微妙な関係
 縄文時代研究において、炭素14年代測定は微妙な地位を占めてきました。
 1877年にE.S.モースが大森貝塚を調査し、考古学研究がスタートして以来、縄文土器の型式についての研究が進み、1920年代後半から1930年代にかけて、縄文土器型式についての相対編年の大綱が決まった、とされています。山内は土器型式の違いに基づいて、縄文時代を、早、前、中、後、晩期の5期に分けることを提案し、編年表を提示しました(山内 1937;後に、草創期を加え、6期で構成されることになります)。まだ、この時代には十分信頼できる年代測定法は実用化されていませんでした。縄文時代は、数千年前に始まったと考えられていたようです。炭素14年代測定法が登場するのには、もう10年ほどの時間が必要でした。
 1947年に、シカゴ大学のW.F.Libby博士が、自然界に存在する炭素14原子を検出したことを報告します(Anderson&Libby, 1947)。博士は、前年、宇宙線によってつくられる放射性の炭素14原子が自然界に存在することを予言し、実際にこれを示したのです。当然この中で、年代測定の可能性に言及し、博士はすぐさま古代エジプトなどの年代がわかっている資料の測定を行い、実証して見せました(Arnold&Libby, 1949)。
 その後、精力的に世界各地の考古学資料などを測定し、1951年に第1報、第2報と次々に年代値を世に送ることになります(1960年ノーベル化学賞受賞)。この2報目に大場博士の蓮の実と共に、千葉県姥山貝塚の木炭が2つ測定され、年代値が報告されています。これに対する学界の反応は乏しいものだったようですが、横須賀市夏島貝塚の第1貝層から出土した木炭とカキの貝殻の測定値が、1960年に報告されると、内外に大きな反響を呼びました。9000年以上前という予想をはるかに超える古い年代が得られたのです。
 炭素14年代測定法に対する賛否は様々で、反対者の旗頭である山内は、縄文時代草創期をBC2500からとし、縄文全期を2400年間と主張しました(山内, 1967)。このような極端な議論はなくなるものの、その後も、縄文時代の大筋の年代は炭素14年代値を使うものの、詳細な年代は土器型式の編年に頼る方が精密に出来るという風潮が、続いてきたように思います。


縄文時代資料についての初期の年代値(yrBP;1950年を基準として何年前かを示す)


年代測定法のからくり
 地球には、宇宙線が降り注いでいますが、これがはるか上空の空気と衝突して中性子と呼ばれる微粒子が出来ます。さらに、この中性子が空気の中にある窒素原子と衝突して、炭素14原子が生成するのです。炭素14原子は、まわりの酸素と結びついて二酸化炭素となり、普通の二酸化炭素と一緒に大気中に拡散していきます。
 炭素14は、放射性炭素とも呼ばれ、電子(β線)を放出し、壊れて窒素14原子に変わります(この現象を放射性崩壊といいます)。この現象は、極めて規則的に起こり、1万個の炭素14原子があると、その数が半分の5千個になるのに、5730年かかることが知られています(この時間を、半減期と呼び、炭素14の半減期は5730±40年です;Godwin, 1962)。つまり、非常に正確な時計の役割を果たすことが出来るのです。大気中の炭素14原子は少しずつ壊れて減っていきますが、上空で日夜生産されているので、大気中にはいつも一定の量、炭素原子全体の約1兆分の1だけ存在することになります。二酸化炭素は水に溶けるので、海水や河川・湖沼の水の中にも、この割合で、炭素14原子を含む二酸化炭素が存在していることになります。
 光合成(炭酸同化作用)をする植物は、この二酸化炭素を取り込むので、植物組織の中にも同じ割合の炭素14原子を含むことになります。また、この植物を食料とする動物や、食物連鎖を構成する動物・人間も同じ割合の炭素14原子を含むわけです。植物も動物も生きている限りは、その組織の炭素の中に1兆分の1の炭素14原子を持っているのです。これらの生物が死んでしまうとどうなるのでしょう? 新たな炭素の取り込みがなくなるので、その時点から、炭素14は壊れる一方と言うことになります。5730年で半分になるのですから、遺物の中に1兆分の1あった炭素14が、その半分、2兆分の1になっていることがわかれば、その生命体は、5730年前に生命活動を停止した、ということがわかるのです。これが、炭素14年代測定法の原理です。

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