第二話 「愛の暴発」

いくら待っても、チョッパーが何をしても、サンジの心臓は止まったきりで、鼓動を取り戻す事は出来なかった。
ただ、死後硬直もせず、柔かく温かいままの体は、とても亡骸には見えない。
まるで、サンジの体だけが時を止めてしまったかの様だ。

チョッパーが、心臓が止まっていると気付いてから、既に一晩が経ち、そして暮れようとしている。

これだけ、長い間、心臓も呼吸も止まってしまったら、万が一、蘇生してももう脳は死んでいる。例え、心臓の鼓動が戻っても、もうサンジが目を覚ます事は絶対にない。

それが、チョッパーの知っている「医学の常識」だった。

サンジが生きたまま捌かれ、剥製にされそうになって、その為に独特の薬草が溶け込んだ水に長い時間浸されていた。
その事を、ゾロが、いや、ゾロでなくても麦わらの一味の誰かが知っていたら、その水を調べていただろう。

そうは言っても、心臓と呼吸を止め、それでも命を奪わず、肌の柔かさを保つ事が出来るそんな秘法があるなどと、おそらく誰も思いつかない。

これは、グランドラインのある島にだけ伝わる、秘法中の秘法だ。

ミーノ氏と執事のグーラは、かつて若い頃、ある商船を護衛中に嵐に遭い、遭難した事がある。その時、生き残ったのはその二人だけで、彼らはログにも示されていない、未開の島に流れ着いた。そして、そこに住む部族と懇意になり、さまざまな、摩訶不思議な知識を得た。若い女の心臓を食べ、精力を得る、と言うのもその一つだ。

自分が食べた乙女達を剥製にして側に置くのも、それなりに理由がある。
無念にも非業の死を遂げた彼女らの魂が、悪鬼となって自分を恨み、呪わない様に、
魂の檻として、その肉体を現世に残しておく為だ。
死後硬直すれば、肉体を捌き辛くなる。それが解ける頃まで待つと、肌の艶が褪せてしまう。
生きていた姿をそっくりそのまま残す、と言う目的を果たす為に、心臓と呼吸が刻む時間を止める、と言う秘法を既にその部族は編み出していた。

ロビンがサンジの腕輪に見覚えがあったのも、その部族の宝飾品が盗品の中に混ざっていたのをちらりと見た事があったからだ。

その秘法の、つまり、薬草の効能が切れたら、サンジはなんの支障もなく目を覚ます。
ただ静かに眠らせておけばそれでいい。

けれど、医学の常識を超越した、そんな薬草だの秘法だのの事情を知っている者は、ミーノ氏と執事のグーラ以外、誰もいない。
その二人も、サンジがこんな有様になって既にまる一日が経とうとしている今、海軍の監視下に置かれていて、近づく事すら、もう出来ない。

* **

サンジは死んだ。もう眼を覚ますことはない。

チョッパーの知る医学ではそう断言出来る条件が揃っている。
けれど、諦めきれない。サンジが死んだ、などと認めたくない。
それは皆、同じ気持ちだった。

ゾロは、飲む事も食べる事も眠る事もせず、ずっとサンジの側にいた。
そうして、一度も弛まずにずっと細い腕や手を握り、摩り続けている。

「…交代するわ。剣士さん」
そう言って、ロビンが声を掛けてきたけれど、返事を返す気力も起きなかった。

自分の手が離れたら、サンジの魂もこの体から抜け出て、もう二度と取り返せない気がして、そして肌を摩る手を止めれば、サンジの体温が消えて気がして、ほんの一瞬ですら手を離せない。

「ゾロ、交代する」、ウソップやナミもそう言ってくれたけれど、ゾロは「…いや。いい」と首を横に振る。そう答えるのが精一杯だった。仲間の気遣いも、また、仲間一人一人がサンジを諦めきれずに、苦しい思いをしている事も省みれない。
けれど、そんなゾロを誰も責めずに、サンジを摩るのを止めろ、とも言わなかった。
今はただ、サンジを(…誰にも触らせたくねえ…)と、なんのわだかまりもなく思う。
そして、その言葉、その想いだけがゾロの心の全てを塗りつぶしていた。
サンジに浅ましく思われたくなくて、口にも言わず、誰の前にも一切態度にも出すまいと普段は必死に抑えている独占欲が剥き出しになっている。


