港から少し歩いたら、この島で一番賑やかな街があるようだ。
きっと朝になる頃にはこの島にうっすらと綿を被せたような雪が降り積もっているだろう。

麦わらの海賊旗を掲げた船は、宿をとらずに港の一番端にひっそりと大人しく碇を
下ろしていた。

もう、日付もかわる時間だと言うのに、街の灯りは消えない。
その地上の星の光は、夜空にまで届いて、うす曇の空をうっすらと朝焼け色に染めている。

不寝番のゾロは見張り台から降りて、甲板に立ち、その風景を一人で眺めていた。

吐く息が白い。
時折、頭に落ちた雪を振り払わないと、髪に纏わりついたまま凍ってしまう。

「見張りって、見張り台の上でやるんだろ、」
どこか皮肉めいた、なのにじゃれるようなサンジの声を背中越しに聞く。
けれど、ゾロはまだ振り向かない。

自分が眺めている先へとサンジの視線を誘う為に、ゾロは返事もせず、
わざとサンジを振り返らずにいる。

後ろから近付く足音にはとっくに気がついていた。
それが誰の足音なのかも、ゾロには分かっていたけれど、あえて振り向かずに、その
口から出る言葉を待っていた。

サンジはゾロのそんな気持ちくらい、背中を見ただけであっさりと見抜く。
ゾロの真横に立ち、そして顔を覗き込みもせずに、煌く街へと視線を重ねた。
「甲板の上にいて、前ばっかり見てんのは手抜きじゃねえか?」
そう言うサンジの声は、ゾロを抱き締め、温める腕のように優しい。

優しくされると、甘えたくなる。
いつの頃からか、ゾロはそんな自分の欲を素直に受け入れ、それを伝えられる様になっていた。
「ちょっと、一時間ばかり、付き合えよ」
「あ?」
ゾロの唐突な言葉に、サンジはゾロへと顔を向けた。
そして、唖然とした顔でほんの二秒ほど、ゾロを黙って見つめる。
やがて、煙草を咥えた口が柔かく微笑んだ。

優しくすると甘えてくる。
そして、甘えられるともっと優しくしたくなる。

いつの頃からか、サンジもそんな自分の想いに素直になって、もうそんな感情に
戸惑う事もなくなっていた。

「…不寝番の癖に」サンジはそう言って内緒の悪戯の相談に乗るような顔をする。
「だから、一時間だけだ。それくらい、構わねえだろ」
すこし焦らすようにサンジはまた街へと視線を投げた。
「断る理由を並べ立てているだけ時間の無駄だな。仕方ねえ、一時間だけ、付き合ってやるよ」

仲間が眠って、寝静まった船を二人は降り、華やぐ光が溢れる街へと向った。

***

「おいおい、今 何時だよ。この島の連中は寝ねえのか?」と街中の人通りの多さに
サンジは驚く。

古い佇まいの町は、まだ煌々と灯りがついて、それだけではなく、飲食店も、
洋服屋も、閉店する様子もなく、まばらに降る雪が濡らす石畳の敷き詰められた大通りも路地の中も、人が溢れている。
並んで歩くと、人とすれ違う時にうっかりするとぶつかってしまいそうになるほどだ。

街路樹と言う街路樹、家々の壁、庭、店の看板にいたるまで、この雪の到来を大歓迎している、そんな風に感じるほど、街は光で彩られていた。

暖かい飲み物や食べ物を売る屋台、花束を売る露店、それが街のそこここにあり、
ただそぞろ歩くだけで、心が浮き立ってくる。

そんな雑踏の中を、20分ほど当て所なく歩いていた時だった。

サンジが突然、足を止めた。
さっきから、食器だの、温めた酒だの、珍しいモノを見つけたら、急に立ち止まっていたから、ゾロは「またか、」と思い、数歩歩いて立ち止まって振り返る。
「おい、そんなに寄り道ばっかりしてたんじゃ、一時間なんかすぐに経っちまうぞ」

