第三話「恋人の色」


易々と三階まで登って来たゾロは、片手に握りこんでいたダイアルをサンジに翳して見せ、
「ホーホー」と音を鳴らし、黙って悪戯っぽく笑った。

「…あ…ああ、ダイアルだったのか」と何か、思ってもいない、間抜けな言葉が勝手に口から出て行く。
ゾロの顔を見た途端、懐かしさと恋しさが喉に詰まって、言葉が出てこない。
ただ、たった数日、しかもなんの危険もない場所にいて、ほんの少しの時間、離れていただけなのに。

当たり前の様に側で過ごしている時は、全く感じない、新鮮な感覚だった。
ゾロの髪の色がこんなにも緑色だった事、ゾロの瞳がこんなにも翡翠色だった事を急に思い出した気がする。ゾロを形作っている色々な色が、一つ一つ、やけにはっきりと色鮮やかに見えて、それに心ごと惹き付けられている。そんな自分にサンジは驚いて、竦んで、
どうしていいのか、わからない。だが、そんな妙な気持ちを、ゾロに悟られたくはない。

「…なんで、お前が来たんだよ」と、必死に出した言葉はいつもどおりの憎まれ口だった。
「…なんだ、俺じゃ不満か?」ゾロはそう言って笑いながら、後ろ手に窓を閉める。

不満か、と言われたら、勿論不満ではない。むしろ、思いもしなかった事だから、正直、戸惑うくらいに嬉しい。けれど、それをバカ正直に言うほど、サンジは素直でも純情でもない。
かと言って、いつもの様に、「ああ、不満だ、てめえなんかが来てなんの役に立つんだよ」と憎まれ口を叩くのも、嬉しさを噛み殺して、感情がむき出しになるのを堪えている今は、
いつもの調子が全く出ない。

その逡巡の所為で、二人の間に、ほんの数秒沈黙が流れた。

(…わっ!)と思い、むき出しの細い腕に、少し軋んだ様に痛みを感じたら、その時にはもう、サンジはゾロの腕の中にいた。

ゾロの髪、ゾロの肌、ゾロの眼を追い続けていたサンジの瞳が、意思や強がりを振り切って、腕の中にいても、ゾロの髪、ゾロの肌、ゾロの眼の色を勝手に追い駆けていく。
ゾロは、まるで薄膜の様に夜の冷気を纏っていた。
その少し冷えた体温で、サンジの体を包みこむ。
その温度が肌に触れ、染みこみ込んで来るのを感じると、何故か、ゾロの色を追い駆ける事よりも、その温もりが心地良くて目を閉じたくなる。

ゾロの声は何も聞こえない。
腕の中にサンジを包み、ゾロは、その温もりと鼓動で「眼を閉じろ」と優しく囁く。

言葉でなら、いくらでも言い返せる。反発もし、反抗もし、強がりもし、意地も張れる。
けれど、自分だけに聞えるその優しい声に、心が素直に頷き、瞼が勝手に閉じられていく。

余計な言葉を吐かず、必要な言葉だけを囁く為に、ゾロは啄ばむようにサンジの唇に触れる。

心を覆っている余計なモノが一切取り払われて、丸裸にされてしまった気がした。
それでも、その感覚は春の風の中をフワフワと飛んでいる様に心地良い。
もう少し、この感覚に浸って、甘えていたくて、サンジはゾロの腕を振り払えない。

俺じゃ不満か?と問われたら、不満じゃない、と答えてしまう。
会いたかった、と素直に言われたら、俺もだ、と素直に答えてしまう。

無駄に、沢山の言葉を交わすよりも、ただ、そうして唇だけを重ねて触れているだけで、ゾロが何を言いたくて、サンジからどんな言葉を聞きたくて、ここへ来たのか、何もかも分かる気がした。

