36 郡山城下における武家地(家中屋敷)とその概要
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◇例言
ここに記す家中屋敷は、柳澤家藩政下の一時期を捉えたものであり、屋敷の位置関係については、主に『和州郡山藩家中
図/安政年間』(柳沢文庫所蔵)を本としたが、「文久3年家中図(写)」(柳沢文庫所蔵)ならびに参考文献として大和郡山市
史・資料集の『和州郡山旧記(本多唐之助家中覚書)』などをもってこれを補った。以下、本稿において、『和州郡山藩家中図
/安政年間』を「安政図」と、「文久3年家中図(写)」を「文久図」という。
図中の家臣名は、「分限帳上・中・下(柳沢文庫蔵)」(以下、「1868分限帳」という。)による姓名を示しているので、安政図・
文久図に書き入れのものとは一致しないものがある。これには、家臣家の家督・跡式、その他による流動性と、一方、郡山藩
柳澤家分限上の法則(「御定一、二、三(文政6年8月改)」(柳沢文庫蔵)などをみて考察を加えている。なお、本稿において「この
とき」とは、1868分限帳による役職(席次)をいう。
家臣が居住した武家地には、「筋」・「屋敷」・「通り」・「坂」など固有の名称のほか、町名があるときは、“町”を用いず、“丁”
をもって表記した。
各武家地には参考のため図を作成し、かつ、郡山城下図によりその位置を示した。
前述の城下町百話【町・寺社地】のほか、城下町百話【武家地】のなかに“寺社”が存在する例外もある。
◆郡山藩の家中屋敷
“和州郡山城下図”は幕末期の郡山城下プランを作図したものである。
内城や“赤”で示した町場を除いて、画地ごとに区画された武家地は、三之丸の五軒屋敷から城南・城西・城北部を廻ってい
た。総構内の武家地28丁を次に列挙しておく。
五軒屋敷、大手、山之手、台所、五左衛門坂、矢田筋、矢田筋上、大織冠川口裏、大織冠坂、大織冠馬場通、大織冠(馬
場)筋、大織冠ゆうれい道、大織冠龍華山裏、大織冠新道、上堀之側、堀之側、植槻土橋通、植槻筋裏、植槻前、上植槻筋、
下植槻筋、正願寺屋敷、竪丁、袋丁、茶園場、小川北丁、小川中丁、小川南丁の28丁。
また、総構外にあった武家地24丁は次のとおりである。
広島丁、新屋敷、九条丁堀之側、片原代官丁、中代官丁、九条別所、九条地蔵田畝、九条梅ヶ谷、九条矢場、大坂口通、
北田中、南田中、三組丁、外大織冠、外大織冠蛇ヶ池尻バタ、奥大織冠、矢田口、上箕山北ノ丁、上箕山中ノ丁、上箕山南ノ
丁、下箕山北ノ丁、下箕山中ノ丁、下箕山南ノ丁、東箕山の24丁があった。このうち三組町は、一旦、武家地を廃されていた
が、幕末に至って再び復活したところである。
郡山城下における武家地は52丁で、その屋敷総数は1,141軒である(以上筆者調べによる概数)。
家中の屋敷は、家臣の家格やときの役職などに見合う結構をもった役宅であって、拝領屋敷というかたちで家臣に与えられ
た。屋敷管理の所掌は大目附支配で、そのもとに目付および徒目付、小人目付がいた。実務的には、“屋敷目録帳面”および
“間毎張紙(指図)”などを備え、屋敷替えなどの都度や、臨時におこなわれた調査などによって家中屋敷の状況は厳密に把握
されていたのである。
柳澤家が郡山へ国替えのとき、前城主本多家から公儀に預けられ、そして、公儀(松平紀伊守)をして引き渡された城郭・城
内建物・城付の武器・御城米などはもちろんのこと、もと本多家家臣が使用していた家中屋敷もそのまま受け取りがおこなわ
れたわけで、受け取られた屋敷の品により新規に柳澤家家中に割り振らている。このことは、『享保九辰年御国替之節御家中
御分限并屋敷拝領之覚』(大和郡山市史・史料集所収)により明らかである。なお、家中屋敷に関する例規については柳澤家
入国後の享保年中に定められたとあるが、いまだ現物を見ない。
屋敷を宛がわれた家臣は、その屋敷を自らの手で維持・管理することは当然のことである。
しかし、時代が下るにつれ藩財政自体が疲弊した状態のなかで、本来支給されるべき知行や給金もままならなくなり、主家
存続のために“厳しき倹約”や“御借り上げ”が頻繁おこなわれるにおよんでは、家臣の方も困窮のため屋敷の維持もままなら
ず、次第に荒れ果てる屋敷も増加していったことは容易に推量できることである。したがって、これを監理・監督する大目附や、
ことに直接検分にあたっていた徒目付らは大いに頭を悩ませたのであった。屋敷替えなどの検分は徒目付(1人)および小人
目付(1人)によっておこなわれ、当該屋敷の大破・朽損などの処置については大目附の指図を受けたし、“覚え”には、「当人
の貧困の状態や、平素の暮らし向きをも勘案して“口伝(特別の措置)多し、くれぐれも思慮次第」と戒めていた。当然ながら屋
敷管理はそれほどに難しいことであった(「徒目付勤仕覚」/柳澤文庫蔵)。
○武家地と家中屋敷
幕末期における郡山藩の武家屋敷総数は1,141軒である。このなかには御長屋・小屋を含んでいる。
一方、慶応4年(明治元年)の「御分限帳上・中・下」(柳沢文庫蔵)を、筆者が1993年に調査したデータによると、郡山藩国
許の人数は1,122人、これに奥女中、組之者、中間を加えると郡山に居た家臣団の合計は2,336人であった。
郡山城下において家臣が住んだ各武家地については、次号の「城下町百【武家地】」 37「新編郡山町中記」【五軒屋敷(ご
けんやしき)】から順次紹介する予定である。
なお、この種の調査は史料の不足とともに、常時異動する内容であることからことに煩雑であり、したがって、なお史料の検
索不十分を否めず、ここでは拙速にその概要を示すことに努めたものである。
○屋敷に関する諸願
屋敷関係の諸願いには次のようなものがあつた。当時の家中屋敷がいかに取り扱われていたか知る資料としてここに紹介し
ておく。もちろん、書式・様式も細かく規定されてある(「古格萬覚」内題「大目附手帳」(豊田家文書/大和郡山市教育委員会
蔵/参考)。以下に項目と解説を記す。
・屋敷地願 屋敷地交換を願出るもの。当然至極妥当な事由が求められる。
・建家之内潰取候願 建家が朽損して修覆不可能なものについて検分のうえ許可するもの。
・家作・井戸・塀等修覆願 職人の見積書を添付して差し出す。自分普請が原則である。
・屋敷之内木伐取度願 ただし本屋へ障りあるものは許可され、その他軽度のものは許可されなかった。
○屋敷替の実際
屋敷替えは、御役替・隠居・家督・加増・減知・その他諸事に伴うことがほとんどであった。屋敷替の実際を以下に記す。
@相互の敷物・建具・押込・棚そのほか自分がおこなった物はすべてそのままにしておくこと。
A受け取り方・渡し方とも主人が立ち会うこと。もし差し支えるときは親類などのうちから相応の者が立ち会うこと。 もっ
とも、家老中はその用達が受け取り・渡しをすること。その他の者は家来の立会いであってはならないこと。
B藩からは、御徒目付・小人目付が各1人立会うこと(前出)。
C相対替え(要許可)には、藩からの立会いは無く、両者納得のうえでおこなわれること。
D諸士(分限上、御目見以下の家臣(国許254人))は御長屋住まいであるので、御作事方と両家が立会うこと。
E坊主・同心(分限上、席外の家臣(国許216人)の御長屋住まいは、御作事方より役人を差し出すこと。
F諸士であって、屋敷地(多くは一部)のみである場合は御作事において行うこと。
G同心小屋(約650人)の場合は、小人目付1人が立ち会うこと。
○間毎張紙(前出/指図)
届出書ならびに指図の添付などについては一定の書式がある。
指図の雛形によるとつぎのような記載が必要であった(仮題「屋敷図雛形」(豊田家文書/大和郡山市教育委員会蔵/参
考)。
・屋敷地の形状と四方位とその間数。
・表門の様式(長屋門・塀重門(郡山藩においては棟門のことをいう)の別。
・屋敷内の表向建屋の形状および名称と何梁・何間(桁)、庇の流れと長さ、奥向も同様に記載する。
・その他付属屋(長屋・土蔵・物置など)の名称と何梁・何間(桁)、井戸と井戸屋形の別。
・付属屋で自分普請の場合は朱書きで示す。
・図面(平面図)長さは、土地にあっては6尺間で、建物は6尺3寸で記すよう規定されている。
○屋敷替えの儀礼
役替えに伴う屋敷替えなどにおこなわれる“拝領屋敷引移御礼廻り”の儀礼があった。
この例は番頭支配下の者が、家老・年寄・御用番入ヶの屋敷へ御礼廻りをおこなっていたものであり(仮題「番頭勤方帳」柳
澤文庫蔵/大井家文書」)、比較的上級の役職間で主におこなわれていたものであるが、下級の者も格内の儀礼は大なり小
なりあったものといえる。
◇家中屋敷の結構
○表門と屋敷の格式
ここでは、上士・中士・下士に三分類しているが、藩政時代に定められた明確な史料を基としているわけではない。断片的な
史料から得た知見ならびに、明治・大正・昭和期の古写真をなどを参考にし、また、遺構の現況踏査によって筆者がまとめたも
のである。
@上士屋敷(大老・中老の役宅)
“上士屋敷”は、本瓦葺(入母屋・切妻/のち桟瓦土居葺)の長屋門である。三間間の門構えに2本の太い親柱(柱芯で10
