Che Guevara の 死から 40年 (part 2)

アラン・ウッズ

[Forty years since the death of Che Guevara - Part Two (original article)]


Che に対する キャンペーン

Che Guevara の 暗殺 40周年は 騒々しい 彼への キャンペーンの 引き金と なった。 Che に 対する 非難の すべてが 右翼からの ものでは ない。 アナーキスト、自由主義者 そして あらゆる 種類の 「民主主義者」 からの 絶え間のない 非難が ある。 とりわけ 不愉快なのは Che の ボリビアでの 闘いで 非常に 害を なす 役割を 演じ その後 改良主義者として ミッテランの 助言者となった Regis de Bray による 非難だ。

Che に 関する よく 知られた 本を 書いた Lee Anderson や Jorge Castaneda そして Octavio Paz のような 別の 「知識人」 たちは 互いに 競って Che を "demystify" し -- それは 彼の 思い出に ゴミを ぶちまけることだ -- 悪党どもと 変節者たちの コーラスに 加わった。 こうした 中傷者たちの 恥ずべき キャンペーンは ラテン・アメリカの 多数の 「左翼」 から 支持され、 それは まさに 資本主義が 老衰し 腐敗した この時代の 「民主的」 インテリゲンツィアの 堕落の もう 1つの 徴候である。

作家の Paul Berman は 「今日の Che の cult」が 反逆者の 業績と 現在 キューバで 起きていると 彼の 信じる 「重大な 社会的 闘争 struggle」 を アイマイなものに していると われわれに 報告する。 なるほど キューバには 重大な 社会的 せめぎあい struggle は ある。 それは 革命と 反革命の 間の せめぎあいであり、キューバ革命が 得たものを 守ろうとする それと 「民主主義」 という 偽りの 旗の もとで、かつて ロシアで 起こったように、キューバを 資本主義者の 奴隷に 引きずりこもうとする ものとの 間の 闘争である。 こうした 闘争で 中立なのは 不可能で あり これらの 「民主的」 知識人たちは あからさまに 資本主義者の 反革命の 側に 立っている。

別の 悪党どもの 1人である 著作家の Christfer Hitchens は かつて 彼自身 社会主義者で キューバ革命の 賛同者を 自認していたが 今では キューバの 頼りない 友人である 非常に 多くの 他の 中産階級 (知識人) のように その 考えを 変えてしまった。 「Che Guevara の 遺産」 の 中で 彼は 書いている、「Che の 偶像化は 彼の 失敗によって 確実に なった。 彼の 物語は 挫折と 孤立化の それであり このことが なぜ それが 魅力的なのかと いうことだ。 彼の 生きている ときより Che の 神話は 死後のほうが 長い」

そうでは ない、私の 友人 Che Guevara は 非常に 多くを 生きたからこそ 死んでは いない。 そして すべての ブルジョアジーの 恥ずべき 連中が パリサイ人の ごとく (彼を) 忘れ去った 後も 彼は 長く 記憶へと 留まるだろう。 そう、彼は 敗退した。 だが 少なくとも 彼は 勇気をもって 闘いに 挑んだ。 そして 闘いに 挑み 目前の 目的のため 名誉をもって 戦闘で 倒れることの ほうが、歴史の sideline から オシャベリをし グチを こぼし 泣き言を いうだけで まったく 何も しないよりは 1000倍も 正しい。

革命的暴力の問題

Che に 対する 主な 告発が 彼が 無益で 残忍な 鎮圧に 責任を 負うと いうことだった。 事実は どうか? (Batista) 打倒後、Che には 前体制からの 数百人の 戦争犯罪容疑人の 裁判と 処刑とを 監督する 「最高検事長」 の 任務が 割りふられた。 La Gabana 刑務所の 司令官として 彼は 前 Batista 活動家 (その スペイン語の 頭文字から BRAC と 呼ばれる 秘密警察) の 裁判と 処刑とを 監督した。 このことが 革命の 敵に 彼に 対する 一連の 悪意ある 非難の 口実を 与えた。 われわれは Che を 指して 「虐殺者」 その他の タイトルを もつ 一連の 記事を 見る。

Jon Lee Anderson は 彼の Che の 本の 中で 書いている、

「(1959年の) 1月を 通して 戦争犯罪容疑人たちが 逮捕され 連日 La Cabana へ 連行された。 その大部分に ついては 旧体制 中枢の 側近たちでは なかった。 ほとんどが 反乱側が 市街を 支配下に 置く 前に 逃げ出し 空路や 海路での 渡航を 阻止されるか または 大使館に 止め置かれて 留まっていた。 これらの 残されたものの 多くは deputy または 平の chivator や 警察の 拷問係だった。 裁判は 夕方の 8時か 9時に 始まり、たいてい、朝方に 2人か 3人から 評決が 渡された。 Dugue de Estrada -- 彼の 仕事は 証拠を 集めることだ -- は 証言を とり 裁判を 準備し、また 審理する 裁判官席に あって 「最高検事長」 の Che とともに 開廷に あたった。 Che は そこで 最後の運命を 決める 最終判決を 下した (出典 : Anderson, Jon Lee., Che Guevara - A Revolutionary Life, New York 1997, Grove Press, p 386 - 387)。

Guevara の もとで 働いた 弁護士、Jose Vilasuso は これらのことが 「法に よらない 裁判での 原則」 だったと 語っている。 Vilasuso は そこでの 過程を 「調査官による 陳述は 悪事に 対する 反駁の できない 立証によって 構成され」 そこには 「この被告たちを 裁く 訴えを 届け出た 前体制の 犠牲者たちの 親族が いた」 と 説明した。

アテネの 憲法を 定め 法に 関し 1つ あるいは 2つの 重要性を 認めた 賢人 ソロンは 次のように いっている、「法は クモの 巣のようだ、小人は 捕らえられ 大物は それを 引きちぎる」 と。 法は けっして その背後に 横たわる 階級の 利害より 高くは ない。 ブルジョアジーは いわゆる 法の 公正の 影に 巨大銀行と 独占体の 独裁が 隠されていることを 秘密に する。 もはや (法が) 支配階級に 合わなく なったとき (はじめて) これらの法を 無効にして その独裁を あからさまに 行使する。

La Cavana で 処刑された 人々は、上の 引用で 書かれたように、多くの 人民を 拷問し 裁判も せずに 殺害した Batista 独裁の 悪名高い 支持者であり 人々を 見張った 密告者であり 彼ら (犠牲者) の 投獄、拷問 および 死に 対し 責任を 負い 自らが 拷問の 実行者だった。 これが 革命最前線の 部隊に 引き渡された 人々だった。 そして このことから 恐怖で われわれは 手を 上げてしまうのか? 革命が その敵を 清算する そのとき われわれは 衝撃を 受けることと なるのか?

同じく こうした 遂行に 泣き言を いう 中産階級の パリサイ人たちが チリや アルゼンチンや 南アフリカのような 場所で 「平和と 和解」 を 支持する ものらだ。 彼らは、人殺しと 拷問の 実行者とが 彼らの 犠牲者 -- 未亡人と 孤児たち、その見解の ために 言語を 絶する 拷問 あるいは 数年間の 投獄で 苦しんだ 人々 -- と 面と 向かい 出会う 「真相委員会」 という ムカムカする 茶番劇の 作者だ。 そして 最後に 彼らは 和解して 「仲良く」 することに してしまうのだ。 そうだ、そして その他の どれほど 多くの (犠牲者) が 墓地も わからず あるいは the River Plate の 底に 彼らの手で 叩き殺されたのか?

