【前編】
ある日。
その町は鈍色の空で包まれており、けれど何故か雨が降るとは思えない、変に薄明るい朝だった。
第一回魔界統一トーナメントが行われてから早3年半が経つ。かつて魔界三大勢力の一つと呼ばれた、躯軍のナンバー2にまでのしあがった妖怪である飛影という若者は、第二回トーナメントも経験し、現在は、なんとなくその日暮らしで彼の思うままに気ままに過ごしていた。
一週間ほど前から、彼は人知れず人間界に来ていた。第二回魔界統一トーナメントの後の、まだ余熱の冷めない騒がしい魔界にいると落ち着かなく、ただなんとなく人間界にふらりと来ていたのだ。人間界には知り合いもいた。可愛い彼の妹もいた。ずっと前から変わらない、自分の休める場所もあった。
彼は、この場所が、人間界で自分が一番落ち着ける場所だと思った。
その日、彼のその場所は灰色の雲に覆われていて、どうも彼の気分がすぐれなかった。嵐の前の静けさかとも思われたが、一向に雨の降る気配もなく、その場所では長いこと曇り空が続いていた。彼は、児童公園にある一本の広葉樹にもたれて、座って空を見上げていた。公園には子供はひとりも居なかった。飛影一人だけであった。だから安心して座っていられるのだけれど、本当は大きな音が鳴っているのに、誰かがそれを静かさで隠しているようなそんな不自然さがした。空は墨をこぼしたようににじんでただ渦巻くだけで、見ているだけで気が滅入りそうだった。飛影は、このままずっとここに座っていてもつまらないだろうと思った。それで暇つぶしに、ある友人の家にでも寄ろうと思って、手をついて彼はすくっと立ち上がった。
立ち上がると、彼は何故か少し咳き込んだ。しかもすぐには止まらなくて、五、六回咳き込むとようやく落ち着いた。空気が悪いとか、そんなことでは魔界の空気を吸って育った彼にはなんでもない。だが、あえて彼はそのことに気を留めず、すぐに友人の家へ向かった。
その友人は、妖怪であった。今は人間社会にとけ込んで、ひとりの人間としてその町に住んでいた。いつものようにその友人の家に窓から入ると、その友人は机に向かってノートパソコンをつけ、なにやら難しいことをしているようだった。
彼は飛影に気付くと、すぐ椅子をそちらへ向けた。
「おや飛影じゃないですか。久しぶりですね」
「ああ」
「魔界はどうなってますか?やっぱり、まだこないだの大会の熱が冷めてませんか」
「ああ」
別に楽しくも何ともない会話だった。だが、あんな空の下でひとり座っているよりは、少しはましなように彼には思えた。窓の外は蒼鉛色の雲で埋め尽くされている。天井にぶら下がっている蛍光灯が、その一室を薄暗く照らしていた。
「今忙しいんですけど、何か用事ですか?」
彼のノートパソコンの画面の光が、彼の顔を少々不気味に浮かび上がらせた。
「暇つぶしに来た」
飛影は素直に答えた。
「…………。そんなことだけのために来ないでくださいよ。オレは忙しいんですから」
蔵馬が無愛想に答えた。飛影は黙って彼の横顔を見ていた。一生懸命仕事をしている蔵馬は、人間そのもので、その男の正体が、かつての伝説の極悪盗賊、妖狐蔵馬のはずがないように思えた。飛影は窓の桟に腰掛けて、背を空に向けて座り直した。仕事をしている蔵馬の表情は真剣だった。彼は、すっかり人間になりきっていた。薄暗い中浮かび上がる彼の肉体も、精神も、人間そのものであるように思えた。
(……変わったな……)
と、飛影は心の中でそう呟いていた。それが哀愁の意を込めているのか、苦笑いしながら言うような感情なのか、それは彼にはわからなかった。ただ、すっかり人間になってしまった友人の姿を見ていると、彼はそう思わずには居られなかった。二人はそれきり黙り、パソコンの電信音だけが、その空間で低く音を立てていられた。
不意に、飛影が 二、三度咳をした。
「飛影?」
「大丈夫だ」
なんでもないような会話をして、飛影は下を向いた。
「風邪ですか」
「たまたま咳き込んだだけだ。特に今日は変な天気だからな」
飛影は蔵馬の方を向かずに言った。
蔵馬はまた、机の方に体を向け直した。
「さ、そろそろ帰って下さいよ。オレはもう貴方と話できる時間が無いんですから」
蔵馬は本当に忙しそうだった。仕方なく、飛影は挨拶もせず,再び窓から暗い空の下へ飛んでいった。