尺の間口)を用い、門上部に冠木を乗せる。渋墨を塗った大戸を備え、乳・八双・肘壷金物などをもって装い、左側に潜戸を付
け、左右には格子窓(無いものもある)、要所に突き上げ戸のついた窓(角柄窓(ねじ子格子・格子)を配し、壁は上部を白漆喰
大壁塗ごめで仕上げ、腰下を押し縁下見板で覆っていた。門内には用達の居宅や若党部屋、門番の中間部屋のほか、厩、駕
籠置き、物置などがあった。門長屋の間口は屋敷によって長短があり、その他の表向きには土塀、奥には生垣で屋敷地を囲
んであった。要所に穴門、路地門を開け、物見(所)などの備えがなされていた。屋敷全体の敷地は、約1,200坪から3,500
坪ほどはあった。
ここに作成した長屋門の一例は、堀之側(現、植槻町社会福祉会館の辺り)にあった元家老斎藤孫兵衛屋敷跡を、旧郡山藩
主伯爵柳澤家が当時の郡山別邸として明治20年(1887)に転用されていた当時の表門長屋のイメージである。既に述べてい
るように、この長屋門の左側の出格子から西方の部分は、現在柳沢文庫の構内に残されてある。
○上士屋敷内の建物
屋敷内の結構は、地形を有効に生かしてそれぞれに形体には相違があるが、共通するのは表・勝手・奥向の別である。
また、建物は本瓦葺や桟瓦葺で、寄棟また切妻である。
・表向の建物
門長屋のほか、式台、箱段、玄関の間、溜の間(使者の間)、供方控所、書院、小書院など格式に見合ったものである。
・勝手向の建物
中の口玄関、式台、取次所、侍部屋、下台所、会所、詰所、井戸屋形など。
・奥向の建物
奥台所、茶の間、居間、寝所、仏間(壇)、奥書院、茶室、仏殿、稲荷社、土蔵、物置など。
・その他
花畑、泉水・築山など。
A中士屋敷
切妻瓦葺、広い2間の棟門に太い三本柱を用いて、左右端に多くは腕木に達する控え柱(多くは丸太)を立て、その下部を短
い“貫”で門柱と繋いであった。門両側控えから続いて低い石積みの上に土塀、生垣で屋敷を囲む。敷地は約300坪から600
坪ほどである。
○中士屋敷内の建物
・屋敷内の建物は、桟瓦葺で藁(萱)葺もあった。内部は表・勝手・奥の結構があり、規模は中程度である。
B下士屋敷
中士屋敷の表門とおおむね同様の2間の結構であるが、門構え造りともに小規模ではあるが、中士屋敷と基本的形式は同
じである。その敷地は約70坪から100坪ほどであった。
○下士屋敷内の建物
・屋敷内の建物は、藁(萱)葺の一部桟瓦葺であった。建物内は、表・勝手・奥の結構があり、規模は小規模である。
○その他の家中屋敷
このほか、同心(組之者)が住んだ“組屋敷地”は、小規模な下士屋敷住まいのほか、長屋住まいの場合などもあり、分限
上、譜代のであるか否かなどの条件などもあって、これらを一様に区別し難い実態がある。また、ことに幕末期に新規に屋敷を
与えられたこともあり、これらの体系的研究は今後にゆずりたい。
なお、足軽が住んだ組ごとの“御長屋”や、中間、小者の住んだ“小屋”などもあった。ただし、御長屋といっても種類があり、
柳門前の御使者屋敷の表長屋は、平生から徒目付御長屋として使用されていた実例もあり、また、評定所御長屋などが資料
に記されているがその実態は明らかにはなっていないのである。
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○“五軒屋敷”は、五軒分の屋敷が一地区を形成する屋敷地の通称であることはいうまでもない。五軒屋敷の呼称のはじまり
は、元和5年(1619)入部の松平忠明のとき、家老山田半右衛門・山田久弥・奥平金弥・奥平土佐、と大手門脇の馬屋の五軒
が設けられたことによるとされるが確かではない。なぜなら、五軒屋敷という丁名は、後世において書き表わされた旧記によっ
ているからである。なお、城郭の縄張からは「三之丸」、または「三郭」というのが妥当であり、現にそう公称されたのである。
ともあれ、豊家以来重臣の侍町として位置づけられ、江戸時代においても入封大名家の重臣が入れ替わり住んだここ三の丸
(五軒屋敷)は、元和元年(1615)郡山城に入った水野勝成によってはじめて形成された。すなわち、慶長5年(1600)以来、長く
番城となって荒廃していた郡山城は、豊家ゆかりの城郭の故をもって、石垣や堀など普請(土木工事)は公儀直轄の拓修の手
が入り、勝成は作事(建築工事)に専念して、ここに近世郡山城は復活したのである。
のち、本多政勝藩政時代には、ここ“五軒屋敷”に6軒の重臣屋敷があった。表通りに面した5軒と、この時代にあった表通り
から“塩町口黒門”に抜ける東西の直線道路(長さ約180m)に沿う奥の1軒である。
第二次本多家時代(忠平-忠烈)に入り、“五軒屋敷”の北端にあった武家地は、藩の御用屋敷地(会所と普請小屋)とされ、
同時に塩町口黒門までの東西道路も廃止されたため、もと奥にあった屋敷は、御用屋敷南隣の添屋敷となった。これによって
“五軒屋敷”は、御用屋敷と重臣屋敷の5軒となり、また、“五軒屋舗”の名称と屋敷割が定まったのである。
柳澤家藩政時代には、藩の御用屋敷(評定所/2,200坪)および御用屋敷奥の屋敷地(作事所)/1,460坪)があり、重臣
屋敷の4軒は、北から順に3,450坪、2,610坪、2,140坪、1,240坪(いずれも計測値概数)となった。
なお、柳澤吉里が郡山に入ってから五軒屋敷前の広小路(広義には三之丸の五軒屋敷すべて)を“柳曲輪”と唱えるよう改め
られている。また、ここ五軒屋敷(柳曲輪)には、いずれも歴代藩主の譜代の重臣が入れ替わり住んだが、注意すべきは、ここ
五軒屋敷に役宅を拝領した者がすべて時の家老職であったわけではない。五軒屋敷のほか、西門外には譜代重臣で家老職
も勤めた柳澤権大夫家や川口十大夫家があり、また、堀之側桜門前には公儀附人松平但見家が代々にわたって住んだので
ある。その理由は、これら大老屋敷というものは、執政の公邸としての結構をすでに備えていたためである。
屋敷の概要を記しておく。表門は長屋門とし、その家の御用達・門番部屋や厩を備えていた。屋敷内は、式台ほか玄関の
間・使者の間・溜の間・書院・小書院などの表向き各部屋、中の口玄関・取次所・侍部屋・会所・下台所などの勝手向き、奥玄
関・茶の間・台所・居間の各室・寝所・湯殿・茶室・仏殿・土蔵など奥向きに三分割されていた。いうまでもなく、表は公邸として
主人の政務や対面所にあてられ、勝手は家来(若党など)たちの職場として、奥は主人の私邸として機能したのである。その
床面積は屋敷によって大小はあるが、大老の屋敷で250坪ほどはあった。
また、中老の職から累進して時の家老職・年寄などを勤めることになったときは、就任と同時にその役相応の屋敷替えがおこ
なわれたのである。
なお、時の執政の通常の異動は城主の家督に伴うことが多く、ほかに重臣の病気・隠居願などによるものがあった。
“五軒屋敷”の図は、幕末一時期の屋敷配置を示したものである。なお、→印は屋敷表門の位置(屋敷の向き))を表している
(以下【武家地】の屋敷図において同じ)。
現在の「やまと郡山城ホール」は、図中の平岡邸の過半と評定所・左京堀(現在は埋め立て)の位置に当るし、「大和郡山市
役所」は、南端の大井衛守邸のところに建っているわけである。この地区は現在“北郡山町”の一部となっている。
◇平岡左門
家の名は、宇右衛門。左門は賜号で、藩主柳澤家所縁の名の一つである。藩の宿老家で、このとき家老職。
◇柳澤隼人
本姓藪田氏。家の名は五郎右衛門。正徳4年(1714)4月、柳澤吉保の子、増子が里守(邦守)に入與している。柳澤姓は
称号。このとき家老職。
◇大山将監
名は弥兵衛、将監は賜号。このとき寄合衆であった。
◇大井衛守
元禄15年(1702)主家へ仕官の譜代家。代々は、御用人・家老・年寄・大寄合などの要職を勤めた。このとき衛守は年寄並
であった。
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○家中の屋敷地は、ことに領地目録における年貢地(知行地)である村名、町場の町名などのように厳格な規定に基づいてい
た事項と比べると、藩政上において至って簡単な通称名として通用し、かつ、流動性に富んでいた。
“大手”は、城郭の“追手”であり、武家地丁名(地名)としては、大手(門)の外付近というぐらいの名称である。しかし、「柳ノ門
外」・「柳門外ノ東」などと、より具体的な所在を表す場合もある。前者は絵図類に、後者は分限帳など文書類に記されることが
多いのは当然である。今は忘れられた往時の地名を紹介するという見地から、以下本稿においてそのような名称を併記するよ
うに努めた。
ここ大手には、侍屋敷が4軒と、2つの藩施設があった。郡山城百話【城郭】の部と重複するが略記しておく。
◆“御使者屋敷”は藩へ遣わされる公式の使者を迎えるための施設である。屋敷の支配は徒目付組頭のうち“御使者屋敷預
り”がおこなった。門番が付く施設である。また屋敷内には“御徒目付御長屋”があった。
