第三話「長い夜」


とにかく、告白だ。それがなければ、先に進んではいけない。
好きです、と伝えて、それから、キスをしていいかを聞いて、OKして貰えたら、
それから、その次は…

そんな風に、瞬き出来るか出来ないか、それくらい短い時間でコビーの頭は物凄い速さで回転している。爆発しそうな心臓の音が、頭の血管の壁にまで振動していて、その所為なのか、視界はストロボを焚いている様にコマ送りに見えて来た。
やけに口の中が乾いて、思わずコビーは生唾を飲む。ゴクン…とイヤに卑しい、大きな音がした。

「…あ、着替えがいるよな」
自分の部屋の、開けっ放しのドアを入ると、カールが背を向けて棒立ちになってそう呟き、振り返る。濡れたシャツに透けて、体の線がはっきりと見える。なだらかにくびれた腰がとても細くて、日々の訓練で鍛え上げた腕力に任せて思い切り抱き締めれば、簡単に折れてしまいそうだ。
カールの進路を遮る様に立っているコビーはもう、目が燃える様に熱くて、瞬きも出来ない。
「…着替え持ってくるから、そこ、通し…」
何の警戒もなく、あっけらかんとそう言うカールの言葉を、コビーは最後まで聞かなかった。
気がつけば、息を止めて、両腕でカールをギュっと抱き締めていた。

一瞬、グラリと眩暈がしたのは、体の中心に向かって体中の血液が一気に流れ込んでいくからだ。自分の心臓の鼓動が体全体へと広がって、手が震えて、解こうと思ってももう解けない。

コンナコト、シチャイケナイ。

そう思うのに、全く体が言う事を聞いてくれない。
驚いて、目を見開いて体を強張らせているカールの顔がどんどん近づいてくる。
それは、コビーの顔が、唇が、皮を剥いた葡萄の実の様な、柔かく瑞々しいカールの唇に近づいているからだ。そんな事すら、コビーは自覚出来ない。

「…やめろ、このクソ海兵!」低くそう凄んで、カールは身を捩る。
ドラムで会った頃のコビーなら、カールにそう怒鳴られ、竦んだ所を一気に蹴り飛ばされていただろう。だが、もうあの頃のコビーではない。
いくらカールが人並みはずれた蹴りを繰り出す事が出来ても、所詮はか弱い少女だ。
今のコビーの腕力を振り払う事など到底出来ない。

「…僕は…僕は、あれから、ずっと君の事が…!」そう言いながら、コビーはぐいぐいと
強引に壁際にカールを押し付ける。もう、この腕の中から絶対に逃がさない。

ここで強引に事を運べば、どうなるか、そんな理性などとうに吹っ飛んでいる。

僕は、あれからずっと君の事が好きです。その言葉すら、最後まで言えない。
無理矢理唇をカールの顔に押し付けても、嫌がって暴れる所為で、なかなか唇を掠めず、
コビーの唇は徒にカールの頬や、鼻筋を撫でるだけだ。

「…イヤだって言ってるだろ!手を離さねえと、ぶっ殺すぞ!」とカールの罵詈雑言が耳に入っても、それはもうコビーにとって意味のある言葉として聞えて来ないし、だから理解も出来ない。

逃げようとするカール、それを逃がすまいとするコビー、二人はもつれ合って壁を横ばいし、遂に足がもつれ合って、床に倒れこんだ。
そうなると、もう女に勝ち目はない。獣の本能が宿ったコビーの手は、濡れて重たいカールのシャツをはがそうと、襟元を引っ掴んだ。

「…お、おい、マジで止めろって!冗談だろ、頼むから止めろ!」
自分の肩を必死に押し戻すカールの顔色がだんだんと蒼ざめてきている。それが見えているのに、馬乗りになってカールのシャツを思い切り両手でグッ、と寛げた。
カールの濡れて艶やかかな乳房、その先端の桃色の小さく尖った可愛らしい突起。
それを見た途端、コビーの頭が完全に真っ白になる。

だが、暴走はそこまでだった。

「…何をしてるんですか、海兵殿!」

グーラのその怒鳴り声で、コビーの意識が現実に引き戻される。

「当家のメイドに、なんて事を!」グーラは血管がブチ切れそうな程の勢いでコビーに
近付き、襟首を掴んで、乱暴にカールから引き剥がした。

「…あ、あの…」
下半身に集まっていた血が一気に引いていく。
怯えて、床にうずくまり、小さく丸くなっているカール、自分を敵意むき出しの目で睨みつけるグーラ。その様子を目が映し出した途端、コビーは自分が何をやろうとしていたかを瞬時に思い出した。