この いわゆる 平和と 和解とは むごたらしい ゴマカシ以外の 何ものでも なく いわゆる 真相委員会は 真実への 臆病な 言い逃れでしか ない。 そこでは 殺戮者や 拷問の 実行者たちが サンディアゴ、ブエノスアイレス また ヨハネスブルグで 歩きまわり 彼らの 犠牲者たちは 今日 それを わかって 暮らすことなど 絶対に 耐えられない。 スペインでは 改良主義者と スターリン主義者とが 彼らが 「転換」 と 呼ぶ 恥ずべき ゴマカシに 賛同した。 百万を 越える 人々の 死に 責任を 負う ファシスト虐殺者は その結果 罰せられないことと なった。 これは あとに続くものへの よい手本と なり チリの 改良主義者によって 受け入れられた。

Pinochet が 年老いて ベッドで 平穏に 死ぬのが 許されて いいことなのか? この 大量殺戮者は 彼の 犠牲者の 親族たちの手で 裁かれるのが より良いことでは ないのか? 合法的 原則に 反する、と パリサイ人たちは いう! 正当な 革命裁判の 遂行を、と われわれは 答える! 階級闘争の まっただ中で 平和と 和解を 説教するのは 一種の 犯罪だ。 それは つねに (証拠) 不十分だが 弁護の しようもない (連中に) 愛と 寛容を 示すことで その間に 富めるものと 権力とは いつでも 彼らの 悪事を 免れることと なる。

Che Guevara は 貧しく 虐げられた 人々に 深い 愛情を いだく 人道主義者だった。 それゆえに 彼は 圧政者と 搾取するものに 対し 心からの 憎しみを もっていた。 彼は 書いている、

「憎しみは 闘争の 1つの 要素だ。 それは 人間の 通常の 限界を 大きく 越えるよう われわれを 促し 効果的で 暴力的な 選りすぐりの 冷酷な 殺人機械に われわれを 変化させる」 「われわれの 兵士は このように ならなければ ならない。 憎しみを もたぬ 人は 残忍な 敵を 打ち負かすことは できない」

厳しい 言葉だろうか? そうだ、だが 階級闘争は 厳しい。 そして 勝敗の 結果は 致命的となり 重大だ。 キューバは 地球上で 最も 強大な 帝国主義国家から わずか 90 マイルに ある。 これらの 出来事の 後 ほどなく US 帝国主義は Che が その 銃殺を 執行する 前に 突き止められなかった Batista の 彼らの agent の 手引による 侵略を 企画した。

帝国主義の 偽善的行為

この 革命への 敵の 非難は 悪意と 偽善とによって 動機づけられている。 革命は 内と 外の 両面から その敵に 対して 自らを 防御しなければ ならない。 革命は 当然だが 旧い 法律、法規、規則の すべてを 覆すという その性質 そのものにより ブルジョアジーの 合法性に もとづいた 施行を することは できない。 それは 新しい 法規、 新しい 合法性へと 転換しなければ ならず、唯一 わかっている 法規は ずっと 以前に キケロによって 考案されたものと 一致する -- salus populi suprema lex est (人々を 救済することが 至上の 法である)。 革命家にとっては その革命の 救済が 至上の 法である。 革命は ブルジョアジーの 合法性の 上で メヌエットを 踊らなければ ならないという 考えは まったく ばかげている。

歴史を 通じ 彼らの 支配者に 対し 圧迫された 犠牲者たちの 多くの 反乱が あった。 人間の 歴史の 年代記は 敗北した 奴隷反乱と 同様の 悲劇とに 満ちみちている。 あらゆる 場面で われわれは 奴隷たちが 十分な 判断力を 示さず 温和で (敵を) 信用しすぎたが ための 敗北を 見いだす。 ところが 支配者階級は 彼らの 階級支配を 維持するためには 常に 最も 残忍で 血なまぐさい 手段を 用いる 用意ができている。

歴史は 支配階級の 蛮行の 実例に 満ちている。 スパルタクスの 敗北の 後 ローマは the Via Apia (街道に) 沿って 数千の 奴隷たちを 張りつけに した。 1848年 6月、Cavaignac 将軍は (市民の) 赦免を 約束し そして 彼は 労働者たちを 虐殺した。 ブルジョアジーである Thiers は 法のもとでの 宣誓を 行ない そして 彼は 軍隊に カルチェラタンの 虐殺を 命じた。 コミューン 敗北の 後 ベルサイユの 殺戮者たちは パリの プロレタリアートに 対し 恐るべき 報復手段を とった。 リサガレーは (History of the Paris Commune, 1871 で) 書いている、

「無差別虐殺は 6月 はじめの 日々まで、即決による 処刑は その月の 中頃まで 続いた。 長期にわたる (数々の) 得体の知れない 芝居が Bois de Boulogne で 演じられた。 この 血なまぐさい 7日間の 正確な 犠牲者の 数は けっして わからないだろう。 軍事裁判の 長は 17,000 の 射殺を 認め、パリ市会は 17,000 分の 埋葬費を 支払った。 だが 膨大な 数が パリ以外で 殺され あるいは 焼かれた。 少なくとも 20,000 (という 数は) 誇張では ない」

「多くの 戦場では ずっと 多くの 数が 数えられる。 だが (それは) 激しい 戦闘の うちに 倒れたのだ。 今世紀、戦闘後の このような 大虐殺を 目のあたりに することは なかった。 われわれ (フランスの) 内乱の 歴史において これに 匹敵するものは ない。 聖バーソロミューの日、1848年の 6月、2度目の 12月は この 5月の 虐殺 (と 比べれば) ほんの エピソードに なってしまったようだ。 ローマや 現代の 偉大な 死刑執行人でさえ the Duke of Magenda の 前に 色を 失う。 アジアからの 征服者、ダホメの 祝祭の 大虐殺の 犠牲者だけが この プロレタリアートの 虐殺を いくらか 想像させる」

より 多くの 最近の 実例が ある。 民主的に 選ばれた Arbenz 政府を 打倒した 後、グァテマラの 支配者は CIA の 援助により 自国の 人民に 対する 血まみれの 民族大虐殺の 戦いを ほしいままに した。 Pinochet は 数万を 殺害し 拷問に かけた。 アルゼンチンには クーデタ後の 政府のもと さらに 大きな 虐殺者が いた。 キューバの 場合、U.S.A. の カイライである Batista は 数えきれない 反対派 (の 人々を) 殺害し 拷問に かけた。

これは すべて まぎれもない 事実だ。 U.S.A. や ヨーロッパ連合の いわゆる 民主主義の 支持者たちは キューバ革命が その 敵に 向けた 革命的暴力に 衝撃を 受けた ポーズを とった。 だが その 同じ 人々には US 帝国主義の 友人である 反革命 暴君たちの 犯罪は 見ないふりを する 用意が あった。 フランクリン D ルーズベルト大統領が ニカラグアの 独裁者 Somoza について 語ったように、「彼は S.O.B. (ケダモノ) だ。 だが 彼は われわれの (飼っている) S.O.B. だ」と。

The Bay of Pigs

ブルジョアジーは 現実の、そして 階級という 見地から この 暴力という 問題と とり組む。 労働者階級も また そうすべきだ。 階級の 敵を モラルの お説教を 彼らが 理解することで 敗北させることが 可能だという 考えは 素朴で バカげている。 キューバの (そして ロシアの) 革命に 対する モラルの 欠除だという 偽善的な 金切り声にとって ほんとうの 理由は、最後に 奴隷たちが 奴隷所有者に 対して 反抗し、彼らが 勝利したという 点に ある。