「…首尾はどうだ?」
このまま、甘い感覚に飲み込まれたら、もっと温もりが欲しくなる。
名残惜しげに唇をどちらからともなく唇を話すと、最初にゾロがサンジにそう尋ねた。
それでも、その手はまだサンジの頭を包んで、その指にはサンジの髪が絡んでいる。

「…あんまり良くねえよ。まだ、…見つけられねえ」
「そうか」

サンジの言葉にゾロは相槌を打つと、もう一度、サンジの頭を引きつけ、唇を重ねた。

「「…ちゃんと、メシ、食ってるか」」
唇が離れた途端、二人は同じ言葉を口にする。
「…俺が聞いてるんだ。答えろ」とゾロが言えば、
「俺の方が先に聞いただろ。お前が先に答えろよ」とサンジも言い返す。
そう言いながらも、「お前にメシの心配される覚えはねえよ。メイドなんだから、メシは出る」とサンジが言うと、ゾロはまたからかうような顔をして、
「そうか。その発育不良の体、何とかしねえといけねえんだから、しっかり食えよ」と言う。
「…悪かったな、発育不良で」

背格好は、16,7でも、体の中は十歳そこそこ、と言う今のサンジの体は、まだまだ大人の体とは言えない。
けれど、体が変わっても、ゾロとの時に激しく、時に甘やかな営みの、その後の満足感と幸福感は、少しも消えずにサンジの心にしっかりと刻み込まれている。

お互い、言葉が不器用で、ぶっきらぼうな分、好きだと言う気持ちや、側にいて欲しいと言う気持ちを伝えたい時、嬉しさ、寂しさを分かち合う時、お互いの気持ちが一つだと確かめ合う時、心を素手で触る様に肌を合わせてきた。

だから、今でもサンジはゾロに触れたい。きっと、ゾロも同じだろう。
けれど、「発育不良」の体は、どんなにサンジが望んでも、ゾロの熱を拒んで、受け付けてくれない。
「悪かったな、発育不良で」、と言い返した時、軽くゾロに詰られた気がして、
サンジは思わず口を尖らせた。

「…なんだ、その面。不満なのはお互い様だろ。俺だって、辛抱してんだ」
「辛抱しろってチョッパーは言ったかも知れねえが、…俺は言ってねえぞ」
そうサンジがボソリと呟いても、「ああ。でも、辛抱する。俺がそう決めたんだ」とゾロは
真面目に取り合わない。

ゾロは床に腰を下ろし、当たり前のようにサンジを膝の上に乗せたまま、壁にもたれた。そしてまた、二人はまた、じゃれ合うように口付けを交わす。



「…お前が、元の姿に戻るか、…俺をちゃんと受け入れる体になるまで、俺は辛抱する」
「俺とヤって、お前も気持ちいいって感じねえと、…なんか、イマイチ楽しめねえからな」
「…今は、こうやってりゃ、それでいい」
そう言って、ゾロは笑っている。
「…こっちは、なんとかやってる。味はお前仕込みだから、食えねえ事はねえ。…なんか、物足りねえけどな」
「…ま、とにかくさっさと例のブツ、見つけて帰って来い」
「ああ、分かってる。…そっちの地図はどうだ?何か分かった事あるか?」

二人は、抱き合い、向かい合ったまま、他愛ない話をする様に本題に入った。

ゾロ曰く。
半分だけとは言え、何処の島か大よそ分かった、と言う事。
今、その島へ向かうログを手に入れるために、色々とナミが画策している,と言う事。

「それから、お前が寄越したあの…紙。ロビンも見た事ねえらしい」
「それで、なんだかんだ調べたら、どうも文字じゃなくて暗号じゃねえかって事になって、今、解読してる。途中まで解読できたから、これ、持って来た」
そう言って、ゾロは胸元のポケットから紙切れを取り出し、サンジに手渡した。

「…祝福の宴…、復活の夜…、前夜祭…え、なんだ、たったこれだけか」
「違う。途中っつっただろ。今のところ、ロビンが解読出来たのはそれだけだ」

(…復活の夜って…前夜祭ってなんだ。これ、今夜のパーティの事だったよな?)

