「見えない星」




世界で最も有名なレストランは、オールブルーにある。
だが、その海域を訪れるには、特別な航路を長い日数をかけて航海しなければならず、
「多くの人に食べて欲しい」と言うオーナー兼料理長であるサンジの願いとはかけ離れ、そのレストランの客は、大金持ちか、どこかの国の王族、あるいは高級官僚、または世界政府の幹部など上層階級の人間にほぼ限られていた。
「東西南北、全ての海の魚」とはいかないけれど、それでも、その海域に棲む魚や食材を使って、普通の倹しい生活を営む人々が、何かの記念日を祝う為の食事を提供出来るようなそんな店を出したくて、サンジはその場所を探していた。

調味料や、備品などを扱っている男にその事を頼んでいたら、「西と南の海の特性を備えている小さな島がある。緑も豊かで、魚以外の食材も手に入りやすいし、船の行き来も多く、
ちょうどいい島がある」との便りが届いて、サンジは実際にその島を自分の目で見て確かめる為に、さっそく旅支度を整えた。

そして、翌朝、副料理長のビルとジュニアを部屋に呼ぶ。
「…新しい店を出せそうな場所が見つかったらしい。実際、どんなところか、自分の目で見てくる。二週間ほど留守するが、店を頼む」
「俺の留守中は、ビル、お前が料理長だ」そう言うと、もうコックスーツに身を包んだ二人は、さして驚きもせずに「わかりました」と頷いた。

二人はお互いの立場を理解しているらしく、サンジが何も言わなくても、無作法に自分たちのこれからの身の振り方を尋ねる様な真似はしない。
ジュニアは、この店の後継者であり、オールブルーから外へ出す事はない。逆にビルはサンジの腕と技術、料理に対する信念をしっかりと引き継いだ一番弟子で、オールブルー以外の場所で店を出すと言うのなら、年齢から言っても、その店を任せられるのは、ビルしかいない。
留守中、ビルに厨房だけでなく、店を任せる、と言うのはその最終試験の様なものだ。

そして、サンジはコック達を集め、自分が留守をする事、その間、「ビルの言う事は俺の言う事だと思って聞け」と言い置いて、すぐにオールブルーを発った。

* **

サンジがその島に着いたのは、オールブルーを出て五日目の夜だった。
気候は、春から夏にかけての暑くもなく、寒くもない季節で、そぞろ歩くには、ジャケットを羽織らずにシャツ一枚でいる方が肌にふわりと海風を感じられて、その方が心地良い。
予め、教えられていた場所を、メモを頼りに尋ねるつもりでサンジは煙草を咥え、ブラブラと歩いていた。
明日の朝、案内してくれる男と待ち合わせはしているが、それまで待っていられなかったし、実際に営業する夜、町の様子をつぶさに見ておきたい。
ポケットに手を突っ込んで、周りを見たり、時折、メモを確認したりしながら、シンと静まり返った町を歩く。真っ黒な空を何気なく見上げても、晴れている筈なのに、街灯の明かりが白すぎて、瞬いている筈の星がよく見えなかった。
波止場からずっと続く石畳の道には、たくさんの店が立ち並んでいるが、夜が更けている所為で、殆どが閉まっている。それでも、道幅もそれなりにあり、雑草も全く生えていないところを見ると、寂れている風にも思えず、(…昼間は昼間で賑やかなんだろうな…)とひとまず安心する。

そして、その閑散とした通りを真っ直ぐに進んでいく先に、派手なネオンが輝いている一角があった。
サンジはもう一度、指に挟んだままのメモを見る。どうやら、新しい店の予定物件はその中にあるらしい。

その一角に踏み入ると、様々な飲食店が立ち並んでいて、人通りも多い。
食事をさせるのが目的の店、酒を売るのが目的の店など、色々な店があるものの、どれも小さなビルに押し込まれて、営業している様だ。