◆“御蔵米場”は、“御米直し場”などと称され、年貢米の受け取りをおこなった現場の役所である。
◇柳澤松之助
柳澤吉保の父安忠の養子(兄安吉の長子)を祖とする柳澤一族で、いわゆる柳澤新五郎家である。明和6年(1766)3月、新
五郎正喬家督して、弘化2年(1845)3月には家老職となり、このときは大寄合であった。
武家地“大手”の様子は次の絵図を参照されたい。なお、この地区は現在“南郡山町”の一部となっている。
図中の大手前(おおてさき)左は、現在の「三の丸会館」などがあるところ。絵図中央右端の柳門枡形を通ると柳曲輪(五軒屋
敷)があった。また、絵図上方には五左衛門坂があり、米蔵を隔てた掘割伝いに大手方向へ進むと、突き当たりに“御蔵前辻
番所”があった。ここをさらに左(南)へ進むと、当時“山之手”(やまんて)と呼ばれた武家地がある。現在の近鉄駅前やバスター
ミナル一帯である。
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○“山之手(やまんて)”は、広義に矢田筋の一部に含まれる武家地であるが、矢田筋の東の一画を占めるここ東矢田地区は、
西方の丘陵へさしかかる矢田筋の山の手突端に位置することから特にこう称された武家地名である。ちなんで、町場の柳町と
ここ山之手をつなぐ橋を“山之手橋”と称していた(下図参照)。この橋は柳町二丁目と同三丁目の辻から、狭い“カサメ(寺庄)の
辻子”を通り抜けたところにあった。大手堀から南の八幡堀に至る掘割に架かる木橋である。橋の西南袖には“東矢田辻番
所”があり、通行人を監視するとともに持ち場を巡視し、ことに藩より出された“御触“を伝達するという役目を担った。この番所
から真っ直ぐ西方に進み、矢田口手前の総構の土居際にあった“西矢田辻番所”まで、東西延長約930m(注、藩政時代の道
筋を計測した)の道程が矢田筋である。
ここ山之手には、8軒の侍屋敷があり、また、藩政上重きをなした“御代官役所”(御代官屋舗・大和御代官所とも)があった。
◆“御代官役所”は、藩領のうち和州・河州の領分を管轄する役所である。組織としては、郡代支配に属する和州・河州支配の
代官3人と、そのもとに代官手代・書役・坊主・同心・代官役所附小使で組織された3組の人たち、それに和州・河州の10人
の大庄屋と惣代2人(享和元2年村替以後)のもとに村々の庄屋が在方組織として農政のみならず、幕末期には疲弊した藩財
政を支えたのである。
なお、柳澤家藩政時代の郡山藩領151,200石余のうち、和州・河州の外に江州において58,100石余の領分があり、在
地支配の代官役所として金堂・海津両陣屋(幕末には“住宅”と称した)があった。金堂住宅には、郡代支配の代官1人と代官
手代・書役・代官役所附小使が、海津住宅には、郡代支配のうち勘定奉行所掌に属する代官1名と手代勤・書役・代官役所附
小使が勤務し、それに在方の大庄屋格2人と帯刀人(村々庄屋)が付属して農政その他を取り仕切ったである。
山之手は下図を参照されたい。なお、この地区は現在、南郡山・朝日町の一部となっている。
代官役所の跡と向かいの曾雌邸跡付近は、現在のバスターミナル周辺に当る。近鉄郡山駅およびその軌道敷は、豊原・寺
内邸跡を左右に横断したかたちになる。
◆弘法水とか甘水と呼ばれた名水は、図中の村尾邸付近にあった。
また、上部の湾曲する堀と土居は、五左衛門坂下を廻っていた三の丸の外囲いで、延長320m程あった。
山之手橋は今は無く、もと幅五間はあった掘割も2m足らずの用水路として残されているに過ぎない。
◇豊原図書は、このとき寄合衆であった。
◇曽雌衛守は、このとき番頭を勤めていた。
◇生形治部大夫は、このとき鎗奉行であった。
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○“台所丁”は、山之手から南に奥まったところにあった二筋の武家地である。すでに江戸初期の正保図(前出)に“奉公人
町”として成立していた丁であるが、江戸末期には中士クラス各席の侍屋敷地となっていた。
本稿で史料とした幕末の絵図(前出)には、ここに住んだ侍の姓名が記されていないので、「郡山藩家中図(享保九年)」なら
びに「御家中屋敷小路割名前図(宝暦四年)」(いずれも柳沢文庫蔵)を参考に敷地割のみ作図している。なお、基本的な地割
りプランは30軒で、時代により2、3軒は増加したようである。矢印は各辻に位置する屋敷の表門の位置を示している(前出)。
当時の台所丁の様子は次の図を参照されたい。なお、この地区は現在、南郡山・朝日町の一部となっている。
左中央から右下に流れていた外堀や内側に築造された土居は郡山城総構南方の一角で、堀の幅は五間から七間、土居の
高さは一間半から二間はあったが今は見ることはできない。また、画面左寄りの南北(縦)方向に現在の近鉄橿原線が走って
いる。
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○ここ“五左衛門坂”に関しては、本稿においてすでに縷々述べているので参照されたい。(郡山城百話「三の丸・五左衛門坂
【その1】・三の丸・五左衛門坂【その2】」)
なお、ここに作成した「五左衛門坂」の図の範囲は、三の丸の五左衛門坂およびその西部の“鞍背坂”までとした。このこと
は、鞍背坂以東の旧地字名が“五左衛門坂”であることを根拠としたものである。
また、鞍背坂の名称は、その原史料を「郡山町旧記」(天理図書館蔵)によっているが、同史料の成立が文久・元治(1861-
1865)であり、かつ、その語意からも幕末期の呼称を記されたものである。よって、この坂路の異名である“法光寺坂”というの
は、やはり第2次本多家藩政時代(忠平-忠烈)の呼称とみるのが妥当であろう。
図中の“梅屋敷(後出“西御屋舗”とともに下屋敷)”は、藩御用屋敷でその面積は1,610坪であったが、同屋敷内の結構
などについては不明のままであり、その実態を知るには今後とも検索をつづけなければならない。
南門前には武家地十ヶ所辻番の一つ“南御門前辻番所”があった。また、毎月おこなわれた藩主の永慶寺参詣の際、この
辺りは御供が控えた場所でもある。いうまでもないが、藩主江戸在府の留守年には家老や寄合衆がその代参を怠らなかった
のである。
現在の「奈良総合病院」は、図中の小林・薮田邸付近に、県立郡山高等学校の「桜花グランド」は、梅屋敷と青木甚八郎・三
好杢之允邸一帯に設置されていることになる。なお、この地区は、現在の城見・朝日町の一部となっており、近鉄郡山駅の直
ぐ西に位置している。なお、このとき屋敷数は14軒であった。
◇青木甚八郎は、このとき寄合衆であった。
◇松本矢柄は、このとき旗奉行であった。
◇薮田忠左衛門は、このとき寄合衆であった。
◇樋口與兵衛は、このとき家老格であった。
◇青木頼次郎は、このとき鎗奉行であった。
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○ここ“矢田筋”は、東の山之手(東矢田筋)の西方につづく武家地で、現在でも通称町名を中矢田筋という。江戸時代末期に
は、37軒の侍屋敷があったところである。
“矢田筋図”によって説明すると、表通り東端の渡部半之丞屋敷から、西端の藤田岩五郎屋敷までの東西約440mを“矢田
筋”という。この藤田岩五郎邸の筋向い一柳清大夫屋敷横を南へ上る坂を“日和坂”(“九歳方坂”とも)というが、坂の上を西
に曲がって矢田口に下る道が矢田筋の本街道である。
東の工藤岩太郎屋敷前まで山之手からの坂を上り、南方へ進むと外堀の溜池である高塚池まで土手道がつづき、その先は
箕山口へとつづく。この通りが古くから“堺街道”と呼ばれた交通の要衝であった。また、郡山総構の南の虎口にあたる箕山口
は、堅固な構成が見られるところである。この図に見える総構(堀・土居・虎口など)は、今は土居を削って堀が埋め立てられて
その跡を窺うことさえ難しい。もともと水量の少ない浅い堀で、大正11年(1922)のころにはすっかり枯渇して原野化し、高塚
池がわずかに溜池としての機能を保っていたが、やがて埋め立てられている。そのうえ、堀や土居は当時郡山町の発展のた
めに国(大蔵省)から払い下げを受けて宅地化されたという経過もあった。
なお、図中外堀の高塚池端には故事が伝えられている。その昔、聖徳太子が愛玩した鷹を埋めた所がこの“鷹塚池”の辺り
にあるというのである。「郡山町旧記」(前出)に、今(幕末)の侍屋敷の中にあると記されている。
矢田筋の南側には柳澤冨士八郎屋敷への袋小路がある。また、中程の鞍背坂の筋向いに、小池を穿った火除地と路地を兼
用する約200坪の広場があった。その奥から、さらに裏道に沿って武家地が複雑に入り組んでいた。この辺りの固有の名称
は伝えられていないが“矢田筋裏”とでも呼んだのだろうか。
矢田筋北側には、藩主家菩提寺の永慶寺に通じる鞍背坂が、矢田筋西方には本通りの日和坂(前出)のほか、北への“大
織冠新道”と呼ばれた道があった。
