第二話「決心」

船に取り付いた女の幽霊を成仏させないと、能力者ではない者が生気を吸い取られる。
いずれ、生気を吸い尽くされて、まずはその幽霊と同じ日に生まれたサンジから殺されてしまうだろう。

どんなにナミやサンジが「幽霊がいる」と言っても、船長のルフィには見えない。
そして、どんどん衰弱していく体を現実に目の当たりにしても、チョッパーも何かの原因で幻覚を見、幻聴を聞き、そして体力を失っていると頑なに信じていて、幽霊の話などまるきり信じない。

能力者であっても、ロビンだけがその幽霊の存在を真剣に受け止めていた。

幸い、船は次の島に辿り着く事が出来た。
だが、誰も船を降りようとはしない。

「コックさんの具合、随分悪そうだけど・・・大丈夫なの?」
そう聞かれて、チョッパーは首を振る。
最初は、なんとなく疲れが取れない、と言う感覚はほぼ生気を取られているもの全員に平均に感じていたのに、今はサンジの衰弱が最も酷く、食べ物はおろか水さえ喉を通らない状態になっていた。
特に、幽霊がその姿を人前に現し、言葉を交わすようになってからは、サンジの衰弱は酷くなる一方だ。

「あたしの体でゾロと?冗談じゃないわ」
「あんたも、旦那さん以外の男と寝たいなんて、どうかしてるんじゃないの?」と言っても
「・・・生身の人間のあなたに、私の苦しみなんて判る筈がありません」と言うばかりだ。
「確かに、ゾロは大事な仲間よ。でも、だからって、抱かれてもいいかって言われるとそれは別の話だわ」
それに、サンジとゾロが特別な関係であり、それを知っているのにその間に亀裂を入れるような真似もしたくない。
こうやって、ナミと女の幽霊が押し問答するだけで、サンジはどんどん弱っていくけれど、
ナミはどうしても、決心出来ない。

初めて女の幽霊が姿を現してから、二日間経った。
その間、ナミは悩み抜いた。
その二晩の間、自分も酷く疲れ、体が辛いけれども、どうにか幽霊を説き伏せようともがいた。

「・・・あんたは成仏してそれで終わりだけど、あたしはあの二人とこれからもずっと一緒にいるのよ」そう言って、ナミはさらに強く、「ううん、違うわ。あたしはあの二人と、これからもずっと、一緒にいたいの」と言い換えた。
「あたしがゾロと寝たら、辛い思いをする人がいるの。あたしはそれを申し訳ないと思わなきゃならない。ずっと罪悪感を感じなきゃならないの。あたしは何も悪くないのによ?」
「そんな風になりたくないのよ」
女の幽霊はナミの言い分にも深く頷き、本当に申し訳無さそうにうなだれるのだが、
他の解決策を提案する事は遂に無かった。
責めて、詰って、懇願しても、無駄だ。ナミは三日目の朝を迎えた時、そう思い知る。
(・・・この人の意思じゃ、どうにも出来ない事なんだわ・・・)と悟ってしまったのだ。
それは例えれば、体の中の臓器が病に冒されて動かなくなる、と判っていても、自分の意思ではその臓器の冒している病を止める事も、臓器を健全に動かす事も出来ないのに似ている。
自分の体なのに、自分の自由にはならない。幽霊になると、存在する為に必要な事も、魂が浄化される為に必要な事も、自分の意思で決めるワケではなく、何かに制約されてしまっているかのように、何一つ自由にならないらしい。
魂になった姿では嘘はつけない。女の幽霊がうなだれ、心から申し訳なく思っているのが会話を交す程にナミには伝わってくる。
女の幽霊は言った。
「あなたには、私に体を貸した、と言う記憶は残りません・・・」
「たった一晩、あなたはただ、夢も見ないくらいにぐっすりと眠ったと、そう思うだけです。」
「・・・もしも、このまま、私が生気を吸い尽くしてしまって誰かが死んだら、」
「私は穢れた死霊になって、永遠にこの世をさ迷わなければならないのです」

