誰が見ているわけでもない。
無理に触れた訳でもない。

ギンは胸が潰れるかと思うほど痛んで、身体を離した。

自分が触れたら、サンジが汚れる。

汚して、乱して、壊して、何もなくなったサンジを
もう一度、抱きしめて、自分だけのものにしたい。
そんな感情が湧いて来るのを、戦慄く唇を噛み締めて押し殺す。

そんな事、出来ない、出きるはずもない。

伝えられない想いを抱きつづける不幸と、
気まぐれに与えられる笑顔と優しさの至福とは表裏一体で、
ギンを苦しめ、哀しめ、歓ばせ、
その全ては


その唇を戦慄かせた、温かい温もりが握っている。


どうか、もう一度だけ、抱きしめる事を許してください。

ギンにとって、祈りを捧げる存在はただ一人だった。

目の前で、穏やかに眠るその人に、その祈りは捧げられる。

そのたった一度の抱擁は きっとこれからも 汚れつづけるギンの魂が
「人」であることを守ってくれる光になる。

ギンの腕がサンジの背中に回り、細い体は抱き寄せられる。


「サンジさん。好きだ。」
「誰よりも、好きだ。」

ギンは、空気に溶けるような静かな声でサンジに想いを告げる。

その瞼がしっかりと閉じられ、規則正しい寝息に、その告白がなんの意味もなさない事を
判っていながら、心の中から湧き出すように喉をつき、唇を割って溢れた言葉を
躊躇いなく、口にした。

どんな無残な死に方をしたとしても、最期の瞬間には、
きっと、この時の、サンジの温もりを思い出すだろう。

何もいらない。想いも伝わらなくていい。

「ギン」と気安く呼び掛けてくれる、それだけで胸がざわめくほど、
どうしようもなく、サンジに惹かれて、それが苦しくても幸せだった。



なんの見返りがなくとも。




いや、罪を犯しつづけ、これからもそれを悔いることなく生きて行く、
自分には出会えて、そして、愛せた事こそが十分過ぎるほどの報酬だった。

力一杯、抱きしめたかった。
けれど、サンジが起きてしまう。ギンは そっとサンジを離した。

たった、数秒、その身体を抱いただけで、残り香のような温もりが
ギンの掌に残る。


愛しい人。



サンジに対して、もう それ以外の言葉が見当たらなかった。
漆黒の闇の中、ギンはこのまま、夜が明けずに、永遠に時が止まればいいと思った。



次の朝、早く。
部屋のドアが激しく叩かれる音でギンは目を覚ました。
1晩中、サンジの寝顔を見ているつもりだったのだが、何時の間にか
まどろんでしまっていたらしい。

「総隊長っ!総隊長っ!ギンさんっ!」と何人かの部下が遠慮なく
ドアを叩き、大声を上げ、ギンを呼んでいる。


なにか、緊急な事が起こったらしい、とサンジもすぐに目を覚まして
起きあがった。

「どうした?」とギンはすぐに扉を開いたなり、部下に尋ねる。

「賞金稼ぎですっ。すぐにこの島から出ねえと皆殺しにっ・・・。」
「もう、何人か殺られたのか?」慌てふためく部下達を目にしても、
ギンは冷静で、落ちついた声で現状を把握するための質問をする。

「いや、うちはまだ。けど、この近辺の山賊、泥棒、ねこそぎ狩られてるとか。」
「じゃあ、慌てる事もねえだろう。有名な奴か。」

「へい。」
部下は落ち着き払ったギンの態度に少しづつ、冷静さを取り戻しつつあるのか、質問に
明確に答えた。

「ロロノア・ゾロです。」






「どれくらいで帰ってくる?」
サンジが出発する前日、仲間達は気を利かせたのか、気がつけば
ゴーイングメリー号にはサンジとゾロしかいなかった。

「半年って言っただろ。」
亜熱帯の太陽が照りつける甲板で二人は寝転がっていた。

「・・・半年か」ゾロは一見抑揚のない声で呟いた。
「しばらく出来ねえから、とりあえず、ヤっとくか?」とサンジの方から
からかう様に声をかけた。

「馬鹿抜かせ。」ゾロは 眉間に皺を寄せる。
「お前の頭の中が別のことで一杯なの、判っててヤれるか。」

どんなにゾロが気張っても、サンジが半年もの長い間、船を離れる決心を覆す筈もなく、
離れて淋しい、と言う気持ちを込めた行為をしたとしても、
その最中でも サンジはきっと、燃えてしまったレストランの事を考えるに決まっている。