現在この地区は、朝日・城南・永慶寺町の3町に分かれている。なお、「赤膚焼二楽窯」は図中の茂木邸跡に、“浦上キリシ
タン配流記念碑”のある「カトリック大和郡山教会」は、穴山邸跡に位置することになる。
◇佐藤三左衛門
柳澤家の甲府時代から金魚の飼育を家伝とした有名な佐藤三左衛門屋敷が図中の左上に見える。このとき御持頭を勤めて
いた。
◇曽雌平太は、このとき年寄並であった。
◇柳澤富士八郎(主馬)
洋式砲術(高島流)師役として有名。主馬は、賜号。このとき馬廻組であった。嘉永4年(1851)10月、家老平岡宇右衛門ら
の見分を得て、初めて洋式大砲演練をおこなった。前年6月の試射には、奥州南部藩の大嶋禎蔵がつぶさに演習見学のため
来郡している「文武御用掛控」(大和郡山市教育委員会蔵)。
また、嘉永6年9月には、茂木亭左衛門とともに大坂において大砲鋳立に赴き、3日後には、大砲玉目六貫目砲ができてい
る。同年6月、ペリー提督浦賀来航以来、ここ郡山藩でも急遽軍備の洋式化が図られて行ったのである(「新古見出并留方」/
「豊田文書」)。
◇茂木亭左衛門
このとき年寄並を勤めていた茂木亭左衛門は、柳澤主馬とともに大砲鋳立御用掛となり活躍した。屋敷も隣り合わせであり、
ことに総構え“箕山口”の要所に両屋敷が置かれていたのは単なる偶然ではない。
◇楠田半兵衛
藩の弓術師役を勤めた大内蔵流の名手で、このとき大目附でこの丁に住んでいた。
◇飯塚兎毛は、このとき鎗奉行であった。
〔訂正/青木小弥太→青木定人2006.6.6〕
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○ここは、矢田筋を東から西に上りつめた所にあることから、“矢田筋上”と呼ばれていた全長約170mの街路にはりついた武
家地である。現在では、公称町名の城南町と藤原町の一部に分かたれているが、“西矢田筋”という通称町名で通っている地
区である。このとき屋敷数は8軒であった。
図で紹介しよう。東方の矢田筋から“日和坂”(郡山町旧記(前出))を南へ(左折)上って西(右折)に進み、富田五郎屋敷前
から西へ下ると、そこは郡山城総構の南西隅に位置する“矢田口”である。矢田口の虎口の傍らには“西矢田辻番所”が設え
られてたし、もともと、日和坂から街路が“鍵の手”に付けられているのも総構の虎口を守るための工夫の一つであることがわ
かる。
現在は、図中の都筑又左衛門屋敷北側から、昭和12年頃、西方へ新道が付けられた際、西方にあった総構の一部の御土
居を切り通し、外堀を埋め立てて矢田口の北部へ接続されたため、ここ“矢田筋上”はすっかり脇道のようになってしまった。ま
た、志水庫次郎屋敷付近を南北(縦)に二車線の県道(郡山斑鳩線(城廻線))が付けられているので、この辺りの昔日の景観
はない。また、現在では図中に見える総構の御土居は一部遺存するところもあるがほとんど姿を変え、外堀は矢田口北のごく
一部を除きすべて埋め立てられている。なお、矢田筋上の武家地は、現在の城南・藤原・南郡山町の3町にまたがった地区と
なっている。
◆荒木又右衛門
この丁には松平忠明(1619-39まで郡山城主)の時代、郡山藩士であった荒木又右衛門(1599-1623)が住んでいたと伝え
られる屋敷跡の地がある。剣豪で知られる荒木又右衛門は、岡山藩池田家家中にいた義弟渡辺数馬の敵を討った寛永11年
(1634)11月の「伊賀越えの敵討」は、つとに有名である。又右衛門は、藤堂家御預けののち、寛永15年(1638)鳥取藩池田
家にひきとられたが、間もなく没している。
◇都筑又左衛門は、このとき奏者番を勤めていた。
◇横田又兵衛
柳澤家が郡山入部してのち金魚の飼育法に精通して、それを藩士の内職にまで広めたといわれる横田又兵衛屋敷も見え
る。
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○“大職冠”という地字は、もと位階(647年の冠位制)の“大織冠”を指す語としてこの地に根付いたもので、その由緒につい
ては次項の“新多武峰”を参照されたい。ところが“大織冠”を“大職冠”と表記して通用するようになったことについては現在で
はよくわからなくなっている。
第二次本多家の忠村(1717-22)時代の覚書である「本多唐之助家中覚書」(大和郡山市史 史料編 所収)によれば、屋敷
地名としての“大織冠”を散見することができる。また、このことは逐一紹介はしないが江戸期の文書類において同様である。
ただ、一部にこれを肯定できない史料があることも事実ではあるが、これらは後世の写本か誤記と推定でき、やはり、江戸時
代は“大織冠”と表記されていたものということができる。
そして、明治21年8月、郡山町が県知事宛に報告し、同22年5月奈良県が検査済とした「南郡山地籍図」(大和郡山市蔵)
によると、既に“大職冠”の地字が用いられていることがわかるのである。したがって、本稿においては以下“大織冠”と統一し
て表記することとした。
大織冠馬場筋は、城西に位置する武家地で、単に“馬場筋”とも称された。北につづく“大織冠馬場通”は、郡山城本丸より
地形が14m余りも高い位置にあり、まさに城郭の最高所であったが、この馬場筋はその南に位置し、そして、次第に南へ下る
地形に造成された武家地であった。現在は、南郡山・藤原町の一部となっているところである。
◆新多武峰
豊家に下った多武峰(奈良県桜井市)は、それまで僧兵を擁して絶大な勢力をほしいままにしていた。天正13(1585)年9月
3日、秀吉とともに5,000余の兵を率いて郡山に入った羽柴(豊臣)秀長は、秀吉の命により郡山の鎮守とすべく多武峰の社
殿造営を起工し、同16年4月3日には“宮移り”を成就している。そして、同18年12月に還御するまでの2年余の間、郡山の
新多武峰はここ城西にあった。その宮地一帯は“大織冠”(のち大職冠)の地名を遺してなお今日におよんでいるのである。ま
た、大織冠は位階の最高位であり、藤原(中臣)鎌足に生前与えられたので、大織冠といえば鎌足を指す語ともなった。こうし
た故事に因んで住居表示法による町名変更のとき、この付近を“藤原町”と改められたのである。
ここ馬場筋は、このとき屋敷数12軒で、ほか西側に1軒の空き屋敷があった。
大織冠馬場筋の様子は、次の図を参照されたい。
◆御土居(おどえ/訛)の松
図中に見える御土居には城郭西部総構の植え物として“御土居の松”が植えられていた。郡山のシンボルとして歴史上や景
観・風致の上から総構を取り巻く松の木は広く市民に愛されていたのである。
ここ大織冠には、昭和48年8月には、この土居に二本の黒松の大木が残されていたが一本はすでに枯死し、その側にこと
に秀逸・優美な樹形で親しまれていた巨木も松食い虫の虫害により次第に樹勢を無くしていた。推定樹齢300年、周囲3.7
m、樹高28mの巨木であった。黒松は、“大和郡山市の木”に指定されたことから、市は県の林業機関や樹医に診断を受ける
など八方手を尽くしたが、その甲斐も無くこの松も程なく枯死してしまった。確かこの時点で御土居の松は、あと数本しか残っ
ていなかったように記憶している。
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45 大織冠ゆうれい道【武家地 9】、46 大織冠新道【武家地 10】
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○“大織冠ゆうれい道”、または、“ユウレイ筋”といわれた武家地で、広い大織冠地域のなかで誰もが印象に残る丁名であ
る。その由来は定かではないが、絵図の書き入れには「大職冠ゆうれい道“ト云フ”」と記され、ことさら注釈を加えた“ト書”に
なっていることが他丁に例を見ない特徴である。
後日述べる予定にしている“大織冠馬場通”の久松寺ほか、延宝6−7年(1678-79)の絵図(前出)に見える“寺屋敷”など、こ
の丁の西北方向あった寺院群との関係も考慮しなければならないだろう。しかし、こうした名称はわけて近世における仏教思
想や俗信の拡がりのなかで、一般に対し死者の供養を促し、あるいは犯罪の抑止を意図として名付けられたものといえるだろ
う。
なお、大織冠ゆうれい道にはこのとき6軒の屋敷があった。(注.文久図に記載ある飯塚・横田家の2軒を補記した)
○一方、“大織冠新道”というのもよくわからない丁名である。というのは、江戸時代初期の正保2年(1645)には、すでに確認
できる道で、幕末まで220年間もの長きにわたり伝えられる丁名というにはいささかの違和感を覚えるわけである。よって、さ
らに以前の事か、乃至は一旦廃道となってのち再び付設されたとしか考えようがないことになる。このとき大織冠新道には4軒
の屋敷があった。
ともあれ、今回は二つの武家地を紹介するため、図もそのように(濃・淡色)作成している。なお、現在この地区の公称町名は
藤原町である。
◇近藤一馬
この丁に住んだ伴流弓術の師範家で有名。このとき書院詰であった。安政2年(1855)5月には、「流儀格段の出精昇達、門