最初 Castro は (革命を) 社会主義への 見通しには 進めず 何一つ 国有化しなかった。 一方 Che は キューバ革命は 社会主義革命に なるべきだと 主張した。 革命は すぐに、農地改革や 大衆の 生活水準を 引き上げる 他の 立法措置を 実施する その 試みの 妨害を 企てた US 帝国主義と 衝突しはじめた。 US 巨大企業は キューバ経済の 破壊工作を 試みた。 Castro は これに すべての キューバの US 所有の (設備を) 国有化することで 答えた。 革命は ルビコン川を 渡った。 地主層と 資本家の (財産は) 没収され 今や ワシントンの 方針と 衝突するに 至った。 これは Che が 関心を いだき その本の 複製を とり 彼の 最後の ボリビア遠征に 携行した トロツキーの 永続革命論の 全くの 確証だった。 トロツキーは 説明する -- 現代の 状況下では 植民地や 半植民地の ブルジョア民主主義革命の 課題は その ブルジョアジーによる 遂行が 地主層と 資本家の (財産を) 没収し 社会の 社会主義への 転換を 開始する 以外には 不可能だ、と。

帝国主義の「民主主義者」は キューバへの 侵略を 企図することで 応答した。 キューバ人 傭兵が CIA により 武装、訓練され 革命政府の 暴力的打倒を 果たそうと 試みた。 革命は 労働者と 農民を 動員、武装し 自らを 守った。 帝国主義勢力は the Bay of Pigs に 経路を とった -- それは ラテンアメリカで 初めての 軍事的 敗北に なった。 革命は 圧倒的に 勝利した。

仮りに 反動が 勢力の 回復に 成功していたなら 彼らは なにを しただろうか? 彼らは キューバの 労働者と 農民に その兄弟愛と 和解とを 讃えて 彼らを 結びつけるよう 促しただろうか? (それとも) 彼らは 真相委員会を 計画し Che と Fidel とに 参加するよう 招待しただろうか? 彼らは 100人の 犠牲者を だしたとしても 1つの Cabana (要塞さえ) 占領することは ないだろう。見通しの きかない 人間だけが このことを 理解できない。 だが 見通しを もたない 人は いない、たとえ 彼らの 誰もが (永遠に) わからないだろうと しても。

Che と 世界革命

キューバ革命は 危機に 陥っていた。 どうすれば それを 救い出せるのか? Che Guevara は 正しい 考えを もち 彼が 若くして 残酷な その死を 終える 前に 正しい 方向へ 進んでいった。 キューバ革命の 今日、最大の 脅威である 官僚主義、汚職 そして 特権に 彼は 徹底的に 反対した。 もし それが 正されなければ 資本主義への 復帰の 道を 準備することに なるだろう。 とりわけ Che は キューバ革命を 維持する 唯一の 方法が 社会主義革命を ラテンアメリカから 始め 世界の 残りの (地域へと) 拡げることだと 理解していた。

ソビエト連邦の 影響が キューバで 増大してくると 彼の 官僚主義に 対する 言葉と ソビエト連邦への 批評は さらに 一層 あからさまに なっていった。 おおむね 彼は ソビエト連邦への 疑いを 増すように なった。 彼は 公然と モスクワの 植民地革命への 裏切りを 非難した。 1965年 2月、Che は 彼の 国際舞台での 最後の 公式の 出席と なった アルジェの Afro-Asian Solidarity に 参加し 演説した。 この 演説の 中で 彼は 述べている、

「この 命がけの 闘争に 国境は ない。 われわれは 世界の どんな 場所で 起きた (闘争であれ それを) 前にして 無関心を よそおうことは できない。 帝国主義に 対する どの 国の 勝利で あっても (それは) われわれの 勝利だ、ちょうど どんな 国の 敗北も われわれの 敗北で あるように」。 彼は 続けて いう、「社会主義国家には 西側の 搾取国家と 彼らとの 暗黙の 共謀を 清算する 道徳的義務が ある」と。

これは モスクワによって 遂行された 平和共存政策への 非常に 明確な 非難だ。 彼は Castro との 協議なしに キューバ領から ソビエトミサイルを 撤去したことを 裏切りと みなした。 彼は ベトナム人民の US 帝国主義に 対する 自由への 闘いを 熱烈に 支持した。 彼は 他の 国々の 圧迫された 人々に 武器を 取り 「100 の ベトナム」を つくりだすよう 求めた。 こうした 演説は フルシチョフや モスクワの 官僚主義(者) を おびえさせた。

彼の 心の中に 徐々に キューバ革命を 救い出す 唯一の 方法は 世界中で 革命を 展開すべきだと いう 考えが 成熟していった。 この 考えは 本質的に 正しかった。 キューバ革命の 孤立が (そのまま) その 生き残りへの 最大の 脅威だった。 Che は 考えを 論文に 書き留めておく (タイプの) 人間では なかった。 彼は 行動に 移すことを 決心した。 Che Guevara は 1965年、アフリカでの 革命闘争に 参加するため キューバを 後にした。 次の 2年間の 彼の 居所は 詳細には 依然 秘密に されたままだが、彼は 最初 コンゴ - キンシャサに おもむいた。

彼は ある 手紙の 中で キューバ革命と 彼の 連帯を 再認識したと 書き、しかし 革命運動のため 国外で 闘うべく キューバを 去るという 彼の 意志を 明かした。 彼は 述べている、「世界の 他の 国々が 私に 少しばかりの 努力を 求めている」と。 そして 彼は 「新しい 戦場へ」 おもむき 1人の ゲリラとして 闘うことを 決心した。 キューバ政府を 窮地に 追いつめず また 帝国主義者たちに キューバを 攻撃する 口実を 与えないため、彼は 政府、党、軍隊での すべての 彼の 地位からの 辞職を 表明し 1959年に 革命への その 功労により 認められた 彼の キューバの 市民権を 放棄した。

"This is the history of failure"

当時 アフリカは 動乱状態に あった。 フランス植民地主義者が アルジェリアから 追い出され ベルギー植民地主義者は コンゴからの 撤退を 強いられた。 しかし 帝国主義者たちは 南アフリカの アパルトヘイト政権や さまざまな 国の 反動的要素と 連繋して しきりに 頑強な 後方からの 行動で ゆさぶりを かけた。 (彼らにとって) 捨てておけない ことは アフリカの 莫大な 鉱物資源だった。 それは また ソビエト連邦と U.S.A. との 主戦場でも あった。

Che は これは 人でなしの 戦いの 場だと 結論を 下した。 アルジェリアの (初代) 大統領であり、この頃 Guevara と 討論を 重ねた Ben Bella は いっている、「巨大な 革命の 可能性を もつと 思われる アフリカの 現在の 状況、それは Che を アフリカが 帝国主義の weak link だという 結論に 導いた。 今、彼が その 努力を 傾ける 決心を するのは アフリカしか なかった」と。

当時 独立した (ばかりの) コンゴでは ベルギーと フランスの 帝国主義者たちが 軍事介入の 口実として 混乱を つくりだすことで Patrice Lumumba 左翼政権の 破壊を 工作した。 CIA の 積極的な 協力により 反動は Mobutu に Lumumba を 殺害させ レオポルドビル (キンシャサ) で 権力を 奪取した。 Lumumba の 支持者らによる ゲリラ戦が 開始された。 キューバの 作戦は Laurent-Desire Kabila 指揮下の 反乱側を 支援して 遂行することと なった。

驚くことに 37歳の Guevara は 正式の 軍事教練を 受けていない (アルゼンチンでの 徴兵軍務に つくことは 彼の ゼンソクによって 妨げられた)。 だが 彼には キューバ革命の 経験が あり それで 十分だった。 同じく 赤軍を 組織したとき トロツキーは 軍事教練を 受けていない。 だが 革命的情熱で 武装した 赤軍兵士は 彼らと 対峙した すべての 外国軍を 敗北させた。

