだけの単細胞生物」に触れた、ただそれだけでこんなに生き物の
体が衰弱する現象を、ロビンは今まで見た事がない。

「…かはっ…は…」
まるで溺れていた人間が急に呼吸をし始めるように、サンジが苦しげに喉を押さえて、
小さく咳き込んだ。

「コックさん!」
そう大声で呼びかけても蒼ざめた瞼は開かない。

(とにかく、この水分を全部ふき取らなきゃ…)
(飛び散ったアレの成分が、この水分の中に含まれている可能性もあるわ)
(…動揺して取り乱していては、ダメよ)
(…適切な行動が取れなくなるだけだわ)

ロビンは大きく乱れる心を必死に制する様に、キッ…と下唇を噛み締める。

キッチンに運び込み、ロビンはシャツを着せたままで、使い慣れた簡易の寝台にサンジを横たえて、適当な布でざっと水分をふき取った。

その間、ずっとサンジは苦しそうに眉を寄せている。
呼吸したくても思うように息を吸い込む事が出来ないのか、
掻き毟るように喉を手で押えるな苦しそうな仕草は、まるで水から無理矢理引き上げられてもがいている魚の様だ。

苦しくて苦しくて堪らず、どうしようもなくて足掻いているように見える。

「どこが苦しいの?どこか痛いの?」
身をかがめて必死に聞いても、サンジからはなんの反応もない。

為す術もなくロビンはサンジを見つめ、せめて呼吸がしやすいようにとシャツを緩めながら、(このまま、何もせずにいたら、どうなるのかしら…)と考えた。

それは、当然、無責任にサンジを放置するつもりで思ったのではない。
専門的な医学の知識など持っていない自分が、呼吸が浅いから、心臓の鼓動が弱いから、と勝手に薬を飲ませてはいけないと思い、このまま自然に回復して欲しいと言う期待からだ。

けれど、サンジの状態が回復する兆しは見て取れない。

「…んくっ…ッくはッ…」
吸うのも、吐くのも辛そうなサンジの呼吸の音を聞いていると、ロビンは
どんどん不安になってくる。

いずれ息が止まってしまうのだろうか。
それとも、先に心臓の音が止まってしまうのだろうか。
最悪の状況が、ロビンの頭を掠めた。

誰かが目の前で死んでしまう。
初めて見る光景ではないのに、こんなに動揺し、取り乱し、
指先が痺れてしまうほど心臓が軋んで、体が強張り、自由に動くことすらままならない。

今出来る事は、どんなに苦しくてもサンジが諦めて命を投げ出してしまわないように、
必死に励ます事だけだ。

「じきに船医さんが帰ってくるわ。それまで頑張って!」
そうサンジの耳元で悲鳴の様に声を上げた。

***

それから、数時間が過ぎた。

オレンジ色のランプが灯る中、皆、おのおの好きな事をしながらも、いつもよりも
狭く感じるキッチンから出て行こうとしない。

「…ロビン、疲れたでしょ?もう休んだら?」
ナミがそう気遣ってくれたが、ロビンはサンジの横たわる寝台の一番側から動く気には
なれなかった。
「…いいえ。コックさんの眼が覚めるまでは…ここにいたいから」
サンジの顔を見つめたまま、ナミへ顔も向けずにそう答える。

「でも、もう心配ないんだよ。呼吸とか血圧とか、心音も安定してるし」
「ちょっとくたびれて眠ってるのと変わりないんだから」

チョッパーがそう言ってロビンの側に来て、トン、と腰を下ろした。
「気遣ってくれてありがとう、」とロビンはチョッパーを安心させたくて、
微笑んで見せる。こんな風に、人を労わるのに笑顔を作って、微笑む事も、この船に乗ってから初めて知った。

「…でも、眼が覚めて、私が側にいなかったら、きっとコックさんはとても心配するわ」
「ロビンちゃんは無事か?…って」
「だから、コックさんが目を覚まして私を探さなくてもいい様に、ここにいてあげたいの」
「私が出来る事はそれしかないから」

誰かを助けたくて、命を投げ出す事も、決して容易い事ではない。
誰かを守る為に命を賭けて戦う事も、揺ぎ無い信念と勇気が要る。

それでも、そんな決心や、信念と勇気を以ってしても、太刀打ち出来ない事もある。

「…もう少し、船医さん達が帰ってくるのが遅かったら…」
「私は、コックさんを見殺しにしてしまうところだったわ」

ロビンは誰に言うともなく、ポツリとそう呟いた。
心の中だけで呟くつもりだったのに、その呟きは唇から零れ出る。

「コックさんが息が出来なくて、私の腕の中でどんどん弱っていくのを見ているのに」
「私は、…なにも出来なかった…」
「どんな時でも冷静でいられる自信があったのに、いざとなると…ダメね」
「こんなに自分が無力だったなんて…知らなかったわ」

誰かにこの気持ちを宥めて欲しいとは思わない。
今、慰めてもらったら、そしてその優しさに甘えてしまうことを覚えたら、
きっともっと弱くなる。
ロビンはそんな気がして、もう決して弱音を吐かない様に、静かに口をつぐんだ。

