サンジは、かつて勝利の後、皆で無邪気に遊んだ 池の側に佇んでいた。
空には、明るすぎる月が昇り、驚くほど鮮やかに 金色の光りが
サンジの体の上に注がれて、足元からは真っ直ぐに漆黒の影が石畳に伸びている。
歓迎の宴の途中、どうにも 料理の匂いと酒の匂いが 鼻について中座してきてしまった。
一人でいた方が 体も心も楽だ。
砂漠の夜は驚くほど寒い。
昼間はあんなに暑いのに、今はジャケットを羽織っていても寒いくらいだった。
ふと、目の前の池に月が映り込んでいるのが目に入った。
たゆたう水は、おそらくこれからどんどん 下がっていく気温によって、
凍てついて行くだろう。
サンジは、そっとかがんで 池の中の水に手をいれて見た。
すぐにその手がかじかんで、痛みを覚えるほど冷たい。
チョッパーも。
ゾロも。
ルフィも。
ナミさんも。
ナガッパナも。
ロビンちゃんも。
誰も、サンジは子供を始末すると言っているのに、それを合意してはくれない。
誰もが、産んで欲しいと願っているように見える。
船の上では開腹手術が出来ない?
見え透いた嘘だ、とサンジは見破っていた。
どんな大怪我だろうと、チョッパーは適切に処置して来た。
ただ、腹を切って、いらないものを掻き出し、また 閉じるだけの簡単な手術が出来ないはずなどない。
チョッパーが処置を施さないのなら、そうせざるを得ないようにしてやる。
「悪イな。今度 産まれてくる時は、間違いなく、レディの腹の中に宿れよな。」
サンジは、自分の下腹部をポン、ポン、と軽く叩く。
それに呼応するように、小さな命は激しく身を捩じらせるようにサンジの体の中で蠢いた。
気温はすでに 10度もない。吐く息が白かった。
水面には、ほのかに湯気のような水蒸気が上がっていた。
ジャケットだけを脱ぎ捨てると、サンジはズボンもシャツも身につけたまま、
ジャブジャブと水の中に入って行った。
冷たさと寒さに歯の根が合わず、全身に鳥肌が立つ。
それでも、サンジは水に潜った。
水の中は以外と外気よりは温かく感じた。
月の明かりは、水の中にまで注がれていて、底まで見えるほど明るい。
水面に浮かび上がって、その外気の冷たさに身震いする。
その途端、鉛の玉が腹に叩き付けられたような痛みを感じた。
「うあっ・・・・。」唐突な激痛に、体が竦んだ。
思わず、身をかがめると水面に顔を突っ込む事になる。
サンジは、どうにか 池の端まで泳ぎついた。
「いっつ・・・・つ・・・・。」
全身ずぶぬれで冷えているはずなのに、そんな事はどうでもよく、
腹から心臓の鼓動と同じリズムで全身に重い激痛が走っている。
身動きも、息も、声を上げることさえも出来ず、サンジはその場でうずくまるしかなかった。
腹の中の肉魂が激しく 動く。
(生きたい。)
そんな叫びを確かに聞いた。
何時か、自分もそう強く願っていた事を思い出した。
そして、耳元で誰かが「馬鹿野郎」と怒鳴っている事に気がついた。
痛みに苛まれている体は 目に写る情報、耳に入る情報をことごとく中断させて
サンジの頭の中は、ただ、混沌とするばかりで、何かを考えられる状態ではない。
ただ、緑色の瞳が怒りに燃えているらしい事だけは、どうにか 察知する事が出来た。
気がつくと、見覚えのある部屋のベッドに寝かされていた。
あれほどの激痛が嘘のように消え、体がやけに軽く感じる。
「痛み」を感じないことが、これほどの快感だったとは
今まで 知らなかった、と思えるほど体の中が爽やかだった。
「・・・てめえ、一体どういうつもりだ。」
気を失う前に見た、あの瞳がそのまま 側にあった。
「お前には、関係ねえだろ。」
ふてぶてしいサンジの態度にゾロは怒りを通り越して 哀しみを覚える。
「関係ねえの一言で済まそうとするんじゃねえよ。」
ゾロは、ベッドの端に腰を下ろした。
サンジの顔の両端に手を押し付けて視線を逃さないように上から 海色の瞳を見下ろした。
「てめえが嫌がってる事は百も承知だ。」
「焦らなくても、てめえの言うとおりにしてやるから、無茶するな。」
「・・・本当か?」ゾロの言葉をサンジは思わず 聞き返す。
勿論、嘘だ。だが、ここまで無茶をする相手になら、嘘をつくくらいで
罪悪感を感じる事などない。
「とにかく、てめえの目論みは失敗したんだ。チョッパーに任せとけ。」
そう言って、ゾロはそれ以上の叱責の言葉を飲み込んだ。
目論みは失敗した・・・?と言うことは、俺の腹の中には、まだ・・??