かつて ナポレオンは 戦闘においては 士気が つねに 決定的な 要素と なると 指摘した。 とはいえ コンゴ人 同盟者たち (の 実体を 知ること) により Che は 早々に 迷いから 覚めた。 彼は Kabila の 能力を まったく 評価しなかった。 彼は 書いている、「彼 (Kabila) が 時の人だと 信じさせるものは 私には なにも ない」。 キューバや ロシアの 革命家たちは 彼の 信じる 主義のために 闘った。 だが コンゴでは 反帝国主義者の 闘いは 部族による 分裂、個人的な 野心 そして 腐敗の 混じり合った ものだった。 その後の 出来事が これを 明らかに する。 1997年 5月、Laurent Kabila は Mobutu を 倒し コンゴ民主共和国の 大統領と なった。 彼は 2001年に 暗殺されるまで その地位に あり 腐敗した 暴君として ふるまった。 同様に 堕落した 息子 Joseph Kabila により 彼は その 任期に 留まることに 成功したのだ。

反乱側を 鎮圧するため CIA と 南アフリカの 傭兵たちが Mobutu の 軍隊に 従っていた。 たとえ 最初は Che の 存在を 知らなかったとしても、彼らは まもなく より ずっと 危険な 敵と 戦っていることに 気づいた。 それでも CIA と 通じた 優秀な 諜報員が すぐに 南アフリカ人 (部隊) に 彼の 存在を 報告した。 Che の コンゴ日記には この 地方の (反乱側) コンゴ部隊の 無能力、愚昧 そして (彼らの) 内部闘争が 記されている。 これが 革命が 失敗した 主要な 理由だ。 キューバの 援助が なければ それは ずっと 早く 敗北しただろう。

彼が ゼンソクに 苦しみ 赤痢で 戦力が 失われ そして その 同盟者たちに 幻滅した 失敗の 7ヶ月後、彼は Afro-Cuban 部隊の 生き残った メンバーと ともに コンゴを 去った。 後に 彼が コンゴ遠征について 書くとき 苦々しく 述べている -- 「これは 失敗の 歴史だ」と。

ボリビア

アフリカでの 失敗の 後、Che は ラテンアメリカに 新しい 革命戦線を 切り開く 企てを 決心した。 彼は アルゼンチンを 含む いくつかの 重要な 国に 接する (ことから) ボリビアを その 戦略拠点に 選んだと 思われる。 彼は (密入国するため) ビジネスマンに 変装することを 採用し 太い メガネを かけ 頭を 剃った。 これは まったく 完璧だったので 小さい 娘たちに 彼が 最後の 別れを 告げたとき 彼女には (それが) 彼だと わからなかった。 だが 帝国主義者たちは それほど 簡単に 欺かれなかった。

偉大な 革命の 伝統を もち 強力な 労働者階級を もつ 国、ボリビアで ゲリラ戦争を つくりだそうと したとき、彼は 明らかに 誤りを 犯した。 彼は いくつかの 領域で 誤算した。 彼が 予期したのは 貧弱な 訓練で 武装した ボリビア軍とのみ 立ち向かうことだった。 だが すでに 指摘したように 帝国主義者たちは キューバの 経験から 学び 彼に 対する 用意が あった。 作戦が 始まって わずか 11ヵ月 (の 間に) ゲリラたちは 進軍し そして Che Guevara は 死亡した。 ボリビア軍と US の (軍事)「顧問」により 仕掛けられた ワナから どうにか 逃れられたのは わずか 5人だった。

今日、Che Guevara の ボリビア日記を 読むことは 感動的な (だが) 悲劇的な 体験と なる。 この 小さな 一団の 肉体的 そして 精神的な 苦痛は 言葉では いい表せない。 彼の 最後の 運命は (われわれの) 心を 引き裂く。 彼は 人里 離れた "ancahuaz" 地方に その 根拠地を つくった。 だが このような 状況下で ゲリラ部隊を 築きあげるのは 彼の ボリビア日記が 示すように きわめて 困難な ことが わかる。 しかし 革命は ボリビアの ジャングルで 開始され (それは) はじめから 絶望的な 冒険だった。 ゲリラ部隊は 全部で わずかに 50人ほどで 構成された。 スペイン語すら 話さない この 地方の 住民から 新しい兵を 募るのが 非常に 困難なことを 彼らは 体験した。 ゲリラたちは Quechua 語は 知っていた、だが この 地方の 言語は Tupi-guarani 語だった。

(それら) すべてに かかわらず、ゲリラは すばらしい 勇気と 決断力を 示し Camiri 山脈において ボリビア正規兵に 対し 初期の いくつかの 成功を 勝ち取った。 しかし 9月、軍は 指導者の 1人を 殺害し、2つの ゲリラ集団を 壊滅に 追い込んだ。 この 局面から 彼ら (ゲリラは) 前もって 敗退の (約束された) 戦闘を 闘っていった。 その上、闘いが 長引くことで Che の 健康は 悪化した。 彼は 重く 衰弱の ひどい ゼンソクに 苦しんだ。

ボリビア当局は 1967年 3月の ボリビア軍との 戦闘で 彼らの 手に 落ちた 反乱側から 写真を 入手したとき、ついに Guevara の 存在に 警戒態勢を とった。 それ (写真を) 見た 後、大統領 Rene Barrientos は La Paz の 中心に 槍先に ある Guevara の 首が 欲しいと 叫んだと いわれている。 ここに ブルジョアジーの 人道的平和主義の まぎれもない 表現が ある -- その 同じ 人々が 革命の 暴力に 対して 非難するのだ。

彼を 血に飢えた バケモノとして 描く 企てにも かかわらず (革命の 指導者で そう 描かれなかった ものが いただろうか?) Che は 実際 まったく 人道的な 人物だった。 彼の ボリビア日記の 非常に 感動的な 一節の なかで、若い ボリビア兵を 射殺しなければ ならなかったとき、だが 引き金を 引くことの できなかった 自らを 見いだした 瞬間を 彼は 思い出している。

これは 残酷で 血に飢えた 男の 行為では まったく ない! Che は ゲリラが 捕虜にした 負傷した ボリビア兵に 自ら 医療処置を ほどこし、そして 彼らを 解放した。 この 人間的な 行動は、彼が ボリビア軍の 手に 落ちたとき 彼自身が 受けた 残忍な 扱いとは 対照的だ。 さらに、捕らえられたとき 彼は 同じく 戦いで 負傷した いくらかの ボリビア兵の 治療を 申し出たと いわれている。 (だが) 担当した ボリビア将校は 彼の 申し出を 拒否した。

スターリン主義者の 裏切り

Che の 兵たちは 無数の 障害に 直面した -- (それは) 言葉や 天候 (ほとんど 常に 雨期であった) そして その 地勢だけでは なかった。 スターリン主義者で 親モスクワの Mario Monje の 統率下、ボリビア共産党は Guevara に ひどく 敵意を もち ボリビアの 彼の 滞在に 憤慨した。 ボリビアの スターリン主義者たちは ゲリラへ 彼らが 参加する 名誉を 拒絶した。 彼らは ボリビアは 革命攻勢に 乗り出す 状況に ないと 主張した。 Fidel Castro は Che の ボリビア日記の 序言で まったく 適切に こう 答えている、

「どんな 時期や 状況であっても 闘わないことの 口実は 常に 増殖するだろう -- そして それは われわれが 決して 自由を 手に入れられないことを しばしば 意味する。 Che は 彼の 理想より 長く 生きなかった。 だが 彼は 彼の死に ともない (この増殖は) さらに 広範囲に 拡大するだろうことを 知っていた。 彼らの 政治的 卑劣さと 果てのない 失策とともに、彼の 偽りの 革命への 批判は 彼ら自身の 愚行の 証言より 確実に 長く 残るだろう。 日記が われわれに 示すように ラテンアメリカでは 数多くが そうなる こうした 『革命家』きどりの 1人、Mario Monje が この 運動での Che の 政治的、軍事的 指導権の 権利に 異議を 唱えるため ボリビア共産党 書記長という 彼の 肩書を 利用したことには なんの 価値も ない。 そして Monje は また 党内の 彼の 地位を 手放す 意向を 表明した。 彼によれば (実質上の) 地位が 保たれ 彼に 指導を まかせる 権利を 与えるには それで 十分だった」