自分だけ、淋しがっていると思われるのも悔しい。

「これ、つけとけ。」ゾロは無造作に自分のピアスを一つ、外して
サンジの掌に押し付けた。

「もう、穴、塞がっちまったぞ。」とサンジは自分の左耳を指差した。

以前、バーテンダーのバイトをしなければならなくなった時は、
「やっぱり、水商売の男になるなら、これくらいはして見たいよな。」と
自分でピアスを開けたのだが、気に入ったものを買う金がなかったので、
「お前の、ちょっと貸してくれねえか。」とダメでもともと、と言う軽い気持ちで
声をかけると、「じゃあ、これ、つけとけ。」と、自分のピアスを一つ貸してくれた。

が、ゾロの耳の穴が塞がる前に返したので、その時はもう、サンジの耳たぶの穴は
すっかり塞がってしまっている。


「開けてやる。」

ゾロは、サンジの耳に針で穴を開けた。
これくらいの事で痛がるサンジではない。

ゾロの無骨な指がサンジの耳たぶを引っ張り、薄くなったところで
一気に針をつき立てる。

ピアスを通した時、サンジの耳元でゾロが
「これ、次ヤる時まで外すなよ。俺も、」
「三つ、全部自分の耳に揃うまで、我慢するからよ。」と囁いた。


離れて、声が聞けないことを。
料理が食べられない事を。
肌に触れられない事を。

それを淋しいと思うことを、我慢するからよ、とゾロは囁いたのだった。

「ゾロが?」


サンジの声が、戸惑いながらも弾んでいるように聞こえた。
それは、ギンのひがみかもしれないが。

「どうして、グランドラインからたったひとりで戻ってきたのか、・・・」
「コックのニイさん、なにか心当たりでもありますかね。」

「ある。」

ギンの部下達の疑わしげな質問だったが、サンジは即答した。

ゾロは、迎えに来たのだ。それ以外に考えられない。
「あの馬鹿。」サンジが小さく呟いて、着替えにとりかかった。


誰も頼んでネエのに。

ブツブツ言っている、サンジの態度からして、本当に迷惑そうだった。
その姿を見て、ギンは気分が自分でもどうにかしている、と訝しく思うほど
落ちこんで行く。

「ロロノアがサンジさんを迎えに来たんですか・・・?」
「知るかっ」

思わず、口に出た言葉にサンジの怒号が返って来る。

「とにかく、お前の仲間の安全は確保しなきゃな。」
「盗賊どもはこないだ、殆どぶっ殺しちまったし、
「この港じゃお前の部下どもが一番、餌食になりやすいはずだ。」

二人は身支度を手早く済ませ、ギンの船に向かう。

「何しに来たんだよ。」

ゾロは、もう、ギンの船の前で仁王立ちになっていた。
その姿を見るなり、サンジの方から ギンがドギマギするほど、
あからさまに不機嫌な、呆れたような声を掛ける。

わかってるくせに聞くな。

ロロノアの答えは簡潔だった。

「俺はまだ、ここでしなきゃならねえことがあるんだ。帰れねえ。」

サンジは、ふと、気がついた。
ゾロだけがここにいる、と言う事は一人でグランドラインからここまで来た、と言う事だ。
よく、無事で・・・と言うか、迷わずに自分を見つられたもんだ、と
妙に感心した。が。

「帰れ。」と言ったら、一人でルフィ達の待つ、リトルガーデンまで
帰れるのか。それこそ、グランドラインをあっちこっち さ迷い歩く羽目になるんじゃないか、と言う考えも
即座に浮かんだ。

ギンは、思った。
いい、潮時かもしれない。

これ以上、サンジと一緒にいたら、きっと、「鬼人」でいられなくなる。
「鬼人」は消えてしまう。そうなったら、海賊として生きていけない。
そうなったら、人生は終りだ。死ぬしかない。

