第三話「10億ベリーの雫」

(・・・どうして、あんな事言っちまったんだろう)
その後悔が、ずっと心にこびりついて、体は眠りたがっているのに、サンジは眠る事が
出来なかった。

ナミも、ゾロも好きでやる事ではない、と判っている。
自分でも、「・・・皆の為だ。気に病む事はねえ」と口に出して言えた。
それも、嘘や強がりを言っているつもりもなく、紛れもない本心だった筈だ。
なのに、何故だろう。何故、あんな事を言ってしまったのだろう。
サンジは考え、考える度に自分の言葉を思い出し、そしてその言葉がサンジ自身の心を
えぐる。
「ナミさんに触る手で俺なんかに触るな」
(なんで、あんな事・・・・)
同じ事を何度、考え、何度後悔しただろう。こんなに後悔に苛まれるのなら、いっそ、
ゾロと何も話さない方が良かった。

何が悲しくて、何がやるせないのか、サンジは自分でも分からない。
分かるのは、悲しさもやるせなさも、ぶつける相手がいない、と言う事。
だから、自分ひとりで消化しなければならない。それも分かっている。

ゾロと話してから、暫くして体のだるさも、重さも寒さも急に楽になった。
まるで、良く効く薬を飲んだ後の様だ。
それを訝しい、と思った途端、すぐにその理由をサンジは悟る。

(・・・あの、レディの幽霊が船からいなくなったからだ・・・)
船から幽霊が遠ざかっただけで、起き上がる力も無かった体にほんの僅かに力が蘇えった様な気がする。
「サンジ・・・ちょっと楽になったんじゃねえか?」

男部屋の扉が開いて、ウソップがそこから声を掛けてきた。
どうやら、ウソップも少しは気分が良くなったらしい。
「気晴らしに、女部屋で酒でも飲まないかってロビンが・・・」
そこまで聞いて、サンジはまた、胸が苦しくなる。
今は、この胸の内に巣食っている、やり場の無い苦い想いを抱えているだけで精一杯だ。
この苦しさ、悲しさ、やるさせなさ、切なさを隠して、笑っていられる自信がない。
数秒考え、サンジはハンモックに横になったまま「・・・・いや・・・」と短く答えた。
それから、「まだ気分が悪イ。とても起きれそうにねえ」
「少し、静かに眠りてえから、朝まで一人にしてくれ」と答えた。
「そうか・・・。分かった」とウソップの答えが返ってくる。その声にも同情の様な響きが聞こえて、サンジは眉根を寄せた。
ウソップや、ロビンの好意が不愉快な訳ではない。今は知らん顔をして、放っておいてくれるのが一番いいだけだ。

サンジは物音を立てないように、ハンモックから起き上がる。
船の中にはいたくない、と思った。
気遣われている静けさの中にいると、余計に気が滅入る。

(どこでもいい。一人っきりになれるところへ・・・)

サンジはそっと誰にも気付かれないよう、船を降り、海岸沿いを当て所なく歩いた。

海風がやけに重たく、湿っぽい。
(・・・じきに雨が降ってくるな・・・)そう心の中で呟いて久しぶりに銜えた煙草の煙を胸いっぱいに吸い込み、ため息と一緒に吐き出した。

海岸の突端まで歩いて、そこから先はもう海だ。
ポケットに手を突っ込んで、真っ暗な海をただ、眺めた。
灯台の光が暗い海の上を照らす光を目で追う事に集中しようとした。
頭の中も、心の中も空っぽにしてしまいたい。
そう思うのに、感情を心から追い出そうとした反動なのか、頭の中には、
絶対に想像などしたくなかった、映像が勝手に浮かんでくる。

ゾロは、どんな風にナミを抱くのだろう。
あのゾロの手はどんな風にナミの乳房を愛撫するのだろう。
ナミの体はそれにどんな風に応えるのだろう。
どんな声を上げて応えるのだろう。

(・・・畜生っ・・・)サンジはそんな卑しい事を考える自分に寒気がした。
思わず、拳を握り締める。
ゾロがナミを抱くのが悲しいのか、ナミがゾロに抱かれるのが悲しいのか。
それとも、今まで大事に大事に築いてきたモノが脆く、崩れてしまうのが悲しいのか。
自分の心の中の事なのにそれすらサンジは分からない。