「いうまでもなく Mario Monje には ゲリラ戦の 経験が なく かつて 戦闘を 行なったことも なかった。 だが 彼が 自らを 1人の 共産主義者だと 考えた その 事実が、ボリビアの 最初の 独立のため 闘った 真の 愛国者が 抱いたような ありのままで superficial な 愛国心から 彼を 遠ざけた」

「もし これが この 大陸で 闘争する インターナショナリストと 反帝国主義者の 考え方であるなら、そうした 『共産主義者の 指導者』は the Conquest の 時代、ヨーロッパ征服者によって 征服された 土着の 部族より はるか 遠くへと 前進することは ない」

「これが その 歴史上の 首都が 両者とも ベネズエラ人であった 最初の 解放者に 敬意を 表し Ducre と 名づけられた ボリビアという 国の 共産党 指導者たちの 行動だった。 Monje には 真の 革命的 巨人である 政治的、組織的 および 軍事的 人材に 協力を 得るよう 努力する 機会が あった。 (Che の) 大きな 目的は ボリビアの 偏狭で 不自然な そして 不正ですらある その限界に 制約されなかった。 けれども Monje は 恥ずべき ばかげた 根拠の ない 態度で その 指導権を 要求する 以外 なにも しなかった」 (Ernest Che Guebara "Borivian Diary", "A Necessary Introduction" by Fidel Castro, p xxxi-xxxii)

そして Castro は Monje と ボリビア共産党 指導者たちへの 辛辣な 告発を 続ける、

... だが まずいことに その結果、Monje は 運動を 妨害しはじめた。 La Paz に いる 間、彼は ゲリラ戦に 参加しようとしている よく 訓練された 共産主義者の 闘士たちを 妨害した。 彼らは 武装闘争に 参加するに 必要な あらゆる 資格を そなえた たぐいの 人間だった。 だが 彼らの 前進は 無能で manipulate な 指導者によって 犯罪的に 阻まれた」 (Ernest Che Guevara "Borivian Diary", "A Necessary Introduction" by Fidel Castro, p xxxiii)

1月の 終わり、Che は 彼の 日記に 書いている、

「この月の 情勢分析」

「私の 予期したとおり、Monje の 態度は 初めは 言い逃れであり 次に 陰険 (な ものと) なった」

「今や 党は われわれに 対し 武器を 取ることに 反対している。 そして 彼らが どれほど 遠ざかるだろうかは 私は 知らない。 だが このことは われわれを 引き留めないだろうし、おそらく 結局は われわれを 有利に 導くことと なるだろう (私は ほぼ このことを 確信する)。 闘う 人々は 大多数が 入念に 準備しており われわれと 共に あるだろう。 たとえ 彼らが かなり 深刻と なるかもしれない (党への 忠誠という) conscience の 危機を 経験しなければ ならないとしても」

「Moises Guevara は 今のところ よく 応じている。 彼と 彼の people とが どう 行動するか われわれは 将来 知るだろう」

「Tania は 出発した。 だが アルゼンチン人が 生きている ようすの ないことを 伝えた、そして 彼女も。 今や 実際に ゲリラの 局面が 開始され、われわれは (敵の) 軍隊を 試すことに なるだろう。 時が 彼らに 何が できるのか、そして ボリビア革命に 対する その 前途が 何なのかを 告げるだろう」

「われわれが 描いていた すべてのうちで もっとも 困難な 任務が ボリビアでの 戦闘に 加わる 新兵の 補充だった」 (Ernest Che Guevara "Borivian Diary" p.38)

Che Guevara (の ゲリラ戦に) 参加 あるいは 支援した 党内の メンバーたちは 党の 指導力に そむいて これを 実行した。 (しかし) Che の ボリビア日記は ボリビア共産党における この 問題が いかに 最初 予想していたより ゲリラを ひどく 小規模な 結果に 終わらせたかを 示している。 これが ゲリラが 成功する 望みに 致命的な 一撃を 加えた。

Regis Debray

ここで 全体のうち ある 貧弱な 役が Regis Debray によって 演じられた。 結果として この男は 彼と Che Guevara との 疑わしい 関係を 利用することによる 経歴を つくりあげた。 彼は ボリビアで 「Che とともに 闘い」 「Che の 同志」 だったと しばしば 語っている。 これは まったくの 偽りだ。 Debray は どんな 戦闘も けっして しなかったし 実際には ゲリラに 対する 深刻な 問題を 引き起こした。 Che は この プチブルジョア 知識人を しごく 当然に 軽蔑に 値すると 評価した。 彼の 日記は この 招かれざる 「観光客 同伴者」 に しばしば 言及し それらが なんの 足しにも ならないこと (の 記述を) 含んでいる。

Debray と アルゼンチンの 画家、Ciro Bustos は Che の キャンプに 革命の 観光客として 現われ 面倒 以外の なにも 起こさなかった。 彼らは 外の 世界との 接触 進展を 助けるはずだった。 結局、彼らは ゲリラたちの 犠牲の 上に 自らの 十分な publicity を 受け取った。 日記は Che が 最初から Debray を 疑っていたことを 示している。

「この フランス人は 彼が 外の 世界で いかに 役だつかを かなり 熱心に 誇張していた」 (Ernest Che Guevara "Borivian Diary" p.69)

Che の 疑惑は まもなく 証明された。 厳しい 状況で (それが) 許されないなかで 彼らは その 出発を 請い Che を 悩ませた。 彼らは すぐに 軍隊に 捕らえられ 反乱側を 追跡するに きわめて 重大な 情報を 与えた。 Bustos は ゲリラを 裏切り 卑しい 情報屋と なった。 彼は さらに 軍隊が 彼らを 特定できるよう その 肖像を 描いた。 Regis Debray の 公判は 世界の メディアの 注意を 引きつけたが、現実に 闘いに 従う ゲリラたちからは 無視された。 この 公判は 疑う 余地なく ボリビア政府を 困惑させた。 しかし それは また ゲリラに 対する 彼らの 態度を 硬化させた。 それは この 公判への メディアの 騒ぎが くり返されるのを 避けるべきだという Barrientos が Guevara の 殺害を 決めた 1つの いいわけを 可能にした。

最終章

Barrientos は ボリビア軍に Guevara を 追跡し その 捕獲を 命じた。 だが 正確には 彼は ワシントンの 彼の ボス -- 彼らは ずっと 前から 彼らの もっとも 憎むべき 敵の首に 賞金を かけていた -- の 命令に 従ったに すぎない。 ワシントンは 彼の 所在を 見つけるや すぐに CIA と 他の 特殊部隊が ボリビアに 送られ そこで 彼らは 作戦 (の 指揮を) 引き受けた。

U.S. の (軍事) 顧問が 4月 29日に 到着し、19週に わたる 対・反乱訓練の プログラムが ボリビア 第2 レンジャー大隊に 対し 開始された。 その 入念な 教程には 武器の 訓練、個人の 戦闘、分隊 および 小隊の 戦術、哨戒 そして 対・反乱活動が 含まれていた。 ボリビア軍は U.S. の (軍事) 顧問と 特殊部隊によって 訓練され 補強された。 そこには ジャングル作戦での 特殊訓練を 経た 最新装備の 確立された 選抜 レンジャー大隊が 含まれていた。

