大和郡山城ばーずあい -図説 城郭と城下町-       ごあいさつ | ア ク セ ス | 更新情報サイトマップホーム



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61 小川丁北丁【武家地 25】
○小川丁は、北・中・南の三丁からなり、総称して“小川三筋”と記録される。豊臣秀長の三家老の一人、小川下野守が屋敷 を構えたことが丁名の由来として伝えられるが下野守の動静は明らかではない。また、関ヶ原戦後に番手城となった郡山城 は、大久保長安の在番(大和代官)に続いて、慶長15年(1610)山口直友が在番となり、郡山城惣構えの東北部ここ小川丁 三筋に与力三十六騎を居住させたことが知られている。
 柳澤家藩政時代の武家地の屋敷割は比較的固定的とみられるが、ここ小川丁はそれに反してすこぶる屋敷替えが多い武 家地である。初代柳澤吉里の時代、元文5年(1740)の屋敷割と、幕末期のそれとを比較すると明確な違いがわかる。このこと は、家臣団の中でも比較的異動の多い中級家臣層の居住がその要因であるといえる。
○“小川丁北丁”は、西端の竪丁角から東の惣構え土居下までの約370mの道路に沿って形勢された武家地で、江戸時代 末期には20軒であったが、その地割は第一次本多時代(1639-85)から変化がみられない。なお、丁の東の“御土居”前に は、南北方向に小川丁馬場が設けられていた。
◇近藤亘理助
 郡山藩砲術五流(南蛮流・藤岡流・武衛流・荻野流・洋式(高島流))の内、南蛮流師範家で砲術の名手として知られてい る。このとき亘理助は鑓奉行で銃隊総督を兼帯した。なお、近藤家は、寛政のころ江戸詰めであった。
◇藤川冬斎(1796-1869)
 藤川冬斎は、諱を晴貞、字を子幹、通称を友作、号を冬斎という。天保12年(1842)、父晴受の致仕により家督。文武兼備し て槍をよくし、古文辞学(徂徠)を修め、のち京に遊学して頼山陽門、また陸王に傾倒、著作も多い。藩主保泰は、碩学冬斎を 登庸して藩教育の改革を行った。高弟に平島奎堂・山村狼渓・水谷福造などがあった。また、大坂町奉行与力で陽明学者の 大塩平八郎後素との親交が知られている。
 なお、このとき(慶応4年分限帳)冬斎は、寄合衆で文学督学を兼帯したが、「安政図」による役宅は“北寺社”屋敷になって いる。それは、安政元年(1854)12月17日、冬斎が儒者から寺社奉行に就任していたためである(「新古見出并留方」(前 出))。
◇池田弥八郎は、このとき寄合衆であった。
◇赤松衛門は、このとき寄合衆であった。
◇益田金作は、このとき金作は北町奉行を勤めていた。

◆町奉行屋敷と寺社屋敷
 天保4年(1833)2月17日、郡山藩は“寺社奉行屋敷”と“町奉行屋敷”を取り極めている。つまり、寺社・町奉行の役所を固 定的に設置したのである(「新古見出并留方」(前出))。寺社奉行は、寺社と寺社地(除地)の管理を行い、神官・僧尼・楽人・ 検校などの諸職を統轄した。定員は2人で、うち一人が月番となり、奉行の下に寺社役3人が所属し、南・北で交代してその所 掌をさばいた。町奉行は定員2人で、同様に月番制をとり、それぞれに町与力1人(騎とはいわない)と町同心10人が組となっ て南・北で交代し、城下町に関する行政・司法・警察のすべてを掌っていた。このため町奉行には武器として鉄砲40挺預けと なっていた。
 この寺社・町奉行屋敷の取り極め前は、自邸で執務していたと考えられる。ところが、自邸では差し支えが生じるようになっ たため固定した役所が必要になったということである。
 ところで、小川丁北丁のはこれまでと同様「安政図」(前出)の書込みに基づいて作図しているので、突合せに使っている 分限帳(慶応4年(1868))との間には概ね10年ほどの差が発生する。中の益田金作の役宅は、道路北側の奥から5軒目 になっている。ところが、北町奉行の役宅である奉行屋敷は、中右下の長嶋種太郎屋敷のところにあった。このことは、「安 政図」の時代の北町奉行は長嶋種太郎であったことを示している。なお、このとき年寄並となっていた長嶋種太郎は、益田金 作の前任者であった。
 
