瞳が微笑むから

酷い暴風雨がようやく、去った。

船の進路は、まるで、その狂ったように暴れ回る低気圧と鬼ごっこをするように、
ぴったりと重なっていて、指針の指し示す先へと船を進めれば、まるで狙い済ましたように、低気圧が追い駆けてくる。それを振りきり、振りきっては追いつかれ、
随分長い時間、ゴーイングメリー号はその気まぐれな天気に付き合っていた。

途中、何度もサンジは手早く腹を満たす物を作っては、船を操舵する者のスタミナが
切れないように気を配り、自分自身も休む間もなく、ナミの指示に従ってずっと
働きづめだった。

疲れてはいるけれども、そのおかげで誰も空腹を訴える者は無く、ようやく
低気圧がゴーイングメリー号を追い越して、風も静まり、海が凪いでくる頃、

空が茜色に染まっていた。
(夕焼けなのか、朝焼けなのかわからねえな。)とゾロは見張り台の上から晴れ上がった空を見上げて、そう思った。

夜の来ない海域もある。ここがそうである、と言う可能性もなくはない。
夜中もずっと船を夢中で操っていたし、実際あれが夜だったのか、それとも、分厚い雲が太陽の光を遮っていたのか、判らない。そして、ゾロは時計など持っていない。
加えて、方向音痴で、船のどちらがわが西で、どちらが東か、今だ霞む水平線の先にある太陽が顔を出したばかりなのか、それとも海に沈んで行くのか、それを確認するのも億劫で、故に、今、朝なのか、日暮れなのか、ゾロには判別出来なかった。

もう、誰もが疲れて少し休んでいるだろう、とゾロは思っていた。
さっき、「皆、少し休みましょう。ゾロ、碇を下ろして」とナミが指示していたし、
それに異義を唱える者は誰もいなかったからだ。

海面を撫でるほの冷たい微風がゴーイングメリー号の船脇に進路を遮られ、
ゾロのいる見張り台に吐息のように吹き上がってくる。
その羽根ぐらいしか飛ばせないような弱い潮風の中にゾロは嗅ぎ慣れた煙草の匂いを
嗅ぎとった。(あいつ、起きてるのか。)気の所為か、と思うほどの微かな匂いだった。

疲れてはいるけれども、優しい光り、静かな海のさざ波の音、心地よい空気を一人で
感じている事が、少し物足りないと思っていたところだった。今側にいたらいいのに、と思っていたから、その欲求が匂いもしない煙草の薫りを嗅ぎ取ったような気がした
原因かも知れない。
(馬鹿馬鹿しい)そう思うなら、叩き起こしてでもここへ引き摺って来たらいい、と
思い、ゾロは見張り台から下へ降りようと身を乗り出した。

そして、自分の嗅覚が気の所為、などでは無かった事に思わず、小さく息を飲む。

丸い曲線を描く、大きな飾り板の上に足を組んで腰掛け、海の方へ顔を向けて
サンジが煙草を美味そうに吸っている。

「よお、起きてるなら降りて来いよ。」とサンジはゾロの方へ顔も向けずに
そう、ゾロにのんびりと間延びした声を掛けて来た。

背中を向けたまま、ゾロの顔を見もしないのに、ゾロが自分を見下ろした事を
事も無げに感じたとでも言うのだろうか。それぐらいの事で、ゾロは
自分で自分が気恥ずかしくなるほど、嬉しい、と言う感情が心の中に噴出して来る。

「お前が上がって来い。」とそんな自分の気持ちを押し隠すように出来るだけ
ぶっきらぼうにそう答える。
「小さな魚がいる。」サンジはそんな事はまるきり気にもしないで、海面を、
煙草を挟んだ指で指差した。

(だから、なんだ)と思いつつも、ゾロはサンジの指し示した海面に視線を移す。
海面近くで群れているその魚達のたてる波紋と、その魚達のうろこが不規則に
太陽の光を跳ね返し、キラキラと星を散らしたように煌き、瞬いていた。

