「10億ベリーの雫」




第一章「幽霊」

「なんだか、最近、疲れが取れねえんだよな」
嵐に遭遇する事も無く、ここ数日は穏やかな天候が続いているのに、夜の食事の時、
ウソップがそう言って、大きくため息をついた。
「あんたも?」張りの無い声でナミがウソップへ顔を向けた。
「よく眠れないって言うか・・・なんだか、・・・人の気配を感じるのよ」
「ナミさんも?」食後のコーヒーを準備していたサンジが顔だけを傾けてナミの言葉に反応した。「サンジ君もなの?」「ええ・・・」作業の手を止めずにサンジが頷く。

「人の気配?」興味をそそられたのか、ロビンが話題に加わってくる。
「コックさんも航海士さんも何か見たの?」と聞かれ、ウソップとナミ、サンジが顔を見合わせる。
「なんかいるぜ。この船」そこへゾロが皿に残った食事を口の中にかっこみながら会話に割って入ってきた。
「幽霊?俺はなんにも感じないぞ〜?」とルフィが不思議そうに首を傾げた。
「鈍いからだろ」とサンジがルフィの言葉に答え、おのおのの好みに味を調えたコーヒーをその前に差し出していく。
「俺もなんにも感じない」「私もよ」チョッパーとロビンも同じ様に首を傾げた。

「ゾロ、お前、なんか見たか」サンジがそうゾロに尋ねると、「俺が見たのは、影だけだ」と言う。
「俺は物音を・・・足音を聞いた」サンジがそう言うと、ウソップも「俺も足音だ」
「ロビンとか、ナミが履いている踵の高い靴で歩く様な・・・でも、ロビンの足音でもないし、ナミのでもねえ」ウソップの言葉に「ああ。二人とも眠っている時間だったからな」とサンジが深く頷く。
「女の幽霊にでも取り付かれたのかな・・・」とサンジは呟いた。

日毎に、能力者を除いた4人の体調が崩れていく。

ナミもウソップもゾロも、まるで大病をした後の様に、少し動くだけでも息が切れたり、
気を失いそうな程血の気が失せたりしているが、中でもサンジの衰弱が一番目立つ。
重病人の様な顔色で、まるで引き摺るようにして体を動かしている。

「幽霊が生気を吸い取っているのかしら・・・」とロビンが顔を曇らせた。
「幽霊の所為で衰弱するなんて俺は認めない!絶対何かの病気なんだ」
「病気なら原因を突き止めて、必ず俺が治す」とチョッパーが色々手を尽くしたが、
一向に効き目が無い。

「このままじゃ、船を動かせなくなるわ」
「・・・一体、なんの因果があって、この船に取り付いたのか、言いたい事があるならハッキリ言えばいいのに」
甲板に出ていたナミが手すりに凭れてイライラした様にため息をつく。
その時、全員が甲板に出て、どうにか船を操舵していた真昼間だった。

「・・・ご迷惑をお掛けします・・・」

(・・えっ・・・?)ナミは自分の耳を疑った。
聞いた事もないその声は、まるで耳のすぐ側、息を吹きかけられるくらい近くで
囁かれたように聞こえた。背中にゾっ・・・と寒気が走る。
実際に、温かい太陽の光の下にいるのに、冷凍庫の扉を開けた時に感じる温度の低い風、
あの冷気が確かに体の側を吹き抜けた。

自分の目が見開いているのと同じ様に、体力を消耗しているほかの三人の目が見開かれている。同じ声を、同じ様に聞いて、同じ冷気を同じ様に感じ、今、目に映っているその姿を同じ様に見ているに違いない。

「・・あ、あんた、誰よ!」とナミは金切り声を上げる。
甲板のど真ん中に、見た事のない青がかった黒い髪の女の姿が浮かび上がっていた。
甲板から水蒸気のような白い靄が掛かり、その靄が女の足元を隠している。

「ゆ・・・ゆ・・・幽霊っ〜〜っ!」とウソップが叫ぶ。
だが、ルフィもロビンもチョッパーも「え、どこだ?」とキョロキョロしているところを見ると、どうも、その女の幽霊は、能力者には見えないらしい。

髪も乱れ、着ている物は白い、上質な寝間着の様だが、血でべったりと汚れている。
まともな死に方をした者の姿には到底見えない。

「・・・ご迷惑をお掛けするつもりはなかったんです・・・」と女は苦しそうなため息を吐いて、膝を折り、頭を下げた。
「・・・ずいぶん、品がいいけど・・・あたし達に一体、なんの用なのよ?」
そうナミが恐る恐る尋ねると、女の幽霊は顔を上げ、答える。
まるで呼吸器を病んでいるかの様にその言葉は切れ切れで聞き取りにくい。
「・・・幽霊が姿を現す為には・・・人間の生気が必要なので・・・」
「・・・私がそう望まなくても・・・勝手にあなた方の生気が私に流れ込んでくるのです・・・」
「・・・苦しくて苦しくて海の上を漂っているうちに、生気に満ちたこの船に引き寄せられてしまったのです・・・」
そう言って、女の幽霊は涙を零した。

