Che Guevara の 死から 40年 (Part 1)

アラン・ウッズ

[Forty years since the death of Che Guevara - Part One (original article)]


Che、それは icon (偶像) なのか?

レーニンは 『国家と革命』の なかで 書いている。「今、マルクスの 理論を いだくものに 何が 起きているのか。 歴史の 移り変わりの なかでは、解放のため 闘っている 抑圧された 階級の 革命的思想家や 指導者たちの 理論に 対し (それは) くり返し 起こった。 偉大な 革命家たちの 生涯を 通じ、抑圧する 階級は 絶えず 彼らを 追いつめ (また) 彼らの 理論を 最も 野蛮な 悪意、最も 狂暴な 憎悪、虚偽と 中傷とを こととする 組織的運動として 受け止めた。 彼らの 死後、彼らを 無害な icon に 変え いわば 彼らを 聖人と なし、そして 彼らの 名前を 抑圧された 階級の 「慰め」のため その人たちを 欺く 目的を もって ある程度まで 清め、また 同時に 革命的理論から その実体を 奪い取り、その革命的な 激しさを 鈍らせ、それを 俗悪化する、そうした 企てが なされた」

Guevara は、彼の 死後、世界中で 社会主義革命運動の icon、現代の ポップアートの 重要な figure (肖像) と なった。 Alberto Korda が 写した Che の 写真が 世界各地で Tシャツや 抗議の スローガンとして 出現し 有名に なった。 こうして Che は われわれの 時代の 1つの icon と なっていった。 レーニンの 死後、スターリンと ジノヴィエフによる 指導者層は 彼の figure の まわりに 1つの cult を つくりあげた。 クルプスカヤ (レーニンの妻) の 願いに 反し、彼の 遺骸は 保存され 赤の広場に ある その墓に 公開の 展示として 供された。 後に クルプスカヤは 述べている 「Vladimir Iryich (レーニン) の 生涯の すべては icon に 反対する ものだった、 そして 今、連中は 彼を icon に してしまった」と。

2005年 11月、ドイツの 雑誌 "Der Spiegel" は ヨーロッパの 「平和主義的革命家たち」を 取り上げ、そこでは Guevara が ガンジーの 後継者として 書かれている! それは まったくの 戯画だ。 マルクス主義、階級闘争 あるいは 社会主義革命と 全然 関係のない、Che を 革命の聖者、空想的プチブルジョア、アナーキスト、 ガンジー的平和主義者、その他 さまざまな デタラメな 種類の ものとして まったく 偽った 絵に 描くことを 望む そうした 者たちから 「Che Guevara を 防御するための Society」を われわれは 組織すべきだ。

この 優れた 革命家への われわれの とらえ方は ローザ・ルクセンブルグに 対する レーニンの とらえ方と 似ている。 ローザ・ルクセンブルグの 誤りへの 彼の 批判を 隠すことなく、レーニンは 1人の 革命家として また インターナショナリストとして ローザ・ルクセンブルグへの 高い 敬意を ひるがえすことは なかった。 ここに、改良主義者や Menshevik に 対抗して 彼女の 思い出を 弁護する ローザについて 書かれた (文章が) ある。

「われわれは ロシアの コトワザから 2行 文を 引用して これに 答えることに しよう。 『タカは 時に メンドリより 低く 飛ぶことが あるだろう。 だが メンドリは けっして タカよりも 高く 上ることは できない』 彼女の 誤りにも かかわらず [ローザは] 1羽の タカとして われわれの (記憶の内に) 留まっている。 そして、世界中の 共産主義者たちが 思い出を なつかしむ だけでなく、彼女の 伝記と 彼女の 全著作とは 世界中の 共産主義者たちの 多くの 世代を 養成するための 有益な 手引として 役だつだろう。 『1914年 8月 4日 以降、ドイツの 社会民主主義は 悪臭を はなつ 腐乱屍体と なった』 -- この声明によって ローザ・ルクセンブルグの 名は インターナショナル 労働者階級運動の 歴史の中で 有名に なるだろう。 そして、当然、労働者階級運動の 裏庭では、堆肥の 山の中から ポール・レヴィ、シャイデマン、カウツキーや 彼らの 多くの 仲間が メンドリのように、この偉大な 共産主義者が 犯した 誤りを それ以上に 鳴きたてるだろう」 (Lenin Collective Works, Vol 32, p 210, Notes of a Publisist)

その 前半生

一般に Che Guevara として 知られる Ernest Guevara de la Serna (1928年 6月 14日 - 1967年 10月 9日) は 1人の マルクス主義 革命家で あった -- アルゼンチンに 生まれたが 骨のズイから インターナショナリストだった。 彼の 家系は、ラテンアメリカの 多くの 人々と 同じく、多くの 混血から なっている。 Guevara は 「Araba (Alava) の Basque 地方 出身」を 意味する the Basque Guevara を スペイン語化した form だ。 彼の family name の 1つ Lynch は Irish のことだ (Lynch 一族は Galway の 14 支族の うちの 1つ)。 Basque と Irish の 血が 混じり合えば 多少は 爆発性! が ある。