◇西窪蔵太郎は、このとき番頭を勤めていた。
◇武藤丹左衛門・樋口文左衛門は、このとき鎗奉行であった。
  
62 小川丁中丁【武家地 26】
○小川丁の中央に位置する“小川丁中丁”は、竪丁の角より東方小川丁馬場まで約360mの道路に沿って形成された武家 地で、17軒の家中屋敷が建ち並んでいた。丁の中ほどには小川北・南丁と連絡する通路および水路があった。なお、地割(屋 敷地割)は、第二次本多時代となんらの変化はない。現在の市立郡山北小学校運動場と郡山北幼稚園は、この丁の東部に 位置している。
◇青山段之助・千葉七郎右衛門は、このとき寄合衆であったが、「安政図」による青山段之助屋敷は、南寺社の役宅であるの で、段之助の前職は寺社奉行である。ただし、寄合衆としての段之助の役宅は、基とした資料からはわからない。
◇土肥老之丞は、このとき大目附を勤めていた。
◇志村藤七は、このとき勘定奉行を勤めていた。
 
63 小川丁南丁【武家地 27】
○“小川丁南丁”は、“小川丁三筋”の南端に位置する武家地で、幕末期には18軒(図中、打越丈蔵は「文久図」による)の侍 屋敷が建ち並び、柳澤家家中の中級武士層が居住したところである。現在は、北郡山町の一部を占め、市立北小学校・学校 給食センター・お土居の松小公園などがある。また、左下の左京堀端道路からまっすぐ、右下の小川丁辻番所方向への 平城京九条大路跡に沿って、現在は幹線道路が新設されている。
◇小川丁辻番所
 かつて武家地の要所に設けられていた“辻十ヶ所番所”の一つ“小川丁辻番所”が小川丁馬場南の辻に置かれていた。辻番 所の東方約110mには郡山城下の表口である鍛冶町大門が建ち、この辺りは“郡山城惣構”東北部の要地であった。また、 ことにこの方向の家中の他出には“小川丁辻番所”前を通行することになっていたので、辻番には物頭(弓鉄砲頭)から場所柄 の注意を平素から喚起されていたのである。ところで宝暦7年(1757)8月、番所庇内の下座敷に水道普請が行われたことが あった。このためここを城主子息の柳澤久米次郎(信復/当時11才)や家老が通行する際、辻番が下座する場所がないので 普請中に限って上座敷で下座する旨、辻番に対し物頭から申し聞かされている(「新古見出并留方」(前出))。なお、この水道の 水源は資料からは明確ではないが、“七ッ井戸”から引かれた可能性はあるといえる。
◇小川丁馬場
 小川丁馬場は、古くから郡山城外郭に設けられた東・西二馬場の一つである。惣構の土居下内側にあり、『正保城絵図』(前 出)によると“北南百廿八間”(約252m余)とあり、西側の小川丁南北道路との間に“埒”が設けられてあった。また、馬場南 端の藪の中には、“ダルマ井”(「郡山町旧記」(前出))と称する井戸があったが、現在は見られない。
◇御土居の松
 土地では訛って“おどえのまつ”という。小川丁三筋の東部には、惣構の外堀(広嶋池)および郭内側に土居(土塁)”が築造 され、土居上には“蔀の松”が植栽されていた。明治30年代(1897-1907)には、ここ小川丁だけで10数本の老松が立ち並び 古城の風情を残していたが、その後次第に本数を減らしながらも、その景観・風致は広く市民に愛されるところとなっていた。 立ち並ぶ老松の推定樹齢は約300年、根方の周囲約5.0m、樹高は、高いもので30mを超えていた。第二次世界大戦の末 期に食料増産政策を反映して郡山城惣構の土居は各所において開墾地とされ畑地化して甘薯などが植えられていた。このた め根方の土を取られた松は次第にその樹勢を失って行った。昭和48年頃の松くい虫などの虫害によって一段と枯死が進み、 市民団体の保存運動が行われるなか、樹医による手当てが試みられたがここ小川丁土居に数本残っていた松も、やがて、19 75年のころにはすべて枯れてしまった。この間の1969年12月に、“市の木”を「くろまつ」とされたのはこの“御土居の松”に 由来している。なお、ちなんで小川町には“お土居の松”記念碑と小公園が設置されている。貴重な写真があるので紹介して おこう。写真(戸口建次郎氏撮影)は、西方の小川町から在りし日の“御土居の松”を望む。写真の奥に見える建物は西奈良 口町の民家。写真技術と両々相俟って“御土居の松”の壮大さが見て取れる写真である。
◇谷口平格
 平格は家の名。前名を新太郎という。このとき26才で御用人並を勤め、文学武芸御用掛を兼帯した。
◇森弥七兵衛・細田半助は、このとき番頭であった。
 
