1965年、CIA による インドネシア大虐殺 (1)

マリオ・サントス

[the Socialism and Liberation Magazine original article]


初出: the Socialism and Liberation Magazine Vol.3 No.1 (2006年 1月)

これは、サンフランシスコで 2005年 12月 6日に 開かれた ANSWER (Act Now to Stop War and End Racism) 主催の フォーラムにおいて 話された スピーチからの 抜粋である。

マリオ・サントスは、AJLPP (the Alliance for a Just and Lasting Peace in the Philippines) の スポークスマンであり、また ANSWER International 北カリフォルニア 運営委員会の 一員でもある。


私は、インドネシアにおける 1965年の CIA による 大虐殺と、今日の世界に 続く その影響について、今夜 みなさんに 話す機会を 与えてくれた ANSWER の 尊敬する 同僚たちに 感謝したい。

40年前の、数百万人の インドネシア人大虐殺という 恐ろしい悲劇を ふりかえることは、われわれにとって、U.S.帝国主義 - 世界一の テロリストにして、人間の権利の 侵害者である - という 怪物に 終止符を うつため 闘っている、われわれの 立場を 再確認する よい機会である。

20世紀は、世界中の 弱小国に 対し、U.S.が 侵略と 血まみれの 戦争を 仕掛けた、絶後の記録が 打ち立てられた 世紀である。 これらの戦争は、U.S.帝国主義に、世界中に その独占資本を 移動させる 特権的な 自由、植民地を もち、そこから 安価な 原材料を 吸い上げ、その市場へは 高額な 完成品を 投げ入れる 自由を 与えた。 これこそが、U.S.政府 および 歴代の 大統領 - とりわけ ウィリアム・マッキンレィ 以降の - が、「自由」と その民主主義体制について、なぜ 常時 発言しているのかの 理由なのだ。

アジアにおける U.S.の 犯罪

40年前に 起こったことは、20世紀に U.S.帝国主義が アジアで 犯した 極悪犯罪の、年代順に いえば、その 4番目に あたる。

その最初は、1世紀以上も前、1898年から 1916年までの、私の祖国 フィリピンの、残忍な 再植民地化と 占領である。 この占領の 結果、約 140万人、当時の 国の人口の 約 5人に 1人が 死亡した。 フィリピン人を 「文明化し、キリスト教化」した 戦争は、太平洋を U.S.の 一つの 湖であると みなした 侵略戦争であり - U.S.帝国主義にとっては、U.S.本土以外に 植民地を 占領したことで、一人前の 帝国主義勢力に なったことを 告げる 最初の 礼砲であった。

2番目の 犯罪が、60年前の 広島・長崎の 市街への、原子爆弾 投下であり、一瞬にして 日本の 民間人 数十万人を 殺害した。 戦争で どの国も 使わなかった 核兵器を 最初に 使用したのだ。

アジアでの 3番目の U.S.の 犯罪は、朝鮮人民に 対する 戦争であり - この 戦争で 3年間に 約 300万人の 朝鮮人が 死亡し、国土は 今日まで 北緯 38度線に 沿って 分割されている。

そして インドネシアである。 ベトナムの前に インドネシアが あったのだ。 U.S.の 軍隊が、約 100万の 兵で、ベトナム人民の 英雄的な 抵抗を 打ち砕こうと、ベトナム南部を 占領しに来る その前に、CIA は、インドネシアで 血まみれの 大虐殺を 指揮したのだ。

民族解放の 世紀

インドネシアの悲劇を 理解するため、そこに 至った 世界の情勢を 振り返ってみよう。 第二次世界大戦の後、とりわけ アジアと アフリカでは、民族が その独立を 勝ち取る 熱狂的な 時代が もたらされた。 民族は 解放を 求め、人々は 植民地圧制者の 手から 彼ら自身を 解放するため、革命的抵抗を 挑んだ。

毛沢東と 中国共産党による 賢明で 有能な 指導のもと、数億の 中国人民は 立ち上がり、植民地的・封建的束縛と 蒋介石の 腐敗した 国民党政権を 捨て去った。 1949年10月 1日、中国人民は、外国の 帝国主義支配と 買弁支配からの 自由を 宣言し、社会主義建設への 道を 歩みはじめた。

続く、1950年から 1953年に わたる 朝鮮での 戦争は、民族解放の もりあがる 潮流を くい止め、東洋から 一掃するための、U.S.軍隊に 率いられた 帝国主義者たちによる 襲撃であった。 朝鮮人が、彼らの祖国を 防衛するため 耐えなければならなかった 莫大な 損失にも かかわらず、帝国主義者は、中国人や ソビエト人民に ささえられた、英雄的な 朝鮮人民を 打ち負かすことが できなかった。 U.S.の 侵略戦争と 占領による 荒廃から、朝鮮民主主義人民共和国 (DPRK) は、その解放された 北部に 生き残った。