中産階級の 家庭に 生まれ、彼は ラテンアメリカの 他の 多くの 子どもたちのように 貧困と 飢えとに 苦しむことは なかった。 しかし、彼は 不健康により 苦しんだ。 彼の 生まれついての 冒険と 反抗の 精神は 小さいとき 彼が 重い ゼンソクの 状態に あった 事実と 結びついていた。 彼は その人生の すべてを、彼自身を その限界にまで 追い込むことで この問題に 打ち勝つよう 努力することに 費した。 彼の、すべての 困難に 打ち勝つ ハガネのような 決断力も また このときまで さかのぼるのかも しれない。

彼の ヒューマンな 本能は、はじめ 彼を 医学の分野に 向かわせた。 彼は 医学の 学位を 取得した。 彼の 専攻は 皮膚科学であり 特に ハンセン氏病に 関心を もった。 この時期、彼の 視野は 多くの 他の 中産階級の 若者たちの それよりは 広くなかった -- 懸命に 働き、医学の 学位を 取り、よい 職に つき、医学という 科学で 独創的な 研究を して なにか 驚くべき 発見によって 人類の知識を 前進させたい。 この時代の 彼の 生き方について 彼は 書いている、

「私が 医学を 学びはじめた頃、私が 1人の 革命家として 現在 もっている もっと 多くの 考え方は、私の 理想の たくわえからは 欠けていた。 私は、誰もが するように、成功を 望んでいた。 私は 有名な 研究者に なり、するべき なにかを 成し遂げるため たゆまず 働き、確実に、人類への 貢献に 寄与するという 夢を 見ていたものだ。 しかし 当時の それは すべて 個人的な 達成感に ついてで あった。 私は、われわれ すべてが そうで あるように、私の 環境の 産物だった」

多くの 若者と 同じく、Ernest は 旅が 大好きだった。 彼は ドイツ人が Wanderlust (放浪癖) と 呼ぶものに 夢中に なった。 彼は 書いている、「私は 今、信じられない 巡り合わせによって、私が 旅する運命に あることを 知った」 実際、彼が 旅することに なった、そして 彼が 歩むだろう 方向は ずっと 遠くて、彼には まだ 1冊の 封印された 本の ようだった。 彼は 疑いもなく 誠実な 医師と なっただろうが、Wanderlust は 彼を 圧倒した。 彼は この road を 好きになり 長い 年月、アルゼンチンに 戻らなかった。 彼の 冒険的な 気性は、ほとんど 南アメリカ中を motorbike で 走行する 長期旅行に 旅立つよう、彼を 誘った。

医学と、彼の 政治的理想との 間の つながりは、ペルーの San Petro ハンセン氏病 療養施設での、彼の 24才の 誕生日を 祝う 席で 述べられた スピーチに 現われた。

「だが、私たちは このような 深遠な 目的のための spokesmen (代弁者) としては まったく 取るに 足らない。 そして この 旅行は、そうした 確信を 強固に するのに 役だった だけでなく、America が 不安定で 幻想的な nations に 分割していると いうのは 完全な つくり話で あることを 確かめるのに 役だった。 私たちは、メキシコから マゼラン海峡まで、驚くほど 民族学的に 似かよった 点を もつ ある 単一の mestizo race なのだ。 だから、すべての 偏狭な 地方割拠主義から 抜け出る 1つの 試みとして、私は ペルーと 1つの America 連合の ために (ここで) 乾杯することを 提案する」 (Motorcycle Diaries, p 135)

初めての 目覚め

この旅は 彼が 生きた この世界の 現実への 眼を ゆっくりと 開かせる 長い 旅立ち -- odyssey -- の 始まりだった。 この 彼の 人生の 最初の 時代に この大陸の 貧しく 圧迫された 民衆と 彼とは 直接に 繋がっていった。 彼は 大多数の 人々が そこに 暮らしている 恐ろしい 境遇を 間近に 目撃した。 このような ひどい 貧困が この すばらしい 大陸の すべてが 美しく 豊かな 自然の ただ中に 存在するなどとは -- それは 彼の 若い 精神に 深い 印象を きざんだ。

これらの 矛盾は 彼の 情熱的で 鋭敏な 気性を 動かし、彼を その原因 (の 探求へと) おもむかせた。 Che は いつでも 熱心で 探求する 精神を もっていた。 彼の 医学の 研究で 見られた 同じ 知的な 情熱が 社会の 研究へと 向けられた。 こうした 旅のあいだに もった その経験と 観察は 彼の 意識のうちに 消えることのない 印象を 残した。