誰も悪くはない。
誰にも裏切られてなどいない。

それなのに、誰よりも固く、強く信じていた者に裏切られる様なやるせなさは、
灯台の光を目で追おうと、真っ暗な海を見つめようと、どうしても心から拭い切れない。
それどころか、拭おう、忘れよう、自分自身を宥めよう、とすればするほど
悲しさもやるせなさも切なさも募る一方だ。

まるで激しい海流が海底のヘドロを巻き上げるように、
その醜い妄想に心の奥底が掻き混ぜられ、普段は気付きもしない醜い嫉妬や独占欲を抉り出してくる。

かけがえの無い、誰にも触れさせたくない、大事なモノを汚されてしまう。
目を逸らしたい、そんな露骨な感情とサンジは無理矢理向き合わされる。
そして、思った。
(・・・なんでこんなミジメな想いしなきゃならないんだ・・・)
そう心の中で呟いた途端、目の奥がジン・・・と熱く、痛くなった。

波の音に混ざって、サア・・・と霧のような細い雨が空から降ってくる。
歩けるようになったとは言え、自分の体がどれほど衰弱しているかサンジは自覚していた。
(・・・また、体力奪われるな・・・)
そう思ったけれども、船に引き返す気にはなれない。

雨に濡れるに任せ、頬に水滴が伝うのに紛れて、目の奥の熱もその雨に溶けて、サンジの
目から零れ落ちていく。
自分が涙を流している、と言う自覚がサンジにはなかった。

そうして、目から雫を流していれば、心に詰まって行き所のない悲しさや、やるせなさがその雫に溶けて混ざり、そして、雨の雫が浚ってくれるかも知れない。

薄汚い想像を思い浮かべる、醜い独占欲も、方向性のないでたらめな嫉妬も、
これ以上、一人で抱えているのは苦しい。
そんな本当の気持ち、本当の想いを誰にもぶつけられないのなら、その全てを
洗い流せるまで、雨が降り続けばいい。
瞬きすれば、頬を伝いもせず、大きな重たい雫が勝手に地面へと雨の粒より先に落ちていく。
どのくらいの時間が過ぎたのか、サンジには分からない。
海を睨んで、一体何粒の雫を零したのかも分からない。
どれほど雫を零しても、いや、零せば零すほど楽になると思ったのに、
一向に楽になどならない。
心の中には、さっきまでは感じなかった、新しい感情が生まれた。
この温かい、海の味のする雫をこんなにたくさん流すほど、
(・・・こんなに俺ア、・・・あいつを大事に想ってたんだ)とようやく気付く。

その大事なゾロが、今、自分ではない女の体を抱いている。
雨の中で一人、こうして体を寒さに震わせている事も知りもしないで。

頭では、それは、皆を助ける為、引いては自分の為だと分かっている。
だが、サンジのその理性にもはや感情がついてこない。

その所為で、サンジの心の中の悲しさとやるせなさが融合した。
ただ、切ない。
喉から嗚咽まで出そうで、喉に無理に力を入れると、キリキリ痛んだ。
雨はサンジから雫も浚うが、体温と体力も浚う。
服がぐっしょりと濡れて、とても寒い。体が芯から冷えて、勝手に震えだす。
(頭も、喉も、目の奥も、どこもかしこも痛エ)泣きたくなるくらいだ、と、
サンジがそう思って、とうとう、灯台の壁に体を預け、凭れかかった時だった。

「・・・なにやってんだ、てめえ、こんなところでっ・・・・」

耳に飛び込んできたその声を、サンジは空耳だと思った。
心臓が何かに鷲づかみにされたかの様に、息が止る。

だが、目から溢れる雫は止ってくれない。
振り向き様、一滴、頬を伝って流れ落ちてしまった。



堤防の上に、ゾロが仁王立ちになっている。

(・・・てめえこそ、なんでここに・・・)と言おうと思うのに、嗚咽を無理に堰き止めていた所為で、
咄嗟にサンジは声が出せない。

いや。
声など出せば、もっと目から勝手にボロボロと雫が流れ出てしまう。
そう思ってサンジは一度は振り向いた顔をまた、ゾロから逸らした。

(いくらなんでも早すぎるだろ・・・?それとも、さっさとヤル事だけやって・・・?)
また、サンジの頭の中に汚らわしい妄想が過ぎった。
だが、サンジは頭を振ってその妄想を吹き飛ばす。
そんなモノで、(自分で自分の心をグチャグチャにするのは、もうゴメンだ・・・っ)
そう思って、サンジは堤防の下の海岸を、ゾロを見もせずに走り出す。