どうか助けてください、と言って女の幽霊は泣く。それでもナミが返事を渋っていると、
女の幽霊はナミに両手を合わせて言った。
「もしも、望みを叶えてくださったら、この船を私の亡骸が沈んでいる場所へ案内します」
「え?」その突飛な申し出にナミは眉を寄せた。
「・・・そんな事、一体なんの得になるって言うのよ」と思わず、憮然と言い返す。

「私が乗っていたのは、当時最高級と言われた大型の客船です」
そう言って、女の幽霊はナミも聞いた事のある、伝説的な豪華客船の名前を口にした。
200年前、当時の金持ち達を乗せ、そのきらびやかな生活をそのまま海に持ち出したような船だったそうだが、ある日突然、海の上から姿を消した船だ。
生存者がいない所為で、どの海域で難破したのか、今以て解明されていない。
その船内には、今も、手付かずの宝が眠っている、と言われている。
「・・・10億べりー以上の財宝が今でも海底にある筈です」
一口で10億、と言っても200年以上前の10億ベリーだ。
「200年前の10億べりー?!」ナミはそれを聞いて、目を剥いた。
(・・・それって、今ならいくらになるのかしら)と一瞬、邪な銭勘定が頭を過ぎった。

だが。その話を聞いても、いや、そんな話を聞いた後だから尚更、
「10億ベリーで体を売るような真似はしたくないわ」と、決心がつかなかった。

(ゾロはどう思ってるのかしら)
ふと、ナミはその事に気付く。自分の気持ちばかりに気を取られ、女の幽霊が名指ししたゾロの意思は全く聞いていない。
(・・・聞いてみよう。あいつ、結構冷静だからなにかいい案があるかも)

・・・・・・・。
ゾロもまるで体がだるくて力が入らない。こんな時、無理に体を動かして無駄に体力を使ってしまったら、賞金稼ぎや海軍に襲われたら、大打撃を食らうかもしれない。
そうならない様に、体力を温存しておこう、と船の隅にじっと座っていた。
そこへロビンがやってきて、ゾロに声を掛けてきた。

「剣士さん、航海士さんが呼んでるわ。動ける?」

「・・・あいつも動けねえのか」と閉じていた目を開き、ゾロはゆっくりと立ち上がる。
昨日からサンジを追い駆ける様に、ウソップも起き上がれなくなってしまっていたから、次はナミも、と思い、何気なくロビンにそう尋ねた。
「・・・そうかもね・・・」ロビンは小さくため息をつく。

女部屋にゾロが入ると、ロビンの言ったとおり、ナミはベッドの上にだらりと横になっていた。

「あんた、今朝、チョッパーから話し聞いた?」とまず、聞かれる。
「ああ」とゾロは短く答えた。知っている、と答えたのに、ナミはまるで確認するかの様に今朝、
チョッパーが言った言葉を独り言の様に呟いた。
「このままじゃ、サンジ君、三日も保たないって・・・」

「サンジ君の次は多分、ウソップが殺されるわ」
それから、・・・あたし、そして、最後はあんたよ。
ナミはそう言いながら起き上がった。そして、ゾロの意見を聞こうと、じっとゾロを見る。
ゾロはとっくに腹を括っていた。
「・・・お前が決心すればいいだけの話だろ」と言うと、
「あたしが?」ナミが面食らっている。
自分の気持ちにこだわっている所為で、仲間も自分も衰弱してどんどん航海の危険が増しているのに、何を驚く事があるのか、ゾロは判らなかった。
「そうしなきゃ仲間が死ぬんだ。皆、そんな死に方をする為にこの船に乗ったんじゃねえ」
「お前一人の命なら、自分の好きにすりゃいい。だが、お前が恥ずかしいだの、なんだの言ってる間に、死んでいくヤツがいるんだ。そいつらの人生と夢、今俺とお前が背負っているんだぞ」
「後でどんな結果になろうが、生きてさえいればどうにだってなる」

そう言うと、ナミは、心細そうな、不安そうな、ナミらしくない表情を浮かべた。
「・・・あんた、あたしを抱いた後も、サンジ君と何も変わらずにいられるの?」と聞かれ、
ゾロは迷いなく即座に答える。「なにが変わるって言うんだ?」

