施設名 : 薬師湯 (入浴日:2005.4.12)
温泉津は「ゆのつ」と読み、文字通り「温泉が湧く津」に由来する。
温泉津は、かっては世界の銀の1/3を産出し海外にも輸出していた石見銀山と深い係わり合いがある。
銀山は鎌倉時代末期、大内氏により発見され、本格的な開発は16世紀初頭に始められ、その後17世紀にかけて最盛期を迎えた。
発掘された銀は、周辺の港から出荷されていたが、その内の一つが現在の温泉津港だった。銀山とこれらの港の間は道が整備され、銀山街道と呼ばれている
近代に入り銅山として稼動していたが、大正12年(1932年)に閉山となった。その後、大規模な開発が行われなかったこともあり、多くの遺跡が極めて良い状態で保存されているため、国指定史跡となり、現在、世界遺産登録の動きが活発化している。
現在の温泉津温泉は、この銀山街道に沿って小さな旅館が立ち並び、明治・大正の風情を漂わせている。
「温泉教授」の松田忠徳氏は、著書の「日本百名湯」で、温泉津温泉についてこう述べられている。
「湯治場の風情を色濃く残す温泉街が旧銀山街道沿いに500〜600m続く。大正か明治時代にでもタイムスリップしたような、渋いモノトーンの街並みである。狭い通りに石洲瓦の小さな温泉宿が12軒・・・・」
温泉街の風景はこの通りだ。旧街道には旅館以外に、外見からは営業しているかどうか分からない土産物屋、寺院それにとびっきりレトロで源泉かけ流しの共同浴場が2軒(元湯泉薬湯・薬師湯)あり、早朝5時過ぎから営業している。
幼少の頃は明治はもちろん、慶応生まれの方々がたくさんおられて、今は見られない縁側の付いた古い木造の家でゆったりと晩年を過ごしておられた。そんな記憶が蘇る風情を残す旅館街だった。
前日宿泊した九州の九重高原から500km余り、8時間かけて、11泊温泉旅行の最終宿泊地である温泉津温泉にやって来た。
すれ違いが難しい旧銀山街道に入って間もなく、旅館・輝雲荘に到着。荷を解くのももどかしく、源泉かけ流しの2つの共同浴場に出かけた。
先ずは、徒歩2分の元湯泉薬湯(もとゆせんやくとう)で入浴、それからすぐ近くの薬師湯に向かった。
建物は古びた素っ気無いコンクリート造りだが、玄関の上には大きな半円形の庇が張り出ているのが面白い。
ここは、明治時代初期に営業を始め、少し前までは「藤乃湯」と称していたらしい(温泉教授の日本温泉全国ガイド)。
中の造りは元湯より新しいが、それでも十分レトロだ。外観を含めて大正か昭和初期の雰囲気が漂う。営業時間が5時からというのも、伝統を感じさせる。
番台代わりの受付で300円(最近200円からアップ)を支払って、簡素な脱衣室に入る。
コンクリート造りの浴室は狭く、銭湯スタイルでシャンプー等は置いてない。中央に楕円形の浴槽があり、広さは5〜6人程度が同時に入浴できる程度で大きくはない。浴槽の縁、それに掛け流しで温泉が常時流れ出ている床は、黄土色の温泉成分が付着して盛り上がり、もともとの素材が何であるかとても推測できない。温泉の泉質はナトリウム・カルシウムー塩化物泉で、このカルシウムが付着するのだろうか。色は気のせいか、透明だが濃緑色に見えた。
独自の源泉は湯量が豊富なので、近所の旅館に配湯しているそうだ。温度が40度を超えているので、(直接確認したわけではないが)加温をしていないようだ。火山地帯でもないこの一帯で、なんで高温泉が湧き出るのか不思議だ。
私より年配の地元の人が二人、ゆっくりした動作で、入浴したり、縁で休んだり、体を洗っていて、ここでも時の流れがゆったりとしていた。
住 所 |
島根県邇摩郡温泉津町温泉津口7−1 |
電 話 |
0855−65−4126 |
交通機関 |
浜田自動車道浜田ICから約36km
JR山陰本線温泉津駅から温泉津町営バスで8分温泉前下車
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施 設 |
有料個室休憩室、駐車場(10台前後) |
宿 泊 |
不可 |
泉 質 |
ナトリウム・カルシウムー塩化物温泉 |
適応症 |
不記載(理由は「温泉の基礎知識ー温泉の効能」参照) |
入浴時間 |
5時〜21時
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定休日 |
無休 |
入浴料金 |
平成17年4月に値上げ
大人300円、小人150円(0才〜小学生) 洗髪の場合は男女とも50円追加。 |
入浴施設 |
内湯男女各1、家族湯(大人500円) |
浴室備品 |
無し(シャンプーなど要持参) |
観光スポット |
石見銀山・日御碕・出雲大社・松江城周辺 |
お土産・食事 |
温泉街 |
近くの温泉 |
有福温泉・上津井温泉・美又温泉・旭温泉・湯迫温泉・三瓶温泉・湯抱温泉 |
温泉津町HP
観光協会HP |
http://www.iwamigin.jp/yunotsu/
http://www2.crosstalk.or.jp/yunotsu/ |
雑記帳 |
石見銀山では最盛期に20万人が働いていた。
石見銀山遺跡は、東西に長い島根県のほぼ中ほど、大田市、邇摩郡温泉津町、同仁摩町などを含めた広い範囲に分布しており、その中心となる大田市大森町は、JR山陰本線大田市駅から約11kmの南西部にある。
16世紀〜17世紀の約100年の間には大量の銀が採掘され、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として使われた。また、石見銀山が佐摩村にあったことから「ソーマ(Soma)銀」と呼ばれ、海外にも数多く輸出され、中国や朝鮮半島などのアジア諸国とポルトガルやスペインなどのヨーロッパ諸国を交易で結ぶ役割の一端を担った。17世紀前半の石見銀の産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1を占めていたといわれる。 |
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室町時代に開湯、いまも末裔が経営する長命館。内湯がなくて客は隣の「元湯泉薬湯」を外湯として利用する。サイト仲間のMrリーダーさんは、ここに3泊されたそうだ。
建設された当時はモダンだったのだろうか、半円形の張り出し。
これまで見た浴室の中で最も温泉成分が分厚く付着していて、床や湯船の縁の素材が全く分からない。