1965年、CIA による インドネシア大虐殺 (2)
マリオ・サントス
[the Socialism and Liberation Magazine original article]
U.S.に 支援された 騒乱
PKI は、その巨大な 党員数と 影響力にも かかわらず、唯一 その勢力を、非武装の、平和的な 議会制の 進路を 通って、社会主義を 追求するという 方針に 限っていたため、合法的な 民主主義の 枠内に 留まっていた。 このことは、現実には、彼らに 対し 際限のない 暴力を ふるおうと 待ち構えていた 仇敵たちに とって、御しやすい 獲物であることを 意味していた。
そのため、U.S.政府は まず、インドネシア軍の 養成、より一層の 軍備、それに 「援助」と 「軍事顧問」の 提供を はじめた。 最初 U.S.政府は、スカルノ政権を 倒すため、外部からの 破壊活動に 乗り出した。 U.S.帝国主義者は、その下劣な 謀略機関である 中央諜報局 (CIA) を 通じ、同盟者である フィリピン軍の 手引きによる、いくつかの 失敗に 終わった クーデターを 実行した。 1958年に、CIA は、スマトラと ジャワにおいて、右翼反共主義者の 謀議による 反乱を 煽動した。 この反乱は、人々の 支持を 欠いたために、失敗に 終わった。
そこで、United States と 英国は、1963年、挑発するように、英国統治領である ボルネオ島 北部の サバ、サラワクを、同じく 植民地領の マレーシア半島 および シンガポールと 結びつける、いわゆる マレーシア連邦を つくりあげた。 彼らは、インドネシア領 北部ボルネオにおいて、その傀儡による 暴動を 計画した。 しかし スカルノは、彼に 忠実な 軍隊によって、これを 鎮圧することが できた。 ボルネオ島に おいて、インドネシアは、隣国の - 親英国である - マレーシアと、Konfrontasi と 呼ばれた、武力と 外交上の 衝突に はいった。 United States と 英国は、例のように、インドネシア国内での 反スカルノ勢力を 組織化した だけでなく、反スカルノ 武装行動の 煽動にも、彼らの 衝突を 利用した。 最終的には、この問題は 外交的に 解決された。
しかし、インドネシアが 左傾化するに つれて、U.S.政府は、その インドネシアに 対する 陰謀 および 破壊活動と、経済制裁とを、さらに 押し進めていった。 ペンタゴンも また、その援助を 増強し、インドネシア軍内部には、彼らの 勢力が 不気味に 成長してきた。 CIA 工作員たちも、民間に おいて、破壊活動を 助長する 目的の 組織化を 始めた。
血まみれの クーデターへ 至る 序幕として、イエズス会の 司祭であり、また CIA の 諜報員でもあった Jose Blanco 神父が、インドネシア 学生団体の KAMI を 結成し、ジャカルタや インドネシア 各地において 反共産主義デモを 開始した。
このとき、インドネシア軍 上層部の 将軍たちは、Nasution 将軍を 別に 考えると、全体としては 親スカルノ派であった。 その 彼らを 一掃し、同時に、PKI に 対し 血まみれの 大虐殺を 実行するため、CIA は、Untung 大佐という 名前の 男に 率いられた、いわゆる 9.30 Movement (Gestapu) を 動かして、1965年 9月 16日、彼らに 対する クーデターを 敢行、7人の 将軍と 他に 数人を 殺害した。 このことは 直ちに、PKI へ その責任が 転嫁されたが、無論、Untung 大佐には、彼を ささえる 人民の 活動など なかった。 そして、PKI 指導部は、その潔白を 法的な 手続きに 委ねることを 決定し、それゆえ、人々を 武装させることは なかった。
スカルノに 対する クーデター
これは、Abdul Harris Nasution 将軍と Mohamed Suharto に 率いられた、U.S.に 養成された 右翼に、スカルノ政権を 倒すための 反クーデターを 仕組む 口実を 与えた。
「インドネシアを 救うためには、それを 撲滅しなければ ならない」 これは、第2次世界対戦中、ナチスや 日本人に 対し、無差別爆撃を 実行したとき、U.S.政府が くり返し 採用した 論法である。 また これは、第2次世界大戦で、ペンタゴンが、ワルシャワ以後 2番目の 規模で、マニラを 爆撃、市街を 壊滅させたときに 使われた 論法であり、その結果 10万人以上が 死亡した。