●御土居の松
64 茶園場【武家地 28】
○“茶園場”は、鍛冶町大門内における城下北端の町場と接する武家地である。「安政家中図」(前出)においては、14軒の 家中屋敷に姓名が記されているのみである。しかし、他の約16軒分は明屋敷というわけではない。このことは、「享保家中 図・宝暦家中図」(前出)を見れば瞭然で、享保で33軒(内明屋敷1軒)、宝暦で34軒の屋敷があったからである。よって、「安 政家中図」の茶園場の家中屋敷には省略があるということになる。
 また、茶園場の中央を東西に伸びる道路が、途中から鍵の手になっているのは、古くからあった薬園八幡宮の御旅所( 照)が魚町から北の茶園場方向へ出張った形になっていることにより、茶園場の屋敷地割に影響を及ぼしているわけである。
 左京堀から東方へ流れ下る水路は、野垣内村に取水権のある水系である。
 茶園場は、現在北郡山町の一部と、塩・魚町のごく一部が入り組んでいる地区である。
◇“袋丁”
 “茶園場”は、前城主(第二次)本多時代までは二つの武家地であった。すなわち、“袋丁”(6軒)と“茶園場”(7軒)である。 を参照されたい。“袋丁”は、西方左京堀端の土肥邸から4軒分で行き止まりの武家地であったし、また、道路中央南側の 井岡邸から東方が、元の“茶園場”であつた。享保9年(1724)柳澤吉里の郡山入部に伴う家中屋敷の配置のときには、すで に“茶園場”として一つの武家地となっていた。というのは、「享保家中図」の書き込みに、道の描かれていない部分に家臣名 が記載されているからである。享保入部直後に新しく設けられた道路は、の中央部に“鼠色”をもって示したとおりである。な お、「享保家中図」は第二次本多時代の絵図(模写)を元として、これに家中屋敷を落としたということがいえそうである。
◇“広島丁”への木橋
 ついでながら、第二次本多時代後期には茶園場の北東部の外堀を臨むところに、土居を切り通して広島丁へ渡る木橋があ った(参照)。もちろん、広島丁へは鍛冶町大門外の町場である(西)観音寺と奈良口の二箇所からの通路がなくはないが、 ここに木橋が設けられたということは広島丁の武家地としての地位に由来するものであることがわかる。このことは、第二次本 多時代の分限帳「本多唐之助家中覚書」(大和郡山市史史料集)により知ることができる。すなわち、広島丁は、70石〜100 石取りの家臣の屋敷地になっていたからである。そして、この木橋は柳澤時代になって早晩廃止された模様である。
◇南町奉行屋敷
 左京堀横には南町奉行屋敷があった。北町とは月番交代であったことや、町奉行屋敷の設置が天保4年(1833)2月からで あることもすでに述べている。また、ここに示した屋敷名には中条作之進とあるも、作之進はすでに普請奉行の職にあり、この ときの町奉行は北町は益田金作、南町は樋口新八であった。なお、南町奉行屋敷の隣地には町同心20人の“小屋”が併設 されていたようである。
◇青木宗牛
 代々医業をもって柳澤家に仕えた家臣で、このとき“奥入”の本道(内科)であった。医師号を宗牛、陶芸をよくして時の城主 柳澤保光から“木兔焼き”の号と陶号“木兔”の押印を賜った。それまで青木は“向春焼”と称し、乾漆の茶碗などもつくって著 名である。ただ、木兔は、安政6年(1859)に卒去したので、このとき(1868年分限帳)の宗牛(友敬)はその子であり、27歳の 安政5年12月に家督を許されている。
◇山下八右衛門は、このとき御鑓奉行であった。
◇土肥八百右衛門は、このとき郡代格であった。
 
65 広島丁【武家地 29】
○“広島丁”
 「安政家中図」(前出)の広島丁には、居住した家中の姓名は省略されて記されていない。「享保家中図」(前出)によれば概 ね4、50石の家臣の屋敷があったことがわかる。