それがサンジを望んでいても、決して ずっといっしょに居てはいけないと
自分を戒める理由になっていた事に気がついた。

「サンジさん、1000万ベリーだけ払わせてくれ。」

サンジが本当なら働く分から、怪我をして働けなかった分を大まかにさし引いて、
ギンはいきなり、そう言った。

「ちょうど、明日で船のメンテナンスも終る。俺達は、明日、ここを発つ。」
それは、ギンが急に思いついたことだ。
船のメンテナンスが終るのは本当の事。だが、サンジが納得して
3000万ベリー、受け取るだけの仕事をしてもらうまでは
この港に停泊し続ける気でいたのを 覆した。

「そんな事、聞いてネエぞ。」とサンジは今度、ギンに向かって
怪訝な顔を見せる。

「ロロノアみたいな賞金稼ぎに狙われたら一たまりもネエ。」
ギンはそう言いながら、困ったような顔をサンジに向ける。
どうか、我侭を言わねえで、ロロノアのところへ戻って欲しいと言う想いが
自然に表情に出てしまった。

「そんな事、俺がさせねえ。」
当然、サンジは納得しない。
バラティエは自分の店なのだ。自分の力で再建しなければ意味がない。
仲間であろうと、施しは受けたくない。


「てめえの用が済むまでくらい、待ってやる。金が要るんなら」
「余計なお世話だっ。」

手持ち無沙汰なゾロの言葉をサンジが鋭く遮った。

意地っ張りめ、とゾロはサンジを睨みつける。
こうなる事はなんとなく、予想はしていたから、さして驚く事は無いが。

「サンジさん、二人でゆっくり話しをつけてください。俺達には関係のない話ですから。」と
ギンは出来るだけ 素っ気無く言って見た。

確かに、その通りだ。
サンジは「わかった。」と短く答え、ロロノア・ゾロも刀を鞘に収める。

ロロノア・ゾロがサンジを迎えに来た、それもきっと 道すがら賞金首を狩って
金を稼いできただろうから、金の心配もしなくていいだろう。
この港に留まって、サンジを拘束する必要がなくなった。

「明日、出航する。」ギンは迷いなく、決断した。

その時間はサンジには知らせない。
見送りなんかに来られたら、今度こそ、麻酔銃でも撃ちこんで
浚ってしまいかねない。

ロロノア・ゾロを見つけた、その一瞬、サンジ自身も自覚しているかどうか
定かではない、それほどの刹那、
確かに サンジの瞳は ロロノア・ゾロを映して 歓びに揺らいだ。

憎まれ口を叩き合い、憎憎しげな表情でお互い向かい合っていたのに、
そんな二人の姿を見て、全身の血が真っ黒になったように思うほど、
どす黒い感情に囚われた。

嫉妬。
独占欲。
羨望。

サンジのことを想う、その同じ心にそんな醜い物を住まわせたくなかった。
けれど、一度湧き上がったその想いはもう、消し去る事がギンには出来ない。

ロロノアさえ現われなければ、いつまでも春の光りに満ちた空間に居る時の
幸福感に酔っていられたのに。

こんな醜い想いを抱いた、汚い自分をサンジの前に晒したくない。
だから、このまま何も言わずに 去ろう、と決めた。

サンジの部屋に、ギンからの使いが1000万ベリー、届けてきた。
それは、そろそろ朝も明けよう、と言うほど早朝だ。

その頃には、どう言う理屈でサンジを丸めこんだのか、二人の間の諍いは終結していた。

「あの野郎、黙って行くつもりだな。」
その現金を受けとって、サンジはギンの、行動だけを悟る。
その行動の底にある、哀しい男の心など 予想だにしない。

サンジはすぐに部屋を飛出した。

「ナメた真似しやがって。」
金だけ渡して、別れも言わせず、さっさと旅立つなんて、
俺のことを信用してネエのか。

つまり、「ロロノア・ゾロからギンの部下の安全を確保する」と言ったのに、
慌てふためいて出航して行くということは、
サンジの言動を信用していない、と言う事になる。

サンジは、そのことが頭に来た。
それで、部屋を飛出したのだ。


ちょうど、ギンの船が碇を上げていた時、
「待ちやがれ、ギン!」と怒りで顔を真っ赤にしたサンジが
凄い勢いで船に駆け寄ってきて、そのままの勢いで船に飛び乗って来た。