ゾロは見張り台を降りる。さっき、感じた柔らかな風がはまた、舞い上がって、ゾロの濡れた頭を優しく撫でて、麦わらの海賊旗まで駆け上って行った。

「休めるうちに休んどきゃいいのに。」とサンジはゾロが隣に来ても、まだ、
海面を見つめて、他人事を茶化すような口調でそう言った。

「余計なお世話だ。」とゾロは答え、サンジの隣に肘をついて、その視線の先に遊ぶ
小魚が群れる海面を眺めた。

「見慣れねえ服だな。」こんな静かでキレイな空気の中、そんな心地良い時を台無しに
するような真似はしたくない。かと言って、こんな時、どんな話をすればいいのか、
ゾロには思い付かなかった。
いつもは蒼いシャツを来ている事が多いから、サンジには蒼が一番よく似合う、
蒼ほどサンジに似合う色はないと思っていた。違和感がある、けれど、決して
見苦しくはない。むしろ、見たことのない色を纏ったサンジが酷く新鮮に見えた。

「服が全部、ビショヌレだからな。新品だ。」とサンジはそう言ってやっと
ゾロの方を見た。まだ、乾かない髪が少し重そうだが、それでも、
サンジの髪はこんなに弱い風にさえ揺れていた。



何気なく、自分を見ているだけの蒼い瞳を見る。
媚びもせず、真っ直ぐに、力強い視線の中に、たくさんの思い遣りと温かな感情が
篭っている。
その視線を受けとめた途端、ゾロの胸は急に息が詰るほどの熱を孕んだ。

サンジがこの視線を向けるのは、世の中で自分ただ、一人だと言う事を
突然、ゾロは気がつく。

ナミやロビンに向ける、甘えで飾った眼差しとは明らかに違う。

「食えるのか、その魚」とゾロはまた、アタリ障りのない言葉を使う。
「食えねえ事もねえだろうが、今は、」サンジはゾロの浅ましく、子供じ見た言葉に、
呆れたような笑みを浮かべた。
「こうして眺めときてえ気分なんだが。」そう言って、煙草を口に咥えて大きく
吸い込み、そして大きく、心地良さそうに吐き出してから、
「お前が食いたいって言うなら、網で掬うか。」とゾロに尋ねる。

「いや、いい。」
「それより、少し、腹が減った。」とゾロは答えた。
この甘酸っぱいような空気を乱さないようにするには、
そんな言葉しか思い浮かばなかったのだ。
そして、何が食べたい、と頭に浮かんだ自分の口に最も合っていると思う、
その献立を口にしよう、とした時、
「そう言うだろう、と思った。」とサンジはその場で立ち上がった。
仁王立ちになった、サンジの向こう側の紅色の空が一気に明るさを増す。

(朝、だったのか。)
ゾロはそれを見て、初めて自分達が鮮やかな朝焼けの中にいる事が判った。
「もう、キッチンに用意してある。」サンジはゾロを見下ろしてそう言った。
「取りに行ってやるよ、」と言うなり、サンジはゾロの頭の上を音もなく飛び越える。

苦しい事や、命懸けの冒険に立ち向かう時、時間が過ぎるのがとても遅く感じる。
それなのに、その合間を縫って訪れる、穏やかで長閑なこんな時間ほど、
過ぎて行くのが余りに早い。

ゾロは何時の頃からか、それを知っていた。

だから、思わず、サンジを呼び止めた。
呼びとめる声が出るより先に、自分の真後ろに着地した、サンジの背中に手を伸ばす。

素早く腕を掴んで引寄せた。

「メシは。」もう少しだけ、また慌しい1日が始まろうとする序曲のような
静けさの中で、自分の目に映る風景を一緒に眺めたい。

ゾロの気持ちは、こんなに簡単な言葉になる。けれど、それが言葉にならない不器用さを補足するために、ゾロはサンジの片側しか見えない瞳をじっと覗き込む。

「もう少し、後でいい。」
そう言うと、確かにゾロの気持ちはサンジに伝わる。

黙ったままのサンジの瞳が微笑んだ。
それだけで、ゾロは自分の口からは出せない沢山の言葉が間違いなく、
サンジに伝わっていると確信する。

そうして、また、サンジの瞳を覗きこめば、同じ様なまなざしの自分が、
自分を見つめていた。

(終り