彼の 個人的な 昇進への 以前の 大望は すべてが、突然、小さく 興味の もてないものに 見えた。 医師は 結局、個々の 病人を 治すことが できる。 だが 貧困、文盲、ホームレス そして 圧政という 恐ろしい 病気を 誰が 治せるだろうか? 人は 1錠の アスピリンでは ガンは 治せないし、鎮静剤や 応急処置では 社会の 根元的な 病いを 治すことは できない。

ゆっくりと この若者の 精神の 内に 革命的な 考えが 成熟し 発達していった。 彼は すぐに マルクス主義者に なったのでは ない。 彼は 長い間 熱心に 考え 広く 読書を した -- その習慣から 彼の 人生の 終わりまで 彼が 解放されることは なかった。 彼は マルクス主義を 研究しはじめた、徐々に ほんの 少しずつ。 だが ハガネのような 必然性をもって 彼は この民衆の 問題は 革命という 意味でのみ 治すことが できると 確信するように なった。

グァテマラ

彼の 意識的な マルクス主義への 転向は、彼が グァテマラに 行き、そこで Jacobo Arbenz Guzman 大統領により 実施されていた 改革について 知ったことが 決定的な 刺戟となり 得られた。 1953年 12月 Che は Guzman 率いる 改良主義政権下の グァテマラに 着き、そして そこでは 農地改革の 遂行と latifundia 制度の 倒壊とが 企てられていた。

グァテマラに 着く かなり前から Guevara は、彼の 考えが まだ 成長の 途上に あったとしても、1人の 献身的な 革命家だった。 これは 1953年 12月 10日に コスタリカで 書かれた 手紙に 示されている。 そこで 彼は 語っている、"En Guatemala me perfeccionare y lograre lo que me falta para ser un revolucionario autentico." 「グァテマラで 私は 自分自身を 完成させ ほんとうの 革命家に なるのに 私に 欠けている すべてを 獲得するのだ」 (Guevara Lynch, Ernest "Aqui va un soldad de America" Barcelona: Plaza y Janes Editories, S.A., 2000, p 26)。

だが the United Fruit Company と CIA は 別の 考えを もっていた。 彼らは U.S. 空軍が 援助した、Carlos Castillo Aromas 率いる クーデタによる 襲撃を 組織した。 Guevara は すぐに 共産主義者の 青年たちによって 組織された 武装市民軍に 参加した。 しかし、このグループは 活動を 起こせず 失敗した。 クーデタの 後、(市民らの) 逮捕が 始まり Che は アルゼンチン領事館に 保護を 求めねば ならなかった。 彼は そこで safe-conduct pass (通行許可証) を 受け取るまで 留まった。 そして 彼は メキシコに 向かうことを 決めた。

Arbenz に 対して U.S. が 後押しした このクーデタの 体験は、彼の 考えを 強固な ものとし、彼に 確かな 結論を 引き出させた。 それは ラテンアメリカに おける the United States の 役割という 一点に Che Guevara の 注意を 向けさせた。 ここに 1つの 帝国主義者の 機能が あり、それは この 大陸中の すべての 反動勢力の 防波堤であった。 社会を 変えようとする どんな 政権で あっても、(U.S.A. の 援助する) 強力で 無慈悲な 軍隊による 容赦のない 妨害に 直面することが 免れ得ないのだ。

CIA が 後ろ盾した このクーデタの 勝利の 後、Che は メキシコへ 放逐され、1956年、そこで 彼は、キューバの Fulgencio Batista 将軍の 独裁に 対し 苛酷な 戦闘に 従っていた Fidel Castro の Revolutionary 26th of July Movement に 参加した。 二人は 急速に 親交を 深めたように 思われる。 Castro は 信頼できる 人物を 必要と したし Che は 戦いのための 組織と 運動を 必要と していた。

Che は 彼自身の 眼で 改良主義の 致命的 弱点を 見て、そのことは、社会主義は 武装闘争を 通してのみ 達成できるという 彼の 確信を 固いものと した。 彼は 1954年 9月 はじめ メキシコシティーに 着き、彼が グァテマラで 出会った キューバ人 亡命者と 接触に 入った。 1955年 6月 彼は 最初 Raul Castro と 会い、続いて 彼の 兄弟の Fidel に 会った。 彼は 特赦により、Moncada 兵舎 襲撃の 失敗の後、監禁された キューバの 獄舎から 放たれていた。

Che は すぐに the 26th of July Movement に 参加した。 彼らは Fulgencio Batista 独裁政権 打倒を 計画していた。 はじめ Che は 医師の 任務を 選択するはずだった。 彼の 虚弱な 体質 (彼は 一生を 通じて ゼンソクに 苦しんだ) は 戦士としての 素質には 向かなかった。 にもかかわらず、彼は 他の the Movement の 隊員と ならんで 軍事教練に 参加し、彼の 真価を ためした。

