第二話「恋敵」


「…ムッシュ、グーラ…その人達は?」
その声が、コビーの心臓を鷲掴みにする。
好きだ、大好きだ、と思い続けてきて、その自覚はしっかりとあった。
けれど、ただ手が戦慄くだけで、一歩も足が前へ出ない。
(…こんな筈じゃない…)と思うのに、どうしようもない。
でくの坊のようにただ突っ立っているだけで、体も動かず、声も出せない。こんなになる程、カールが好きだったとは、コビー自身も今の今まで知らなかった。

「新しい執事見習いですよ、カール」そう言って、グーラはコビー達を振り返る。
そうして、コビーはハッと我に返る。ふと気になって、ヘルメッポを見ると、その横顔も目を見開いたまま、固まっていた。

先んずれば、敵を制す…!
その言葉が、コビーの頭の中に稲妻の様に走った。

「コビーです、カールさん」コビーは、ヘルメッポより早く名乗り出て、一歩、進み出る。
「…コビーさん?」初めて見る人間に自分の名前を馴れ馴れしく呼ばれて、怪訝に思ったのだろう、カールは小首をかしげる。その仕草を見ただけでも、コビーは頭が少しクラクラした。

「ドラムで、会った海兵です。一緒にワポルを倒したじゃないですか?!」
「カールさんは、プリンセスって呼ばれてて…」
「あ!」コビーの言葉の途中で、カールの表情が突然、変わった。
曇り空の切れ目から太陽の光が突然地上に降り注いだかの様に、たったそれだけの表情の変化で、世界中が明るくなった気がする。

「え、マジで…!いや、ホントに…?!」そう言ってから、興味深深、と言った顔付きで、子猫が悪戯をしかけるように、僅かに腰を屈めて近付いてきて、マジマジと下からコビーを見上げる。
「…ホントに…?海兵のコビーさん…?」
「そうです」「…海兵のコビーさんが、どうしてここに…?」

カールの表情は柔かく微笑んでいる。だが、どこか警戒されているようにも感じられた。
コビーが思うほど、カールはこの再会を心から喜んでいない。
その事にコビーはすぐに気付いた。(…そりゃそうだ。だって、彼女は…)
彼女は海賊だ。世界一、凶暴な淑女だ。どんなに可憐な姿でも、中身は立派に勇猛な海賊なのだ。つまり、コビーとは敵味方。それをコビーはすっかり忘れていた。

「…お知り合いですか?」グーラがそうカールに尋ねる。
「…ええ、昔働いていたお屋敷で何度かお会いした事がある方です。でも…すっかりご立派になったから、どなただか、お顔を見ただけじゃ思い出せませんでした」
カールは滑らかにそう答えてヘルメッポにも軽く会釈をする。

(…海賊だって事、隠してるのか…?それとも、足を洗ってくれたのか…?)
何かを狙い、ずっとメイドをしていた、と言う触れ込みでこの屋敷に入り込んだのか。
それとも、本当に足を洗ったのか。例え、過去の事でも、海賊をしていた、と言えば当然、こんな名家で、メイドなどと言う住み込みの仕事が出来ない。だから、本当の事を隠しているのか。さらりと、顔色一つ変えずに、カールは嘘を言ってのけた。だが、その言葉を聞いただけではどうとも判断がつかない。

(…足を洗っていてくれたらいいのに…)と祈るばかりだ。

以前出会った時、カールは麦わらの一味の海賊として、彼らと共に行動していた。
麦わらの一味と言えば、アラバスタでクロコダイルを倒してから、忽然と姿を消したとは言え、今や、王下七武海の一角を突き崩した海賊団だ。
何を企んでいるのか、何かを企んでいるのなら、当然、知る必要がある。
まして、海兵である以上、捕縛できる機会が目の前にあるなら、それを黙って見逃すわけには行かない。

「ムッシュグーラ…、私、このまま厨房へ行きます。ご案内するついでに、お屋敷内の事、私からも色々と、お二人にご説明させて頂いていいですか?久し振りにお会い出来たから、色々お話も伺いたいし」
グーラも、可愛らしいカールを憎からず思っているのだろう。カールが何を言っても、笑って許しているらしく、「おや…そうかい。じゃあ、頼むよ」とにこやかに答え、後の事を
カールに任せて、屋敷に戻って行った。

