奈良の文化財
古都奈良の文化財
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唐招提寺(とうしょうだいじ)
唐招提寺は奈良市五条町にある鑑真ゆかりの寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を有する。


歴史
 唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、故・新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。現存する経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。また、金堂も鑑真の没後に完成したものである。
 鑑真は仏教者に戒律を授ける導師「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは「規範」「きまり」といった意味で、仏教者が日常生活上守らなければならない事柄であり、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していた。天平5年(733年)、遣唐使とともに渡唐した留学僧の普照と栄叡(ようえい)は、日本に正式の戒壇を設立するため、しかるべき導師を招請するよう、朝廷からの命を受けていた。彼らが揚州(現・江蘇省)の高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年のことであった。鑑真は渡日を承諾するが、当時の航海は命がけで、鑑真は足掛け12年の間に5回も渡航に失敗した。なお、5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、それまで行動をともにしてきた栄叡を失い、自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航でようやく来日に成功するが、この時も国禁を犯し、日本の遣唐使船に便乗しての渡航であった。鑑真は当時すでに66歳になっていた。
 天平勝宝5年(753年)10月、薩摩(琉球ともいう)に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸し、同年、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けた。日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺で過ごした後、天平宝字3年(759年)に今の唐招提寺の地を与えられた。
 寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、本寺の寺名の由来としては、「唐僧である鑑真和上のための寺」というような意味合いで付けられたものである。
 唐招提寺の講堂は、平城宮の殿舎を移築改造したものであった(現存)。また、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂、羂索堂(けんじゃくどう)は藤原清河の施入(寄付)であった。金堂は8世紀末頃の建築で、鑑真の没後にできたものである。
 伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安(ぶあん)の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛(かくじょう、1193−1249)によって復興された。
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