ゼミ巡検
ゼミ巡検(宇治)
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巨椋神社
 巨椋神社の近くには昭和16年に干拓を完了した広大な巨椋池が水を湛えていた。
「巨椋池」は、太古に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残である。洪積世第三期末から第四期にかけての激しい地盤の変動によって出来た凹地に水がたまったものである。
 やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、この湖水はしだいに狭められ、最後に一番低いところが巨椋池として残った。
 この神社は巨椋池のほとりに住んでいた巨椋氏一族がその祖神を祀つたのが創始。巨椋氏は小椋氏のことで、木地師の一族である。木地師集団が巨椋池の近くに住んでいたことは注目に値するであろう。
 時代が移るにつれ、藤原氏の影響をうけるようになった。巨椋社が藤原氏の支配下になつた時期に祭神も今みるような内容になつたものとおもわれる。なお、巨椋氏から藤原氏へ祭主が変容していった時期は、平安後期に想定される。

 巨椋神社は、人皇52代嵯峨天皇の勅依に依り、巨椋春日大神と勧請された。奉祭神である武甕槌神、経津主神は武勇の神で、天照皇大神の大命を拝し、大国主命に諾命を伝えてこの国を天孫に献らしめ給い、さらに諸国を巡り、服従せぬ者を討ち平ら げ、国土平定の大功をたてられた。すなわち我が国の将師の始祖として畏敬せられた 神々である。また天児屋根神は、天照皇大神に仕奉りて発祀の任務に当たられたが、そのご大神の命により天孫のとき、邇々杵命に随従し朝政に大なる功績をたてられた神で、我が国の宰相の始祖である。天児屋根神は藤原氏の祖神で、藤原氏は歴代多くの皇后となられて、皇室との関係は格別である。比・神は、天児屋根神の妃神で御神徳の高き神である。
記念撮影
宇治はお茶の産地で知られている。中でも玉露は宇治が発祥の地で、それを示す石碑がある。
また、宇治市内には老舗の茶屋やお茶を加工する工場が多くある。