David Horowitz との 討論 (2)

Mark A. LeVine

HNN - History News Network [original atticle]

Posted on April 13, 2006


そして、それは 単に パリの 裕福な エリートが 買っていると いうだけでは ない。 これに 関しては、フランス 各地、ドイツ それに イタリアでも 同じく、道路を 破損しながら [SUVs の 台数が] 増加しており、この星の 未来における 快適な 運転に とってかわり 先取りする かたちで、古い 「ヨーロッパ」 の 市民たちが、まさに U.S.A. の 人間と 同様、自己中心的に なれることを 示している。

最近、小型車の Smart が ここでは その半分を 占めると 発表の あった 街の なかで、このような車を 見かけた ショックに ついては、強調しすぎると いうことは ない。 次は 何が 認められるのか、[U.S.A. 製の] プロセスチーズに オープナー付きの ワイン? そう ならないことを 望むが、しかし、危険だと いわれる フランスの 知的エリートたちが、こうした 経済の現状を どう (quo) [変換するか という] 重要な 代替案の 提示に 失敗すれば、それは、学界の 左翼勢力が、広範な 社会において 進歩的な 社会変革を 押しつけた、という より大きな 告発と 等しいものと なる。

事実、そうした 大がかりな 抗議に 比べ、より 関心を 引くのは、エコール ド オート や ソルボンヌ のような、フランスで もっとも 名門の 大学内での、実際の、抗議の 動きであって、そこでは 無断居住者、アナーキスト それに 他に "casseurs" が 同盟を 組んで、一部の 学生たちと 結びつき、キャンパスを 暴れまわり、コンピュータや その他の 設備と 教室とを 破壊しているが、それは 彼らの 教育にとって 不可欠な ものなのか? 無就学の アラブの 移民たちや その他の "exclues" (下層階級の 市民を 表す 隠語の 1つ) が、彼らは そこに 居場所を もたない、こうした学校を 略奪しているわけでは ない。

そして、私が この本に 対する 調査に ついての 講義を 用意していると、私を [フランスへ] 招いた 教授の 1人から、教室の 視聴覚設備と 付属する メディア機器が、学生運動に まぎれ込んだ "autonomistes" の手で 全て 破壊されたことを 知らせる、1通の やりきれない メールを 受け取った。 私の 考えでは、彼らの 名前は、彼らの 権利を 守ろうとする [大学という] 現況 そのものからの 自立 autonomy の 要求を 意味している (大学の 学生が 一貫して 重要だ、とは 今まで 誰も いって いない)。 しかし、このような 行動に 参加するものは、学生全体の 中で、ほんの 少数派を 代表しており、彼らの 行動は - 控えめに いって - 新しい 世代の フランスの エリートの、深刻な - その中核に おける - 問題解決 能力の 欠如を 示している。

確かに、U.S.A. の 人間が レーガンの 最初の 在期中に 喜んで 捨て去った、生活の 水準を 維持するために、諸団体を 街頭へと 押し出した 左翼の 実力は、その 大がかりな 抗議によって 証明される。 しかし、現実には、彼らの 主張は、前向きで 革新的な 問題解決の 能力ある 方法にしては、今のところ、ほんの 少し 新しいものを 示しただけで あり、そのため、フランスの 深刻な - たとえ 時に 誇張される ことが あるにしても - 経済問題に 立ち向かうために 必要 [で 十分] なものでは 全く ない。

そして、こうした 能力の - 少なくとも オリジナリティの 欠如は、われわれが 発展途上世界の 大学の 学生たちが、ずっと 多くの 切実な 社会問題の 解決に どう 取り組んでいるかを 考えるとき、さらに 著しいものと なる。 こうした 動きは、ほんの 数週間前 the American University of Beirut (AUB) へ 講演のため 招かれ、滞在した ときへと、私を つれ戻した。 ここは 今も 戦争の まっただ中に あるが、そこでの 私の すごした 時間は とても 興味深い ものであり、AUB の キャンパスは その学生たち (悲惨では あっても、常に 敵対する 党派とは 限らない) によって 管理されており、ゲートの 外側では 混乱と 暴力とに 取り囲まれた その中に あって、暴力に よらない 討論 [が でき] 思いやりすら ある、1つの オアシスであった。