そう声をかけてもサンジは返事をしない。
人ごみの向こう、少し薄暗い路地の方へと顔を向けたまま、じっと何かを見ている。

「おい…?」怪訝に思い、ゾロはサンジにそう尋ねた。
「…し…」サンジは咥えていた煙草を指で挟んで、ゾロの声をその指で遮る。

「なんだよ」
そう尋ねても、サンジは何かを見、そして何かを聞き取ろうと耳を澄ましている。

その目が、何かを見つけたように、瞬いた。
その瞬間に、(…こいつ、また何か厄介ごとを見つけやがったな…!)とゾロは気付く。
けれども、もう遅い。

「…一時間に一回、鐘が鳴ってたよな」
「次の鐘が鳴るまで、ちょっと先に行って待ってろ」

それだけ言うと、サンジは今見つめたいた先へと後ろを見もせずに走り出す。
「おい!どこに行って、どこで待てばいいんだよ!」と叫んでも、もう返事はない。

(…くそ、なんでこの状況で余所見して、そんな厄介ごとを見つけるんだ、あいつは!)
一人取り残されて、そう悔しがっても、もうサンジには追いつけない。

あの素早さ、何を置いてもすっ飛んでいくあの勢いは、
きっと、歩いている最中に、女の悲鳴か何かを聞いたのだろう。
(この街ン中で、そんなもん聞こえるのはあいつぐらいだ)と呆れるけれど、
それで腹立ちが収まる筈がない。

「…くそッ…」思わずゾロは悔しさを声に出した。
いつもいつも、こんな風に振り回されて、その度に腹を立てる。
いい加減、慣れてもいい頃なのに、慣れるどころか、逆に腹を立てるだけでは収まらず、
自分の思い通りにならないもどかしさや、自分と一緒にいるのに余所見をした挙句に、
ゾロを放り出すサンジへの独占欲と言う新しい感情に胸が塞がれる。
全く、やるせない。けれども、ため息をつくぐらいの事しか出来ない。
(…仕方ねえ。全部承知で、惚れたんだからな)
(こんなのも、全部、飲み込むしかねえんだ)

そう思って、ゾロは無意識に俯いていた顔を上げた。
(問題は、どこに行ってどこで待つか、だ)
(それから、そこへあいつが来るかどうか、だ)と思いなおして、ゾロは人が歩き出す波に乗って歩き出す。
誰も彼も、楽しそうで、一人きりで歩いている者は誰もいない。

どこへ行って、どこでサンジを待つか、そんな事を考え始めてすぐ、ゾロは
足を止めた。

(そうだ…)
(ただ、ぼんやりと待っているじゃつまらねえな)
(何か、賭けて待つか…)

* **

それから、30分後。港の方から、ボウン…と鈍い爆発音が上がった。
ほどなく、「港で、船が燃えてるぞ!」と人々が騒ぎ始めた。

何があった、とわざわざ人を捕まえて聞く必要もない。
その騒ぎが始まった当初から遠巻きで見ていた連中が、頼まれもしないのに、
事情を知りたがり群れる野次馬なれン中に大声で喚いて聞かせているのを
黙って聞いているだけで十分だ。

興奮してしゃべっているのは、どうやら街で飲んだ後、自分の船に帰る船乗りらしい。
真っ赤に紅潮した顔をてからせ、唾を飛ばして喋っている。

「一見、普通の商船だ、そこに、黒いスーツを着た男が一人で乗り込んで行ったんだ!」
「それからすぐ、女の悲鳴やら、男の怒鳴り声やら、銃声やらが上がって、」
「何事かと思ったら、いきなりドカーンって火柱が上がって!」
「縄で括られた、着の身着のままの若い女がわらわら出てきて、はじめてわかったよ」
「その商船は、人買いの船だったってワケだ!」
「そんで、その黒いスーツの男は女を全部逃がした後、船をたった一人で沈めちまった!」

サンジが見つけたのは、多分、その船から逃げ出して追われていた女だったのだろう。
その女に頼まれたのか、他にも買われてきた女がいる、と聞いて助ける気になったのか、
そこまではゾロにはわからない。

何故か、その船乗りの話を聞いた後、寒さが増した気がした。

(人買いでも、用心棒はいただろう…。まあ、いたところであいつの敵じゃねえだろうが)