サンジと出会って、惹かれ合って、これから先、例え離れ離れになる日が来ても、
サンジはずっとゾロの行く道を照らしてくれる光になる。
そんな未来を疑った事はなかった。

それなのに、何故、今、サンジは、眼を閉じているのだろう。
ゾロの手を振り払うこともなく、「くすぐったいから止めろ」とも言わずに、なすがままになっているのだろう。

「…こんな形のまま、死んでもいいのかよ、お前…」
力任せに握れば、簡単に折れてしまいそうな程の華奢な手首を頬に沿わせてみる。

初めて、サンジの手を握り、こうして触れた時には煙草の匂いが微かに香った。
そんな事すら、昨日の事のように、こんなにも鮮やかにはっきり覚えている。

そのサンジの手が永遠に自分の手から解けて行くのがゾロは怖い。
怖くて怖くて、たまらない。だから、サンジの手を握っている。

(…こんな細エ指になっちまってたんだ…)

そっと柔かく指を絡めて、ゾロは改めてサンジの体の変化を思い知る。

例え、中身はサンジのままでも、体はこんなにもか細い。
たかが、メイドとして別荘に潜り込む、と言う容易い役目でも、サンジは自分から望まなくても、災難が向こうからやって来る。
数え切れないほどたくさんの試練や災難を経験してさんざん苦労して来たのに、何故、今回に限って、それを思い出さなかったのだろう。

それが、頭の端にでも掠めていれば、誰もすぐには助けに来れない様な場所に、一人きりで行かせる様な事は決してしなかった。

どんな時でも俺が守ってやる。そう思っていたのなら、口には出せなくても、行動には示せた筈だ。

「…寝てるだけなんだろ…?いい加減、目を覚ませよ…」
神や仏に信心はない。けれど、サンジの魂になら縋る。サンジの心になら祈る。

(目を開けてくれるなら、これから先、何を言われても構わねえ)
(一生、悪口雑言しか聞けなくてもいい。何をされてもいい)
(てめえが、死ねって言うなら、喜んで死んでやる)

夢や野望すら、その時のゾロは思い出す事も出来なかった。
全身全霊を賭け、ひたすらにサンジが蘇る事だけを願う。
それしか出来なくても、それしか考えられない。

今、ゾロが呼吸しているのも、心臓が鼓動を打つのも、サンジの事を想う、ただそれだけの為だ。

お前は、俺の全てなんだ。お前が死ぬ事は、俺も死ぬ事と同じだ。
声にすら出せないその血を絞る様な思いを込めて、ゾロは決して決して、サンジの体が冷えないように、ずっと摩り続けた。

* **

そして、また朝が来て、昼が過ぎ、日が暮れ始める。
「…ゾロ。何か食べなさいよ。せめて、水くらい飲みなさい」
そう言って、頭の上からナミの声がする。男部屋の扉が開いて、ナミが覗き込んでいるのが気配で分かった。けれど、ゾロは振り向かない。

「…サンジ君、変りない…?」
そう言って、ナミがサンジの顔を覗き込んだ。

その時も、ゾロはサンジの手を握っている。
ナミがそっと身を屈め、サンジの髪を大事そうに指で梳いた。

「…あっ…?」ゾロは一睡もせず、ずっとサンジの体の呼吸を探っていた。
だから、わかる。絶対に錯覚などではない。
遠く、サンジの体の中で何かが目覚める様な、微かな「音」が聞えた。