* **

「…執事見習いって、一体どう言う事ですか?」
グーラが立ち去ってから、辺りの様子を窺い、人の気配がないと確認してから、
カールはコビーにそう尋ねた。やはり、その表情にはまた警戒の色が少し滲んでいる。

「…君こそ、どうしてここに?」
コビーが尋ねるより先、ヘルメッポがカールに聞き返した。「…悪イ。名前なんだっけ」
カールは無愛想な声でちらりとヘルメッポを見て、質問に答えずにまず、名前を聞いてきた。

「コビーは覚えてて、俺は忘れたのかい?」
媚びる様な目をし、恨めしげに口を尖らせるヘルメッポに、
「…忘れたんじゃない、あんまり印象に残ってないだけ」と、カールはあくまでも素っ気無い。それが、どういう訳か、コビーの心をどんどん軽くしていく。

「…先に言っておくけど、私は今、このお屋敷のメイドなの」
「…余計な事言われて、クビになったら困るの」

カールはただ、それだけを言った。言い訳じみた言葉を一切並べず、
とてもシンプルに、真っ直ぐにコビーの目を見て、真剣な顔でそう言った。

「今は、海賊じゃないんだね?」
「ルフィさん達とは…もう、別れたんですか?」念のため、コビーはそう尋ねる。
だが、カールは何も答えず、ただ、黙って、うな垂れ、悲しそうに目を伏せる。

その様子を見て、コビーは勝手に思った。
(…きっと、別れ際にとても悲しい想いをしたんだな…。人に話すのも辛いくらいに…)

愛しい人が何も言わなくても、仕草や表情を見ただけで心の内を見透かしてこそ、恋人になる資格がある。
それに、カールの様に清らかな心根の女の子が人を騙す筈がない、騙せる筈がない。

「…今は、…このお屋敷のメイドをしてるって事しか言いたくないんだけど…」と
カールは口篭っている。誰がどう見ても、嘘を言ったり、隠し事をしている様にはとても見えない。

「わかるよ。仲間と別れるのって、ホントに辛いよね」
「思い出したくもないよね…?」
ヘルメッポは、しょんぼりとうな垂れるカールの言葉に、うんうん、と深く頷く。

そんなやりとりを側で見ていると、だんだんコビーは腹が立ってきた。
ヘルメッポとカールが言葉を交わすのを聞いて、その様子が目に入って来るだけで、暴れ出したくなってくる。どうして、こんなにヘルメッポに対して腹が立つのか、自分でも
分からない。が、とにかく、(今…!すぐ…!即刻…!カールさんから半径5メートルは離れろ!)と叫び出してしまいそうな程だ。その衝動を堪えるのに、汗まで出てきた。

けれども、男らしく、懐の深いところも見せ付けたい。そう自分に言い聞かせて、
「カールさんは、どうしてこのお屋敷のメイドに?」と、冷静を装って尋ねた。
「…今夜も忙しいんだ。あんまり、油売ってるワケにもいかないから、歩きながら話してもいい?」
そう言って、カールは笑顔をコビーに向かって微笑んだ。
そして、コビーが持つのが当然…、と思っている様に、ごく自然な仕草で手に抱えていた葡萄の籠をコビーに手渡す。

その瞬間、さっきまで胸の中に渦巻いていた、制御不能の怒りが嘘の様に消し飛ぶ。
(カールさんは、…僕には気を許してくれてるんだ…)
思い込みでも妄想でもなく、コビーは本気でそう思った。

カールの柔かな微笑み一つ、手渡されたかご一つ、誰に宥められた訳でもなく、たったそれだけで
気持ちが落ち着く。

掌にすっぽり包み込めるその小さな籠は、秋の陽だまりが染み込んだ様にほんのりと温かい。
それはそのまま、カールの掌の温もりを両手で包んでいる様な錯覚をコビーに感じさせた。