それから、ナミは目を伏せ、暫く黙って考え込んだ。
そして、ようやく決心がついたのか、顔を上げ、
「・・・・せめてサンジ君には悟られない様に秘密にしなきゃ・・・」と言いかける言葉をゾロは
遮る。
「・・・体力が回復すれば、どうせ何もかもバレる事だ」
「何も知らせないで不安にさせるぐらいなら、最初から何もかも知らせておく」
そう言うと、ナミは深く頷いた。
「・・・わかった。サンジ君の事はあんたに任せるわ」
「明日の夜よ。いい?」そして、姿を隠し、気配を潜めた女の幽霊に一方的にそう言い放つ。

サンジは男部屋のハンモックの中で横になっていた。
瞼は閉じられているけれど、きっと眠ってしまうつもりは無かったに違いない。

ゾロは静かにその寝顔を見つめてた。(あと、三日で死ぬ様には見えねえが・・・)
頬が削げたわけでもなく、目の下にクマがあるわけでもない。
見た目はただ、顔色が悪いだけにしか見えないのに、生命力も、影も希薄になっているのは
明らかだった。
寝息も微かでとても弱い。今にも止ってしまいそうだ。
少しでも乱暴に扱ったら、命だけでなく、姿までも掌の中で掻き消えてしまうかも知れない。
そんな風にゾロに思わせるほど、サンジの衰弱は深刻な状態になっていた。

(なんの縁もない幽霊なんかにこいつの命を奪われてたまるか)
(・・・俺だって、好きでやる事じゃねえ)と声に出さずにサンジにそう話しかける。


ナミに幽霊が取り付いて、その体を抱く。
その幽霊の話を聞いた時、ゾロも流石に動揺した。

考えた事もない話だ。
すぐに腹が括れたワケではない。

何か他の策はないか、と女の幽霊に問い詰めてみた。
だが、ゾロと話す為に姿を現し、声を響かせる為に女の幽霊はエネルギーを必要とし、
そのエネルギーをサンジの命から得ていると知った時、すぐに女の幽霊との接触を止めた。

ゾロの気配を感じたのか、サンジの瞼がゆっくりと開く。
何度か瞬きをして、自分の顔を覗き込んでいるのがゾロだと判ったのか、目だけで少し微笑んだ。
そして、「・・・決心がついたのか」と言う。
弱々しく、掠れたその声は、今まで何度も聞いた、瀕死の重傷を負った時に強がる声と同じだった。
その言葉を聞いて、ゾロの心臓が鈍く悲鳴を上げる。

今の今まで眠っていたのに、ゾロの顔を見た途端、サンジはゾロの心の中にあるものを瞬時に悟った。でなければ、そんな言葉が口から出るはずが無い。
(・・・ずっと、気に病んでやがったのか)眼が覚めてすぐにその事を口にする、と言うのは、
眠りに入る直前まで、そして寝入ってしまってからも夢の中で、ずっとサンジの心は苛まれていたのだろう。

後ろ暗いから胸が痛むのではない。
だが、自分の行動一つでサンジが悲しく、辛い思いをする。
腹を括った時から判っていた事だった。だが、現実にサンジの姿を見て、声を聞くと、ゾロの
心臓が悲しく軋む。(・・・覚悟は決めていた筈だ)そう思うのに、切なくなる。

「・・・皆の為だ。気に病む事はねえさ」
「もし、こんな事で・・・俺達の何かが変わって、何かが終わってしまうなら、」
「それが運命だって事だ」
サンジはそう言った。
辛いなら辛いと、やるせないのならやるせないと言ってくれたら慰める事も出来る。
宥める事も出来る。だが、サンジはその辛さももどかしさも自分ひとりで飲み込もうとしていた。

あまりにも、か細い、透明な笑顔が痛々しくて、少しでもその辛さを分け合えるなら、とゾロは
そっとサンジの頬に触れようと手を伸ばした。

その手は、サンジの頬に届かなかった。
ゾロの指がサンジの頬に届く前、サンジの手が、ゾロの手を思いがけないほど早く、弾く。
「・・・ナミさんを触る手で俺なんかに触るな」
そう言って、その言葉を後悔したかのように、サンジはゾロに背を向けた。

続く