圧倒的な力でねじ伏せたにしても、その時、一緒にいたかった。
側にいて、サンジを守りたい、とか、そんな驕った気持ちは全くない。

ただ、いつでも、どんな時でも必要とされたいと思っていて、
いつでも、同じ事を想い、同じ気持ちでいたいと思っているだけだ。

***

鐘が街中に鳴り響く。
たった二度だけ鳴る鐘の音の余韻が雪を舞わせる風に溶ける頃、サンジは
約束どおり、ゾロの隣へ戻ってきた。

薄着だった女の一人にやってしまったのか、着てきた筈の上着がない。
冬空の下、上着も着ずに黒いスーツのジャケットままの姿は、とても寒そうだ。

右の頬に、流れ弾でも掠ったような傷が出来て、血が滲んでいる。
よく見ると、ジャケットの肩口も焼けて、ほつれていた。

(肩口に、一発食らったか)そう思ったとたん、胸が急に重くなる。
無傷で帰ってくると思っていたのに、例え、かすり傷だとは言え、
血を流している姿を見てしまったら、平静ではいられない。

「…手間取ったのか」サンジの力量からして怪我をする様な相手ではない。
それなのに何故?とゾロは尋ねた。
「そうでもねえよ。ちょっと悪足掻きされて、攻めあぐんだだけだ」

そう言いながら、サンジは頬を伝う血を袖口で拭った。
どうやら、女を盾に取られて、動きを封じられたらしい。

何事もなかったように、一緒に歩いていた時間を遡ったような自然さで、サンジは
ゾロに微笑みかける。
「…ちゃんと約束どおり、次の鐘が鳴るまでに帰って来ただろ?」
「何で、俺がここにいるって分かった?」
そう言いながら、ゾロは羽織っていた上着を脱いで、サンジに手渡す。
当然のように、サンジはそれを受け取って自分の持ち物のようにそれを羽織った。

ゾロの体温で温もった上着が、冷え切ったサンジの体を包みこむ。

「…この場所、遠目から見ても、一番…綺麗だった」
綺麗と言う言葉を使う前、サンジは一瞬、戸惑った。
ゾロ相手に、「綺麗」だ、と言う言葉は、あまりにも露骨で、感傷的で、気恥ずかしい。
けれども、他に適当な言葉が思い浮かばなかったのか、今二人がいる場所を
「綺麗な場所」と言った。

街の中心部から少し離れたこの場所、サンジを待つ間ゾロが見つめていた視線の先には、
赤ん坊を愛しげに抱く若い女の大きな彫像がある。
それを彩るように、大きな街路樹には天辺まで星が瞬くような色とりどりの光が燈されていた。

もっと華やかで、明るい場所はたくさんある。

この場所を彩る灯りは、今生きて、目の前と腕の中にある幸せに感謝し、
その感謝の祈りを何かに捧げたくなるような暖かさと慈愛に満ちている。
だから、ゾロはここを選び、この場所でサンジを待っていた。

地上に降ってきた星がサンジの眼差しをさらう。
ほのかな暗さの中に不規則に瞬く煌きが、サンジの横顔を美しく照らした。

ゾロの目がその横顔を、耳がその声を、心がサンジを造る全てのモノに惹きつけられる。

「港に戻る途中で、一回、ここを通ったんだ」
「その時、…この場所をお前に見せたいって思った」
「…だから、ここだと思ったんだ」
「俺がお前に見せたいと思うモノをお前も俺に見せてえんじゃねえかって」

サンジの言葉は、ゾロを抱き締める腕にもなり、ゾロの言葉を塞ぐ唇にもなる。
見詰め合って言葉を交わしている訳でもなく、指一本触れていないのに、
優しく口付けされた様な気がした。

嬉しくて、愛しくて、どうやって言葉を返せばいいのか分からず、
ただ、黙ってサンジの横顔を見つめる事しか出来ない。

サンジに優しくされると甘えたくなる。
気まぐれに突き放されると寂しくなる。
それでもまた優しくされると、突き放される前よりも、サンジをもっと愛しくなる。
愛しさが募るがままに任せて、片時も離れたくない、と我侭を言いたくなる。