「…どうして、メイドに?」歩きながら、コビーはカールにもう一度、同じ質問をする。

「…娼婦にでもなるしかない、と思って仕事探してたら、偶然、見つけたの」
「身元とか出自は問わない、18歳までのメイド募集って」
「条件さえ満たせば、お給料もとってもいいし、食べる物も、住むところも困らないし」
「だから、…本宅に面接に行ったの。そしたら、採用してくれた」
「「条件って?」」

コビーがカールと話したいと思っているのと同じに、ヘルメッポも話したくてウズウズしているのだろう。コビーとヘルメッポの声が重なった。
「…それは秘密。誰にも言っちゃいけないって、そう言う約束なの」
そう言った後、何故か、カールの頬がみるみる赤く染まっていく。
(…なんだろう…?なんの条件だったんだろう?)と不思議に思った。
けれど、きっと、何かとてもデリケートな事で、男には言いにくい事に違いない。

話題を変えよう、と思ったのか、カールはまたコビーの方へ顔を向け、
「…コビーさん達は?なんで、執事見習いだなんて、海兵だって言う事を隠すの?」
「…何かあるの?」と、世間話をする様な、当たり障りのない口調でそう尋ねて来た。

「うん、実はね。ミーノ氏の身辺警護なんだ」
カールが、コビーにばかり話しかけるので、焦れているのか、またヘルメッポが口を挟む。
しかも、一応、極秘任務だと言うのに、カールの気を引きたいばかりに、あまりにもあっさりと喋ってしまった。
「…ミーノ氏の身辺警護?世界政府直属の海軍本部がどうして?」
「海賊が、ミーノ氏を狙ってるとか、そんな噂でもあるのか?」

やはり、ヘルメッポに対してカールは警戒心むき出しだ。
海賊女と陰口を叩かれた事など知らなくても、自分を心から想ってくれる相手と、そうでない相手を本能的に見分けているのかもしれない。

コビーに対しては、心を許せる男友達、例え、今は海賊でなくても、ヘルメッポに対してはやはり海兵、敵、と言うカテゴリーで分別されていて、だから、つい、男言葉も出てしまう。コビーにはそう思えた。

「いや…そうじゃなくて、ミーノ氏のメイドが何人か、行方不明なんだよ」
「いずれ、メイドだけじゃなく、ミーノ氏を殺す…って脅迫状も届いてて」
「この国の警備だけじゃ心許ないって思ったんだろうな。だから、世界政府は
その極秘任務を遂行できる優秀な海兵の俺達を、ミーノ氏の警護に派遣したって訳さ」

「…メイドが行方不明…?」カールが口の中で愕然とした表情でそう呟いた。
「初めて聞いたんですか?」とコビーが尋ねると、カールは黙ってコクン、と頷く。

* **

昼間の警護はコビーが、ミーノ氏が別荘に戻って、朝起きるまではヘルメッポが、それぞれ身辺警護をすることになった。

日が暮れて間もなく、ミーノ氏は別荘に大勢の客を引き連れて帰ってきて、応接間で賑やかに主酒宴を始めた。
明日に備えて、コビーは早々に自分に宛がわれたメイド部屋に引っ込む。
大の男が寝泊りするには天井が狭くて、壁も薄く、ベッドも小さくて、少々狭い。
けれど、海軍に入りたての雑用をしていた頃の官舎に比べれば、格段に居心地はいい。

最初にこの部屋に案内された時は、床も埃まみれで、ベッドの上には何もなかったし、
カーテンも薄汚れたままだった。
それがまるで魔法がかかった様に、薄肌色のカーテンも綺麗に洗い上げられ、とても良い匂いの毛布やシーツがベッドの上に乗っている。
(…一体、何時の間にこの部屋を整えたんだろう?)とコビーはとても不思議だった。

執事がこんな仕事をするとは思えない。

シーツも、カーテンも、枕も、カールが洗って、カールがここに置いてくれた。
居心地がいい様に、と気遣って床を掃き、窓を磨いて小さな薪ストーブがいつでも使える様に薪まで準備してくれている。
小さいバスタブも、その浴槽だけでなく、蛇口のところまでピカピカに磨き上げられていた。