U.S.帝国主義は、その 傀儡である Nasution と Suharto とに 働きかけ、加えて CIA の 手法を 用いることで、インドネシアにおいて、最終的には 150万から 300万に のぼる 生命を 奪った、恐るべき 大量殺人へと 駆り立てた。 KAMI 集団は、この 1965年の 反共主義者による 大虐殺において、重要な 位置を 占めていた。 スカルノ時代、中国系 インドネシア人に 認められていた 平等の 権利を 破壊するため、反共主義者の 軍の殺人者たちは、反中国人ヒステリーと 人種差別主義者の 狂乱を 駆り立て、それは、インドネシア群島の 村から 村、島から 島を 一気に 押し流し、彼らの 誰一人として、この 虐殺から 逃れることは できなかった。
CIA が 用意した 死のリストを 手に、反共主義の 殺戮者たちは、PKI の 党員 もしくは その支持者である 容疑の かかった 者を、一人残らず 捕まえ、そして 即座に 殺害した。 数十万という 無防備な 人々の血で、河は、文字どおり、赤く 染められた - 労働者、農民、また 同じく 知識階級の メンバー、男女 子どもを 問わず、無差別に 虐殺が おこなわれた。 PKI の 存在は、この地表上から、ほぼ 完全に 抹殺された。
軍に 殺されなかった 数万を 越える 人々は、苦役の 待つ 牢獄へと 引きたてられ、沈黙のうちに 朽ちはて、忘れ去られた。 多くの人が その後 そこで 亡くなり、生き残った者は、35年間 投獄されたままであった。 インドネシア人民の 運動と その知識階級の すべての 痕跡が 抹殺されたことによって、その後 多くの 年月に わたって、スハルト政権は、公務員不足から 政府運営が 困難に 陥るという 時期を もつことと なる。 彼らは、そのため、教師と 公務員とを フィリピンから 輸入することに したのだ !
帝国主義者による 恥知らずな 侮辱が、それへの 否認であった。 ソビエト連邦、中国、社会主義諸国、それに 新しく 独立した 国々からなる 非同盟ブロックからの、激しい 憤慨と 抗議とを 除けば、1965年 インドネシアで 起こった 大虐殺の 悲劇についての 広範な 抗議は、United States や ヨーロッパには、ほとんど 見られなかった。 U.S.政府は 陰謀に 深く 加担していたが、英国と 西ドイツも、より 少ない 規模だが、同じく、インドネシア軍に 武器を 調達していた。 マスメディアは、この件に 対しては、まったく 注目することは なかった。 U.S.政府は、一貫して、関与の 否定を 装い、「国家の安全」を 理由に これを 機密扱いと した。
U.S.民衆に とって、なぜ これが 探求すべき ことと なるのだろうか ? 共産主義への 恐怖と 無知 ... 圧迫されている 民族が、彼ら自身の 独立のために 闘うという ことは、西側の 人々の 記憶に 留めるべき もので あった。 奇妙な ことに、無自覚な 冷淡さと、偽善による 恥知らずとが、勝ち誇っている。
当時の 「共産主義者という 亡霊」は、今日では、「テロリストという 亡霊」である。 この事実を、われわれの 友人である 反戦運動に 携わっている 平和主義者たちは 気づいてほしい。 旧い 支配階級の 組織的な 抵抗や 武力衝突も なく、社会変革への 道が 達成できるという 錯覚を 抱いている 者は、誰であれ、インドネシアで 何が 起きたかを、詳細に 見てみるべきだ。 インドネシア人民の 運動に 対する 大虐殺は、その独占 - 資本主義者による 弾圧から、圧迫された 人々が 抜け出すのを、U.S.帝国主義者が、阻止するために 行動した その範囲の 極限を 示した、恐ろしい 警告であるのだ。
あなたたちが、U.S.占領軍の 手中にある イラクの、数十万の 死者について 考えるとき、U.S.の 代理人である 殺人者の 手にある 数千の ハイチの 人々について、あるいは、U.S.が 援助している シオニストの 手にある パレスチナの 人々について、あるいは、フィリピン人 活動家や リーダーに 対する、U.S.に 養成され、U.S.に 武器を 与えられ、U.S.から 援助された、フィリピンの 軍人や 民兵殺人集団の 手による 殺害が 増えていることに ついて 考えるとき、インドネシアを 思い出すことだ。 U.S.帝国主義によって、極悪 きわまりない 暴力や 虐殺が 実行へと 移されることを、くり返しては ならない。
われわれは、帝国主義者の テロルに 曝されている 民族と 人民が、その自由を 勝ち取るための、そして 断固として 彼ら自身を 守るための、その正当な 権利を、勇気を もって、支持し 擁護しなければ ならない。