グランマ号

1956年 11月 25日、革命家たちを 乗せた キャビンクルーザー グランマ号は Veracruz の Tuxpan から キューバに 向け 出発した。 それは 旧型の 船舶で それが 設計した 以上の 人員を 運んでいた。 ひどい 天候で 沈没寸前のために 乗員の 多くは 重い 船酔いに なった。 それは 彼らの 試練の ほんの 始まりに すぎなかった。

発端から この遠征は 実際、ほとんど 壊滅 (状態に) なった。 彼らは まちがった 場所に 上陸し 湿原で 足を とられた。 上陸後 すぐに 彼らは 政府軍に 攻撃され、反乱側の 約半数が 殺されるか 捕虜となり 処刑された。 わずかに 15 - 20人が 生き残った。 こうして 叩きつぶされ 消耗した 兵力を なんとか 再編成して Siera Maestra 山脈へと のがれ、そこから Batista 独裁政権に 対して ゲリラ戦を いどんだ。

その 最初の 敗退にも かかわらず 反乱側は 勇気をもって 闘い、そのことが 民衆、特に 若者たちの 心と 魂とに 共鳴を 呼び起こした。 消耗した 彼らの 兵員は 新しく 参加した 兵で いっぱいに なった。 ゲリラは 東キューバ 全域に 広がった。 Che には 医師としての 責務が あった。 しかし 激しい 戦闘の なかで、医師として あるいは 戦士としての どちらの 目的に 最善を つくすべきか、彼は 心を 決めなければ ならなかった。 彼は 決心を した、

"Quizas esa fue la primela vez que tuve planteado practicamente ante mi el dilema dedicacion a la medicina o a mi deber de soldado revolucionario. Tenia delante de mi una mochila llena de medicamentos y una caja de balas, las dos rean mucho peso para transportarlas juntas; tome la caja de balas, dejando la mochila ... " 「おそらく これが 医業への 献身と 革命家兵士としての 義務との 間で 選択しなければ ならない ジレンマを 実生活で 突きつけられた 最初の 時だった。 私の 足元には 薬が 詰まった 背嚢と 弾薬の ケースが あった。 それを 両方 運ぶのは 私には 重すぎた。 私は 薬を 後ろに 置き 弾薬の ケースを つかんだ」

反乱側に 有利な 強みは、買収と 腐敗で 内側から ダメになった 旧体制の 長期に わたる 欠陥に あった。 US 帝国主義の 資金と 軍事援助にも かかわらず Batista は 革命の 進行を くい止めることは できなかった。 彼の 兵士たちは 病んだ 体制を 防御するため 彼らの 命を かけることを 嫌がっていた。 Siera Maestra 高地での 一連の 伏兵(戦) により 弱体化し 士気を 失って、最後の 攻撃が 開始される 前に Guisa や Canto の 平地で 軍は すでに 徹底的に その 士気を くじかれていた。

この戦いの なかで Che は 大胆さ、勇気 そして その 軍事技能により 信頼を 得て、Comandante (司令官) と なった。 彼は 今や 唯一、Fidel Castoro に 次ぐ 第二 (の 立場に) あった。 1958年 12 月 最後の 日々、Comandante Guevara と 彼の 兵士たちの 縦隊は 最後突撃のため Havana に 向かって 西へと 進んだ。 この縦隊は Santa Clara の 決定的襲撃では 最も 危険な 任務を 引き受けた。 1983年 12月 27日、Palma Soriano で 語った 演説で、Castro は この攻撃の 重要性を 指摘している、

「われわれは Cautillo 河に 防御線を 置いた。 Mapos を われわれは 包囲していたが まだ Palma が あった。 (そこには) およそ 300 の 敵の 兵士が いた。 われわれは Palma を 占拠しなければ ならなかった。 また われわれは Palma で 武器を 捜し出し 確保することを 望んでいた。 なぜなら われわれが Siera Maestra の La Plata を 後に したとき、25人の 武装した 兵士と 1000人の 武器を 持たない 新兵を 残してきたからだ。 われわれは こうした やり方に 沿って これらの 部隊を 武装した。 われわれは この戦いの 間に 彼らを 武装したが、実際 Palma において その武装を 完全に 終わらせたのだ」

反乱軍への 最後指令は 1959年 1月 1日に Palma より 発せられた。 だが この独裁を 打ち倒す 最後の 仕上げは Havana での 労働者たちの ゼネラルストライキだった。 (独裁者の) 野望は トランプの 家のように 崩れ去った。 Batisita の 将軍たちは 各々が 反乱側との 交渉を 試みていた。 こうなったとき、独裁者は このゲームが 終わったことを 悟り、1959年の 新年に ドミニカ共和国へと 逃れた。