(…こりゃ、随分小さな店になりそうだ。ビルには物足りねえか…)
客席を入れるにしても、20席、無理をして30席程度。そう胸算用しながら、サンジは自分の店になるだろう物件をさらに詳しく見る為に、住所に示されているビルを眺めた。

店になるのは一階部分で、二軒分の店が入る様に建てられているらしく、隣の店もやはりそう大きな店ではなさそうだ。
(…いっそ、建物ごと買うか…。そうしたら、この一階部分全部店に出来るし…上の階を住居スペースに出来るし…)ともサンジは考えた。
だが、それでは今、営業している店を立ち退かせる事になる。

もしかしたら、店を持つ、と言う夢を叶えた若者が必死に営業している様な店だったり、
年老いた夫婦が、長い間コツコツと続けていた心温まるような店だったりするかも知れない。そんな店なら、立ち退かせるのは忍びない。
そんな事を思いながら、サンジは隣の店の前に立った。
中の様子は、真っ赤な硝子の扉に邪魔されて、全く見えない。
店の名前は黒い字で書かれてあり、同じ字体で「カフェ・バー」とも書かれてあるから、
その無駄のない、どこか洗練されたセンスをわざと臭わすような、どこか背伸びした様な青臭いそのデザインを見て、サンジは(カフェ・バーか…。ジイさんバアさんがやってる様な店じゃなさそうだな)と思った。それでも、躊躇せずに扉を押す。

「…あ…!いらっしゃいませ…!」中は、床に設えた間接照明のほの明るい光だけで、まるで寝室のように暗い。その中に壁にもたれて突っ立っていた、茶色い髪の若者が慌ててサンジを迎え入れる。その様子は、悪さをしていた子供がそれを大人に見つけられたかの様にドギマギと落ち着きがない。おそらく、あまりにも暇なので、すっかり仕事をする気が失せていたのに、そこへいきなり客が入って来たので、一瞬、どうしていいのかわからなかったのだろう。
「お一人様ですか?」と尋ねられ、サンジは「…ああ」と頷く。

席に案内されて、大人しく席に着いていくつか酒を頼んでみる。
だが、(水割りの酒もいい酒使ってねえし、カクテルも水っぽくてダメだ)と不満が募るだけだ。
それよりも、もう酒を愉しむには十分過ぎるほど夜も更けているのに、自分以外に誰も店の中にいない事が何より居心地悪かった。




ボーイとも、ギャルソンとも言い難い、さっきの若者が何をするでもなく、同じフロアに突っ立っていて、サンジが何かを注文するのをじっと待っているのも気詰まりだ。
サンジは一人でこの店に入ってしまった事を猛烈に後悔しながら、メニューを何度も眺めた。

(腹も減ってるし、…とりあえず、何か食うか)と、魚料理を中心に二つほど、決めて
メニューを閉じる。すると、呼びもしないのに、若者がサンジの前に膝を付いた。
「ご注文、お決まりでしょうか?」と聞かれ、その顔を見て、サンジは思わず眉を顰める。
その顔には、これ以上ない程の作り笑顔が浮かんでいた。
だが、その笑顔は、「客」を金づるだとしか思っていず、それも「金をたくさん持っている女性客」をもてなす事しか知らない男の作り笑顔だ。
男のサンジに対して、そんな顔や物腰で接客をすると言う事は、ただ、良く躾された犬が
同じ芸当を繰り返すのと同じ事で、心が篭っているとはとても思えない。

「…ご注文、お伺いします」「…あ?ああ、これと…」と魚料理をいくつか注文して、さっさと若者を遠ざけた。

接客も、酒も全くなっていない。
当て推量だが、恐らく、女性客をもてなす店に勤めていた男が、自分の城を持つ、と言う志を持ち、一念発起して開いた店の様だが、それにしても、居心地が悪すぎる。
けれど、料理を注文してしまったので、それを食べるまでは帰れない。