「…世界政府の海兵ともあろう方がこんな非道無礼極まりない、不埒な事をなさるとは…!」
「年端も行かない娘を力任せに乱暴なさろうとするなんて…言語道断ですぞ!」

昼間見た、温厚な様子とはうって変わって、グーラは今にも火を吹き出しそうに激怒している。その気迫はまるで、本当に自分の娘を手篭めにされた父親そのものだ。
そのグーラ、身が縮む程の罪悪感を覚えて立ち竦むコビーが気圧されるのは当然だ。

「あなたには、即刻、この屋敷から立ち去って頂きます!」
「もちろん、この事は海軍本部にも伝えますからな。そのおつもりで!」
「…待ってください、ムッシュ・グーラ!」

カールは床にへたり込んだまま、肌蹴たシャツの前を合わせながら顔を上げた。

「…これは、あの…私が悪いんです…」
(…え…)

カールのその言葉を聞いて、コビーは愕然とし、思わずカールを見詰める。
コビーは縋るような眼差しでグーラを見上げ、
「…私が部屋の蛇口を壊してしまって、…それでコビーさんに助けて下さい、とお願いしたんです」
「それで、部屋が水浸しで寝れないだろうから、ここで休みなさいって言って下さって」
「それで、あの…あの、ただ、それだけです。別に不埒な事はなにも…」
「…カールや、」

グーラは優しげな声と眼差しをカールに向けて、その目の前にしゃがんだ。
そして、コビーが最初にした通り、自分の上着を脱いで、そっとカールに羽織らせる。
さらに、その前のボタンまで、一つ一つ丁寧に留めはじめた。
「…お前は、この国の軍事参謀である旦那様の大事なメイドなのだよ」
「お前が誘ったのか、この海兵殿がお前に欲望を抱いたのかなど、大した問題ではないのだ」
「…例え海兵であろうと、何処の馬の骨とも知れない男とこのお屋敷内で如何わしい関係になったら、それはお前の身を穢すだけでなく、旦那様の醜聞にもなる」
「…だから、くれぐれも身持ちには気をつけろと、重々言い聞かせておいたね?」
「…それとも、その言いつけを忘れてしまったのかね?」
優しげだけれど、毅然とした、グーラの厳しい声音にカールは「…申し訳ありません…」とうな垂れた。

「…もう、決してこんなふしだらな事はしません。だから、どうか許してください…」
「何を言う。お前がふしだらだなんて、私は思ってもいないよ、カール。だからお前が出て行く事はない」

グーラは目を細め、そう言ってカールの頭を愛しげに撫でた。
「…お前は、この海兵さんを庇っているのだね?」
グーラがそう尋ねると、カールは頷き、
「…私がこんな格好だったから、…コビーさんは、そんな気になってしまわれただけです」
「私の油断の所為で、コビーさんの将来に傷がつくなんて、…申し訳なくて…」
「コビーさんが責められて、私が何も責められないのは不公平です」
「私をここにおいて下さるなら、どうか、コビーさんを咎めないで下さい」
「コビーさんを追い出すなら、私も同じ罪で咎めて追い出してください…」

(…カールさん…)コビーは、カールとグーラのやり取りを見て、胸が苦しくなった。
今すぐ、消える事が出来るなら、この世から消え去ってしまいたい。

熱い息を吐きかけ、頬や額に遮二無二唇を押し付け、硬くなった男の性器を布越しにでも体に押し付け、押し倒し、無理矢理裸に剥こうとした男を、カールは庇ってくれている。
(…情けない…)
男と言う生き物がこんなにもミジメで情けない生き物だったとは、コビーは今まで知らなかった。男の愚かさを骨の髄まで思い知った。

カールはどれだけどれだけ怖かっただろう。自分をおぞましく思っただろう。
それを考えると、コビーは今、ここにいる事が居た堪れない。

さんざん、カールに懇願され、とうとうグーラは苦笑いし、立ち上がった。
「…わかった。私はどうも、お前に頼まれると何事も嫌とは言えないらしい」
「お前がそこまで言うのなら、今回だけは眼を瞑ろう」
「お前ほどの賢いメイドをこんな事で易々とは手放せない」
そう言って、優しく手を伸ばし、支えるようにしてカールを立たせる。