弟罷り立て宜しきにつき」として“的弓一張”を拝領した。このことがのちの“新例”となるほどであった。また、君公から孝心を嘉
されるなど、藩内でも傑出した人物であった。(「文武御用掛控」(前出)。
◆通元院
図中央にある堀口邸の跡には、現在、日蓮宗の通元院がある。松島山と号す。昭和2年(1927)に松島良寿・伊勢女によって
建立された寺である。もと長野県の宣妙山高国寺(上諏訪2丁目)の塔頭であった通元院の寺号を、昭和10年5月ここに移さ
れたのである。
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○“大織冠龍華山裏”は、龍華山永慶寺(龍華庵)の裏手(南西)を取り巻くようなかたちで家中屋敷が並んでいた丁である。
現在は、永慶寺・藤原町の一部となっている。以下“大織冠柳華山裏”の図を参照されたい。このとき屋敷数は11軒であっ
た。(注.安政図に無記入であるが、文久図に記されている安養寺・豊原・赤井・山崎・勝俣家の5家を補記した)
◆龍華山永慶寺(“龍華庵”)
永慶寺が創建されその開堂式が営まれたのは、宝永7年(1710)8月14日のことである。さかのぼって宝永2年、川越から甲
斐を受封し、府中(甲府)に入った柳澤家は、山梨郡岩窪村に菩提寺として霊台寺を創立した。同5年4月に霊台寺を龍華山永
慶寺と改めることになり、柳澤吉保がこのころ帰依していた黄檗宗(八世)の悦峰道章(1654-1734)禅師を、その開山祖師に招
請している。
のち享保9年(1724)3月、吉保の子吉里のとき柳澤家は郡山へ国替となったため、父母の墓を武田家菩提寺の恵林寺(現、
甲州市)に改葬している。やがて、郡山の前城主家(第二次本多家(忠平-忠烈))の菩提寺法光寺を矢田山(大和郡山市矢田町)
に移して、その跡地に龍華庵(永慶寺)を造営したのである。
享保9年(1724)11月1日のことである。
◆“法光寺”
禅宗法光寺についてその開基など詳しいことは分かっていないが、寛永4年(1627)再興と伝えている。享保9年(1724)の
「郡山藩家中図」(柳沢文庫蔵)に確認できるものの、その祖創や本多家の前の藩地である宇都宮から移されたかどうかについ
ても分かっていない。本多家藩政時代初期の貞享のころには、法光寺は未だ郡山に存在せず、現永慶寺の北西隣地にあった
下屋敷内に本多家の御廟堂が認められるのみである「和州郡山図/宝暦五年九月、森幸安模図」(国立公文書館蔵)。
関連して後出の大織冠馬場通にあった久松寺(天和図(前出)の圓光院)についても詳しいことは分かっていない。これらは、こ
の地で起こった本多家の無嗣断絶が、ゆかりの寺院などにも大きく影を落としているわけである。
◆藩校・“惣稽古所”
図中にある藩校・惣稽古所については、「郡山城百話05◆三の丸・五左衛門坂【その2】」のところで述べているので、ここで
は略して記さない。
◆“出雲屋敷”
寛永16年(1639)、郡山城主となった本多政勝の実子政利が、明暦元年(1655)、従五位下・出雲守に任官した。その屋敷が
図中の龍華庵の北西隣地一帯にあったので、のちの第二次本多家藩政時代のころまで、“出雲屋敷”の地名が残っていたの
である。したがって、図中の三宅邸の辺りは“出雲屋敷南”と称していたわけである。
◇小山宗兵衛・諦堂如生和尚・金丸縫殿助
三代藩主柳澤保光(堯山)に近侍し、君公から「石州流活花」を伝授されたといわれる小山(おやま)宗水と、同流を伝えた龍
華山永慶寺の第九代諦堂如生和尚は、今日郷土の流儀として知られる「甲州流華道」(野村静吾、創流)の源流にいた人たち
である。
また、一刀流で名を馳せた金丸宇一郎(縫殿助)屋敷が、いずれも図中に隣り合っている。
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○ここ“大織冠馬場通”は、外郭のなかで最も高所に位置する“大織冠丘”と称された台地上に設けられた武家地で、その通り
(道路)が馬場となっていたのでこの丁名がある。
以下、“大織冠馬場通の図”によって紹介する。大織冠丘の北部一帯(図の右寄り)は、天正16年(1588)に遷座、同18年
に還御した大納言豊臣秀長時代のいわゆる“新多武峰”の址の推定地となっているところである。
大織冠馬場は南北250m余りで、馬場の南端には広場(武者溜/約2600u)があり、そのほとりには井戸が一か所あっ
た。馬場北端の辻には武家地内に置かれた“辻十箇番所”の一つ“大織冠辻番所”があり、総構西方の大織冠口内外を固
め、また、近辺の監視・見廻りなどをその任務とした。
現在の馬場跡は、県道郡山-斑鳩線(城廻り線)の西側に沿ったかたちで遺存している。馬場跡中央南寄りには一本立ちの
楠の大樹があり、それより北方へ桜並木の続く平坦な道が、わずかに馬場であったことを物語っている。
また、馬場南端の広場(武者溜)は、本多政勝の藩政時代の寺屋敷跡で、この時代には南隣の大織冠馬場筋にも寺屋敷が
2か所あったし、馬場の西方一帯は、延宝の図(前出)において既に寺屋敷と記され、また、天和の図(前出)における圓光
院、さらに、貞享・享保の図(前出)による久松寺(第二次本多家時代)があったところである。かくして寺院は城主の移封など
により変化するものの、これらは外郭西地区における寺町を呈していたものであって、郡山城において郭内の武家地に複数の
寺院が一団となって置かれていた所はほかには無い。また、このことは大織冠馬場通が総構西部における要害の地として重
要視されていたことをうかがわせている。なお、久松寺・圓光院の由緒などは不詳である。
図中に見える外堀・溜池は今日ではすべて埋め立てられて目にすることはできないが、往時の外堀は幅7間から13間、土
居の高さは3間から3間半で、また、延宝の図(前出/1678-9)に見る大織冠地区の土居一帯には松の木が植栽されて並木
を形成していた。「大和名所図会」(寛政3年(1791)刊)に紹介されている“大織冠松”はこの辺りにあった名所と推察され、郡
山城総構のなかでも大織冠丘陵と松並木の景観はことに雄大無比を誇っていたのである。
なお、大織冠馬場通は、現在の藤原・冠山・南郡山の3町にまたがる地区となっている。また、このとき屋敷数は12軒であっ
た。
◇餌取佐六郎
久松寺跡屋敷に住んだ餌取佐六郎は、武衛流砲術の師範家(師役之面々)である。このとき佐六郎は銃隊組頭であった。
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49 大織冠【武家地 13】、50 大織冠坂【武家地 14】、51 大織冠川口裏【武家地 15】
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○本稿において北部大織冠地区の武家地を一括して紹介する。例によって図を作成したので参照されたい。すなわち、北部大
織冠地区(34軒)を三丁に分け、鶯色の濃淡で表現した。また、安政図において無記入であるが、文久図に書き込みあるもの
の一部を補い、その姓名を紺色で示している。
○“大織冠”は、図中左端の横山家より、右端“西御屋鋪”手前までの南北約400m、東西約250mの間に形成された武家
地で、安政図における22軒と文久図より2軒を補記して武家屋敷を24軒とした。
小路が迷路状に設けられているのは防御上の事由とは別に、西に高く、東に低い地形に由来しているものといえる。それは
傾斜地に平坦な屋敷地を造成するという必然性と、そのために多くの袋小路が随所に見られ、かつ、屋敷地の方向も一定しな
いのがここ大織冠丘陵地全体の大きな特徴となっている。なお、大織冠は現在の冠山・南郡山町の一部となっているところで
ある。
◆“惣稽古所”
ここ大織冠の惣(総)稽古所は、天保6年(1835)8月、四代藩主柳澤保泰(1782-1838)のとき、三の丸五左衛門坂より新
築移転されたもので、藤川友作(冬斎/1795-1869)を儒官に抜擢して教育改革の舞台となったところである。ために、多くの神
童・秀才を輩出した。なお、こうした柳澤家藩学の伝統は明治維新後も長く引き継がれて行くことになるのである。
以下、惣稽古所については、「郡山城百話 05 三の丸・五左衛門坂【その2】 025◇藩校惣稽古所の沿革」を参照された
い。
◇豊田多万記
柳澤家中の豊田家は、利右衛門重興の寛文5年(1665)、柳澤吉保の父安忠に仕官した柳澤家譜代中の譜代家である。数
えて7代の多万記高逵(たかみち)がここ大織冠屋敷のに住んでいた。このときは御旗奉行職にあった「豊田家文書」。
◇桃井勇記・三間類八は、このとき大目附を勤めていた。
◇和田忠兵衛は、このとき郡代を勤めていた。
○“大織冠坂”は、総構の大織冠口より東へ下る坂をいう。この坂のほとりに形成された武家地で、本多政勝の藩政時代より
第二次本多家藩政時代までは“古文坂”と称されていた。大織冠口に本多家藩儒の満田古文(後出)の拝領屋敷があったので