自分が無力で弱いと思うのは、本当に守りたい誰かのためにもっと強くなりたいと
切実に思う気持ちの裏返しだ。

そんな事を考えながら、ロビンはじっとサンジの瞼が動くのを待った。

* **

チョッパーが安心していい、と言ったからだろう。
とうとう待ちくたびれて、側にいてもロビン以外の者は思い思いの格好で皆、寝入ってしまった。
チョッパーはサンジの足元に転がり、ルフィとゾロは床に座り込んで壁にもたれて。
ウソップとナミはテーブルに突っ伏した格好でそれぞれ、眠っている。

「…皆、寝た?」サンジは片目を薄く開けてロビンを見上げ、そう小声で囁いた。
そのはっきりとした口調と、ぼやけていない瞳の光にロビンは驚いて、
「…コックさん…」と言ったきり、咄嗟に次の言葉が出てこない。

「眼が覚めてたの?いつから?」
どうにかそれだけを尋ねると、サンジは起き上がりながら「…なんかバツが悪くてさ…」と苦笑いを浮かべた。

仲間を起こさない様にとの心遣いなのか、それともまだ体に力が入らないのか、
その声は少し掠れて口調もどこか か細い。

「息が苦しくて大騒ぎされてた時も、ちゃんと意識はあったんだ」
「バカ力 二人に押さえ込まれて、喉に管突っ込まれたり、挙句にナミさんに吐き出した水かけちゃったりしてさ…」
「それから何時間も経ってないのに、体は随分楽になったんだけど」
「力任せに俺を押さえつけたヤツラに文句も言いたいし、ナミさんには謝りたいし」
「でも、まだ頭も口も上手く動きそうにないし…」
「…それに、まず、誰にも聞かれないトコでロビンちゃんに謝りたかったから…」
「ちょっとだけ、…寝たフリをしてた」

そう言ってサンジはとても子供臭い、悪戯っ子のような顔でくしゃりと笑う。

「皆が心配して起きてたのに寝たフリをするなんて…悪い人ね」
そう言いつつも、ロビンは急に胸に痞えていた重い空気が消えていくのをはっきりと
感じ、そして気がつけばとても自然に微笑んでいた。

「寝たフリをしてたのは、ホントにちょっとだけだよ」
「私に謝りたい事って何?」

言い繕おうとするサンジの言葉を遮り、ロビンは首を少し傾げてそう尋ねる。

「怖い思いさせちゃって…ごめん」
「怖い思い?」
ロビンは思わずサンジの言葉を鸚鵡返しに聞き返した。
そして、心の中で今日の、いやもう昨日の出来事を思い返し、その時に感じたさまざまな
感情を振り返ってみる。

得体の知れない生物の出現に驚き、攻撃の仕方を思案し、その成果が出るまでに緊張し、
その結果サンジの体力を奪われた事に怯え、対処の方法が分からずに竦み、
自分の無力さに慄いた。

その感覚の全てが「怖い」と言う感情だったと、サンジに言われて初めてロビンは自覚する。

「…ええ、本当に怖かったわ」
「…こんなに怖いと思った事は今までなかったくらい」

ロビンがそう言うと、さっきまでは病み上がりでも少年のように冴え冴えとしていた
サンジの表情が見る間に萎れていく。

(あなたを失う事が怖かったの)と言う意味を、何故、今、サンジは汲み取ってくれないのだろう。
人の、特に女の心の機微にはこの船の中で一番聡いサンジなのに、時折こんなに無垢で
無防備で、愚かしい。
それがロビンには、とてもかけがえのないもののように思える。

「…私にそんな思いをさせて、どうやって償ってもらおうかしら」
こんな風に心から誰かに優しくしたいと思うと、自然に微笑が浮かぶ事も、
ロビンはこの船に乗って初めて知る。そんな柔らかな笑みを浮かべながら、
ロビンはサンジが冷えないように、薄いシャツの上にそっとジャケットを羽織らせた。

それでもサンジはロビンの気持ちに気付かずしょげたままで
「…俺が足を怪我なんかしてなきゃ…」と何か言いかけるのを、ロビンはその唇に
手を押し当てて黙らせた。

「足が綺麗に治って杖をつかなくても歩けるようになるまで、なんでも私の言う事を
聞いてちょうだい。それで許してあげる」
「…わかった?」
ロビンに口を塞がれたまま、サンジはコクン、と一つ頷いた。

キリキリとずっと緊張し続けていた心が、サンジと言葉を交わす毎、その姿が、その温度が間違いなくここにある事を実感する毎に緩やかに解け、温かい空気に満たされていく。

「とりあえずは…。杖を作ってくれた長鼻くんに改めて御礼を言うのと、…」
「私が作ったスープを残さず飲む事。分かった?」

ロビンがそう言って微笑むと、サンジは頷き、そしてちょっと曖昧に笑った。

単純と複雑、大人と少年、怜悧と愚鈍、そんなものが全部ごちゃまぜになっているのが
サンジと言う男なのだから、
ロビンの機嫌が治って安心したのか、
それとも、やっとロビンの真意が伝わったのか。

それはまだ、ロビンには分からない。

〈終わり〉     戻る    番外編