「なんのつもりだ、ああ?」
いきなり胸倉を掴まれ、凄まれ、ギンは驚きのあまり、棒立ちになる。

「俺を信用してネエってか、なんとか言え、おお?」とさらに詰め寄ってくるので、
どうにか、
「なんの事ですかっ。」と聞き返す。



「次、いつ会えるかわかんネエのに、何も言わずに、俺に礼の一つも言わせずに
さっさと行くつもりかって、聞いてるんだよっ。」

「次、いつ会えるかわかんネエのに、何も言わずに、俺に礼の一つも言わせずに
さっさと行くつもりかって、聞いてるんだよっ。」


ギンは、本当の事も言えず、ただ、
「違いますっ。」と馬鹿みたいに同じ言葉を繰り返すだけだった。

とにかく、船長代理の部下の前で醜態を晒したくないので、どうにか
サンジを宥め、二人で港へ降り立つ。

「ロロノアが怖かった訳じゃあねえんです。」
「俺に遠慮して、サンジさんが意地を張ってるように見えたんで、」
「やっぱり、仲間の所が一番でしょう。」
ギンは、言葉を繋ぎ合わせて理屈をこねる。
サンジも頭が冷えたのか、ギンの理屈にようやく 耳を傾けた。

「サンジさんが意地を張らなきゃ、俺だってちゃんと挨拶くらいしたかったですよ。」と
ギンは苦笑した。

いつの間にか、サンジに嘘をつくのが上手くなってしまった。
想いが募れば、募るほど、嘘がどんどん上手くなって行くような気がする。


「ギン。」
「お前は、俺と、俺の大切な物を全部、守ろうとしてくれた男だ。」
「自分の信念を曲げて、命を投げ出してまで。」


「だから、俺はお前を大切な人間だと思ってる。」
「つまらねえ死に方、するんじゃねえぞ。」


ギンは耳を疑った。

サンジの口から。
サンジの声で。

「大切な」


「人間」だ、と


そう、思っている、と。


ギンの心が、まるで穏やかな日差しに水に変わる雪のように
優しく溶けた。
「俺も想ってます。サンジさんは、餓死寸前の俺に飯を食わせてくれた。」
「俺も、あんたを大切に想ってます。」


あれほど、躊躇い続け、決して言うまい、と心に決めた言葉が自然に口をついて出た。

「世話になった。元気でな。」

すっと、突き出された 白く、長い指。

ギンはその手をしっかりと握った。
自分の掌よりも、少し、冷たいその手を、己の手で、
にこやかに自分を見つめる瞳を、己の瞳で、しっかりと記憶する。

次に会えるのはいつか。
もしかしたら、これが永遠の別れになるかもしれない。

「サンジさんも、元気で。」

意外なほど、冷静だった。
落ちついていた。眠っていたサンジを抱きしめた夜、
離れられなくなる事に怯え、別れる時どれほど 醜く 取り乱すだろう、と
その瞬間を予想する事さえ怖かった。

それなのに。
今、どうしてこんなに落ちついているのだろう。

「グランドラインで会おう。」
「きっと、腹一杯美味いものを食わせてやるから。」

耳に流れこみ、頭に染み込むように聞こえる、その声で
語られる出る言葉、全てを信じれられる。
それを拠り所にして、生きていける自分だから、どんなに離れても、
また 会えると確信できる、だからこそ 落ちついていられるのかもしれない。

ギンはそんな風に思った。

「楽しみにしてます。」心からの微笑が頬に浮かぶ。


サンジは、頷いた。
「じゃあ、な。」そう言って、サンジは背を向けた。

その歩み行く先には、部屋をいきなり飛出した、サンジを追って来たのだろう、
漆黒の服を身に纏った、緑の髪の剣豪が佇んでいる。


ギンは、決して、サンジの隣で歩いて行くことは出来ない。
サンジが望んでいる、共にその道を行く相手は あの男だから。

けれど、それを羨ましいとは思わない。

あの男はきっと知らない。


サンジが気まぐれに漏らす、笑顔と優しさの本当の価値を。
そして、それが与えられる事の至福と歓びを。

そんなささやかな優越感しか許されないけれど、ギンはそれだけで充分だった。


どこにいても、どんな時も、いつでも、いつまでも、
ギンの心の中には、愛しい人がくれた、気まぐれの至福で満たされている。

(終り)。