今日、フランスが 他の 「高度産業 民主主義 [社会]」 と 同様、過去の 政府から 引き継いだ 社会的、経済的な 安全保障という 公約を 達成するため 苦闘しているとき、かつての 「統治領」 (正確には、植民地だが) では、戦争以降 今だ 不安定ではあるが、国としての 経済活動を 再開し、その過程では (前首相の Rafiq Harriri が) 主な 後ろ盾であった 暗殺 [事件も 起こったが]、最後に 大衆の 抵抗と シリア軍の 撤退が あった その国では、フランスで 見出すことの できる それより、ずっと 活気に 満ちた 社会変革の ための 運動が 起こっていた。

20人ほどの 学生に 囲まれた その国の セミナールームでの 会合へと [話を 戻すと]、彼らは、抵抗と 社会変革を どうすれば より 効果的に 1つの 文化として 進展させられるか、という 私の 意見に 対し、熱心に 質疑を 行っていた。 問題は、彼らと 10分 話し合った 後で、彼らは、イデオロギー上の また 政治的な レバノン政府による 囲い込みの 外側で、そして 特に 世俗宗教から 分離することで、レバノンの [将来を] 考えた 民主化運動を 実行している その点が、U.S. や ヨーロッパの 彼らと 同年輩の 人間に 先んじているのが、はっきりと わかったことだ。 U.S. も、そうなれば いいのだが。

実際、レバノンの 若者たちは、全土に 拡大した 抵抗の 口火を 切り、前例の ない (そして 以前では 信じられない) 国土からの シリア軍の 撤退を 導いたのだ。 私を 驚かせた、最近の パリでの 進歩的な エコールにおける 破壊と 略奪から、仮りに 彼らの 直面する 諸問題のため before one's twenty-five seem quaint そうした 状況へと 飛び火する 可能性が あったとして、今日、レバノンの 学生たちが 彼らの 大学を 破壊するのを 連想することは、どうしても 不可能である。

しかし、フランスにおいて くり返し 抗議へと 駆り立てるものは、たとえ 多くの 人々が 栄誉ある フランス社会の 繁栄という この状況に 異義を 申し立て、より 推測するなら、"after-globalization" という スローガンを もった 運動 (多くの 点で フランスに 本拠を もつ) が あるように、「もう 1つの 世界の 可能性」 を 望んでいると しても、大部分の 人々は、不平等や 貧窮 それに 生活水準の 低下を 引き起こさないで、この国の 多くの 経済問題を 解決へと 導くことの できる 代替案など 信じては いないことを 感じさせる。 フランスの 主要な 週刊誌の 1つ Marianne は、皮肉を こめて、その表紙に 「革命を 望む? 即 実行だ」 と 掲げた。 現実の 究明と 確実な 変化の 可能性への 確信の こうした 欠如から、この新しい 律法 law に 対抗して 突き進む フランスの 民衆は、[進路] 変更が 不可能と 思われている 自由市場という パラダイスに むかって 突き進むための 必要な 多くの 代案を 示すことより むしろ、U.S.A. 流の 自由市場の 前に 全面的に 曝されることへの 防御のための ダムの 破壊に 対し 闘うため、彼らの 精力を 費さなければ ならないと 感じている。

こうした 動きが 興味深いのは、U.S.A. の 政治家たちが ヨーロッパを 「旧」 と 「新」 とに 区別しようと 試みるように、彼らの 社会に 先んじて、レバノンと フランスの 若者たちが、社会からの 根元的な 問いかけに 答えようとする その方法の 違いが、「古い」 西洋は、その社会水準に おいても、手ごわい 社会-経済的 問題を 解決する 創造的な 方法を 見つけるには 無能であり、モスリムの (人口統計上も、特に) 「若い」 世界では 人々は、多分 やむを得ずでは あるが、なお いっそう 創造的に 考えていると いう、これらの 間の より重要な 差異を 暗示しているという ことだ。

これらの 人々こそ、Horowitz が 疲れも 知らず 保持しようと 働いている この世界の 見通しと 方法への、最も 危険な [存在で] ある (まあ、彼が 本を 書くことに それほど 努めようとは 思わなく なるまでは、多分 疲れることは ないだろうが)。 われわれ 全ての ためにも、彼が 近いうちに この [問題を] 解かないことを 期待しよう、さもないと、われわれは それを 理解する 前に、「レバノンの 大学における 101人の 最も 危険な 学生たち」 のため、悩むことに なるだろうから。


"the Professors" 駁論 - Levine その (1) へ

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