○郡山城図に見る“広島丁”界隈の変化(以下、中番号を参照されたい)
図中@ 正保期(1645)における広島口の虎口形態は枡形を伴うような本格的なものではないが、街道筋の奈良口町南端か ら西進して広島にあった虎口(以下、本稿において「広島口」という)に至る道路は、虎口前からやや南寄りに外堀側へせり出 した形で広場を設けている。外堀向こうの小川丁側には同様に外堀へせり出した虎口を構えてそこから広島丁側に木橋架け ている。虎口左右の土居の高さ1間半であり、また、“横矢掛り”などを構える重厚な虎口形式とはとても言えないが、前述の ように通路を“鍵の手”として正面道路から虎口を隠してこれを補っていると言え、加えて小川丁側には土居伝いに南北128間 の馬場を設えている。有事の際には虎口前の木橋を落とし、馬場は広大な武者溜りとして守城のため十分に機能しうる構えと なっていたわけである。正保期の郡山城総構の虎口に木橋が架けられていたのは、このほかに鍛冶町大門口と大坂口があ り、そのほかは水位の高低差を調整できる土橋となっていた。なお、正保期における広島丁の道路は奈良口からのアクセスの みで、また、広島口虎口前から南へ外堀の西端沿いにあった通路は袋小路(←→の箇所)となっていた。なお、総構広島口の 虎口の廃止については、延宝期(1678)にはその存在が認められるので、天和期(1682)までには廃止されたものとみてよ い。
 また、正保期における広島口から北方の外堀は、その南の堀幅7間と変わらないが、虎口を境にやや西寄りに雁行した形 で、隣丁の“新屋敷”(武家地)に突き出た形状(参照)となっていた。そして、その堀留からは東方の観音寺村領を介して、 やがて南方の大和川まで流れ下る水路が穿たれていた。一方、奈良口大橋の北方にある秋篠川から引水する水路は、正保 期において一旦外堀に落として(図中左下隅)のち、間接的に“分水分け”がおこなわれていたが、現在では、直接、観音寺村 領ほかに分水できるようになっている。現在のような水系に付け替えられた時期については、天和期の松平信之の藩政時代 にまでは遡ることができる。こうした“分水分(訳)け”について裁定された“水論”が絶えなかったのは古来からの農村の常で あり、いかに封建時代とはいっても、城郭形成と既存(新設等も)水系との関係については、わけても大河をもたない大和盆地 における郡山城および城下町周辺の注目すべき問題の一つでといえる。
 
図中C 広島丁西の外堀沿いの道は、松平信之藩政期に鍛冶町大門口外の観音寺町から広島丁へ西進できる通路が新設 されたことにより、正保期の広島丁堀伝いの南北袋小路の南端は、このときにつながれている(←→の箇所)。これによって広 島丁は北東の奈良口町と南東の観音寺町(現観音寺町)の両町からアクセスできるようになったのである。このことは前述の 正保期の広島口の廃止時期と無縁ではない。城下町の表玄関に当たり、江戸(京・奈良)街道に口を開く鍛冶町大門口の町 場の道路と、家臣が通行する道路とは正保期に広島口に虎口があることによって直接武家地にアクセスできた時代とその動 線は大きく違う。さらに、武家地広島丁の地位が時の藩主家の大小と無関係ではないということである。このことは、正保期の 第一次本多時代19万石に膨れ上がっていた城下は、延宝期の松平信之藩政時代には6万石にまで落ち込んでいることを考 えればこの問題は自然と解けてこよう。

図中B さらに、第二次本多時代(12万石)になって再び家臣団は増加し、ことにここ広島丁は家臣層の数の影響や、居住家 臣の分限もあがったことにより、何かと不都合となったのである。このときにはすでに正保期の虎口は廃止されていたし、中級 武士で100石取りの家臣が町場の鍛冶町大門口を潜って茶園場・小川丁南丁から武家地に入りなおすことになるからであ る。これによって、鍛冶町大門口奥の土居(図中右)を掘り切って、そこから木橋を広島丁に向けて架けることによって直接アク セスできるようにしたのである。なお、後述の柳澤藩政期と対比して、その要因が、大名家の家風か、時代背景か、分限など かについて一様の解釈は難しいといわなければならない。
 そして、このころには広島丁北隣の武家地である“新屋敷”(100軒/本多政勝の造成)はすっかり廃れていたが、家臣増加 による屋敷割りの都合で広島丁の北部に屋敷を設け、さらにそこから北の新屋敷(南東部)へも数軒の屋敷が必要となり、こ のとき広島丁北から新屋敷へ新道がつけてられた。