9月の 終わりから 敵は 彼ら (反乱側) の 足跡を 追った。 ボリビア特殊部隊は 1つの 情報から Guevara の ゲリラキャンプの 位置の 通知を 受けた。 10月 8日、彼らは キャンプを 包囲し、小ぜりあいの 後 Che は 捕らえられた。 ボリビア軍が 彼に 接近したとき 彼が 大声で 「撃つな! 私は Guevara だ、死体より 生きてるほうが 価値が ある」と 叫んだことに なっている。 こうした 手口で 彼らは 彼を 臆病者として 描こうと 努める。 このことは まさに 反動どもが この 人間の 思い出を 汚そうと 企てた もう 1つの 中傷だ。 彼は 常に すばらしい 勇気を 示し 個人的な 安全には まったく 無頓着だった。

Barrientos は すぐさま Che Guevara の 処刑を 命じた。 彼は その 捕獲を 知らされるや 即刻 命令に 署名した。 彼は 法による 細かな (裁定に) 時を 割かなかった。 彼は ワシントンの 「民主主義者」たちの 十分な 理解と 同意の 上で それを 実行した。 Che Guevara が 自らを 弁護し、反撃へと 転じ、彼の 闘いの 正当性を 示す この 社会の 不正を 公然と 攻撃する (可能性の ある) 公判という 危険を おかすような 者は 彼らのなかに 誰も いなかった。 そうだ! そうした 発言は 今回ばかりは 沈黙させねば ならなかったのだ。

1919年 1月、ベルリンにおいて ローザ・ルクセンブルグと カール・リープクネヒトを 捕らえた ユンケルたちも また、彼らを 法廷に 差し出すことを 認めるつもりは 少しも なかった。 彼らは (2人の) 頭を 打ち砕く前に 法律書は 調べなかった。 Che Guevara は 近くの La Higuera 村の 荒れはてた 校舎に 引きたてられ、そこで 一晩 捕虜として 拘束された。 ただ 一人、餓えた 狼のなかの 仔羊のように、この世界、彼の家族、友人 そして 同志から 一人 孤立し、威圧のなか 免れない 死と 向きあった、この 最後の 悲惨な 夜に、彼の 心の中を どんな 思いが 駆け抜けなければ ならなかったのか!

次の日の 午後 はやく、Che Guevara は 校舎から 引き出された。 1967年 10月 9日の 午後 1時 10分、彼は ボリビア軍の 軍曹、Mario Teran によって 処刑された。 彼が 冷酷に 射殺された 事実を 隠そうとする 企ての 1つとして、戦闘での 負傷を 装うために 彼は 多数の 銃弾を その 足に 受けた。 この (処刑の) 前、彼は 処刑者に 語った、「おまえが ここで 私を 殺すのは わかっている。 撃て、臆病者。 おまえは 人を 一人 殺そうと するだけだ」。 これが 実際の Che Guevara の 最後の 声であり 臆病者として 命乞いを したのではない。

その 遺体は ヘリコプターの landing skids に 縛りつけられ 近くの Vallegrande まで 空輸された。 そこで その地の 病院の 洗濯漕のなかに 置かれ、写真を とる 報道諸君のため 展示に 供された。 1人の 軍医が 彼の 両手を 手術により 切断するという 死を 冒涜する 恐ろしい 行為のなか、ボリビア軍 将校は Guevara の 死体を 人知れぬ 場所に 移動した。

Guevara 探索を 指揮した 男は、CIA の 手先で、Bay of Pigs 侵略と 時を 同じくして 反 Castro 暴動を 準備するため キューバに 侵入したことのある Felix Rodriguez だった。 Rodriguez は ワシントンと バージニアの 彼の 飼い主たちに Che の 死を 知らせた。 卑しい 盗人のように、彼は Che の ロレックスの 腕時計や 故人の 品々を もち去り、記者たちに 彼の 手柄を 自慢するのに 見せるため 使った。 Felix Rodriguez の 名は 歴史の 年代記に 悪名の 極印を 押され 記されるだろう。 しかし、彼に 残忍に 殺害された 人間の 思い出は、貧しく 虐げられた (人々の) 守護者、戦士、革命の 英雄 そして 世界の 社会主義運動の 殉教者として 永遠に 生きるだろう。

ゲリラ戦争の 課題

他の 人と 同じく、Che は 強い面と 弱い面を もっていた。 ゲリラ戦争の キューバでの 方式を 一般に 適用する 戦術として 示すことを 試みたとき、彼は 疑う余地なく 誤りを おかした。 マルクス主義者たちは 常に 農民の 闘いを、権力に 抵抗する 労働者たちの 援軍として 考えてきた。 この 見解は 最初、1848年の ドイツ革命を 通じて マルクスにより つくりだされた。 その時 彼は、ドイツ革命は ドイツ農民戦争の 再来としてのみ 大勝利が 得られると 論じた。 それは 都市における 労働者の 運動は その 背後に 農民民衆を 引き寄せなければ ならなかったのだと いうべきだ。

この見解が 開発途上にある 資本主義国家における 唯一のものと するのは 正しくない。 ロシア革命 前の 工業 労働者階級は 人口の わずか 10 パーセントを 占めるだけであった。 にもかかわらず、レーニンと Bolshevik は 労働者階級が nation の 前衛を 担わなければならず、農民や 彼ら (労働者階級) の 背後の 圧迫された 階層を 導かなければ ならないことを 常に 論証した。 ロシア革命で プロレタリアートは その背後に 百万の 貧農 -- プロレタリアートの 生来の 同盟者 -- 民衆を 引き連れ その 先導役を 演じた。

社会主義革命を 成功に 導く 唯一の 階級は 労働者階級だ。 これは 感傷的 理由に よるのでは なく、社会に 占める その 地位と 生産で 演じられる その 集団的な 性格 による。 マルクス、エンゲルス、レーニン そして トロツキーの 著作には、農民が 社会主義革命を ひき起こすことの できる 可能性に ついての 言及や 暗示を 見いだすことは できない。 農民が 1つの 階級としては 極度に 異質な ものから なるのが その 理由だ。 それは 土地を もたない 労働者 (実際、彼らは 農村における 無産者だ) から、他の 農民を 賃労働者として 雇う 富農に いたるまで 多くの 階層に 分かれる。 彼らは 共通の 利害を もたず、そのため 社会で 独立した 役割を 演じることが できない。 歴史の上で 彼らは 都市の さまざまな 階級 あるいは 集団を 支えた。

ゲリラ闘争は、その性格 そのものから、労働者階級ではなく、農民による 古典的な 武器だ。 それは 近づくことの 困難な 農村地帯 -- 山岳や ジャングル、その他 -- での 武装闘争の 条件に 適していて、そこでは 地勢による 困難が 常備軍の 展開を 複雑なものとし、農村の 民衆が 必要な 後方支援を 与え、ゲリラが 行動するための 援護を 行う。

多くの 農民人口を もつ 後進国革命において、ゲリラ闘争は 都市労働者の 革命闘争に 対して 有益な 援助を 果たすことができる。 だが、レーニンは 労働者による 意識的な 階級運動に 替わって、ゲリラ主義的 着想を 考えつくことは けっして なかっただろう。 マルクス主義者の 見地からは、ゲリラの 戦術は 次善の策、社会主義革命の 局地的な 援護としてのみ 許される。

これが 1905年の レーニンの 明らかな 見解だった。 それは Narodnaya Volya (ナロードニキ) と その 後継者の 社会革命党により 遂行された 個人主義的 テロリスト戦術の たぐいと 共通するものは なにも ない。 まして、現代の テロリストたちや 真の レーニン主義者の 方針の アンチテーゼ そのものである 「都市ゲリラ」組織の 狂気の 戦術とは (まったく 異なる)。 レーニンは 武装闘争は 革命的 民衆運動の 一部で なければ ならないと 主張し、それが 許される 状況を 明確に 示した。