ほぼ 同じ頃、ベトナム人民は、フランス植民地圧制者の 面目を 失わせ、彼らを ディエン・ビエン・フー 峡谷で 決定的に 打ち破り、1954年には その国土の 北半分で、ベトナム民主共和国 (DRV) が 支配権を 確立した。 フランスへの、U.S.の 武器供給と 軍事顧問派遣も、彼らの勝利を くい止めることは できなかった。

民族から 民族へ 次々と、アジアと アフリカの 人々は、その民族の自由を 闘い取っていった。 植民地勢力は、彼らの 弾圧から 自由になるため 闘い、民族の独立を なしとげようとする 植民地や 半植民地の 支配を 維持しようと もがいていた。

インドネシアの 民族解放

インドネシアは、1949年に 宗主国 オランダの 国王から、彼らの 独立を 勝ち取った。 インドネシア共和国が 生まれたとき、Achmed Sukarno という 人望のある 熱烈な 民族主義者が、共産主義者や 社会主義者 それに 他の民族主義者の 後押しによって、大統領に 選ばれた。 インドネシアは、経済的・軍事的には その後も 依然 その支配下にあったが、政治的には 植民地支配者からの 独立を 果たした。

スカルノのもとで、インドネシアは、経済においても 植民地支配の 全ての痕跡を、他の 文化面と 同様、克服する 手段を 確実に つかみ始めていた。 1957年 12月、スカルノは、オランダ所有の 石油プラントの施設を 国有化する 政策を とった。

この間、彼の 同盟者である、Dipa Nusantara Aidit 率いる インドネシア共産党は 党員 300万人という、ソビエト連邦と 中国を 除くと、世界最大の 共産党へと 成長した。 その影響下にある 大衆団体は、優に 1000万人 近くに 達していた。

スカルノ、あるいは ブン・カルノ - 支持者は 彼を 親しく こう 呼ぶ - は、アジア、アフリカ および ラテンアメリカの 帝国主義に 対する 発展途上国の 動きに、卓越した 役割を 演じはじめていた。 1955年には、スカルノは、バンドンで 開催された アジア・アフリカ会議での 司会を つとめた。

続いて、スカルノは、多くの 政治家、人民中国の 周恩来、インドの ジャワハルラル・ネルー、エジプトの ガマール・アブドゥユ・ナセル、そして チトー元帥として 知られている ユーゴスラビアの ヨシフ・ブロズらと、非同盟国の運動を つくりあげるため 協力した。 これは、植民地統治から 新しく 独立した 国々の 集まりであり、国際社会での 帝国主義との 結びつきを 拒み、新植民地主義と 帝国主義者からの 解放を その運動の 指針とした。

インドネシアによる、帝国主義の 統轄と支配からの 偉大な 独立のため 闘っている 社会主義者や 第三世界の 国々との、幅広い 国際的な 統一戦線を つくりあげる 動きは、U.S.帝国主義を 激怒させた。 この怒りには、次の 諸事実が 複合している。

1つ目は、スカルノのもと、すでに、インドネシアは 地球上で 最大の イスラム国家で あったこと。

2つ目は、インドネシアが 膨大な 原油資源を 所有していたこと。 国有化された 石油産業によって、スカルノは、より安い石油を 中国、インド、北朝鮮、北ベトナムや 他の 非同盟諸国に 供給することが できた。

3つ目に、世界の 貿易の 多くの部分が、すでに マレーシア半島と インドネシアの 間の マラッカ海峡を 航行していたこと。

手始めとして、独占資本の 支配から その事業を 切り離し、あるいは 提携を 断ったことが、すでに United States と 他の 資本主義者勢力とに、「竹のカーテン」内の すべての国、人民中国、北ベトナム および 北朝鮮が、残りの 「自由」アジアを 取り囲み、その上に 襲いかかるかのような 決めつけへと 駆り立てた。 これらの 人民共和国と インドネシアとの 連帯は、当時の さらに粗野な 帝国主義者の 主張では、「自由」な資本主義世界の 残りが 今にも 共産主義者の 手中に 落ちる という もう一つの 「ドミノ」理論を 意味していた。

スカルノは、インドネシア人民の 世論と その伝統に もとづいた、政府の 政策決定 - "Guided Democracy" を 提唱した。 彼は、NASACOM と 呼ばれる - インドネシアを、帝国主義者の 強圧から よりいっそう 独立させるための、民族主義者、宗教信仰者、社会主義者 および 共産主義者を 含んだ - 統一戦線と ともに 歩んだ。

PKI が 優れた 役割を 演じた、インドネシア人民の 行動により、インドネシアの社会は 大きな 一歩を 踏み出したが、インドネシアという国は、依然、一つの ブルジョア国家であり、いまだ それは 働く 民衆の 手に しっかりと つかまれているとは いえなかった。 スカルノは 愛国的では あったが、しかし、民族主義ブルジョアジーの 一代表以外の 何者でも あり得なかった。


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