「…何…?」ゾロの声を聞いて、ナミの顔にも緊張が走る。
そのナミの手がサンジの頚動脈に伸びた。

それはごく自然な成り行きに過ぎない。けれど、ゾロにとっても、ナミにとっても
奇跡が起こる瞬間だった。

慌しく、ゾロの指が、サンジの手首を探り、ナミの指がもっと確かに捉えられる場所で、サンジの脈を探す。

「…脈が…まだ弱いけど、…弱いけど、脈が…脈が戻った…!」

ナミが目を見開いて、愕然とそう呟いた。その表情が光が差すように見る見る明るくなっていく。
ゾロは余りにも突然の事に驚き、指先の感覚を必死に感じるだけだ。

「…サンジ君!サンジ君、聞える?!」「…サンジ…おい!」
ゾロもナミもサンジの名前を呼び、少し揺さ振った。

「…う…ん」
サンジは深い眠りから、叩き起こされた様な声を出して、ゆっくりと眼を開く。

「…わかる?」そう尋ねるナミの顔を数秒、じっと見て、サンジは頷く。
ぼんやりとしながらも、「…地図は…?」とナミに尋ねる。
「…手に入ったわ。もう、万事オッケー。何も心配する事ないのよ」
「…そっか」にこりともせずにサンジは答えて、また力なく目を閉じる。

昏睡から眼が覚めたばかりだと言うのに、サンジは体力も気力も使い果たし、疲れ切っている。そんな風にゾロには見えた。
「すぐ、チョッパーに診て貰わなきゃ…」と言って立ち上がったナミを
「…ナミさん…とりあえず、悪いけど…」とサンジは呼び止めた。
「…もう少し、寝かせて貰っていいかな…?眼を覚ますまで、ここで…一人でゆっくり
休みたいんだ」

今までのサンジなら、どんなに大怪我を負って昏睡したとしても、眼が覚めれば最初に
仲間がどれだけ心配したか、まずそれを考える。

(…妙だな。こいつがそんな言い方するなんて…)と怪訝に思った。

自分がどれだけ仲間に心配をかけたかを聞きもせず、疲れたから放っておいてくれ、黙って寝かせてくれ、と我がままをいうのは、サンジらしくない。

「…わかったわ。じゃあ、眼が覚めた事だけを皆に伝えてくるわね」
「ゾロ、あんたも来なさい。サンジ君は休みたいって言ってるでしょ」
「…ああ」
そう返事をしたものの、何かが腑に落ちない。何かが報われない。何かがおかしい。

そう思いながらも、ゾロはナミに引っ張られて、男部屋を出かけた。
それでも、どうしても気になり、ゾロはサンジを振り向く。

ソファの上でサンジは少し緩めに着せられていたシャツの前を、何かを隠す様に
何も見たくない、と言った顔で合わせたのが見えた。

誰かにつけられた、あさましい痣が残る体をサンジは辛そうな顔をして隠した。
まるで、誰にも見られてはならないと、その痕跡を秘する様に。

それを見て、ゾロの心臓がドクン、ととても嫌な重々しい音を立てる。

つい、数分前まで自分はサンジの事だけで心が埋め尽くされていた。
サンジの事だけで、心が張り裂けそうになっていた。
それなのに、眼が覚めてから禄に言葉を交わしていない。
いや、それどころか眼を合わせてもいない。

「…ナミ。やっぱり俺はここにいる。誰も入って来るなよ」
「…ちょっと。喧嘩するつもりじゃないでしょうね」
ナミに険しい顔でそう言われても、そんな戒めなど、聞く気はない。

「…俺とあいつとの事だ。誰にも口出しされる覚えはねえ」とだけ言って、扉を閉めた。

ひたむきな愛情、むき出しになった独占欲が導火線となって、男の激情に火を着ける。
「…何を考えてる」とサンジに尋ねながら、ゾロはたった一つの答え、
「お前のことだけを考えている」その答え以外は認めない。
今、サンジはゾロが想った時間と深さ、少なくてもそれと同じ分だけはゾロの想いに応えるべきだ。

けれど、サンジは冷たく、心底迷惑そうに
「…うるせえな。てめえには関係ねえ」と毛布を被ったまま、顔も見せずに答える。
「…なんだと…?なんだ、その言い草…」

熱情がゆっくりとゾロの優しさを飲み込んでいく。
サンジはゾロの事を考えていない。全く別の事を考え、その事で頭が一杯になっている。

それが分かった途端、ゾロの中で何かが爆ぜた。


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