そう思ったとき、サンジに怒りをぶつけるようにかなりの圧力を持って
胎児は胎動を伝えてくる。
それは、一瞬息が詰まるほど強烈で、胎児の大きさそのものが急成長している事も伺えた。
サンジとゾロの間に沈黙だけが横たわる。
「そうだ。今日は俺の誕生日らしいぞ。」
ゾロの方が先に口を開いた。
「あ?誕生日イ?」
サンジは 唐突過ぎるゾロの言葉を聞き返した。
「らしいってどういうこった」重ねて聞いたサンジの言葉にゾロは屈託なく答える。
「誰も、本当に自分が生まれた日なんか 覚えてネエだろ。」
「この日が誕生日だって言われりゃ、そうなるだろ。」
なるほど、とサンジはゾロの言葉に同意する。
自分の誕生日だって、オービット号に乗っている時に
周りが勝手にそう決めただけで、本当の誕生日など知らないし、別に興味もなかった。
「別に誰に祝ってもらおうなんて 思ってねえが。」というゾロに
サンジは真面目な顔で相槌を打つ。
「だろうな、お前が生まれたからって だれがめでてえわけじゃねえしな。」
そんな毒舌にもゾロは平然としている。
「まあな。めでてえ人間はいねえ。ただ、自分が感謝するだけだ。」
「この世に産まれて来た事を、自分が感謝するんだ。」
誰かに祝ってもらうためのものじゃなくてもいい。
こうして、生きている。
生きているから、夢を見た。
「・・・人間、生まれた瞬間から、避けられねえことがたった一つだけある。」
「死ぬ事か。」ゾロの言葉をサンジが引き継いだ。
ゾロは、頷いた。
「そうだ、生まれた瞬間に、もう死ぬ事だけは決まってるんだ。」
「それでも、生まれてくる。生きる為に、生まれて来るんだ。」
「もういい。そんな話し、聞きたくねえ。」
ゾロが誕生日にかこつけて、腹の中の生き物を生かそうとしている事を
サンジは察して、会話を打ちきろうとした。
だが、一旦、口を開いた以上、言いたいこと言わなければ気が済まないし、
サンジが産まないと言い張って、譲れないのと同じ気持ちで、ゾロも
産んで欲しい、いや、生かしてやって欲しい、と言う願いを譲れない。
「いいから、聞け。」
「聞きたくねえ。それ以上、喋るなら 出ていけ。」
「俺が言うのが、うっとおしいのか、それとも 聞く耳を持ったら
自分の決心が揺らぐからか、どっちだ。」
尚も食い下がるゾロに、サンジが唐突にキレた。
「グダグダ、うるせえ、関係ねエッつってんだろ!てめえに何がわかる!」
ゾロの所為だなどとは、考えた事がなかった。
そこに行きつくまでに、始末する事しか、頭になかったからだ。
「生かしてやれよ。」
激昂するサンジとは反対に ゾロの声は落ち着いていて、静かだった。
「そいつがいても、いなくても、俺達の間は何も変わらねえ。」
ゾロの言葉は、重い。
全てが真実で、全てが信じられる。いや、信じられた。
けれど、サンジにとっては、このゾロの言葉は酷く あやふやで、
全く信用できない、口先だけの言葉にしか 聞こえなかった。
「なんの根拠もねえ事いうな!」いきなり、起き上がったと思ったら、
布団を投げ飛ばし、ベッドを蹴って床に降り立ち、ゾロの顎から上へと足を振り上げて蹴り飛ばそうとする。
「おい、動くな!」紙一重で体を仰け反らせてそれを避け、ゾロは後ろへと飛びずさった。
「俺達の間は何も変わらねえだと?俺の気持ちなんか、なんにもわからねえくせに、
偉そうなことをヌカすな!」
「そんなに産んで欲しきゃ、産んでやるよ。てめえにくれてやる。その代わり、
俺はもう お前を特別な目で見ない。お前も 俺に構う・・・。」
激痛が体を貫いた。
俺に構うな。お前とは ただ、同じ海賊船に乗っているだけの、
顔見知りになる。
そう言いたかった、最中に 腹の中がベリベリと音を立てて
内臓の肉を削ぎ落とされているような、凄まじい痛みだった。
腹の中の胎児がのた打ち回っている。
それを感じながら、体中の感覚がすべて痛みに支配され尽くし、目の前が真っ赤になった。
ゾロがなにか 叫んでいる。
けれど、聞こえない。
ああ、本当にこいつは俺の腹を裂いて出てくるつもりだ。
それなら、それでいい。
俺の命を食い尽くして、出てこい。
本当に生きたいのなら、俺がジジイの夢を食いつぶしてここにいるように、
お前も俺を食い尽くせ。
それぐらいの根性、見せねえと あいつは育ててなんてくれねえぞ。
激痛に遠のく意識の中で 複雑な心の叫びをサンジは 胎児に向かって、吐き出していた。
サンジが妊娠したと発覚してから、僅かに3ヶ月足らず。
出口のない、サンジの肉体の中で 胎児は生きるために必死で出口を求めて暴れまわっている。
チョッパーは、サンジに極力 弱い麻酔を施した。
子供が眠ってしまわないように。
限りなく、ゼロに近い可能性を それでも信じて、
チョッパーはサンジの腹にメスを入れた。
いわゆる、胎盤剥離に近い状態だった。