ゾロの膝の上に乗ったまま、サンジはロビンの字で書かれた文字を睨むように眺めた。

すると、突然、ゾロが灯りを消し、座ったまま手を伸ばして急いでカーテンをサッ…と引く。
「…なんだ?」「…し…」
サンジもゾロが感じた外の異様な気配を感じ取り、二人は床を這う様にして窓際に近付いた。

カーテンをそっとたくし上げ、息で曇る窓を指の腹でそっと拭いて、月明かりに照らされる裏庭を見下ろす。
真っ暗な部屋の中の様子は、絶対に外からは見えない筈だ。

「…聞えるか?」「…ああ」
ゾロに耳打ちされて、サンジは耳を清ます。遠く、風が裏庭の枯れ草の上を渡っていく音に混ざって、何人もの人が低く、歌を歌っている様な声が聞こえてくる。
さらに目を凝らすと、裏庭を今夜の招待客らしい真っ黒な人影が、一人一人、火を灯した小さな蝋燭を手に持ち、列を成し、歩いていくのが見えた。

「…なんだ、ありゃ…」
「あっちには、物置部屋があるだけだ。なんでそんなところに…」
幽霊か、葬列を見ているようで、なんとなく薄気味悪い。きっとゾロもそう感じているだろう。

遠くに聞えていた招待客のざわめきが完全に消え、真っ黒な人影も裏庭の何処かへ消えた。別荘の中は完全に静寂に包まれる。抜け出すなら、今だ。

「…お前、一人で帰れるのか?」とゾロに尋ね、
「いや。下でロビンが待ってる」と言う答えを聞いて、「何?!」サンジは飛び上がりそうになった。

「お、お前一人で来たんじゃないねえのか!」
「俺は一人で行けるし、帰れるって言ったんだが、ロビンも行くって言うから連れて来てやった」飄然と言うゾロの言葉にサンジは、恐る恐る窓を開けた。

だが、ロビンの姿はない。少し、サンジはホ、とした。
(…やっぱり、冷静に考えれば、やはりこいつが一人でここに来れる訳ねえんだ)
(こいつの面見た途端、そんな有り得ない可能性が頭から吹っ飛んじまってた…!)

気を利かせてくれたのだろうが、寂しさを見抜かれ、ロビンの思惑に、まんまとハマって、ゾロに甘えてしまった自分が恥ずかしい。

「…来たら合図するって言ってた」「…そうか。ロビンちゃんの顔も見たかったのに…」
「…ふン」言い訳がましいサンジの言葉を聞いて、ゾロはバカにした様に鼻を鳴らした。
「…取ってつけたような事言うんじゃねえよ」
「…ああ?てめえが来るよりロビンちゃんの方が…」サンジがそう言いかけた時、窓ガラルに小石がコツン、と当たる音がした。

「また、来る」そう言いざま、ゾロはまた今の体ではとても抗えない力強さで、強引にサンジを引き寄せ、抱き締めた。瞬きも目を閉じる事もできず、サンジの目はゾロの色を映し、唇だけが重なる。
我に返った時には、もう、ゾロの姿は闇の中に消えていた。

「また、来る」のは明日か、明後日か。その時、サンジはわからなかった。
けれど、奇跡的にも、その数日後、ゾロはサンジの元に一人でやって来た。

もう、特に目新しい情報などはなかった。ただ、他愛ない話をし、肌を寄せ合うだけ。
ゾロがここに来るのは、サンジが恋しいからだ。
サンジが、夜毎、ゾロを待つ様になったのは、ゾロが恋しいからだ。

ゾロの唇がサンジにそう言い、サンジの唇がゾロにそう囁く。

なかなか物事の進展がつかずに、あっという間に一月が経った。

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