「・・・な・・・おい、待て!」
ゾロが堤防の上を走って追いかけてくる足音がすぐに聞こえてきた。

普段なら、絶対に振り切れる。だが、今は体力の差がありすぎた。
ほんの数十秒も経たない間にゾロの足音はすぐ背中に迫ってくる筈だ。
だが、ゾロとの距離は殆ど縮まらない。

走り出してから、サンジは息が切れていない事に気付いた。
(俺の体力、戻ってきてるじゃねえか・・・っ)
また、目じりから勝手にポロポロと雫が流れ落ちた。
もともと病気でもなんでもないのだから、体力を失っていても、じっとしていれば
体力はどんどん蓄積され、回復していく。
体力が戻りかけている事、それはつまり、あの女の幽霊が成仏した、と言う事を物語っていた。何か、目の中の機能が壊れてしまったのか、自分で制御出来ない水分が勝手に体から流れていく事にさえサンジは悲しくなる。
何もかも、思い通りになることなど、一つも無い、と絶望したくなる。
(・・・何しに来たんだッ・・・ご丁寧に報告に来たのかよっ)

「待て!待てっつってるだろ、アホコック!」とゾロが後ろから喚いている。

アホコック、と喚かれているのに、その声を耳がとても欲しがっている。
怒鳴り声も、静かな声も、自分にとっては誰よりも好きな声だった、とこの状況で
そんな事を感じてしまう自分にまた、サンジは腹が立つし、情けなくなる。

「このッ・・・待ちやがれ!」
そうゾロが大声で喚いたかと思ったら、いきなり、強烈な重さと衝撃がサンジの背中を
襲った。堤防を蹴って、ゾロがサンジの背中に飛びついたのだ。

「うわ!」無様にサンジは砂浜にドウ!と砂埃が上がるほどの強さでなぎ倒される。
つい、数時間前まで死に掛けていた人間相手にする事ではない。

「待てっつってんだよ、聞こえねえのか!」

ゾロの声を耳が欲しがっても、それ以上の言葉は欲しくない。
心がゾロの声を拒絶するのに、ゾロの声にその拒絶するはずの心が大きく揺さぶられる。

目の奥が、ジリジリ焼ける様に痛い。
だが、どれほど痛くても、熱くても、堪えなければ、とサンジは自分の顔を両腕で隠した。

こんな気持ちも、こんな想いもゾロに知って欲しくない。
こんなに卑屈で、器量が狭くて、独占欲剥き出しで、見栄っ張りで、弱い自分を曝け出したくない。
「・・・・なんの用だ・・・」
どうにか声を絞り出して、自分の体にのしかかって、腕を掴んでいるゾロの手を振り払う事をまず、考えた。

「・・・それだけ走れるッて事は・・・体力、戻ってるみてえだな」
ゾロはそう言って、安堵したかのように静かに一つ、ため息を漏らした。

・ ・・おかげさまで。

そう皮肉を言いかけた唇をサンジは引き絞る。
ゾロは力任せにサンジの顔の前で交差したその腕を強引に開かせた。
必死に抵抗しても、ゾロの腕力に叶うわけがない。

悲しい、悔しい、やるせない、切ない、苦しい、あまりにもたくさんの感情を
サンジは一人で抱え込みすぎた。もう、心の中は生卵を手当たりしだいにむちゃくちゃに
割りまくり、それをキッチンの床に撒き散らしたかのようにグチャグチャだ。

この腕を掴んでいるこの手は、ナミの体を知っていて、もう自分ひとりだけのモノではないのだと言う事。
それは、どんな風にゾロがサンジを宥めても、何を言っても変えられない事実だ。
(・・・きっと、俺はいつまでもこの事は忘れられねえ)それだけは確信出来る。

「・・・待てって言っただろ」そう言って、ゾロはサンジの頬をぺロリと舌で舐めた。
「・・・普段、意地ばっかり張って、涙を流さねえから目がぶっ壊れたみてえだな」
そう言って、ゾロはサンジの目から流れる雫を一滴残らず、唇と舌で拾っていく。
もう、一滴も零さない、とでも言うように。
そうしながら、ゾロはサンジに言った。

「・・・・俺は、ナミの体に指一本、触ってねえよ」
(え・・・?)

