その透明な、まるで細胞そのものが巨大化した様な形の生物が一体、なんなのか、
サンジもロビンも分からない。

「ロビンちゃん、…、あれ、」サンジは船べりから僅かに身を乗り出して、
海を指差した。その指し示した海面には、銀色に光る泳ぐ鱗の小魚が毒に当たったかのようにプカプカと浮いている。それも、一匹、二匹ではない。
千、二千と群れを成して泳ぐその魚の群れごとだ。

「あれが、海面を這ったら…ああなるみたいね」
ロビンはサンジに尋ねるつもりではなく、そう呟く。

(毒の類かしら・・・それとも、もっと違う理由で?)

目の前でどんなに奇想天外で信じられない出来事が起こっても、それは現実だと認識して
対処しなければならない。この偉大なる航路ではそれが当然の常識だとロビンは分かっている。
東の海育ちで、ロビンに比べたらまだこの海での生活に慣れていないサンジが面食らうのも無理はない。

海と、海の中から生命の力をどんどん吸い上げて、その透明なバケモノはどんどん大きくなり、みるみるうちにサンジとロビンを乗せた船のマストの高さとほぼ同じくらいにまで
巨大化した。

「…ヤバイね」サンジの口調がやや切迫して来た。
「近くにある生き物のエネルギーを全部吸い取ってしまう気なら、あたしたちが狙われるのも、きっと時間の問題ね」

逃げた方がいい、とロビンは思った。

小さな細胞が、その一つ一つに核を持つように、海から浮き上がった小さなゼリーの様な
物体はそれぞれに真っ赤な核を持っている。
それが一体化すると中心の一際大きな核に向って透明な体の中を移動していき、
一番大きな核の中に融合して一体化していく。

「どう見ても、やたらクソでかいだけの単細胞生物だよ、これ」
ヤバイとは思うけれど、こんな下等生物相手に逃げたくない。
それがサンジの本音だろう。多分、ほんの少しでも時間があれば、この窮地を脱する術をサンジなら考え付くかもしれない。
だが、今はそんな余裕など一秒も無い状況だ。

「これだけ柔かい体をしていて、触ったら死ぬかも知れないモノが相手なのよ」
「蹴っても、斬っても、きっとなんのダメージも与えられないわ」

このままどこかへ勝手に移動して遠ざかってくれないか、とロビンは思いながら、
その透明のバケモノの様子を窺う。

「・・・あの核をどうにかしたら、…死なないかな」
同じ様にバケモノの様子を見ていたサンジがそう呟いた。

(それはそうでしょうけど…)ロビンは否定も肯定もせず、ちらりとサンジの横顔を見る。
攻撃に転じようとしたサンジのその気配を感じ取ったわけではないだろうが、
気まぐれに濃霧に閉ざされた真っ白な視界の中、海の上を漂って歩いていた透明なバケモノがゆっくりと進路を変えた。

明らかに、ロビンとサンジが乗る船を目指して、進んでくる。
ふと気付けば、海の上は、命だけを吸い取られた魚の死体が無数に浮かび上がっていた。

魚だけではない。
どこかの船の乗組員が数人、波間に背中だけを見せて漂っている。

「…畜生、単細胞生物の癖に、人間まで…!」
今にも飛び出して行きそうなサンジの襟首をロビンは思わず掴んで、
そのまま、甲板に引き摺り倒す。

「…いっ…!」「あ…!ごめんなさい!」

サンジの顔がロビンが今まで一度も見た事がないくらいに苦痛に歪んだ。
船べりに足をかけて、そのまま透明なバケモノに向って蹴りを入れようかと言うぐらいの
気迫を感じた途端、ロビンの頭からサンジの足の怪我の事が綺麗に吹っ飛んでしまったのだ。

無闇に蹴りを入れても無駄だ。無駄どころか、蹴りの衝撃を吸収し、そのままサンジの体があの透明な体の中へ吸収されたら、それこそ命を吸い取られてしまう。
だから、ロビンは夢中でサンジの襟首を掴んで引き止めてしまったのだ。

「…あの核を覆ってる部分だけをどうにか吹っ飛ばして、それから、むき出しになった
核を攻撃すればきっと、アレは死ぬと思うの」
「その為には、あなただけでは無理だし、私一人でも無理よ」
「今更逃げられないんだから、私の言うとおりにして」

そう言いながら、ロビンは自分に殆ど余裕がない事を自覚していた。
額にも、体にも、今まで感じた事のない汗が浮き出て、流れた。
どうしてこんなに余裕がないのか、自分でもわからない。
そんな自分を、ロビンは冷静になろうと必死に励ました。

(落ち着いて…。こんな、『やたらクソでかいだけの単細胞生物』なんかに飲み込まれたりして死ぬほど私達は愚かでもないし、弱くもないわ)

どうすればいい?
どうすれば、私は彼を守れる?