ベッドの上に、うつ伏せになって枕に顔を突っ込んでみる。洗い立ての洗剤の香りは、そのままカールのうなじから香ってくる匂いに思えて、うっとりとコビーは目を閉じる。
(この薄い壁の向こうに、カールさんが寝泊りしてるんだな…)
壁さえなければ、添い寝しているのと同じくらいの距離かも知れない。そんな事を考えた。

その時だった。

「うわわっうわっうわわわわわ…!」

薄い壁の向うから、カールの声が聞こえた。かなり、切羽詰った、悲鳴の様な声だ。

コビーは慌てて飛び起き、すぐに部屋を飛び出す。そして、凄い勢いでカールの部屋を
ドンドンドンドンドン!とノックした。
「僕です、どうしました!」と叫ぶと、中から、
「あ、コビー…さん?いいところに!どうぞ…!」と、カールの声が聞える。
「はい!」
コビーはドアを開ける。

ジャアジャアと勢い良く、水道管から湯が噴出している。それが天井にまで飛び散って、カールの部屋はもう湯気だらけで、壁も床も水浸しだ。当のカールも、頭からずぶ濡れになっている。

だが、もう、それ以上、何も考えられなくなった。頭のネジが全部、一瞬で吹っ飛んだ。

ずぶ濡れになったシャツはがはだけて、カールの白い肌が丸見えになっている。
見るつもりはないのに、目が勝手に小さく、なだらなか稚いふくらみに釘付けになる。



体も心も固まって、カールの乳房と濡れた肌、ただその一点を凝視し、動けない。

「蛇口が吹っ飛んだんだ。どこに行ったか分からないんだ!」
「元栓締めたくても、固くてどうにも出来ねえんだ、元栓、締めてくれ!」
「あ、はい!」そう言われて、やっとコビーは我に返った。

慌てて、コビーは元栓を締める。
背を向けて、なるべくカールの姿を見えないようにしてコビーは
「…メ、メイドの仕事は…?」としどろもどろで尋ねる。

「…酔客は相手にするなって言われてる。夜は、外から来る女の人が色々働いてくれるから、
俺は…、いや、私は、朝食の準備をするから、早く起きるんだ」
「それで、寝る前に風呂に入ろうと思ったら、蛇口が取れちゃって」
「ありがとう、助かった」

「あの、でも」

何故か、勝手に口が動き始める。何を言おうとしているのか、コビー自身も全く分からない。カールの目も、カールの顔も見ず、元栓をぐっと握り締めて蹲ったままの格好で、
コビーは声が裏返るのも構わずに言った。

「…へ、部屋がこんなにずぶ濡れだったら、こ、今夜はここで、ねね、寝れないでしょう?」
「よ、…良かったら、ぼ、僕のへ、部屋に…き、き、来ませんか?」

「…うん。そっか。助かる。ありがとう。行く」
カールはそう言って、目のやり場に困る、そのままの格好のまま、ペタペタと歩いて部屋を出て行こうとする。
その気配に気付いて、コビーは慌てて立ち上がり、自分の上着を脱ぎ、カールの肩に羽織らせた。

(…そんな事だから、お前は童貞なんだよ)

何故か、急にヘルメッポの言葉が頭を過ぎる。
その途端、頭の中で何かが爆ぜた。何がなんだか、全くわからなくなる。
男の本能がコビーの理性を吹き飛ばし、脳の中の思考も、体の中の細胞が全部その本能の命ずるままに動き始める。

童貞…童貞…僕はセックスをした事がない。だから、童貞だ。
でも、だから今、とてもセックスしたイ。大好きな女ノ子が、ずブ濡れデ、殆ど裸の状態で、…自分ノベッドノアル部屋ニ入ッテ行ク。

「…だったら、告白しなきゃ…それが順序だよな…」
うわ言の様にそう呟いて、ふらふらとコビーはカールの後に続いて、水浸しの部屋を出た。

どんな甘い、目くるめく夜になるだろう。その時、コビーの本能はそんな事を思っていた。
けれど、現実はそう甘くはない。
それは、コビーにとって、とてもとても長い夜の始まりだった。

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