観月橋・宇治川
ゼミ巡検(宇治)
観月橋
澱川橋梁
現在でも単純トラス橋として国内最長。登録有形文化財登録
月見館
30石船(復元)
宇治川
 戦国時代、豊臣秀吉は伏見城の築城資材の運搬水路の水深を保つため、巨椋池内の島を結んで堤防を造った。この堤防は太閤堤と呼ばれており、横大路沼と巨椋池を分離し、その排水をよくする治水効果もあったといわれている。また、この堤防は大和に通じる 巨椋池の変遷街道の役目を果たしており、宇治川左岸に近いところは現在も近鉄京都線の軌道として残っている。また、秀吉は槇島堤により宇治川と巨椋池を切り離し、城への水運を確保した。

観月橋
 観月橋は鎌倉時代末期に「桂橋」の名で初めて文献に現れている。この「桂橋」は月見のため、巨椋池に浮かぶ島に向かうのに使われたといわれている。その後、豊臣秀吉により宇治川が付け替えられ、新しい宇治川に架けられた橋は「豊後橋」と名前を変えたが、その「豊後橋」も幕末の鳥羽、伏見の戦いで焼失した。
 明治6年、新橋が完成すると、名称も月にまつわる伝説にちなみ「観月橋」と名付けられた。

澱川橋梁
 伏見桃山−小倉間では澱川(宇治川)を越える際、当初は6本の橋脚を立ててガーター橋とする予定であったが、架橋する地点に京都師団工兵16大隊の架橋演習場があったため、演習の邪魔になるということから、陸軍より設計変更を要請された。そのため、長さ164.6mの複線下路プラット分格トラス(ペンシルバニアトラス)を用い、両端の橋台のみで支える1径間構成で越えるように計画を変更した。支間も当然ながら164.6mである。1928年(昭和3年)4月から突貫工事により、僅か6ヶ月間で完成させた。この澱川橋梁は、竣工当時東洋一の長さを誇るトラス橋となり、現在でも1径間のトラス橋としては日本最長のタイトルホルダーであり続けている。なお、この橋梁は当時の日本を代表する橋梁設計の大家であった関場茂樹の設計により、川崎造船所兵庫工場で部材の加工が実施されたが、その巨大な部材に用いる鋼材は当時の日本国内の製鉄所では得られず、アメリカの製鋼メーカーより緊急輸入の手配を採る事でスケジュールに間に合わせている。
 ※当時50t級の大型クレーンを所有する民間工場は日本国内ではわずかしかなく、その中で現場に最も近く、しかも鋼材の輸入と製作
  部材の輸送にも有利、という事情から川崎造船所兵庫工場が選定された。

月見館と宇治川の舟運
 秀吉の時代以降、伏見と大坂を結ぶ舟運は盛んで、毎日、二十石積から三百石積の数百隻が運行し、貨物や旅客を運んでいた。そのうちの三十石船は、長さ約17m、幅2.5m、船頭4人、定員28名の旅客専用船で、上りは一日又は一夜、下りは半日又は半夜で伏見と大坂天満間を運行していた。
 月見館には当時、宇治川の舟運を利用する人で大変にぎわっていた。伏見側の船着場は、ちょうど月見館の所にあったからだ。月見館以外にも、宇治川のほとりに5件程度の宿屋があり、ちょっとした宿場町の雰囲気をつくっていた。現在の月見館は昭和に入って、当時の建物を流用しつつ、宿泊施設として再建されたもの。
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