激しい雨が、海楼石のガスで曇った視界を徐々に洗い流して行く。
(20人程度)、それくらいの人数の下っ端海兵など、怖れる事は無い。
サンジはそう思って、じっと霧のような生臭いガスが船上から消えるのを
じっと待ち、相手の動向を伺う。
そして、船べりに鉤が食い込む音をサンジの耳が捉える。
その音の大きさや様子で何人がまず、先陣を切って乗り込んでくるか、
頭で分析するより早く、サンジは培った経験で素早く判断して、気配を殺して、
疾風の様に船べりまで一気に距離を詰める。
ロープを伝って乗り込んで来た先頭の4人ほどの海兵の横っ面を
一息になぎ払う様に足を叩き付け、港へと蹴り落とす。喫水線のあたりで派手に
水飛沫が上がった。
が、蹴落とした海兵達は囮だった。
港から上半身だけを見せたサンジに数人の海兵の銃口が一斉に照準を合わせる。
散弾銃でも無い限り、素早く動くサンジに狙いを定めて、的確に銃撃する事は、
かなり難しい。
まして、激しい雨の中、視界は決して良くは無い。
動きの早いサンジを追い詰めるのに火器や銃器だけでは少々、厄介な状況だった。
サンジはすぐに身を翻す。滑るように甲板を移動して無造作に置かれていた空樽を
港へと蹴っ飛ばした。
銃を構えている海兵達は絶対にその空の樽を粉砕する。
その破壊される音で、散弾銃なのか、そうでないのかを判断する為だ。
そして、散弾銃ならそれなりの、そうでないなら、それなりの攻撃方法を
即座に組み立てねばならない。
ところが、その空の樽は破壊される事無く、海に落ちて行った。
(え?)銃を持っていて、なぜ、発砲しないのか、サンジは不信に思った。
(なんで、撃たない?)銃声と銃弾だけで、例え、それが相手に当たらなくても、
動きを封じる事が出来る。そうなれば、ずっと攻撃しやすい筈なのに、何故、
空の樽を一発の銃弾も打たずに見過ごしたのか。
サンジがその答えを考えあぐねていた時、なにやら、海軍の指揮官らしき男が何か、
命令を下している声が聞こえた。
暗号なのか、意味は全く判らない。
その数秒後、銃身の太い、信号弾を撃つ時の銃の、銃声が一発鳴り響く。
サンジの目の前に子供が遊ぶような粗末な花火のようなか細い花火の様なモノが
あがった。
(ヤべエ)その火薬玉がどんな破裂の仕方をするのか、予測出来ない。
サンジは咄嗟に身を伏せた。
パン!と乾いた音が鼓膜を震わせる。途端、当たりは真っ白な閃光に包まれた。
うつ伏せに伏せたおかげで直撃は免れたが、破裂した玉は空中で数秒
甲板の上に影さえも出来ない程の凄まじい閃光を撒き散らす。
サンジは光りに射抜かれて目に激痛を感じ、反射的に目をきつく閉じた。
ヒュン、ヒュン、とすぐにまた、船べりに鉤の掛る音がする。
(クソ、色々仕込んで来やがって)とまだ、稲妻のような光りの中サンジは
目を細く開いて、海兵達の攻撃に備えて、身構える。
明る過ぎて、右も左も判らない。自分がどちらに向いて立っているのかさえ
曖昧だった。
「撃て!」と怒号が聞こえた。
銃声が上がった途端にサンジは左肩に激しい衝撃を受け、そのまま、背中から
反対側の船べりへと吹っ飛ぶ。
尚も乾いた銃声が聞こえる。
立ち上がろうとしたら、次は両足の太股に焼け付く熱さを感じた。
が、これくらいの傷で動けなくなるほど、例え、右手に気が変になるくらいの
怪我を負っていても、サンジは脆弱ではない。
花火がいつか消える様に、火薬で燃やしたその閃光弾は雨のおかげで
あっという間にその効果を失って、ただ、焦げ臭い煤の塊になって
雨に打たれて海に落下して行く。
サンジが視界を取り戻した時には、既に十人足らずの海兵がゴーイングメリー号に
乗り込んで来ていた。
「抵抗は止めて、大人しく投降しろ。」「聞こえねえな。」
自分に向かって高飛車にそう言った男が指揮官だ、とサンジは狙いを定めた。
歳はそう変わらない。そして、さして強くも無さそうだ。
戦術は確かに辣腕だと言えるかも知れない。だが、一対一なら必ず、勝てる。
サンジはそう思って、その指揮官の頭を狙って跳躍しようと足に力を入れた。
「捕縛!」とその瞬間を狙い済ましたかの様にその指揮官は怒鳴った。
海軍の兵士達の銃から、サンジに発射されたのは鋭く小さな鉤手のついた
頑丈な細いロープが発射される。それはまるで、蜘蛛が蜂を捕らえる様に
1秒にも足りない程の時間でサンジの体に絡みつき、そして、動きを束縛した。
(こんなモン、)とサンジは咄嗟に腰に下げていたナイフを引き抜いて、
その戒めを逃れる。
けれども、雨水を含んで、重くなったそのロープはサンジの体に絡みついて、
その上、左肩を撃ち抜かれた傷、足を撃たれた傷、掌の傷、腹の傷、それぞれから
ひっきりなしに血が流れ出て、サンジの体力を奪っていく。
息が整わない。目が霞みはじめた。
(焦ったらダメだ)とサンジはロビン達のいるキッチンをちらりと一瞥し、
ナミが気配を殺しながら、船を出す準備を整えているのを気付かれない様に、
また、海軍の指揮官をありったけの敵意と気力をこめて睨みつける。
