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水質班
長良川と鵜飼
鵜飼の歴史
 鵜飼の歴史は古く、7世紀の飛鳥時代までさかのぼることができる。その記述は中国の史書『隋書倭国伝』に紹介されている。その中で、現在鵜飼で用いられている手縄についての記述がないために、このころは放ち鵜飼であったと考えられる。日本国内では、奈良時代(8世紀)に成立した『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)に鵜飼について記述されている。同時代の『万葉集』にも鵜飼について詠んだ歌が多い。代表的歌人のものとして大伴家持が越中で詠んだ鵜飼歌(うかいうた)がある。大宝元年(701年)には朝廷直属の鵜飼集団があり、鮎を献上していたという記述がある。このことから、当時から全国各地に鵜飼集団が存在していたことが伺える。
 美農国では大宝2年(702年)の各務郡中里(かがみごうりなかざと)の戸籍に『鵜養部目都良売(うかいべめづらめ)』の記述があることから、長良川の鵜飼には1300年以上の歴史があることがわかる。延長5年(927年)『延喜式』にも、美濃国の鮎鮨が献上されたとある。
 平安時代には、宮中などの邸内の池でも鵜飼を催し、客人のもてなしとして鮎料理を出すとともに鵜飼そのものを観賞していた。『蜻蛉日記』や『源氏物語』にも登場するほど、平安貴族の間では鵜飼文化が浸透していた。
鎌倉時代には、武家の間でも鵜飼見物が盛んになっていった。武家の間では鵜飼を観賞することに終わらず、実際に挑戦していたようだ。夢中になる者が多く、室町時代前期には、鵜飼と鷹狩は武道の妨げになると戒められたほどである。しかし、戦国時代に入ると徳川家康は鵜飼が武道に通じ、心身鍛錬として有効であると述べている。織田信長は鵜匠を鷹匠と同様に保護した。また、『鵜匠』と名づけたのは織田信長とも伝えられている。元和元年(161 9年)長良川は尾張藩の支配となり、それまで江戸幕府の直轄だった鵜匠も、寛文5年(1665年)に正式に尾張藩へ所属した。鵜匠は尾張藩から様々な保護を受けた。それは、鵜飼でとれた鮎が最高級の贈答品とされており、将軍、諸大名、公家への献上品として使われたという背景があると考えられる。貞享5年(1688年)には松尾芭蕉も岐阜を訪れて、鵜飼を見物し、俳句を読んでいる。
 明治時代に入ると鵜匠の保護政策も消え、鵜飼をやめる人もいましたが、明治23年(1890年)、鵜匠は宮内省(現在の宮内庁)の所属となり、今もその当時の流れを受けている。現在、長良川の鵜飼は、岐阜市の『長良川鵜』と関市の『小瀬鵜飼』に分かれているが、元々は同じ鵜飼集団である。明治政府が成立し、市町村という概念ができあがってきたときに、便宜上2つに分けられたためである。この『長良川鵜飼』『小瀬鵜飼』はともに宮内庁の管轄で、『宮内庁式部職』という役職が与えられている。そして、昔と変わらず今も、毎年鵜飼開きでとれた鮎はその場で氷詰めにされ、皇室に献上するのが習わしとなっている。また、長良川の鵜飼用具一式122点は国の重要有形民俗文化財、長良川鵜飼漁法は岐阜市重要無形民俗文化財に指定されている。
 現在、全国の12市町村で鵜飼が行われているが、鵜匠が宮内庁式部職となっているのはこの2ヶ所だけである。

参考文献・資料
 2004年度版岐阜市統計書(岐阜県岐阜市)2005年
 鵜飼―よみがえる民族と伝承(可児弘明)中央公論新社 1999年
 岐阜県観光レクリエーション動態調査結果書(岐阜県農林商工部交流産業課)2000年
右・右奥:鵜飼のようす