こう呼ばれたもので、その跡は、図中の吉田一邸、あるいは二宮五兵衛邸ではなかったか。
大織冠坂は、本稿において安政図の吉田・井出・二宮家と、文久図の伊川家を加え武家屋敷4軒とした。なお、現在は冠
山・南郡山町の一部となっている。
◆満田古文
満田(光田)古文(-1691)は、播磨国の農家に生まれ、幼いころより学問に傾倒してこれをよくした。あるとき、古文が草刈を
するときも“古文真宝”(先秦〜宗までの詩文集)を携えて、片時も手放さなかったというような噂が、時の姫路城主本多政朝
(1599-1638)の耳に達するところとなって、これを取り立てて藩儒としたという(郡山町旧記(前出))。
やがて、寛永15年(1638)政朝の跡を継いだ政勝が、翌年姫路より大和郡山城主となって移封、古文もこれに従い郡山へ
移った(屋敷前述)。実は、古文は林羅山(1583-1657/幕府儒官)の門人であり、「内記政勝公御家中分限帳」(『大和郡山市
史 史料編』所収)によれば、扶持衆のなかに満田古文(15人扶持)の名が見える。
また古文は、延宝・元禄(1673-1711)のころ郡山の植槻のほとりに住居した、山崎闇斎(1618-82/崎門学派の祖)門下で蝋
燭屋甚兵衛と名乗った林宗甫(-1695?)の旧友でもあった。古文は、延宝9年(1681)夏4月に宗甫が上梓した『大和名所
記』/内題『和州旧蹟幽考』(奈良県史料第1巻/豊住書店)に、宗甫の需めに応じて跋文をよせている。古文曰く「・・・古人
云、西湖之湖可言不可悉矣。吾土亦然乎。今見翁之志其可謂勉也。・・・」と、また、その号に懶斎亀蔵とある。
○“大織冠川口裏”は、上堀之側西門外の南屋敷を拝領していた川口十大夫家(図中央下)の裏手にあった大織冠地区のな
かの一つの丁名である。川口家は、享保入国以来、代々ここに住んでいた郡山藩宿老家の一つで、このころは御城代の職に
あった。
大織冠川口裏は、安政図の4軒に、文久図の2軒を補記して6軒とした。現在、この辺りは冠山町の一部となっている。
〔2006.11.24訂正 山本頼母→小川丁北丁〕
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○“堀之側”は、ここ“上堀之側”ならびに東部左京堀に面した武家地の総称であり、それは、すなわち堀向こうに本城を臨む
立地からして、近世においては上級家臣の居住区域として、五軒屋敷とともに一つのステータスであったことは前述のとおりで
ある。
“上堀之側”は、左京堀の西部(上部)ならびに鰻堀を臨む武家地として、本稿においては“堀之側”とは別の単位丁名として
取り扱っている。それは、文久図に見る“上堀之渕”を採りながらも、“渕”の書き入れを誤写とみる筆者の管見から、これを“上
堀之側”と改めたものである。現在も
上堀之側の屋敷数は7軒である。なお、現在は北郡山・南郡山・冠山・天理町の一部となっているが、地籍図の地字は「堀
之側」となっているところである。
◇川口十大夫
(「城下町百話【町・寺社地】」27「新編郡山町中記」【三十番野垣内町)の常念寺の条を参照されたい。
◇柳澤権大夫
本姓は曾禰氏。柳澤吉保の父、柳澤安忠の代より老職を勤めた筆頭家老家で、“柳澤”の称号ならびに偏諱を与えられてい
る。宝永7年(1710)6月、保挌は隠居し、家督を嗣子保誠、二男貞貴に分知することを許されている。この二男貞貴こそ博学
多芸(『近世畸人伝』前出)で有名な柳里恭(1703-58)その人である。
里恭については、本稿「郡山城百話07◆南門虎口、西門虎口、薪曲輪」(039西門虎口は城の搦手)において紹介している
ので参照されたい。
◇藤波牧太は、このとき年寄並で、文学武芸・武具御用掛を兼帯していた。
◇安元彦助
幼名阿萬(おくま)、のち彦助と改める。安元家は、柳澤家の郡山入部以来、代々ここ上堀之側を邸地とした。彦助は、このと
き銃隊奉行。維新後、奈良県官房主事、保安課長を務め、明治31年(1898)2月の奈良市制施行にあたって奈良市長事務取
扱となり、奈良市政の条令・機構を整備した。
父魯三郎司直は、維新のとき貢士として知られ、兄杜預蔵(どよぞう)とともに儒者森田節斎(1811-68)門。明治4年(1871)
8月には、五條県大参事となった。
また、彦助の伯父杜預蔵は、高名な儒者森田節斎の高弟で、文武兼備の憂国の志士として知られ、嘉永6年(1853)5月に
は、吉田松陰(1830-59)が江戸遊学の途次来郡して、ここ上堀之側の安元家に一泊して憂国を篤く語り意気投合して、松陰
はこのことを兄に書き送っている。また、久坂玄瑞(1840-64)の遺稿に杜預蔵を評して「天下三奇人」と称えた。同年6月、アメ
リカ提督ペリーの浦賀来航のとき、沿岸防備のため幕命により郡山藩は杜預蔵をその長として関東に下らせたが、たまたま、
瘍(よう)を患った杜預蔵は自ら刀で患部を切除して、国の大事に馳せ参じたという人物である「郡山町史」。
◇井上甚五左衛門は、このとき家老格であった。
◆“西御屋鋪”
第二次本多家藩政時代(忠平-忠烈)までは侍屋敷であったものを、享保9年(1724)柳澤家入国のときから藩主家の御用
屋敷(私邸)となったものと推定できる。しかし、屋敷の詳細を示す史料(指図など)をいまだ見ないのでその概要すらも不明であ
る。西屋敷は、現在の「奈良県郡山土木出帳所」と、「レストラン/ル・ベンケイ」の一部がその跡地である。
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○“堀之側”は、城北に穿たれた左京堀をへだてて郡山本城を臨むところに造成された武家地で、上級家臣が居住した地区で
ある。西部は上堀之側を境とし、東部は竪丁、そして北部は下植槻筋・植槻筋裏に接していた。地形は、西に高く東に低い。そ
の標高差は19.6mを測る。また、各屋敷地は、間口70mから100m、奥行きは平均50mを超えた。なお、左京堀は“かき
あげ堀”で桜門枡形付近を除いて石垣を積まない土居仕立となっていた。こうした土居廻りを藩では“御要害廻り”と呼んだ。な
お、堀之側武家地側の土居には蔀(しとみ)の松が随所に植栽され、平生から厳密な維持・管理がなされていたところでもあ
る。
幕末のころ6軒の屋敷があったこの堀之側は、現在、天理・植槻・北郡山町の一部となっている。
◆柳澤保恵と“柳澤文庫”
明治35年(1902)4月、旧藩主柳澤家の時の当主柳澤保恵(1870-1936)は、私立図書館“柳澤文庫”をここ堀之側にあっ
た郡山別邸内に開設している。開かれた“御文庫”として学生をはじめ広く一般に親しまれるところとなり、この年の入館者は
1,188人であった。地方の私立図書館の当時の事情や郡山町(2,200戸弱)の規模を考えればその入館者数は小さい数字
ではない。やがて、昭和に至って著しい社会情勢の変化に一旦休館していた文庫は、昭和35年(1960)10月、後継の柳澤
保承(1888-1960)を発起人として法人化再興されたのが、今日の(財)郡山城史跡・柳沢文庫保存会/「柳沢文庫」)である。
堀之側の御文庫時代から通算して今年(平成18年)で104年の長い歴史を、現在地(城内毘沙門曲輪跡)において刻み続け
ているのである。
保恵は、明治26年(1893)10月に家督(襲爵/伯爵)するや、同年には、“柳澤家奨学貸費制度”の創設をはじめとして、学
校の建設・維持などの費えを出捐するなど、郷土の子弟の教育には物心両面の支援を惜しむことはなかった。このため郡山か
ら多くの人材が輩出したのである。
保恵は、明治26年、学習院大学科を優等により国から選ばれて翌年ドイツに留学して以来、同33年の留学満期の帰国ま
で、ドイツをはじめオーストリア・ベルギー・フランスの各国大学に転学し、統計学・社会学・国家学・フランス語学などを修めた。
この間、イギリス欽定統計学会員となり、明治32年ベルギー開催の第7回国際統計協会会議へ初めて参列して論文を提出、
それより同会議への提出論文は18回におよぶ。また、同会議へ出席のため開催地諸国(9カ国)を歴訪し、やがて、国際統計
学協会名誉会員に選ばれて統計学者としての名声を不動のものとした。統計局顧問・臨時国勢調査局参与などを歴任、大正
2年、東京本邸に柳澤統計研究所を設立して総裁となる。そして、大正9年9月1日の第一回国勢調査の実施など、我が国の
統計行政の中心人物として活躍した。明治37年から貴族院議員。一方、昭和7年東京市会議員となり、同11年市会議長と
なる。わけても保恵が願望してやまなかった昭和5年(1930)9月東京開催の第18回国際統計協会会議には東京会議準備委
員会会長を務めるとともに、統計会議の開幕劈頭、フランス語で演説するなど保恵伯の面目躍如たるものがあった。明治26年
から昭和10年までに保恵によって著された統計関係の遺稿は47を数える(『統計事業史』/柳沢文庫蔵 参考)。
逸事をひとつ紹介しておこう。保恵は将棋を好んで小野五平名人・関根金次郎八段を師として弟子の礼をとっていたが、大正
3年には、大阪において阪田三吉(当時七段)と保恵(三段)が飛車落ちで対局するほどであった。翌年、保恵の斡旋で阪田三