政権へ

旧い ブルジョア国家は 粉砕され 新しい 政権が 組織された、あるいは ゲリラ軍の 土台の 上に 即興で つくられた。 今や 政権は ゲリラ軍の 手に 渡された。 世界中の マルクス主義者たちは この キューバの 革命を 受けいれなかった。 これは、歴史上 最も 強力な 帝国主義者の 国家の 玄関先で、帝国主義、軍国主義 そして 地主制 を 突き刺した 大打撃だった。 それは 至るところで 圧迫された 民衆に 希望を 与えた。 そうで あっても、ここで 起きた その やり方は 1917年 10月の ロシア革命とは 違っていた。 ソビエトも 労働者階級も なかった。 革命の 最後の 勝利が ゼネラルストライキを 通ったことが 確認されたとしても、それが 重要な 役割を 果たしたのでは なかった。

これは 無関係だ、それぞれの 革命は 違っている、すべての ケースに 適用される モデルは あり得ない 等々と 主張するものが ある。 ある程度 それは 真理だ。 それぞれの 革命は、階級の 力の バランス、国により 異なる 歴史と 伝統という その 異なった 固有の 状況に 合致した、具体的な それ自身の 固有の 特徴と 独自性を もつ。 だが こうした 評言も 決して 問題を 論じ尽くす ものでは ない。

「プロレタリアートの独裁」

マルクスは、労働者は 簡単に 旧い 国家装置の 支配を 打ち倒すことは できないし、社会の変換に それを 用いることも できないと 説いた。 彼は フランスの 内乱の 労働者政権への 彼の 理論を -- 1871年の 労働者インターナショナル 総会での 演説で -- 発展させた。 この理論の 本質は なにか? マルクスは、旧い 体制は 社会を 変換させる 手段として 役だつことは できないと 説く。 それは 破砕され、「常備軍、警察、官僚制度、聖職者 そして 裁判官という 至るところにある 機関を ともなう 中央集権化した 国家権力」 という 旧い 国家機構とは まったく 異なるだろう -- 労働者の 政府 -- 新しい 政府の 権力と 取り換えなければ ならない。 それは、マルクスの 言葉を 用いれば、自らの 消滅が (あらかじめ) 決められた 半 - 国家と なるだろう。 「コミューンは、短い 任期で 信任され 解任される、地区の さまざまな 選挙区から 一般投票で 選ばれた、自治都市の 議員によって 構成された。 そのメンバーの 大多数は きっすいの 労働者か あるいは 労働者階級により 承認された 議員だった。 コミューンは 議会の 集団としてでなく、行政府と 立法府の 働きを 同時に なすべき ものだった」

「中央政府の 代理として 持続するかわりに、人々は 直ちに その政治的特権を はぎ取り、いかなる時にも コミューンの 議員は 信任 および 解任が (なされるように) 変更した。 行政の 他の すべての 公務員も そうだった。 コミューンの メンバー 以下、公務に つくものは 労働者の 賃金に (等しく) なければ ならなかった。 政府の 高級官僚の 利権取得や その党派への 出費は、高級聖職者 自体と ともに 消滅した。 社会の 機能は、中央政府の 私的な 所有物としての 道具で あることを 止めた。 都市の 統治ばかりで なく、国家によって 今まで 行使された すべての 発議は コミューンの 手へと 帰した」

「ひとたび、常備軍と 警察 -- 旧い 政権の 物質的な 力の 要素 -- を 取り除くと、旧習の 母体としての すべての 教会の disestablishment と disendowment とにより、コミューンは、『教区聖職者』 という 宗教的な 抑圧の 力を 破砕することを 熱望した。 聖職者たちは、彼らの 先任者である 十二使徒に ならい 信徒たちの 施しで 食って生きるよう、私生活の 奥底へと 引き戻された」 (Marx "The Civil War in France" Third Address, May, 1871 [The Paris Commune])

これは、スターリン主義下 ロシアの 官僚による 全体主義体制 -- そこでは 国家は 社会上部に 存在する 巨大な 抑圧力だった -- とは 絶対に なんの 関係も もたない。 「独裁」 という 言葉にしても マルクスが 活動した 時代と、今日 それに もたせる ものとは まったく 違った 裏側の 意味を もっていた。 スターリン、ヒトラー、ムッソリーニ、フランコ それに ピノチェットを 経験した 後、独裁という 言葉は 強制収容所、ゲシュタポ そして KGB を 意味している。 だが 実際には マルクスは ローマ共和制下での 独裁という 考えを もち、そこでは 国家が 非常事態 (通常は 戦時) に あるとき、平時の 民主制の 機能を 一時 停止して、1人の 独裁者が 暫定期間、例外的に 権力を もって 統治する。