「随分と用意周到だな。」とサンジは吐き捨てる様にそう言った。
ゾロがいれば、こんな鬱陶しいロープ、
サンジの体に絡み付く前に切り飛ばしていただろう。
「ニコ・ロビンさえ差し出せば我々は貴様にこれ以上の危害を与える気はない。」と
指揮官は冷ややかにそう言い放った。
「何?」サンジはその言葉に眉を顰める。
「今、この船に賞金が掛けられている者は奴しかいないのだろう。」
「ロロノア・ゾロと麦わらのルフィは迂回してこの港に向かっている。」
「奴らがここに辿り着くにはまだ暫し、時間が必要な筈だ。」
「誰がそんな事を」
指揮官の気を引く為にサンジは指揮官に悪態を突くつもりだった。
けれども、思い掛けないほどその指揮官は冷静で、サンジが予想もしなかった事を
言い出したのにサンジは驚き、目を見張り、指揮官の言葉を遮って思わず
その言葉を聞き返した。
「誰がそんな事を言ったんだ。」
「貴様に答える義務はない。」
毅然と指揮官はそう答えただけだった。
(コバトちゃんが。)サンジは愕然とする。
もう、それ以外には、考えられないのだ。
ついさっき、ロビンと交わした会話が頭を過る。
「私はあなたよりずっとこういう窮地を潜り抜けてきたのよ、コックさん。」
「あなたにはただの憶測にしか感じられない事でも、私には確信として感じるわ。」
ロビンの"確信"は、やはり事実だったのだ。
コバトが。
(なんで、そんな事を)とサンジは唇を噛み締めた。
裏切られた悔しさなのか、理解出来ない者への憎悪なのか判らないどす黒い感情が
腹の中から染み出てくる。
一瞬、呆然となったが、今はとりあえず、この窮地をなんとか切り抜けねばならない。
気を取りなおして、集中しようとした時、サンジは眠気とも寒気とも判らない感覚で意識が急に薄れるのを感じた。
(畜生、しっかりしろ、)ゾロやルフィがいないと何も出来ないのか、と自分を
叱咤してサンジはせめて、まだ、威嚇する様に戦意を失っていない眼差しを
指揮官に向けた。
「あくまで、抵抗するなら貴様も海賊として処罰する。」
「言われなくても、海賊だ、俺ア。」
そう言うと、サンジは渾身の力を振り絞っていきなり指揮官の顎をなんの
モーションもつけずに蹴り上げた。
宙に浮く、その体が落下するのを待たずにそのまま港へと蹴り落す。
帆が風を孕んだ音が雨音に混ざった。
碇のあたりに無数の女性の腕が生えて、するするとロープを手繰り始める。
出航の準備が整った。
サンジは残った海兵達に射殺すような視線を向けるが、膝から下に力が
入らない。
なんとか、この海兵達をここで港に叩き落さないと手の治療どころではない。
気力は残っているのに、血を流し続けて、冷たい雨に撃たれ続けた体力が
もう、持たなかった。
ナミやロビンの力を借りるのは(死んでも嫌だ)と思う。
朦朧とする意識を抱えて立ち尽くしたまま、船を出さないで欲しいとも思っていた。
「約束を守れ無いのは嫌だ。」とサンジは無意識に口に出して呟く。
体が勝手に動いて、三人までは港に向かって蹴り飛ばした事を憶えていた。
それから先の記憶が唐突にぷっつりと途切れる。
残った海兵達は、港から軽業師のような身軽さで乗り込んできた数人の男達に
次々と海に投げ込まれた。
「誰?」とロビンは甲板に意識を無くして倒れ込んだサンジを、
抱き起こす前にまず、その手に握られていたナイフを拾った男に警戒心を持って
そう尋ねた。
「盗賊でさ、お嬢さん。」とその白髪混じりの男はそう言ってニヤリと笑った。
「盗賊?」とロビンはその言葉をなぞって重ねてその男達の正体を尋ねる。
「盗賊さんがこの船に何か用?」
「どうして、助けてくれたのかしら。」
「悪戯小僧につける薬を届けに来ただけです、助けたのは、そのついで。」とその男は飄々と答えて、ロビンに小さな油紙の包みを渡した。
「目が醒めたら、そこの手癖の悪いコックに塗ってやってください。」
「痛みが治まる訳じゃあないが、必ず効くから、と。」
「赫足のオヤジ秘伝の傷薬だと、盗賊が言っていたと伝えてくだせえ。」
それだけ言うと、盗賊達は用は済んだ、と言いたげにあっさりと
ゴーイングメリー号から降り街の中へと姿を消した。
海軍の兵士達も、指揮官が戦闘不能になった事で、一時、撤退して行く。
「どうするの、航海士さん。船を出す?もう少し、待つ?」とロビンはナミに尋ねた。
「風が変わっちゃったわ。」とナミは溜息をついた。
「この風だと、船を出したところで海軍の追撃から4人だけで逃げきるなんて無理よ。」
「オールで力任せに漕ぐ奴らがいないと。」
それでも、数秒、腕を組み、顎に片手を添えて考え、そうして、
「待つわ。」とナミは決断した。
「船を停泊してる間に、サンジ君の治療をしないとね。」とナミは 心細げに
自分とロビンを見上げているチョッパーに向かって力づける様に笑みを向けた。
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