しばらくして運ばれてきた料理を見て、サンジは(…なんだよ、これ…)と絶句した。
酒は不味い、居心地は悪い、と言ういいところが全くない店だから、料理も、出来合いに毛が生えたようないい加減なものが出てくると思っていたのに、全く、その予想は裏切られ、素晴らしい料理が目の前に並んだのだ。
暗い店の中だから、食材の色身は正直、よくわからない。
だが、立ち上ってくる香りとだけでもその料理を作った料理人の腕の確かさを十分に感じさせた。

サラダに使われている野菜はどれも瑞々しく、歯ごたえもシャリシャリとしていて、野菜自体の味も爽やかなのに、しっかりと濃い。野菜の目利きだけではなく、保存方法、料理法も完璧だ。魚を煮込んだスープも、一口啜った途端、口中に魚と香味野菜の豊かな旨みが広がり、その後、少しだけ舌全体を刺激する様な味わいだけ残って、魚の臭みを一片も残さず、忘れさせる。
海王類の乳を使って作られたチーズを使って作ったと言うピザも、複数の癖の強いチーズを使っているのに、生地の歯ごたえと塩加減とのバランスが絶妙で、絶品だと褒めちぎってもいいくらいに美味い。
(…一体、どんな男がこれを作ってるんだろう…)とこの料理を作った料理人に、強烈に興味をそそられた。

どうせ、客は自分以外にはいないのだ。ここへ呼びつけて、話を聞いても邪魔にはならないだろう。もしも、何か差しさわりがあるのなら、店が終るまで待っていても構わない。
例の若者に「…この料理を作った料理人と話がしたいんだ」と頼んでみると、若者は、「わかりました」と答え、ほどなく一人の男を連れて来た。
「うちの店のコックは彼だけですが…。何か不都合でも?」と恐る恐るサンジに尋ねる。
「いや、ちょっと話がしたいと思っただけだ。悪イが、あんた、席を外してくれ」と
サンジは若者に、一万ベリーほど渡す。
「はい、では…」とぺこりと頭を下げ、若者はコックを残し、フロアから出て行った。

そのコックは、27,8ぐらいの細身の青年で、コックスーツではなく、長袖の白いシャツを着て、腕まくりをし、きちんと無地のエプロンをつけ、頭に緑色のバンダナを巻いていた。顔立ちは悪くないけれど、銀縁の丸い眼鏡をかけ、気の優しそうな小さな目を緊張でパチパチさせている。

「…そんなに緊張しなくていい。あんまり美味かったんで、礼が言いたくて」
そう言いながら、サンジは自分の前のソファに座る様に促した。
サンジの言葉を聞いて、ホ、と安心したかのように僅かに微笑んで、そのコックは黒いソファの上に腰を下ろす。

「…これだけの腕があるのに、お客が俺だけじゃせっかくの腕が勿体無い」
「もっと、たくさんの人の為に料理を作ってみたい…ってそんな気はないか?」

そう言って、サンジは自分の名前を明かした。
「オールブルーの…!あの、世界一有名なレストランのオーナーがあなたですか?!昔、黒足って言われた海賊の…?!」とコックは声を震わせる。

それから、よくよく話を聞くと、彼は決して良い待遇とは言えない環境で働かされていた。
彼は、ここのコックとして、彼の婚約者は厨房の下働きと店の掃除などの雑用として、夜通し働かされていると言う。
「僕の婚約者が、この店のオーナーに騙されて、多額の借金を抱えてしまったんです。僕はそれを返済するまで、僕らはここで働かなきゃいけなくて…。給料は借金の返済に殆ど消えちゃうんですが、結婚する為には一日も早く借金を返さなきゃいけないから、体もキツイけど、仕方なく言いなりに働いてるんです…」

それを聞いて、サンジはそのコックをビルの下で働かせる事を思いついた。
これ以上、いい考えはない。
そう思ったなら、それを現実にする様に行動しなければならない。
「…悪い話じゃねえと思うんだが、俺ぁ、あんたの腕に一目惚れした。俺に、あんたの腕を貸して欲しい…」とサンジは話を切り出した。