パリ・コミューンは、全体主義の バケモノで あるどころか、民衆の 政権の 非常に 民主的な 形態だった。 それは エンゲルスの 表現に よれば、消滅が 予定されるよう 組まれた 国家、半 - 国家だった。 レーニンと Volshevik は 10月革命の 後、同様の 方針に よって ソビエト国家を つくりあげた。 労働者は ソビエトを 通して 権力に つき、それは かつて 考えられた 最も 民主的な 民衆代議制の 機関だった。

ロシアの 厳しい 逆境の 状況にも かかわらず 労働者階級は 民主的権利を 享受した。 1919年の 党の プログラムは 「すべての 働く 民衆は 例外なく 国家行政の 仕事の 一部に つくよう 導かれねば ならない」 と 明らかに 述べた。 その計画経済の 方針は おもに 労働組合の 手に なることに なった。 この文書は すぐさま 世界の おもな 言語に 翻訳され 広く 配布された。 だが 1936年の 粛清の 時代、それは 直ちに 危険文書と みなされ、すべての その 複製は こっそりと USSR の すべての 図書館と 書店から 取り除かれた。

他の 勢力による、労働者階級が 主役を 演じない、どんな 革命に おいても、確実に (推移の) 流動性は 避けられないだろう。 国家は 常に 他の 人々の 上に そびえ立つ 傾向を もち、また 最も 献身的な 人々が 買収され ある状況下で 民衆との 接点を 失う 可能性を もつ。 これが、なぜ レーニンが 労働者権力のための 彼の 有名な 4つの 条件を 考察したか、と いうことだ。

1) すべての 公務員の 免職権を 含む 自由で 民主的な 選挙を。
2) 官吏 (の報酬) は 熟練労働者の 賃金を 越えてはならない。
3) 常備軍では なく 武装した 人民を。
4) (労働者の) 誰もが 社会を 動かす すべての 仕事に 順次、携わるよう (誰もが 公務に つけば、誰も 官吏で なくなる)。

これらの 条件は レーニンの 気まぐれや 自分かってな 考えでは なかった。 国家の 計画経済では 産業、社会 および 国家の 運営に、民衆の 最大限の 参加を 確保することが 絶対に 必要だ。 それなしには 官僚主義、汚職、運営の 失敗へと 向かう 傾向は 避けられないだろう。 こうしたことが 結局は 計画経済を 内側から 堀り崩し 破壊してしまう。 これは まさに USSR で 起こったことだ。 レーニンにより 唱えられた この主張が、キューバでの 出来事と Che 自身の 発展とに 1つの 重要な 意味を もつ。

革命(政府の) 大臣

Che は 革命政府の さまざまな ポストで 席を 占めた。 彼は 国立の 農業改革研究機関で 働いた。 そして キューバ国立銀行の 総裁であり、そのとき 彼は banknote へ 彼の ニックネームである "Che" と 署名した。 この すべての期間、Che は 官庁での 公務員給与を 拒み、軍の Comandante としての わずかな 賃金のみを 受け取った。

この ささいな ことが この人物についての 多くを われわれに 伝える。 彼は 「革命の模範」 を 示そうと そうすることを 続けた。 事実、彼は レーニンが 『国家と革命』 において 規定した 原則、すなわち ソビエトの 官吏は 熟練労働者より 高い 給与を 受け取るべきでは ないと いうことに 厳密に 従っていた。 そのことが 反・官僚主義の 1つの 尺度だった。 レーニンは、マルクスのように、国家 それ自身が 社会の 上層に 持ち上がる 危険性を よく 知っていた。 しかも この危険性は 労働者国家にも また 存在した。

マルクス、エンゲルスによる パリ・コミューンの 分析を 発展させた 彼の 主張どおり、われわれが すでに 上で 言及したように、レーニンは 1919年、労働者国家の 中の 官僚主義と 闘うための 4つの 解決策を 提議した。

「われわれは 国家の 官僚の 役割を 減少するように なるだろう」 レーニンは 書いている、「そこでは (彼らは) 免職でき 『foremen と 会計士』 の ささやかな 賃金で (もちろん、すべての 種類、形式、程度での 専門の 援助を することで) われわれの 命令を 責任をもって 遂行するだけだ」

「これが、われわれ プロレタリアートの 仕事だ。 これが われわれが プロレタリアート革命を 成し遂げるため 何が できるのか、何から 始めるべきかと いうことだ」 (Lenin Collective Works, vol 25, p 431)

最初の 数か月間、ソビエトの 規定では (レーニン自身を 含め) 人民委員の 給与は、一般市民に 対し 最低生活水準賃金の わずか 2倍だった。 次の 数年間に 物価と ルーブルの 価値は 急激に 変化し、続いて 賃金が 修正された。 時おり 価格は、10万 そして 100万 ルーブルと、まったく 驚くべきものに なった。 だが たとえ こうした 状況の 下でも、レーニンは 国家機構の 最低と 最高の 給与の 比率が 決められた 限度を 越えないことを 確認した -- 彼の 生存中は 明らかに、その賃金格差が 1 対 5 より 大きくなることは けっして なかった。