片時も離れず、これからも、ずっと死ぬ時までも、一緒にいたい。
愛しさが募るごとに、その願いも募っていく。

「…そうか」
サンジのように、今、この瞬間にある幸せと愛しさを大切にし、かけがえがないと思い、
それ以上を望まなければ、笑っていられる。

愛しいから、今が幸せだからずっとこんな時が永遠に続けばいい、と思っても、
サンジにはサンジの夢があり、ゾロには目指す道がある以上、
その願いは絶対に叶わない。だからゾロは切なくなる。

「お前は欲がなくていいな」と思わず、独り言を呟いた。
「…欲がねえ?俺が?」ゾロの独り言をサンジは聞きとがめる。

光の点滅と、その光に色づいて舞い散る雪を見ていた蒼い瞳が、ゾロを見て
微笑んだ。
「分かってねえな、お前。俺は際限なく、欲張りなんだぜ?」
「欲しいものは一杯ある。ありすぎるくらいだ」

そう言っても、多分、具体的に「何が欲しい?」と聞いても、
サンジは上手く茶化して、何も言わないに決まっている。

二人の心がこうして重なり合い、世界が輝く様に見える時間の、一瞬、一瞬を積み重ねて、それが未来に続くと信じているサンジの強さが、ゾロは羨ましくなる。

「お前はどうなんだよ?自分で自分は欲深えって思うか?」
「思う」

サンジの質問にゾロは即答する。
サンジはその早さと言葉の単純さにハハハ、と声を立てて笑った。

サンジを欲しいと思って、心だけでいいと思っていたのに、それが手に入ったと思ったら、次は体も欲しいと思った。
今も、一分後も、明日も、一ヵ月後も、来年も、十年先も、サンジが側にいて欲しいと
思うのも、結局は欲深くて我侭だからだ。

ひとしきり笑って、サンジに「何が欲しいんだよ、そんなに」と尋ねられ、
「今か?」とゾロは聞き返す。

未来へと繋がる言葉一つあれば、募って行く愛しさの裏側にある切なさは
消えるだろうか。
そう思ったけれど、ゾロはその考えをすぐに打ち消した。
(約束の真似事をするくらいなら、しない方がマシだ)

サンジがそうしているように、今、手を伸ばせば届く幸せを大事に大事に抱き締めて、
サンジの強さを、自分達の運命を信じるしかない。

肩口の傷が痛まないように、寒さがその傷から染みこんでサンジの体を冷やさない様に、
そっと腕を回して、体を抱き寄せる。

そのまま、サンジを包む様に抱き締めた。
人が見ている、と強張った体を、ゾロは5秒だけ数えて、すぐに手を離す。

ずっと抱き締めておけないからこそ、そのわずか5秒の温もりがかけがえなく愛しい。

先に言い出されると、また自分の想いだけが取り残されたような気がして
少し悔しいから、まだ、手にも5秒だけ触れた頬にもサンジの温もりが残っているのに、
ゾロはサンジが言い出す前に、「一時間以上経ったな。船に戻るぞ」と先に歩き出す。

「おい。港は、逆方向だぞ」とサンジの声が追い駆けて来て、ゾロは振り返る。
「だから、こっちだ。こっちでいいんだ」

わざと遠回りして港へと戻る道を歩きながら、
ゾロは自分が退屈しのぎに勝手に賭けていた事を急に思い出した。

(約束の鐘が鳴り終わるまでに、あいつが俺を見つけたら、)
(…ずっと、いつまでもこのまま…)

「…バカ臭エ」自分の余りにも感傷的な行動を思わずゾロは自嘲してそう呟く。
けれど、何故か、我ながらバカ臭いと思っているのに、胸の中は、
光を吸い込んだ様に、華やいだ空気で一杯になった。

そんな気持ちを抱えて、二人はいつもと代わりない今の自分達の世界へと
戻っていく。

「今度、人前であんな事してみやがれ、ホントにぶっ殺すからな!」
「じゃあ、次は2秒だけにしといてやるよ」

もう、夜も明け始める時間だと言うのに、街の灯りはまだ消えない。

街に煌く地上の星は、雪が降りしきる白み始めた空にまで届いて、
うっすらと朝焼け色に溶けはじめていた。

戻る