必死に今の窮地を脱する術を考えた時、その根底にそんな感情がある事をロビンは
唐突に気付いた。

守る対象は、いつも遺跡や古文書に込められた古の人の想いばかりで、目の前で生きている現実の人間ではなかった。

かつて命を投げ出して、仲間を助けようとした事はある。
けれど、たった一人の人間を守ろうとこんなに必死に戦おうとした事は初めてだ。

「…吹っ飛ばすって大砲でも使うのかい?そんな時間は…」
「…長鼻くんが作ってくれた杖があるわ」
サンジの声に、ロビンの頭脳がかつてないほど急速に動いた。
上手く行くかどうかの予測も、リスクがあるかないかの計算もしないままロビンは
躊躇う事無く即決、即断する。今までのロビンにとってはそんな博打めいたやり方など
考えられない。いつもどこか達観した自分が常に自分を見つめてどんな時でも冷静で
いられたのに、今はただ、無我夢中で必死だった。

「杖?」ロビンが握った杖を見て、サンジは怪訝そうな顔で首を捻る。

「使い方聞いてたでしょ?この杖には、色んな武器が仕込んであるって…」
「武器?」ロビンの言葉にサンジはますます訝しげな顔をした。
「聞いてねえよ、俺」

「色々説明してたじゃない」サンジの言い分に呆れながら、ロビンはその時の光景を脳裏に思い浮かべた。

* **

「まあ、足技が使えないと心細いだろうと思って、色々機能つけてやったからな」
出来たばかりの杖を渡す時、ウソップはサンジにそう言った。

「杖を作ってくれなんて俺は一言も頼んでねえよ」
仲間が全員いる前で、サンジは杖を差し出したウソップの手をパン、と払い除けた。

「一生懸命作ってくれたんだぞ、ウソップは!」とチョッパーは怒ったが、
サンジは口をへの字に曲げて顔を背けたままだ。

どうにかナミが宥めて杖を持たせたけれども、その後のウソップの説明も拗ねて
ふて腐れた顔をしてサンジは、全く聞いている風ではない。

(…いずれは使わなくなるかもしれないけど、随分、便利そうな道具じゃない)
全く興味の示さないサンジに替わって、ロビンはウソップの説明をしっかり頭に入れた。

* **

「…杖として以外にどんな使い方があるんだっけ」
「ホントに聞いてなかったの?ダメな人ねえ」
ロビンは、ウソップが言ったとおりの操作を施しつつ、心底呆れた、といわんばかりに
大袈裟にため息をついてみせた。
腕を固定する部分のネジの一つを緩めると、杖は伸び縮みが出来る様になり、
さらに地面に突く先の部分の蓋を外せば、そこから空気が充填出来る。
中がどんな仕組みになっているのかわからないが、充填した空気は中で圧力をかけられ、
ネジにしか見えない別のスイッチを引き金代わりに押せば、圧縮された空気の弾が
発射される。
海に向ってその弾を発射したら、この船に搭載している大砲の弾が海に着弾し、水柱をあげるくらいの威力があった。
だが、サンジはその時も「ウソップの道具自慢なんか興味がない」と言って見てもいない。

「あなたがこれを撃つの。透明な部分が飛び散って、核がむき出しになったら、私が
その核を別の銃で撃つわ」

空気の弾が発射出来るのは一発限り。だから、ロビンが核を狙い撃ちできるのも一度きりだ。お互い、狙いは絶対に外せない。

「今のあなたの足じゃ、あそこまで飛べないわ、そうでしょ?」
ロビンがそそり立つ透明なバケモノを指差してそう言うと、サンジは
「そうだね…」と、渋々ロビンから杖を受け取った。

ロビンに教わったとおり、サンジが杖に、いや、銃に空気を充填する。
シュ〜〜シュ〜〜と、凄い勢いで空気が杖に吸い込まれていく音がする中、二人は
口早に作戦を立てた。