当然、(ロシアの) 遅れた 条件下では 多くの 例外が 生じなければ ならなかったし、そこでは パリ・コミューン 以来の 原則が くり返し 表われた。 ブルジョアジー 「専門家」(spetsy) が ソビエト国家のため 働くよう 説得するには、非常に 高額の 報酬を 支払う 必要があった。 こうした 措置は 労働者階級が 自らの 知識層を つくりだすまでは 必要だった。 加えて、特別に 「労働者を 刺激する」(ための) 賃金が 工場や 事務労働者の かなりの 部門で 支払われる、等々。

だが、こうした 妥協は 共産主義者 (党員) へ 適用されなかった。 彼らは 熟練労働者より 以上 受け取ることが 厳格に 禁じられていた。 その 数値 以上に 彼らが 受け取った どんな 収入も、すべて 党に 収めなければ ならなかった。 人民代表者会議の 議長で、熟練労働者の 所得に 匹敵する 500 ルーブルを 受け取った。 1918年 5月、会議事務局長の V.D. Bonch-Bruevich が レーニンに 多額 (の給与) を 支払った 際、彼は レーニンから 昇給分は 「違法」 だと いわれ 「厳しい叱責」 を 受けた。

革命が 孤立していて ブルジョアジー専門家と 技術者とが 必要なため、こうした 労働者への 賃金格差は 増加した -- 彼らは 政府メンバーの 受け取る それより 50 パーセント増の 報酬を 得ることが できた。 レーニンは これを 「ブルジョアジーの特権」 と 公然と 非難して できる限り すみやかに 縮少すべきだった。

理論だけでなく 実際上でも Che は 同じ 革命の 原則を 堅持していた。

Che 対 スターリン主義

Che Guevara は 生来の 革命家だった。 彼は 個人への ワイロを 受けつけず、官僚主義、立身出世 そして 特権を 忌み嫌った。 革命戦士の 厳格な モラルを 彼は もっていた。 そのため 彼は、革命の 勝利の 後に 認められた 官僚主義や ゴキゲン取りの 現われには 反感を いだいた。

Che は ニキータ・フルシチョフの 下での ソビエト連邦 共産党の 公式見解に 反対する 意見を 述べた。 彼は 平和共存という 「理論」 に 反対だった。 モスクワや そのイデオロギーに 対する 一部 キューバ人の 卑屈な 態度を 彼は 嫌った。 とりわけ 官僚主義、立身出世 そして 特権は 彼に 反感を 与えた。 彼の ロシアと 東ヨーロッパの 訪問は 彼に 衝撃を 与え、スターリン主義に 対する 彼の 幻滅の 意識を 深くした。 官僚主義、特権 および 息苦しい 体制への 順応は 心の 奥底から 彼に 反感を 与えた。

彼は ますます ソビエト連邦と その指導者たちに 批判的に なった。 これが 彼が なぜ 中ソ論争で 初め 中国に 加担したかという ことだ。 しかし Che を 毛主義者として 描くのは 彼を 誤解に 導くことに なる。 彼が フルシチョフの ロシアより 毛の 中国に いっそう 親しみを もったと 信じる 理由は ない。 彼が 中国に 加担した 理由は、キューバから ソビエト製 ミサイルを 撤去した モスクワの 決定 -- Che が 裏切りだと 見なした 行動 -- を 中国が 非難したからだ。

Che Guevara に 手ぎわの よい 分類を 与えるのは 不可能だ。 彼は つねに 真理を 追い求める 豊かな 知性を もった 人物だった。 スターリン主義の 教義は 彼の 思索の 方法と 絶対に 正反対の ものだ。 彼は 官僚主義の 卑屈さと 体制への 順応に 反感を おぼえ、どのような 種類の 特権も 忌み嫌った。 このことが 彼を ヨーロッパや ソビエトブロックの 「共産主義者」 高官の 嫌疑の 対象に した。 フランス共産党の スターリン主義者たちは 彼に 特別に 敵意を もち さらには 彼を 「プチブルジョアジーの冒険家」 に 描いた 中傷的な キャンペーンを Che に 対し 加えた。

産業省大臣

Guevara は その後 産業省の 大臣として 働き、この持ち場で 彼は キューバ革命が 直面する 困難な 状況下での 社会主義者による 計画経済の 建設という 問題に 取り組んだ。 キューバの 古参トロツキー主義者で 私の 良い 友人である Leon Ferrer は (産業)省で Che とともに 働き、トロツキーと トロツキー主義に 関する 多くの 議論を 重ねた。 トロツキーの 本を 読むよう 渡され 彼は それに いくらか 興味を 示した。 だが 彼には 理解できない 一点が あった、「トロツキーは 官僚制度について 多くを 書いているが これは どういう 意味なのか」 (Leon は) でき得る限り 説明をし しばらくして Che は (彼に) いった、「そう、あなたの 意味するものが わかったように 思う」