吉は準名人八段に昇段し、大正5年に第一回柳澤主催将棋大会を開催、阪田三吉八段・井上義雄八段、阪田・土居市太郎
七段の対局がおこなわれた。第二回開催までは確認できるが、以後資料を欠くので確たるところは不明であるが、大正6年に
再び阪田との対局に臨むなど、こののちもなお将棋界の振興に深く寄与して、明治・大正期の将棋界の恩人とうたわれたので
ある。
このほか、その事績は枚挙に遑は無いが、郷土郡山での教育とともにならび称されるのは、柳澤養魚場(1900)の設置(図
中の永田邸跡)と、金魚の世界各国への輸出(1915-)であり、国際人保恵の実力は大いに発揮され、やがてはブランド“郡山
金魚”の名を確固たるものにしたのである。保恵が掲載した『英文大阪毎日』(1915.12.24)の宣伝記事、見出しに曰く「郡山ゴ
ールドフィッシュ 世界のアイドルとワンダー」と。
なお、当時の郡山別邸(本邸は東京)は、図中の永田・斎藤・後藤邸の跡(現在、社会福祉会館等が建つ)に置かれていた
が、のち城内毘沙門曲輪跡へ邸地を移した。
◇多田内記は、このとき年寄を勤め、年録・腰物武具御用掛を兼帯していた。
◇斎藤孫兵衛は、このとき大寄合であった。
◇後藤繁之進は、このとき寄合衆であった。
◇松平但見
元禄12年(1699)の柳澤吉保時代、公儀の命により柳澤家家臣となる。荒川土佐守の従弟。松平姓。名は但見、通称九左
衛門を名乗る。柳澤吉里藩政(甲府)時代の正徳2年(1712)、家老職となる(『分限帳 上(重臣略譜)/柳沢史料集成第二巻/柳
沢文庫 参考)。但見や九左衛門などの名乗りは主君からの賜号であることが例であり、なかでも官名や国名・藩主所縁の名
によらない“但見”の号については、過ちを恐れず憶測するに「空山不見人、但聞人語響(王維・鹿柴詩)」をとったものかも知れ
ない。ちなみに唐の王維は詩をよくし、南画の祖といわれる人物であり、家風である文人殿様の賜号にふさわしいものと愚考
するものである。
それはさておき、松平家の子孫は相継いて、若年には番頭や寺社奉行などの要職にあって、やがては老織に昇ることを常と
した。天保9年(1838)7月に家督した藩主柳澤保興(1815-48)の初入部に際して、郡山藩庁でおこなわれた典礼“御家督御入
部恐悦”に、藩主体調不調の折から代わって取り仕切ったのが家老松平但見であったことは本稿において既に述べたところで
ある(「郡山城百話」11◆二の丸屋形075焼失前の屋形 参照)。
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○“上植槻筋”は、上堀之側の裏手、郡山城北の総堀との間に形成された武家地で、東西にのびる“植槻筋”(下植槻筋・植
槻前・植槻裏)のもっとも西部に位置していた。幕末期の上植槻筋には14軒の侍屋敷があった(図参照)。なお、上植槻筋
は、現在の天理町の一部となっているところである。
◇瀬戸弥八は、このとき勘定奉行の一人で、近江藩領の代官として金堂住宅(滋賀県東近江市(旧五箇荘町))に赴任してい
た。これは、「安政年間家中図」(前出)と、慶応4年(1868)分限帳とのタイムラグである。なお、近江藩領(58,000石余)に
はほかに海津住宅(滋賀県高島市)があった。
◇板垣庄左衛門は、このとき年寄並であった。
◇安達三郎兵衛・曽雌直記は、このとき番頭を勤めていた。
◇今立糺は、このとき大小姓組であった。父六郎珍人は京都留守居役(壬生屋敷(壬生境内寺之前町(京都市下京区)))を
勤め、天保15年3月に寄合衆となっている。
◆“天理教郡山大教会”
上植槻筋の一帯には現在、“天理教郡山大教会”がある。明治21年(1888)12月、郡山町南大工町で本格的な布教をおこ
なうようになった“天理教郡山分教会所”は、その後も発展して教場が狭隘となり、昭和5年(1930)には敷地約1万5千坪のこ
の地に新築移転したのである。当時の経緯を調べてみると、天理教教会関係者と町助役とが上京して土地所有者(柳澤保
恵)の了承を取り付けたもので、“郷土の発展のため”町を挙げて協力した結果であった。ちなみに当時の信徒数は既に数万を
有していたのである。
◆“尼ヶ池”
尼ヶ池は、南方の大織冠蛇ヶ池から北部に続く外構の溜池である。この池の東の堤には、昭和28年頃大阪口へ抜ける新道
が付けられた。当時は堤へ盛り土を施すため土がトロッコで運ばれていたが、筆者などはトロッコに乗って叱られた記憶があ
る。もとより藩政時代には“御土居”として厳格に管理されていたところであり、通行などできるところではなかったのである。
ところで、尼ヶ池のことについて「郡山町旧記」(前出)は、大納言豊臣秀長の郡山城拓修の折、城の鎮守社として多武峰
(奈良県桜井市)を郡山城の西に移すため造営をしたとき、社地の土を取った跡が尼ヶ池であったと伝えている。また、当時は
“海士口池”と呼ばれたという。
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○“下植槻筋”は、東北に「植槻筋裏」、南に「堀之側」、西に「上植槻筋」、外堀を隔てた西北に「大坂口(南田中)」と隣り合っ
ていた武家地である。幕末期の下植槻筋には、9軒の侍屋敷があった(図参照)。現在は、植槻町の一部になっている町であ
る。このあたりは江戸時代から水道の“元井”が多いところで、大和郡山水道事業の発祥の地となっているところである。市の
水道局が植槻町に置かれているのも故無しとはしないのである。
◇中澤小一兵衛は、このとき鎗奉行であった。
◆“七っ井戸”-水道のはじまり-
郡山の水道は、元禄以前の延宝のころには本多藩水道奉行支配の簡易水道があり、城内の水源池から武家地や城下の
本・塩町の一部に給水され、その運営は水道株仲間でおこなわれていた。元禄2年(1689)には、水不足で困っていた塩町の
豪商4人が新井の維持費負担を条件に藩の許可を得、水道元で新井を鑿って給水量を増やしている。寛政13年(1801)に
は、給水を受ける井戸数33箇所(侍屋敷6軒、塩町22軒、本町4軒、本町1軒)と記録されているが(注1.)、これより前、宝暦
7年(1757)の「宝暦家中図」(注2.)によると、左京堀北岸の堀之側の堤防にあった通称「七つ井戸」(前出)から3系統に分水
し、これに、植槻丁(下植槻筋・植槻筋裏)元井5箇所(図参照)ほどの水源からの水を加えて城下(30軒余)へ給水していた。
水道は、もっとも遠いところでは藺町(酒造業松屋弥兵衛(150石)があり、元井から1050mを超えた。松屋へはうT中町裏
から給水されていたのである。次に新町の高砂屋六兵衛(60石)・糀屋甚四郎(50石)や堺町の蝋燭屋六兵衛(120石)・酒
屋伊三郎、本町(塩町)の扇屋重兵衛ほか4軒(永原屋、八尾村屋など合わせて590石)、それに塩町の米屋などがあった。
武家地のなかには南町奉行所(当時、安元彦助)内に2箇所水道がとり入れているのが目に付く。
ついでながら、「七つ井戸」とは別の矢田筋武家地内にあった「弘法水」(前出)からも、今井町の土蔵屋源蔵(新七/130
石)・岡屋十兵衛(甚六/130石)、柳町3丁目田原屋喜兵衛(五兵衛/80石)に石樋で給水されていたのである(注3.)。
なお、括弧書き中には、享保9年(1724)のころの酒造株のデータを参考までに併記したものであるが、この間30年余りの時
代がある(注4.)。しかし、酒株の側面として酒造業は代々続けられ、固定化された業種であり、名義貸しなども盛んにおこなわ
れたのである。
酒造は幕府の統制(明暦3年(1657)創設)を受けていたことはよく知られている。享保当時の郡山の酒造高は、株数33軒、
総酒造高3280石であるが、延宝8年(1680)には、株数62軒、総株高11376石であったから、時代とともに次第に“休株”
も増加ていることがわかる。これらは米の豊凶による敏感な影響を受けたことは言うまでも無いが、郡山の酒株は、やがて、3
分の1減となり、幕末のころには半減となっている。豊年の“勝手造り”にはなかなか至らなかったようである。また、ことに郡山
は山間とは違い酒造に適する「名水」に恵まれなかったこともその要因のひとつでであったといえよう。なお、「七つ井戸」の水
道は、竹製のパイプに、木製のジョイントでつなぎ合わせてそれぞれの溜め井戸へ配管されていた。県道城廻り線の道路工事
で発見されたこれらの一部が、水道局で保管されて残っている。
(注1.『郡山町史』・注2.柳沢文庫蔵・注3.「郡山町旧記」天理図書館蔵・注4.『町村鑑』柳沢文庫(複写本) 参考)
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○“植槻前”は、東に竪丁、西に下植槻筋、南に堀之側、北に植槻筋裏の四丁に挟まれた軒数わずか3軒の武家地であった。
現在は北郡山町の一部で、丁の西端に位置する植槻八幡神社以西は「住居表示法」の施行により、元の町名の北郡山町を