サンジはそのゾロの言葉を聞いて、初めて目を開いてゾロの顔を見上げる。
灯台の規則正しい光がふっと、ゾロの顔を照らした。
一瞬かすめた光源に照らされたゾロの顔は、口先だけの嘘や気休めを言っているとは
思えない。いつもと何も変わりない、自信と優しさに満ちた、見慣れた穏やかな笑顔だった。

「・・・じゃあ、なんで・・・」あまり長く話すと、声までが湿っぽくなる。
そう思って、サンジは極力短い言葉でゾロに尋ねた。

「成仏したんだ。あの女」息が掛かりそうな程近くでゾロは話し始める。
まだ、サンジの上にのしかかったままの格好で、それはまるでまだ降り続く雨からサンジを守るような格好だった。
「安宿に入って、それから、女の幽霊はナミの体に入ったんだが・・・」
お互い、なかなか踏ん切りがつかなくて、どうしたモンかと思ってた。
小一時間程経った頃、その安宿の部屋に、もう一人の幽霊が突然、出てきたんだ。

幽霊ってのは、人の体にとりついたら、独特の光を出すらしい。
それも、幽霊同士なら見えるが、普通の人間には見えない。
てめえがてめえの面してるのと同じで、その光は、人それぞれが固有の色を持ってて、
そのもう一人の幽霊は、その色を頼りに、遠い海から必死に飛んできた、って言った。

「もう一人の幽霊ってなんだよ・・・」サンジはゾロの話を聞き、まず、そのもう一人の幽霊について尋ねる。
すると、ゾロはサンジの目じりをまたペロリと舐め、
「心底惚れた相手の体を他のヤツに触られるなんて冗談じゃねえ」
「そう考えるのが男ってもんだ」
「俺だって・・・お前だってそうだろ」と答えた。

「それじゃ、そのもう一人の幽霊って・・・」そうサンジが答えを促すと、ゾロは
「女の幽霊の連れ合いだ」と頷いた。
「男の幽霊は、女の幽霊を探してさ迷ってたらしい」
「それで、二人して仲のいい夫婦にでも取り付いて、女房の思いを成就させたら、二人一緒に成仏できるだろうって言って、どっかに消えちまった」

(・・・なんだ、そりゃ・・・・)
ゾロの話を聞いて、サンジは全身から力が抜ける。
拍子抜けした割りに、何故か嬉しさが腹の底から込み上げて来た。

笑い声を上げたい筈なのに、まだのどを何かにふさがれた様で声が出せない。
その代わりに目がまた水分を搾り出そうとする。

すると、またその水滴をゾロの唇が吸い取った。
「・・・さっきのと味が違うな」と言って、ゾロがクク・・と喉を鳴らして笑う。

ゾロの両手は、無理矢理引っ掴んでいたサンジの腕を放し、いつの間にか、サンジの頬を包んでいた。サンジの腕も自然にゾロの背中を抱く。
ゾロの唇が、雨の中でも温かい事、それが自分の唇を時々優しく塞ぐ事、
ゾロの声を今、自分だけが聞いている、そんなちっぽけな事が今、サンジはとても幸せに思える。何を言われても、今なら許せそうな気がする。

「結局、沈没船の場所もいわずに消えちまったから、10億ベリー、手に入れ損ねたが、・・」「そんなの、どうだっていい」
「それより、この味は格別だな」
そう言って、ゾロは甘い味のする10億ベリーの雫をまた、唇で受け止めた。



(終わり)



最後まで読んで下さって有難うございました。

「サンジの涙」をお題にして書きました。

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