生きている人間なら、自分の意思で食べ、自分の意思で好きな場所へ歩いていける。
だが、死んで霊魂がこの世に残って幽霊になると、死ぬ時に感じた苦しみをそのままずっと引き摺り、自分の意思で存在する事を誰かに知らせたり、自分の意思で行きたい場所へ行く事も出来なくなる。
強い魂にフラフラと引き寄せられ、その魂の生気を奪い、補充しながら、自分の執念や心残りを叶えて冥界へ旅立つまで、ずっと絶命の瞬間の苦しみに悶え続ける。
この世に存在する事は幽霊にとって苦しみ続ける事なのに、その為に、自分の意思と関わり無く、人の生気を奪ってしまう。

「・・・・私は海賊に殺されました・・・新婚の記念に豪華客船に乗って旅行している真っ最中に・・・」
女の記憶が、ナミの、サンジの、ゾロの、ウソップの脳裏に映し込まれていく。

結婚するまで清らかな体だった新妻。
その旅行の最中に、夫婦の営みを何度か試みたけれど、処女の妻相手でなかなか思う様にはいかなかった。

ようやく、一つになれそうだった、その夜。
夫婦の乗った船は海賊に襲われた。
海賊が乱入してきた時、夫婦の体はまさに一つになろうとしていた時だった。
絶頂を迎える寸前で、妻と夫は引き裂かれ、そして殺された。

「・・・処女でもなく・・・性の喜びを知らず・・・苦しく、痛い、その感覚だけが私の魂にこびりついてしまいました・・・」
そう言って、女の幽霊はうな垂れた。

「それで、俺達にどうしろって?」
酷い頭痛がする様な顔をして、ゾロが女の幽霊に尋ねる。

「・・・性の喜びを知り、得られなかった快感を感じれば私の魂は救われます・・・」

(でも、血まみれじゃないの。それに幽霊よ?)
ナミはそう思って、眉をひそめた。生身の人間にどうしろ、とこの女の幽霊は言うのだろう。
どこかぼやけた様な姿だったのが、いつの間にか、ただ虚ろな人間のように見えるまで
女の幽霊の姿は色濃くなっていた。

「コックさん?!」
ロビンの切羽詰った声に、ナミがはっとその声のするほうへ顔を向けた。

ラウンジのすぐ前の手すりに凭れて、女の姿を見下ろしていたサンジがぐったりと
床に倒れこみ、ロビンに抱きかかえられている。

「ちょっと!勝手にうちの乗組員の体力、盗らないでくれる?!」
幽霊だと思えば薄気味悪かったが、姿がはっきりしてきて、普通の人間と変わりない姿になった途端、ナミは強気になる。
強気になれば、多少体力が無くても人を怒鳴るくらいは出来た。

「・・・すみません・・・あの方、私と誕生日が同じなのでどうしても、あの人から
一番多く、生気を取ってしまうんです・・・」とまた女の幽霊はうな垂れた。

「・・・生気を取ってしまうって、結局憑り殺すって事じゃねえのか」とゾロが
冷ややかにそう言うと、女の幽霊は否定も肯定もせず、悲しそうに目を伏せる。

「・・・仕方ねえだろ。このレディの意思でやってる事じゃねえんだから・・・」
サンジはそう言うと、ロビンの腕をやんわりと解いてゆっくりと立ち上がった。
何かいい案はあるのか、とナミは期待する。
だが、サンジはいつものとおり、ニッコリと愛想良く笑うと、
「同じ誕生日だなんて、あなたとなにか運命の繋がりを感じますね」などと言い出した。
(何てバカなの!)とナミはますます頭に血が昇る。
誰の体の心配をして、女の幽霊に啖呵を切っていると思っているのだろう。

「何言ってんのよ、サンジ君!」
「サンジ君、このままこの幽霊がい続けたら、サンジ君そのうち死んじゃうのよ!」

そう怒鳴った途端、ナミの体からも急に力が抜けた。
声さえ出ないほどの虚脱感に襲われ、ヘタヘタとその場に座り込む。
(・・・あたしもこの幽霊に殺される・・・その前にサンジ君が殺されるわ)
(・・・どうにかしないと・・・)ナミはそう思った。

「どうすれば満足するのよ?」ようやく声を絞り出して女の幽霊に尋ねる。
そして、女の幽霊はまた、切ない、苦しげな喘ぎ声を堪える様な声で答えた。

「あなたの体を貸してください。そして・・・男性に抱かれて、そこで絶頂を感じる事が出来たら、きっと私は満足し、救われ、そして苦しみから解き放たれるでしょう・・・」

(あたしの体で?)ナミは絶句し、ゾロ、サンジ、ウソップ、ルフィの顔を代わる代わる眺め回す。「この中の誰か一人にこのあたしが抱かれるって?冗談じゃないわ!」と
怒鳴りたくても、声を出す力がない。
仕方なく、女の幽霊を睨みつけ、自分の意思を悟らせようとした。
だが、そのきついナミの目つきを直視出来なかったのか、女の幽霊はナミから目を逸らした。
「・・・私の夫の背格好に似た方となら、きっと夫との営みに似た感覚を感じられると思います・・・」

ナミから逸らしたその目線は、一人の男を追っている。
その視線をなぞって、ナミは愕然とした。
「あんた、ゾロがいいの・・・っ?」

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