変更して植槻町とされた。その境(図中、横地藤治屋敷)には近鉄橿原線が南北に横切っている。
◆“植槻道場”
「侍町にまじりてわずかに残れり。やしろたてて植槻の八幡とよぶかたはらに観音堂一宇あり。・・・」『和州旧跡幽考』の「植
槻道場」の文頭にあらわれる一節である。また、『大和志』に、「郡山ノ東北植槻八幡祀ノ傍ニ観音堂一宇在リ。元嶺亨釈書ニ
曰ク、和銅二年十月釈浄達ヲ延キ、維摩会于此ニ修ス。古歌有。」(読本)とあり、これは和銅2年(709)10月に、藤原不比等
(659-720)が僧淨達を招いて維摩会(ゆうまえ)を執り行ったという記述である。のち平安遷都(794)後の延暦20年(801)か
らは勅命により南都興福寺においておこなわれるようになった法会で、維摩会は宮中大極殿の御斎会(ごさいえ)として、この
のち明治維新まで続くことになる。毎年10月10日から藤原鎌足の忌日16日までおこなわれたのである。
また、万葉集13巻に、「我が思ふ 皇子の命は春されば 殖槻か上の 遠っ人 松の下道ゆ 登らして 国見あそばし」とあ
り、高市皇子(654?-696/天武帝第二皇子)が殖槻の丘に登って国見をしたときの歌である。
植槻(殖槻)は、大和郡山市で最も古い地名であり、関係する史料も多い。しかし、現在もなおその寺地の特定はなされてい
ない。元「建法寺」といい、奈良薬師寺の梵鐘は、長保5年(1030)にここから引かれたもので、のち、破損して長らく「薬師寺
の割れ鐘」と称されていた。造り替えられた現在の梵鐘ではない。
また、殖槻寺比定地として口碑に、地字「別所谷」、「松ノ下」の辺りとあって、「植槻寺縁起」には「是より三町あまり乾の方
にちいさき池あり、其の像をほり出したる処なり」としていることから、前者の「別所谷」(九条町)付近を植槻寺と比定されてい
る(田村吉永/1893-1977)。いまひとつの「松ノ下」(柳町)は、植槻八幡神社からは500m以上も西方に離れているが、か
の高市皇子の国見にはまさに絶好の地といえる。植槻寺比定地というよりも“殖槻が上の”にあって、眺望のきく国見ゆかりの
地というべきではなかろうか。また、こうしてみると、のちに描かれた「植槻寺縁起」の絵巻は、まさに植槻寺の実景としてのイ
メージをもっているといえよう。
なお、比定地付近の出土瓦の一例を示すと、大和郡山市水道局拡張工事の際に検出(1975.11.24)された古瓦(写真@/拓
本(個人蔵)原寸110×40mm)や、郡山城西門土橋脇から筆者が発見(1970.10.5)した古瓦(写真A/筆者蔵/原寸120×55
mm))などあり、このほか古くから多数の遺物出土例が広範にわたり伝聞される土地柄でもある。郷土の遺産として、平城京
十条の調査とともに、改めて「殖槻寺」を見直す時期に来ているのではないだろうか。
写真@ 写真A
◆“植槻八幡神社”
本殿は、春日造一間社、江戸期の造営である。祭神は誉田別命で、神紋は「下がり藤」。鎮座年代は不詳ながら、奈良時代
創建の「殖槻寺」との関係は否定できない。応永13年(1406)「法華寺田畠本巻」に、九条三坊五ノ坪の内に「ウエツケノ宮前」
の田地名があるので、このころには植槻宮の存在が知られる。
◆“植槻観音”
植槻神社内には、江戸期まで観音堂一宇があったことは既に述べた。明治元年(1868)以降に出された一連の「神仏分離
令」により、現在は、九条町の光伝寺境内東部に移されてある。
(注.『郡山町史』、『大和郡山市史』、『和州旧跡幽考』(奈良県史料第一巻)・『大和志』(奈良県史料第三巻 参考)
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57 植槻筋裏【武家地 21】、58 土橋筋【武家地 22】、59 正願寺屋舗【武家地 23】
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◎“郡山城総構え”の北部中央のこの辺りは、西に大坂口、北に九条口をひかえる要衝に位置する武家地群である。
西方の尼ヶ池東堤から東へ約400mのところから外堀は向きを北に変えて大坂口の土橋に至る。土橋の手前の堀は、近代
以降半鐘付き火の見梯子が建っていたため、通称“番鐘池”と呼ばれ、また、土橋の北には鴨池に通じた6間半幅の堀があっ
たが、どちらも今日では埋め立てられている。さらに外堀は、鴨池北から東へ片原代官丁に沿って約260m下り、何和町の薫
高院前から南へ“九条口”に至る。ここは、かつて“九条町大門”の建っていたところである。
○“植槻筋裏”は、植槻観音(八幡)の裏手に位置した武家地の称で、幕末には9軒の侍屋敷があった。現在の町名は、植槻
町と北郡山町の一部に二分されている。
◇水谷福造
藩督学藤川冬斎門の秀才。藩儒として、また、のちに開いた私塾「三郭学舎」の塾頭で著名な水谷福造(克庸・竹荘)は、時
に45歳、ここ植槻筋裏に住んでいた。屋敷跡は現、大和郡山市水道局の局舎敷地である。
◇印藤別書は、このとき寺社奉行を勤めていた。しかし、役宅である“寺社屋敷”はこの丁になかったので、小川丁北丁か中丁
に住んでいたことになる。これは、「慶応4年分限帳」と「安政図」のタイムラグである。
○“土橋筋”大坂口の土橋にちなむ丁名で、この時代は14軒の侍屋敷があった。現在は、植槻・代官・北郡山の三町にまた
がる町並みである。
◇永井彦大夫
土橋口北屋敷には、大和(倭)流弓術の師範家であった永井彦大夫(前名新次郎)が住んでいた。彦大夫の京都三十三間
堂における大矢数(通し矢)は有名な話しである。このとき奏者番を勤めていた。
◇桑原幸次郎
このとき松之間詰であった。安政5年(1858)12月、二の丸屋形焼失後の“御屋形惣御新規建替御用掛”に名を連ねた桑原
集(幸次郎)である。
◇矢嶋織殿助は、このとき用人並であった。
◇川目雄左衛門は、このとき勘定奉行を勤めていた。
○“正願寺屋舗”は、本稿において基としている「安政年間家中図」には各々の屋敷名は記されていない。しかし、「文久三年
家中図」にわずか2軒の書き入れがあったので、参考としてここに示しておいた。屋敷割りは概ね25軒であるが、屋敷の形態
からその北部は“組屋敷”であったかも知れない。なお、正願寺屋舗の名称は、この地にあった寺号に由来する丁名である。
◇“正願寺”
正願寺については、「23 「新編郡山町中記」【二十六番 洞泉寺町】」を参照されたい。
〔訂正 平野源左衛門→竪丁へ2006.11.22〕
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○“竪町”は、現在北郡山町の一部となっている。丁は、五軒屋敷評定所外の堀之側から、北へ九条何和口までの約320m
の通りに面した武家地で、西側4軒、東側2軒は柳澤時代の当初から変わらない。町名の由来は、城下町の形態から分類さ
れる「たて町」からきているが、その通称町名も古くは「立町」、現代は「建町」などと記されるように、本来の町名の意味合いが
次第にうすれてきたことがわかる。
この通りは城下から大坂海道への幹線道路として道路幅も6間と広くなっている。北には郡山城惣構えの虎口「九条何和
口」がある。虎口といっても枡形が形成された痕跡はなく、虎口の左右に土居をめぐらせ、外側に8間余りの堀を配したもので、
ここにあった惣門(九条町大門)も早くに廃されて、江戸期にはもはや町場支配から武家地支配に移ったと考えられる。つま
り、「九条町大門」は、柳・田・鍛冶町と並んで城下町の四大門と位置づけられていたからである。しかし、軍事的な要所であ
ることには変わりなく、道路は南から北に向かってやや北北西に弓なりの“ひずみ”をもたせてあるなど見通しにも配慮されて
いることがわかる(参考図は直線状とした)。また、九条何和口西には槍の名人岩田郷右衛門(杢之助/後出)を、東(小川丁
北丁)には南蛮流砲術で内外にその名を知られた近藤亘理助を置くなど、平時からの備えに配慮がみられるのは、郡山惣構
えの虎口に位置する武家地共通の事柄である。虎口前の九条土橋を渡ると城外の薫高院池前に武家地の九条堀之側、それ
を過ぎると町場の何和町である。また、この通りを境にして西部は丘陵部にかかるところで、東はほぼ平地となる地形上の特
徴がある。
◇九条何和口に住んだ岩田杢之助は、無辺流槍術を代々受け継ぐ藩師範家で屋敷内に道場を開いて活況であった。岩田六
左衛門正方(-1769)は、郡山三代藩主柳澤保光の槍術の師であったことが知られる。杢之助は、このとき松之間詰であった。
◇大石源太左衛門は、このとき寺社奉行を勤めていた。しかし、竪丁には、寺社奉行の役宅はなかったので、“小川丁中丁”
の図の青山段之助屋敷のことろに居たことになる。つまり、南寺社を勤めていたのである。このことは、資料としている「慶応4
年分限帳」と「安政図」のタイムラグが原因である。
◇青木早太郎は、このとき寄合衆であった。
◇丹羽與大夫は、このとき鎗奉行であった。
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