結局、飛影は、一度魔界に戻ってみることにした。妹・雪菜の様子を覗いても良かったが、こんな暗い空の下ではあいつの表情も沈んでしまっているだろうと思い、寄らずに帰ることにした。つまらないものを見て、もっと気分が沈むのは嫌だった。そんな時に彼が空を仰ぐと、決まってにじんだ暗い空が、彼の上に重くのしかかってきた。それを跳ね返すように空に息を吹くと、彼は一目散に魔界に向かって去っていった。
それからだった。
飛影は驚いた。
魔界はしんと静まりかえっていた。いつも響き渡る雷の音はしていたけれど、平原に住む小動物、木の陰に潜む低級妖怪、空を飛ぶ虫たち、全ての生き物の気配がしなかったのだ。彼はそれを、恐ろしさに近い感情で不思議に思った。それで人気のあるところへ行きたくなり、彼は妖怪達が未だたむろしているであろうトーナメント会場へ向かうことにした。
だがそこの入り口近くに来ても、中に誰もいるような気配はしなかった。奇妙である。つい一週間前、飛影が魔界を去る時には、まだまだお祭り騒ぎで妖怪達がやかましく騒いでいたというのに、一週間でこの変わり様はなんだ?不自然すぎる。ここだけじゃない、今通ってきた魔界のあちこちで、生き物の気配がしなかったのだ。悪寒を感じた飛影は、入り口を通り抜け、走って会場の中心へ行ってみた。
驚愕した。
皆、死んでいる。
観客席に倒れるように、そこに座っていたのであろう生き物という生き物達が、段々重ねになって倒れて死んでいた。その半分以上は、すでに肉体が腐っていた。中にはもう肉体が消えてしまった者もいるのであろう、骨の跡が他の死体の上にばらばらと落ちているものもあった。広々とした観客席は、全て死臭のする肉と骨で埋まっていた。会場の奥にある司会席も、そこに司会者が座っていたのだろう、その者ととれる骨が、それも半分腐食しかけて転がっていた。骨もどうやら最後には分解されるようで、明らかに骨の数が足りなかった。
飛影は自分の心臓の音を聞いていた。この広い世界で、自分一人の鼓動だけが音を立てているように思えた。
飛影は再び魔界の平原を駆け抜けた。向かった先は、躯の城であった。
「奴なら何か事情を知っているだろう、奴なら、何か」という言葉を、彼は小さな声で連呼していた。もちろん、そんなのは単なる効果のないまじないのようなもので、飛影はそうつぶやきながら、自分が言っている文の意味さえ理解していなかった。彼は、自分が狂ってしまわないように、ただ意味のない呪文を唱え続けていただけであった。魔界のあらゆる所で生き物の気配がしなかった。彼の記憶上いちばん最近でいちばん人気(ひとけ)のあったはずのトーナメント会場でさえ、あんな感じだったのである。飛影は走っている時、なるべく下を見ないようにした。虫の死体が風化しながら転がっているのを見たくなかったのである。彼は苦しいと思った。最速で走っているのに、平原が妙に長く感じ、目的地はなかなか見えてこなかった。走っている時間が長ければ長いほど、彼は狂ってしまいそうだった。
そして城に着いた時……
そこにも,多数の骨が転がっていた。中には骨も消えてしまった者もいるのだろう、ボロい衣服だけがそこに残されている場合もあった。彼はそんな骨を蹴飛ばしながら、ただ奥の部屋へ向かった。躯の部屋である。
入りたくなかった。
けれど、入らないわけには行かなかった…。
彼は、キイとドアを開けた。眼を開けたくなかった。でも、おそるおそる開いたその眼の先に、彼は、ベッドに確かにふくらみのある光景を見ることが出来た。
「躯!」
飛影は急いでそのベッドに駆け寄り、無我夢中で布団をはじき飛ばした。
ッ__________。
後悔しても、遅い。
なぜ飛影は これが躯だとわかったのだろう。そこにあったのは、すでに半分腐食していた彼女の体が、全身ただれて腐り始めている肢体だった。ところどころ骨が見えていて、眼と呼ばれる眼はもう食われていて、美しかった彼女の身体はもう変色してしまっていて見る影もなかった。この体からは 鼓動なんか聞こえなかった。彼女は、もう死んでいたのだ。まさに ”躯”というべきその姿が、今飛影の目の前に、無惨にもさらけ出されてしまったのである。
飛影は布団をめくったまま、そこに座り込んだ。見たくもないのに彼はベッドの上の肢体をずっと見上げていた。すると、彼はベッドのシーツから床にかけて、彼女が書いたらしい”血の文章”を見つけることが出来た。誰かに刺されて出血したのか、いや違う、躯が自分で体から血を流して、それで字を書いたのだと、飛影にはすぐにわかった。その血の固まり具合から、それが書かれた日と時間が大体割り出せた。驚くことに、書いた本人の体はこんなにも腐ってしまっているのに、血はまだ大分新しいようだった。この血文字が書かれてから、今はまだ二日くらいしか経っていないであろう。