「懐かしい銃ね。あなた、最初に私と会った時、この銃で私を威嚇したわよね」
サンジの銃を受け取って、ロビンは皮肉を込めてサンジに微笑んだ。

「…そう言うの、もう忘れて欲しいなァ」サンジはそう言って苦笑いを浮かべる。
「いやよ。忘れたくないもの」

命を賭けて守りたいと心から思える仲間に出会えた、たくさんの思い出は、
どんなに価値のあるモノにも代えられない、今のロビンにとって一番大切なモノだ。

忘れたい事など一つもない。いい事も、悪い事も一つ残らず全部、覚えていたい。

どんな状況でも、自分が仲間を欺こうとしたあの時でさえ、何も言わなくても
最初から最後まで信じ抜いてくれたサンジだから、何があっても守りたい。
言葉に出さなくても、きっとサンジなら、この想いを分かってくれる。
そんな気持ちを込めて、ロビンはサンジを一秒だけじっと見つめた。

「…ロビンちゃん、」
「準備はいいわよ。いつでもどうぞ」

何か言いたげなサンジを制して、ロビンは背を向けて透明なバケモノの前に立つ。

空気を吸い込む音が止まった。
息を詰め、サンジが狙いを定めている緊張感が、背中越しでもビリビリと感じる。

核の最も近い場所の透明な「ゼリー」を吹き飛ばし、一時的に抉られた部分が再生しない
僅かな時間を狙って、核に直接銃弾を撃ち、破壊する。

「気をつけて…ロビンちゃん。行くよ」
「ええ、…」

その言葉を交わした途端、ロビンの目は、ロビンの目が見ている角度ではない風景を
映し出した。

手にはサンジが握っている杖の感触をはっきりと感じる。

そして、今、サンジの目は自分が見ているモノを見、ロビンが感じている感覚を
サンジは感じている。そんな確かな感触も、はっきりと感じられる。

(こんなに人と人の感覚がぴったりと重なるなんて…)
それは初めての経験で、ロビンは思わず息を飲んだ。

ロビンを守りたい、と言うサンジの想いと、サンジを守りたいと言うロビンの願いが、
二人の心を、五感の全てを繋ぐ。

そして、その感覚が絶妙のタイミングを測る為に大きな役割を果たす。

サンジが引き金を引いた。
一秒にも満たない直後、ボム!と空気が透明のバケモノの体の一部を弾き飛ばす。
木っ端微塵に吹き飛んだゼリーの様な物体がバラバラと海面に落ちていく。

ロビンは空気の弾が着弾した直後に甲板を蹴った。
足りない跳躍力は、甲板に生やした自らの手で自分自身を投げ上げる事で補う。

真っ赤な核が目の前に飛び込んでくる。

その真ん中へ目掛けて、ロビンは銃を構え、そして瞬時に引き金を引いた。

思った以上にその銃の威力は凄まじく、一瞬にして核がはじけ飛ぶ。

ロビンがそれを見届けたのは、甲板に着地してからだった。
(腕が痛い・・・)、と思った時、まだ銃声の音が鈍く残る耳に、サンジの声が飛び込んできた。

「ロビンちゃん、逃げろ!あいつの体が破裂する!」

支えをなくしたかのように、透明なバケモノはゆっくりと崩れ始めていた。
だが、崩れるだけではなく、空気を含んで膨張するかのように歪に白濁しながら
どんどん膨らんでいく。

薄い膜が破れたら、中の物体がめくらめっぽうに飛散するのは目に見えている。

ロビンはすぐにサンジに駆け寄り、有無を言わせず脇に手を突っ込んで、抱え上げた。
船内に逃げ込めばきっと大事には至らない。

けれど、それはあくまで全力で走れたら、の話だ。

自由に動けないサンジを抱えて走っていては絶対に間に合わない。
そんな事ぐらい、十分分かっているけれど、ロビンの体は勝手に動いていた。

「…くっ!」腕に抱えていたサンジが低く唸った途端、ロビンの足が何かに絡まった。
「…あっ!」悲鳴を上げて、ロビンは思わず手をつく。

サンジがわざとロビンの足に痛む方の足を引っ掛けて、転倒させたのだ。
それに気づいた時、もうサンジの体がロビンを庇い、覆いかぶさっていた。

「どきなさい!」と怒鳴ったロビンのその声が、大量の水を一度に被ったような
凄まじい水音に掻き消され、サンジの体の重さが急にぐっと増す。

ロビンの体にその破片が一欠けらも触れないように、サンジは歯を食いしばり、その
衝撃に耐える。
為す術もなく、ロビンは愕然とただサンジを見上げているしかなかった。

そして、突然、水音が途切れる。
甲板には、白濁したゼリーが散乱し、潮の匂いがやけに鼻についた。

「…コックさん」
大丈夫?と言いかけた時、じっと苦痛に耐えているようだったサンジの顔と体から、
全ての力が抜け、何も言わないまま、ずぶ濡れの甲板に崩れ落ちた。


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