奈良の文化財
唐招提寺(とうしょうだいじ)
伽藍
戒壇唐招提寺金堂は2009年まで解体修理中であり、以下の説明は修理前の状況を示す。
金堂(国宝)
奈良時代の金堂建築としては現存唯一のものである。(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、元来本堂として建てられたものではない)
寄棟造、単層で、屋根上左右に鴟尾(しび)が乗る。(西側の鴟尾が当初のもので、東側は鎌倉時代のもの)
正面7間、側面4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表わす)で、手前の7間×1間を吹き放ち(壁、建具等を設けず、開放とする)にすることがこの建物の特色である。吹き放ちとなった堂正面には8本の巨大な円柱が並び、この建物の見所となっている。建物は文永7年(1270年)と元禄6〜7年(1693−1694年)に修理されており、屋根構造は近世風になっている。(創建当時の屋根高は現状より2.8mほど低かった)
2005年の奈良県教育委員会の発表によれば、金堂の部材には西暦781年に伐採されたヒノキ材が使用されており、建造は同年以降ということになる。堂内には中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、四隅に四天王立像を安置する。
講堂(国宝)
平城宮の 東朝集殿を移築・改造したもの。東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。鎌倉時代の建治元年(1275年)にも改造されているが、天平時代宮廷建築の唯一の遺構としてきわめて貴重である。堂内には本尊弥勒仏坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する。1970年に新宝蔵が完成するまでは、堂内に多数の破損仏を安置していた。
その他の建造物
経蔵、宝蔵(ともに国宝)
境内東側に並んで建つ。ともに奈良時代の校倉造倉庫。経蔵は唐招提寺創建以前ここにあった新田部親王邸の倉を改造したものとされ、宝蔵はここが寺になってから建てられたものと推定される。
鼓楼(国宝)
金堂・講堂の東側に建つ、小規模な2階建の建物。鎌倉時代・仁治元年(1240年)の建築。鑑真将来の仏舎利を安置するため、舎利殿ともいう。
礼堂(重文)
鼓楼の東にある南北に細長い建物。もとの僧房を弘安6年(1283年)に改築したものである。隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂である。内部に清凉寺式釈迦如来立像(重文)を安置する。
戒壇
境内西側にある。戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。戒壇院の建物は幕末の嘉永4年(1851年)に焼失して以来再建されず、3段の石壇のみが残っている。1980年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。唐招提寺の戒壇は創建時からあったものではなく、鎌倉時代に初めて築造されたものであることがわかっている。
御影堂(重文)
鑑真の肖像彫刻(国宝)を安置する(開山忌の6月5日〜7日のみ公開)。建物は興福寺の有力な子院であった一乗院(廃絶)の遺構。1962年までは地方裁判所の庁舎として使用され、1964年に唐招提寺に移築された。障壁画は日本画家東山魁夷によって新たに描かれたものである。
新宝蔵
1970年に完成した鉄筋コンクリートの収蔵庫。例年春と秋に期日を限って公開される。金堂にあった木造大日如来坐像(重文)のほか、「旧講堂木彫仏群」といわれる、もと講堂に仮安置されていた奈良時代末期の多数木彫仏群が収蔵され、一部が展示されている。