メスを入れる前、チョッパーはゾロに 口早に尋ねた。
「子供とサンジ、どちらかを助けるなら、サンジを助けるよ。それでいいね、ゾロ」
ゾロは、その問いに迷いなく 頷いた。
緊迫して、強張ったチョッパーの表情を見て、
どちらか、一方だけしか助けられない状態にあることを
察して、その時点で あの小さな、確かに命の息吹を感じさせてくれた命に
別れを告げる。
胎盤剥離とは。
胎児と母体を繋ぐ 胎盤が何らかの原因で剥がれ落ちてしまうことだ。
そうなると、母体は大出血を起こすし、胎盤と齋能(へその緒)が繋がっていて、
そこから呼吸をしている胎児は、呼吸も栄養補給も出来なくなり、
死んでしまう。
女性なら出口があるから、早く 陣痛が進めばそれでも 無事に生まれてくる可能性が有るけれども。
サンジの体には、既に出口がなく、胎児は呼吸が出来なかった。
失血性のショックで、サンジも命の危険に晒される。
もしも、アルバーナの宮殿でなく、ゴーイングメリー号の船上なら、
間違いなく 命を落しているだろう。
「血圧が低すぎます、ドクタートニー。」
「心拍数も下がる一方です、ドクター。」
チョッパーは、次々と報告される診断結果を冷静に分析し、
もっとも 効果的な治療を施していく。
アラバスタの医学も医者も、非常に優秀で、
彼らの尽力ともともとサンジに備わっていた体力の所為で、2日目にようやく落ちついた。
その間、胎児の安否など ゾロが案ずる暇などなかった。
自分のしでかした不始末の所為で、サンジが生死の境をさ迷っている。
しかも、側に近づくことさえ チョッパーは許してくれなかった。
「熱が高いんだ。まだ、予断は許せないけど、取りあえずは、山は越えたよ。」
疲労困憊のチョッパーは、仮眠を取る前に、ゾロにサンジの状態を教えてくれた。
その時になって、始めてゾロは、胎児のことが気にかかった。
「チョッパー。・・・・ダメだったのか。」
恐る恐る、尋ねてみる。
チョッパーの顔が歪み、帽子を深く被った。
「あれだけ動いてたから、もしかしたら 普通の赤ん坊じゃない、無事に産まれてくれるかもと思ったんだけど・・・。」
「おなかの中に2ヶ月しかいないんじゃ、育つわけないよ。」といって、背を向けた。
サンジは意識を取り戻した。
だが、胎児のことは聞かなかった。
聞かなくても、わかる。あの状態で、たった2ヶ月しか腹にいなかったのだ。
無事に産まれているはずがない。
良かった。
そう思えるはずなのに。
ずっと、始末するつもりでいたのに。
心の中が、厚い雨雲に覆われた どんよりと曇った空のようなそんな感覚で満たされていた。
意識を取り戻してすぐに、ゾロの顔を見た途端、自分の身勝手さを急に思い知らされたような気がした。
「・・・お前が悪いわけじゃねえ。」
その感情が顔に出ていたのだろうか、ゾロはいきなり サンジにそう声をかけた。
そして、横たわっていたサンジを性急な動きで起きあがらせると、しっかりと抱きしめた。
「お前が残ったんなら、それでいいんだ。」
所詮、俺達には何かを生み出すなんて、無理だったのだ、とゾロは考えた。
「・・・お前の分身だって事、全然 考えてなかった。」
いなくなって見て、始めて実感した。
あの肉魂だとしか思えなかった存在は、確かに ゾロと自分の命の欠片だったのだ。
失ってみて わかったとしても もう 遅すぎる。
後悔などしても無駄なことだ。
ゾロも、サンジも お互いを責めなかった。
このまま、同じ位置に立って同じ道を行く事には変わりない。
それを選んだ犠牲が あの小さな命なのなら、その償いに決して その道を違えてはならない。
言葉には出さずに、お互いの心の中だけで、それを誓った。
そして、月日は流れ。
20年の歳月が流れて。
アラバスタ王国は、ビビ女王の一人息子が即位した。
「ネフェクタリ・サニート」と言う名の新国王は 人並みはずれて 強く、
そして、優しく、さすがはコブラ国王の孫だと 国民から絶大な信望を集めていた。
国の未来を見据える瞳は、深い海の色を彷彿とさせた。
砂漠の風に梳かれるのは、実り豊かなオアシスの緑色の髪だった。
(終り)
最後まで、読んでいただき有難うございました。
「サンジの出産」というネタで、かなり苦しみました。
というか、自分も出産を経験していますので、
それがどれだけ大変なものか、知っているだけに サンジと出産が
結びつかなかったのです。
10ヶ月にもなれば、ウエストは80センチです。
ケツもでかくなり、乳も物凄い事になります。
ビジュアル的に臨月のサンジを書くのは 辛いので、もう、2ヶ月くらいで産ませました。
悪魔の実の能力で孕んだのですから、子供もその作用を受けて、
2ヶ月なのに、しっかり育ってたんですね。大きさは、
だいたい、野球のボールくらいだと思って頂ければ。
桃太郎か、一寸法師を想像してください。