* **

翌日、そのビルごとを買う、と言う話が進み、その日の夜、例のコックは婚約者を伴って、サンジが泊まっている宿を訪れた。

「…借金まで肩代わりして頂いて、…これからはオーナーの為に一生懸命働きます」
と言って、若い二人がサンジに頭を下げる。
苦労を抱えても、それでもこの二人は、二人で生きて行く未来を信じて、その苦難に立ち向かっていた。
「辛かったけど、いつでも彼女と一緒にいれたから、頑張れたのかも知れません」とコックは、はにかみながらそう言う。

その言葉を聞いて、サンジは少し胸が切なく痛んで、曖昧にただ笑った。

一番大切な人が一番側にいる。
相手を見詰めたいと思う時、目を上げればその姿が目に入る。
その視線に気が付き、目と目があって、微笑み合う。触れたい時に手を伸ばせば、その温もりに触れられる。優しい声が欲しい時、名前を呼べば応えてくれる。
側にいるなら、どんなに辛くても、その中でほんの僅かな喜びを見つけたら、それを分け合って、また新しい力に出来る。
それがどれだけ人を強くするか、それがどれだけ人にとって大切な事か。

幸せそうな二人の姿を見るまで、サンジはその事を忘れていた。
いや、長い年月、いつも忘れようと自分に言い聞かせてきた所為で、いつの間にか、思い出す事も無意識に避けていただけだ。

二人を送り出し、一人きり残った部屋でサンジは窓を開ける。
空には、一面の星が出ている筈なのに、やはり、明るすぎる町の明かりに埋もれて、
空には星が見えなかった。

一番最近見たゾロの姿を、心の中に思い描く。
振り仰いだ空から、夜の冷たい空気をまとった風が吹きおろしてきて、長く伸び始めた髪に纏わり付いた。

思い出せば、寂しくなるのが分かっている。だから、今日まで必死に思い出すまいとしていたのに、そんな強がりも今は空しかった。
思い描くゾロの姿は、いつも後姿で、振り返る直前にいつもサンジは目を開き、自分の心を現実に引き戻す。
そうしないと、頭の中に優しく響く声だけでは足りなくて、鼓膜から心に響くまで、自分だけに囁く声を聞きたくなる。

行くなと言えば、いつだってきっとゾロを引き止められる。
それでも、それはゾロの翼を奪うのと同じだ。

例え、寂しさに心が震え、その震えが体を凍えさせても、その生き様も含めて、高く空を舞い、飛び続ける鷹を愛しいと思う様にゾロを愛しているのなら、体が悴む様な寂しさでさえ、ゾロが与えてくれたものとしてサンジは受け止めなければならない。

(俺達は、その覚悟で、生きている筈だ)
そうサンジは自分に言い聞かせる。

深く想い、誰よりも大切だと思うからこそ、寂しさは際立つ。
もしも、サンジにとってゾロが取るに足らない程の存在なら、思いだすだけで、孤独が澱んだ夜に突き落とされた様な、頼りない心細さを感じる事もない。

募る恋しさは、会えない寂しさに比例して魂の底に降り積もり、孤独な夜を越えて行く度に凝固していく。
それなのに、言い交わした他愛ない言葉をいくら思い出しても、寂しさは埋まらない。

せめて、自分を慰める為にサンジは、星が見えずに空っぽに見える暗い空の中に星を探した。
それが見つかれば、今、ゾロも自分と同じ様に寂しさを抱えている。
そう信じられる気がして、サンジは目を凝らす。

そして、一つだけか細く光っているガラスの欠片のような光を見つけた。

それは、サンジの胸からあふれ出した寂しさに様に頼りなく、か細く瞬いていたけれど、
その光は、この広い空の下のどこかにいるゾロにも届き、
サンジの寂しさと恋しさを伝えてくれるかのように、確かに輝いていた。




2007年5月13日のインテックスのイベントの後、ご飯を食べに行ったお店で
体験した事をネタにして書いた短編でした。


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