「1) 民衆の 感情を 考慮に 入れる 2) 特定の 地方の 労働者階級運動の 状態を 考慮する そして 3) プロレタリアートの 力が 消耗されることの ないよう 注意を そそぐ」

そして 彼は また ゲリラ戦が、万能薬である どころか、「民衆運動が 現実に まさに 反乱へと 達しようと している 時点で」のみ 許される 単に 闘争の 1つの 可能な 方法に すぎないことを はっきりさせた。

このような 活動に 固有な 転落の 危険は、ゲリラ集団が 民衆運動から 孤立するや 否や 一つの 絶対的 確信となる。 続く 1906年の 時期、労働者の 運動が 下降線を たどり 打ち続く (敵の) ボディブローに 革命家が よろめいた時、ゲリラ集団は ますます 革命政党を 補助する 機関として 役だたなくなり、彼らは 山師の集団 あるいは さらに より 悪いものに 変化する 兆候を 現わした。 彼が なおも 革命運動の 復活を 予期していた時、反動に 対抗する 後衛活動の 一種としての ゲリラ戦術の 可能性を 弁護する 一方、同時にまた レーニンは 「アナキズム、ブランキ主義、旧式の テロリズム、労働者を 混乱させ 住民の 幅広い 階層を 破壊し 革命を 損なう 民衆から 孤立した 個人主義的 行為」に 対し 警告した。 そして さらに つけ加える、「こうした 評価を 支持する 例は、日々の 新聞で 報道される 事件のなかに 容易に 見いだされる」 と。

1905-6年の 時期、革命運動は パルチザン支隊、武器の 没収、武装闘争の その他の 形態を ともなう 「ゲリラ戦争」の 要素を 含めた。 だが この 戦闘分隊は つねに 労働者の 組織と しっかり 結びついた。 こうして モスクワの 軍事委員会では RSDLD (ロシア社会民主党) でなく SR (社会革命党)、労働組合員 (印刷工) および 学生が 占めていた。 われわれが 知るように、パルチザン集団は ボグロム (大量虐殺) や 黒百人組からの 防衛目的のため 役だてられた。 また 彼らは 集会を 警察の 襲撃から 防御するよう 援助した。 そこでは しばしば 武装労働者の 支援による 出席が (敵の) 暴力を 防ぐ 重要な 要因と なった。

(彼らの) その他の 任務には 武器の 捕獲、スパイや 警察の 手先の 暗殺 そして 資金のための 銀行襲撃も また 含まれた。 このような ゲリラ集団を つくりあげる イニシアティブは しばしば 労働者自身によって とられた。 Bolshevik は 明確な 行動計画によって 彼らを 組織、訓練、指令することで これらの 集団の 指導権の 獲得に 努めた。 当然、ここでは これらのことは 重大な 危険を ともなった。 あらゆる 種類の 山師、落後者 そして いかがわしい 分子が こうした 集団を 混乱させることが 可能だった。 そして ひとたび 民衆運動から 孤立すれば、その 性格は 犯罪的方法に 沿ったものへと 転落しがちであり、そこでは 彼らは 単なる 強盗集団と 区別が つかなくなった。

これに 加えて、彼らは また 挑発による 滲透を 受けやすかった。 一般に、たとえ 後者が 滲透からの 影響を 免れないとしても、国家の 手先どもによる 軍国主義的な テロリスト組織が 滲透するほうが、とりわけ 互いに 強い イデオロギーによる 繋がりで 結ばれ 訓練された 幹部から なる 本来の 革命政党 (の それ) より はるかに 容易だ。 レーニンは 軍事集団の 存在により ひき起こされる 転落の 危険に 十分 気づいていた。 党組織と 経験を つんだ 幹部による 厳格な 規律と 堅固な 統制とが そうした 傾向に 部分的に 警告を 発した。 だが 唯一、現実的な 統制は 革命的 民衆運動に よるものだった。

ゲリラ部隊が 民衆運動の 援軍として 行動する限り、(それは 革命が 上向きに 進むときだが) 彼らは 有益で 進歩的 役割を 演じる。 だが、ゲリラ部隊が 民衆の 革命運動から 引き離されるとき、彼らは きまって 転落に 向かう。 この 理由から、レーニンは かつて 革命運動が その 避けることの できない 停滞期に あったときに 明らかに つくられた 彼らの 存在を そのままに しておくことを、まったく 容認できないと みなした。 ひとたび この 段階に 達すると、彼は 直ちに ゲリラ部隊 すべての 解散を 要求した。

ゲリラ戦争

Che は ゲリラ戦争の 理論 および 実践についての かなりの 記事と 本とを 書いた。 Arbenz 政権 打倒の 経験は 彼に 消えることのない 印象を 与えた。 彼は、支配階級は 武装反乱により 打倒されなければ ならないと 断言し、そして その 仮説は 完全に 正しかった。 すべての 歴史は、支配階級が 戦闘も なく その 権力と 特権とを 手離すなど、かつて なかったことを 示している。 悪魔が 自らの 爪を 切り落とすなど あり得ない。 マルクス主義者は 平和主義者では ない。 民衆は、闘う 準備を し、支配階級を 武装解除するために 必要な 力 (force) は どんなものでも 使わなければ ならない。 マルクスの 言葉に ある -- 力 (force) は 歴史の 助産婦だ、と。

彼の よく 知られた 本、ゲリラ戦争は、革命の キューバ方式を 他の 国々で 適用 可能な 方式として とらえる。 この 方式では 民衆を 組織する 広範な 組織の 必要は なく、ゲリラの 小部隊 foco が 武装反乱を 実行する。 これは、続く 事件が 悲劇的に 証明したように、重大な 誤りであった。 キューバは 帝国主義者に 不意打ちを かけた。 彼らは それほど 容易に ゲリラが 成功すると 予期しなかった。 たとえ (予期して) いても、US の 支配階級は どう 対応するかで 分裂した。 一方の 派は 侵攻政策を 主張し、しかし 他方は 慎重な 態度を 支持した。

帝国主義者は 誤りを おかした。 だが、彼らは また 経験から 学び 研究した。 キューバ革命の 経験の 後、帝国主義者は 不意打ちを 受けることは なかった。 彼らは Che Guevara の 書を 含め、ゲリラ戦争の 理論を 研究した。 そして 彼らは 準備し 待ち構えた。 最初の ゲリラ foco が 隊形を ととのえるや 否や、彼らは それを 粉砕するため 介入した。 彼らは ゲリラが 農村の 人々の なかに 根拠地を つくりだす 時を 与えなかった。 これが ボリビアの 場合に 起こった ことだ。 それは、Che と その 同志たち、そして その後の 多くの 者たちの 運命を 決定した。

キューバで 成功した 戦術を 模倣するという -- だが、それを 異なった 状態に ある 他の 国々へ 人為的に 移植することは 不可能だ -- 状況への 特有の 反応である この 無謀な 企ての 結果、(それは) ラテンアメリカや その他の 勇敢な 若者、多くの 同時代の 人々の 生命を 断つという、革命史上 もっとも 重大な 悲劇の 一つに なった。

ゲリラ戦争は 1949年以前の 中国のような 圧倒的な 農業社会という 背景では ある 意味を もつ。 しかし、小農が 少数であり 決定的な 大多数が 都市や 町に 住む チリや アルゼンチンのような 国々では それは まったく 意味を なさない。 われわれの 知るように、ツァー (支配下の) ロシアに おいてさえ、レーニンは 革命の 主役は プロレタリアートが 演じなければ ならず、ゲリラ戦争は 民衆と この 労働者階級とに よる 革命運動への 補助として 見なければ ならないと 主張した。