執事がメイドに対する態度とはは明らかに違い、まるで仕えている主人の娘を扱う様に
腰を屈め、カールの手に口付けた。
だが、その柔かな物腰とは裏腹に、眼光だけが一瞬、鋭くなり、
「…こんな事を許すのは、本当に今回だけだ。とくと肝に銘じておくのだよ」
「お前は、…この家にとって、本当に大事な娘なのだから…」と、静かに言った。
「…はい…」何も言い返す事無く、カールはグーラの言葉に素直に頷く。

結局、その夜、カールはコビーの部屋で休み、逆にコビーが水浸しの部屋を自分で掃除して寝る、と言う事で落ち着いた。
グーラも来客の世話をするのに忙しく、そう長い時間、メイドと警備係の騒動になど、関わってはいられないのだろう。

(…でも、なんであのタイミングで…?)ふと、床を這う様にして水を拭いながら、コビーはそんな事が気に掛かっていた。
夜、カールは酔客の相手をすることなく、早く寝る、と言っていた。
この家では、少なくとも夜中に、執事がメイドに命じる仕事など何もない筈だ。
それに、最初からカールの身に何かあったと分かっていて踏み込んできた、そんな感じだった事をコビーはまざまざと思い出す。

沢山の来客の賑わう応接間にいて、天井裏の騒ぎにグーラだけが気付いたとは思えない。

(…いずれにせよ、あの執事さえ来なきゃ…僕はカールさんを…)
ふと、そんな恨みが頭をもたげたが、コビーは頭をブンブン、と振る。
(…あれで良かったんだ。あのまま、暴走してたら、…取り返しのつかない事になってた)

とりあえず、床はなんとか綺麗に拭いた。だが、ベッドの上のシーツはびしょ濡れでとてもそこでは眠れない。
(仕方ない。今夜は、壁にもたれて寝るか…)
そう思って、座り込むとどっと疲れが出てきたのを感じた。
今日は色々な事が一度に起こって、目まぐるしい一日だった。
肉体的には、全く疲労していない筈なのに、とても眠くてこれ以上はもう、何も考えられない。
コビーは足を投げ出し、壁にもたれて、薄いランプの灯りを少し落としてから、深く、大きく、溜息を一つつき、それから静かに目を閉じる。

遠くに聞えていた来客のざわめきが遠くなり、部屋の中は静寂に包まれて、なんの物音も聞えない。

そんな静寂の中、ほんの短い時間にすっかり眠り込んでいたらしい。
トントン…と、控えめなノックの音がした様な気がして、まどろみから醒めた。
けれど、まだ夜の闇は深く、窓からカーテン越しに差し込む月光は、壁にもたれて目を閉じた時よりもさえざえと明るくなっていた。

(…気のせいか…?)そう思ったけれども、コビーはドアの向うの気配を探る。
ドアノブが微かにカチャリ…と音を立てて回った。

コビーは慌てて、目を閉じる。気配の主は警戒する相手ではない。なのに、また心臓が
爆発しそうな鼓動を打ち始める。

足音を忍ばせて、カールがそっと近付いて来る。
目を閉じていても、その気配は、はっきりとわかった。

黙って息を潜ませて近づいてくるのは、きっと、コビーを起さない為だ。
そうして、カールはそっとコビーの体にふわりと毛布を被せてくれた。

それから、また足音を忍ばせて、部屋を出て行く。パタン…と閉まるドアだけが微かに音を立てる。その音を聞いてから、コビーは目を開けた。

ありがとう、と、それすら言えない自分の意気地の無さに、じわりと目の奥が痛くなる。
さっきまで眠たかったのに、カールに掛けられた毛布の温もりが切なくて、
コビーの目はまた冴えてしまった。

壁の向こう、さっき自分が顔を埋めた枕に今、カールは顔を埋めて眠ろうとしている。
その寝顔を思い浮かべるだけで、またコビーの胸に切なさが募って行く。

自分のしでかした事に対して、コビーは一睡もせず、猛烈に反省し続けた。
どのくらいそうしていただろう。窓に見えていた月がもう全く見えなくなっている。

(…なんだ?)コビーの神経が急に逆立った。
屋根の上を誰かが歩いている、確かにそんなそんな物音がする。
そして、その足音は自分の真上で、何かを探すように止まった。

そして、コツン、コツン、と天井から何か、細い棒の先で突付いている様な音が聞こえてくる。だが、その気配が突然、全く消えた。いや、その相手は自分の気配を完全に殺したのだ。
明らかに、何者かが、それも自分の気配を自在に消す事が出来るかなり腕の立つ相手が、
この屋敷に潜入しようとしている。コビーはそう判断し、バンダナを巻きなおして、立ち上がった。


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