(…二日前、ここに来ていれば、未だ躯は…………。)
飛影は血文字を眺めた。死臭もしたし、最初は気が気でなくて文を読んでもそれがなかなか飲み込めなかったが、だんだん落ち着いて文章を注意深く読めるようになった。そのメッセージの内容は、こうだった。
「飛影に告ぐ。
見てくれると信じている。
オレ達は相変わらず、平和に祭り騒ぎをやっていた。新しい権力者を迎えるためという大義名分で、ただのバカ騒ぎをしていた。そんな折り、突然息が苦しいだとか、咳が止まらないという奴が続々と出てきた。最初は誰も気に留めなどしなかったが、すぐに治療室がその患者で満員になり、最初は弱い低級妖怪達だけがうなっていたけれども、後々になると、オレの元部下達までもが咳が出るとか目が回るとか言い出して運ばれていった。運ばれる奴は増えるばかりで、誰も戻ってこなかった。オレはこっそり治療室へ行ってみた。すると、そこでは、さっきまで騒いでいたはずの妖怪共が、一気に骨になっている光景があった。オレは驚いた。もうそこには治療藩のやつらさえいなかった。恐らく、そいつらも骨になっていたのだろう。そしてその時、オレも少し咳が出た。それに気づき焦ったオレは,急いで会場へ戻ってみた。すると、そこでは、もう半数近くが、治療室に運ばれることもないまま事切れていた。あの広い会場で半数近くだぞ。残りは逃げ出したり、動けなくて死を待ってみたりしていたようだ。突然だ。誰にも犯人なんざわかりゃしない。けれど、オレは見た。廊下の影に潜んでいた、一人ピンピンしてる奴をな。一発で分かった。あれは、霊界の奴だ。すぐにその影は消えようとしたがオレが許さなかった。そいつの目の前にオレが一瞬で現れると、向こうはびくっとして座り込んだ。何をしたと問いただすと、何も言わずオレを睨んでいた。すると、オレは急に咳き込みだした。その咳はすぐには止まらず、かがんで咳き込んでいるうちに奴は逃げた。追いかけることもできなかった。悔いている。オレは右手がもっと腐っていくのを感じた。部下がよろよろのオレを見つけて、自分たちも死にながら、オレをここまで運んでくれた。そして皆腐って死んでいった。
思うことを一気に書く。犯人は霊界の者だ。まだ生きているはずだ。凶器は、生物兵器。たちの悪すぎる病気の感染だ。症状は、まず咳き込み、そしてめまいがおこり力が抜けていくようになる。特に特殊な能力を持っている奴は、そこから先にやられるらしい。だがその分死ぬまでの時間が稼げるようだ。お前なら、恐らく眼だ。そしてその後,生きたまま腐っていくのを感じるようになり、骨になり消えるそのどこかで死に絶えるようだ。妖力の弱い奴ほど死は早く訪れるようだが、このオレでもこのざまだ。醜態をさらすはめになっちまった。
気を付けろ、飛影。
どうやったかは知らんが、骨まで食らいつくす生物兵器を、いったん薬で麻痺させてから第二回トーナメント会場中にはなしたそうだ。それが今になって薬をきらせた。そして霊界のそいつは、第二回大会中に会場に一度でも来たことがある妖怪なら、全員が既に感染していると言った。
だから お前も死ぬんだ 飛影。
皆に伝えてくれ。オレは、もう骨が見えているんだ。顔の皮がぺりぺりと音を立ててはがれているんだ。今、体中がとてつもなく痛い。凄まじく熱い。お前の炎なんか、これに比べればぬるま湯だ。伝えてくれよ。オレの最後の願いだ。死ぬ前に、守ってくれ。もう死ぬ。情けない。けれど、オレも死ぬ前になったら、わかることが在ったんだぜ。飛影、聞いてくれ、このオ 」
躯の手紙は、そこで切れていた。
飛影は何度も何度も読み直した。何度も何度も読み直して、それからそっと布団をかけ直した。そして、いきなり魔界の炎を右手に宿らせ、ベッドに向かって撃った。ベッドは激しく燃えた。死臭と燃える臭いでその部屋は立ちこめていた。彼女の体と血文字がどんどん煙になっていった。飛影は、自分が魔界の炎を使えるのはこれが最後だと思った。そして、もともと燃やすものも少なかったのでわりとすぐに消えた炎を見届けると、彼はドアを蹴飛ばしてその城から出ていった。
彼は、少しずつ 目に映る光景が暗くなってきていることに気付いていた。