アルゼンチン、ウルグアイ、ベネズエラ および 他の 国々において、キューバの ゲリラ方式を 機械的に 模倣する 企ては すべてが 血なまぐさい 敗北へと 導かれた。 特に 否定的な 側面が いわゆる 「都市ゲリラ」という 考えだった。 それは 新しく 見せかけた、個人的テロリズムの 旧式の 考えに すぎない。 この 悲惨な 戦術を 支持した ものたちは、彼らが なにか まったく 新しいものを つくりあげたのだと 考えた。 実際には、彼らは ただ ナロードニキの 古い ロシアの テロリストたちの 誤りを くり返しただけで あり、レーニンは それに 対し 容赦ない 闘いを 行なった。

すべての 場合で、これらの 戦術は 血なまぐさい 敗北と 獰猛な 反動 (を 呼び寄せること) に 終わった。 運動は、工場、労働者地区 そして 農村の 革命運動を 進展させる 重要な 役割を 演じることの できた、数千の 若い 幹部たちを 失った。 これは 社会主義革命を 成功させるべきならば 修正しなければ ならない 非常に 深刻な 誤りだ。 それは この 偉大な 革命家の 真の 否定しがたい 遺産を 理解することの できない 極左翼が とびついた Che の 遺産の 否定的な 側面で あって、彼の 誤りを くり返すのみだ。 これは Che の 思い出の -- 想像できるかぎり -- 最悪の 誤解だ。

われわれが そこから 心に 留め 学ばなければ ならない Che Guevara の 真の 教訓は (彼の) インターナショナリズムだ。 社会主義革命とは 孤立した 一国の (それでは) なく、これらの 繋がりの 一部で あるという、この 正しい 考えだけが 世界的な 規模での 社会主義の 勝利を 完うさせることが できる。 ラテンアメリカの 今日の 革命運動が、彼の 正しかった ことを 証明する。

Che Guevara の インターナショナリズム

キューバ革命は その 最初から 革命の インターナショナリズムに 鼓舞された。 このことは キューバ革命の 傑出した 指導者である Che Guevara によって 実現した。 Che は アルゼンチンに 生まれ そして キューバ革命の 最前線で 闘った。 だが 真実、彼は 真の インターナショナリストであり 世界市民だった。 Bolivar のように 彼は ラテンアメリカ革命の 見通しを もっていた。

彼の 悲劇的な 死から 後、Che Guevara を 無害な icon、Tシャツの 顔へと 変える 多くの 試みが あった。 彼は ブルジョアジーによって 善意の ロマン主義者、ユートピア的理想家のごとく 描かれる。 これは 偉大な 革命家の 思い出には ふさわしくない! Che が 他の 国々、ラテンアメリカのみならず アフリカでも また 革命を 展開することを 試みたのは 偶然では なかった。 その 分析から、彼は キューバ革命は これによって 決定されるだろうことを 非常に よく 理解していた。

その もっとも 早い 時期より、キューバ革命の 運命は 世界的な 規模の 出来事と 結びついていた。 革命の 誕生を 地球上で もっとも 強力な 帝国主義者の 国家に 脅かされた時、そうせずには いられないではないか? キューバ革命は、ロシア革命のように、国際的に すさまじい 衝撃を、特に ラテンアメリカと カリブ海域とに 与えた。 それは 事実、今日までも 残っている。 Che は 大陸全体を 燃えたたせようとし、火花に 点火することを 試みた。 多分、彼は その 展開させる 方法を 誤った。 だが、彼の 目的を 疑うことの できるものは 誰一人 なく -- キューバ革命を 救う 唯一の 方法として それを ラテンアメリカに 進展させるべきだという -- 彼の 基本的な 考え方は 正しかった。

Che は 海外への 革命遠征の 創設を 援助し、その すべてが 失敗した。 すでに 1959年には 最初の 企てが パナマで たてられ、別に ドミニカ共和国で 起こされた。 不運にも、いくつかの 誤った 断定が キューバの 経験から 引き出された。 ゲリラ戦争と foco の モデルを 輸出する 企ては 次々に 悲惨な 敗北を 導いた。 これには いくつかの 理由が あった。 初めに、われわれが すでに 見たように、キューバの 反乱は US 帝国主義に 驚きをもって 受け取られた。 だが 彼らは まもなく その 教訓を 学び、彼らは "foco" が 現われるたびに、それが 展開する 前に ただちに 撃破した。

もっとも 重要な 事実が ラテンアメリカの 人口の 大多数が 現在、町や 都市に 住むことだ。 それゆえ、ゲリラ戦争は 援軍として 重要な 役割を 演じることの できる 一方、それが 主役を 演じるのは 不可能だ。 それは 都市の 労働者階級に 残されている。 そして、戦術は それに 応じて 取り入れなければ ならない。

このことは ベネズエラの 経験から 証明される。 そこでは ゲリラ運動を 組織する 試みは 完全に 失敗した。 ベネズエラ革命は 町や 都市の 民衆を 基礎とし 小農が 支持するという、実質的に 都市革命 (urban revolution) として 展開している。 ボリビアでの Hugo Chaves の 運動では、議会闘争を 民衆を 非常に 有効的に 動員するのに 用いた。 そして それは 三度の 反革命を 打ち破った 民衆運動と なっていった。

今や、キューバ革命の 運命は ベネズエラ革命の それと 有機的に 結びついている。 仮りに ベネズエラ革命が 失敗するなら、キューバ革命は より 重大な 危機に 陥るだろう。 そうは させないよう すべての 努力を 注がなければ ならない。 だが 私たちは ここでは 歴史から 学ぶべきだ。 ベネズエラ革命は 奇跡的に 成就したが、しかし それは まだ 終わっていない。

キューバ革命の ごとく、ベネズエラ革命は 国民的 民主主義革命として 始まった。 Hugo Chavez によって 提唱された 初期段階の それは 進歩的な ブルジョア民主主義の プログラムだった。 しかし 経験は 少数独裁制と 帝国主義とが 民主主義の 凶々しい 敵であることを 証明した。 革命を 破壊することを 彼らは 躊躇しないだろう。 それゆえ、ボリビア革命を ブルジョア民主主義の 課題に 制限する 企ては -- それは 革命を 立ち止まらせる ことだ -- 避けられない 革命の 破滅への 道を 用意することに なるだろう。

なにゆえ US 帝国主義は キューバや ベネズエラの 革命の 破壊を それほどに 決意するのか? それは 彼らが 1つの 大陸という 尺度で もっている その 影響力の ゆえだ。 帝国主義者たちは キューバや ベネズエラが (プロレタリア革命の) 活動の 中心として 行動することを 恐れている。 彼ら (帝国主義者) は その 清算を 実行する 決意だ。

Che の 考えは ラテンアメリカにおいて 20 の ベトナムを 切りひらく ことだった。 それは 悪い 考えでは なかったが、いく分かは 状況が 十分 熟してなかったため、だが 主として ゲリラ戦争の モデルが 誤っていた その結果として、当時は 不可能だった。 しかし 今や 事態は 違っている。 資本主義の 危機は ラテンアメリカに 壊滅的 影響を 与え、そして このことは 画期的な 重要性を もつ。 革命への 状況は 至るところで 熟している。 事実 現在では、単一の 安定した 資本主義体制は Tiera del Fuego から Rio Grande に 至るまで どこにも 存在しない。 正しい 指導力を もってすれば、すぐ 次の 時代に 1つ あるいは いくつかの ラテンアメリカの 国々で プロレタリア革命が 成功しないという 理由など 見当たらない。 必要なのは、ナショナリズムや 反動ブルジョアジーによる ブロックでは なく、革命的 社会主義者による プログラムと、そして 革命的 プロレタリアの インターナショナリズムなのだ。


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