その翌日、Che と Leon は 共に 農場で サトウキビの 伐採を 行なっていた。 この 骨の折れる 作業の 中頃、Leon は 大きく黒い車が ゆっくり 農場を 横切るのを 見つけた。 彼は Che のほうに ふり向き、「Comandante、あなたに 来客のようだ」 と いった。 Che は 驚いて 見上げ リムジンを 見ると 顔を 輝かせ 笑みを うかべて Leon に いった。「ここで 今すぐ 見られるぞ!」 車が 止まり スーツに ネクタイ姿で 汗を かいている 役人が 外へと 出て Che に 向かって 歩きはじめた。 Che は 彼を どなりつけた、「ここで 何を するつもりだ! 出ていけ! 官僚なんか ここでは 必要ないぞ!」 恥ずかしくなった 役人は 引返し 車に 向かっていった。 そして Che は Leon のほうに ふり向いて 「わかったかい!」 と 得意そうに 笑って いった。

キューバの トロツキー主義者が 逮捕されたとき Che は 彼らを 釈放させるよう 自ら 介入をした (後に 彼は それが 誤りだったと 語った)。 彼は また 非正統的マルクス主義者の 1人として トロツキーの 著作を 学ぶつもりだった。 こうした 姿勢は トロツキーを 反革命家で 社会主義の 敵と みなす 毛沢東の 支持者の 見解と 異なる。

これらの 見解が キューバで 1997年 9月 Contracorriente 誌 No.9 に 公表された Armand Hart Davaloo 宛の 手紙の 中に 示されている。 この手紙は Che が アフリカ遠征中の 1965年 12月 4日に タンザニアの ダルエスサラームで 書かれた。 その中で 彼は ソビエトの 哲学と 一部 キューバ人の 卑屈な tail-endism に 対して 彼自身の まったく 批判的な 立場を いい表わしている。

「この [ウンザリする!] 長期の 休暇で 私は 長い間 するつもりだった 哲学に 私の 鼻先を 突っこんだ。 私が 最初に キューバで 困ったのは 読まれることの ない ソビエトの 大部の 書籍 [literally "Soviet bricks" los ladrillos Sovieticos] を 除けば 長い間 何も 出版されなかった ことだ。 (こうした本では) 自分自身で 考えることを 認めず 党が 読者に 代わって (それを) するため まったく (その中身を) ウノミに するしか ないという 欠陥を もっていた。 方法として それは 完全な 反マルクス主義であり その上 たいていは まちがっていた」

「[キューバの] 出版物を 調べると おびただしい数の ソビエトと フランスの 著者が 見つかるだろう [彼は Garaudy のような フランスの hard-line な スターリン主義者を 指している]。 これは 翻訳の 入手が 容易で また それが 観念論的な tail-endism の ためだ。 これは マルクス主義の 精神を 人々へと 手渡す 方法ではない。 最上の 場合 それが 良質で (この場合 そうでないが) 必要とされる マルクス主義の 宣伝だとしても しかし 不十分だ」

彼は マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン 「そして その他の マルクス主義者」 の 作品を 含む 広範囲に わたる 政治教育の プランを 要求する。 「例えば マルクスへの 批判で 誤りを 犯したが 暗殺によって 亡くなった ローザ・ルクセンブルグ、彼女の どんなものも 誰も 読んでいない。 そして こうした例では 帝国主義の 本能が われわれに 勝っている。 また いくらかの 貢献をして その後 (革命の) 路線から 去った カウツキーや Hilfering (こんな 綴りでは ない) [Che は オーストリアの 共産主義者 ルドルフ・ヒルファーディングのことを 考えている] を 欠き、 全体として 教師風ではない 同時代の 多くの マルクス主義者を 欠いている」

彼は 冗談として つけ加えている、「それから 思うのだが あなたの 友人の トロツキー、彼は 生きて 執筆した、も 含まなければ」 トロツキーの 思想への 彼の 興味は ロシアや 東ヨーロッパの 官僚主義制度に 幻滅していくのと 同じ 割合いで 増していった。 Che Guevara は 熱心な 読者であり ボリビアでの 彼の 最後の 闘いには 多くの 書物を 携行した。 興味を 引くことに それらの 中に トロツキーの 著書 『永続革命論』 と 『ロシア革命史』 が あった。

山岳地帯や ジャングルでの ゲリラ戦争という きわめて 困難な 状況において 兵士は 絶対に 必要と 考えるものだけを 携行するだろう。 これが その時に Che が どう 考えていたかを 語っている。 彼は 生涯のなかで トロツキー主義へと 接近し 彼の 短い その生が 断ち切られる 前も 事実 そう していたと われわれは 確信する。


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