図中D 享保9年(1724)柳澤氏(15万1,200石余)の入城により、広島丁の事情はさらに変化する。それまで広島丁西端の堀 伝いにあった道路は、これを広島丁の東中央にスライドさせ、道路を挟んで東西に屋敷画地を増加せしめるとともに、ほどなく 第二次本多時代に架橋された広島丁南西隅からの木橋を廃して、堀り切られていた土居なども元に戻されたのである。

 このように広島丁は、松平忠明が元和5年(1619)7月に大坂から郡山へ転封ののち、芸・備州太守福島正則の遺臣を抱え て新たな武家地として造成してより、明治廃藩までの250年余の間に少なからず変化したことが、限られた絵図類などから読 み解くことができるのである。
 
66 九条堀之側【武家地 30】、67 新屋敷【武家地 31】
○“九条堀之側”は、郡山城総構の虎口である九条口(左下)の外堀(薫高院池)前に形成された武家地である。前述のよう に隣地で町場の“何和町”の中央部(図中左上部の辻)から南方がすべて侍町であった正保期の名残を伝える武家地であり、 堀に向かい合う箇所を、特に第二次本多期のころからか“九条堀之側”と称していたようである。幕末期の侍屋敷は2軒を数え るのみであるが、総構虎口の要地として重要な位置におかれた武家地である。現在は北郡山町の一部となっている。
◇富松岩蔵は、このとき寄合並の銃隊奉行兼並勤方を兼帯したが、郡山藩砲術八家の内の荻野流砲術の師範家として有名 であり、こうした虎口の要所に屋敷地をあてがわれたのは偶然のことではない。
◆薫高院
 延宝8年(1680)の建立と伝え、開基の薫高院法印の法号を寺院号とした。ときの城主松平(藤井)信之家所縁の寺院であ ったかもしれない。のち享保期(「町鑑」(前出))には山伏の道場となっていた。今は廃して無いが、元何和町内に属したので 九条領の寺院である。

○“新屋敷”は、外郭にあって8・5ヘクタール余りの広大な武家地であった。その成立は本多政勝藩政期にさかのぼるが、絵 図類の観察から、のち第二次本多藩政期にはその規模の縮小とともに廃されたように見える。しかし、史料検索の結果、第二 次本多藩政期の絵図(注1.)によれば、67区画程度の武家地として描かれ、家臣名は省かれているものの依然として家中の 邸地であったことがわかる。その後、一旦は武家地を廃されていたようであるが、柳澤藩政期の幕末期に至って再び武家地と して家臣に割り当てられた(120区画)様子が絵図(注2.)によって確認できるのである。この間も荒れた武家地として保持され ていたと考えられる。また、これら二図を比較すると道路や各画地なども大幅に改められていることがわかる。このことから、 “百軒町(丁)”の異称が伝えられるのは柳澤藩政期のことであると推定ができるし、同時に、幕末期の新屋敷のなかでも、家 臣の邸地とされた時期は一時期ではなく、広島丁続きになる新屋敷東部(九条領字山本地区)の方が、西部に比して早期で あったことが絵図貼紙の履歴から読み解くことができる。
 現在の字新屋敷は、北郡山町の一部であり、蟹川から以東、奈良口町手前までは九条町小字山本となっている。この一帯 の現況は、央部の南北方向と、中央上部の東西道路半ばから東へは、幹線道路(県道奈良・大和郡山・斑鳩線)が通 っている。なお、外堀部分に当たる当該道路には、かつて“桜橋”(RC)が架っていた。桜橋より西部は工場用地や住宅、東部 の蟹川まではおおむね工場・商店・住宅地と農耕地、蟹川から東方は多く農耕地が残っているが市街化の傾向がある。
 また、図中の外堀水系の取水権は野垣内村ほかとなっていたことは今も変わりはないのである。なお、遡れば文禄期に急 造された郡山城総構は、秋篠川の流路変更により、その川跡を利用されたことはすでに述べたが、秋篠川の北部旧流路は、 まさに中の蟹川付近に当たるわけである。
注1.「日本輿地畿内郡県郷里部大和国添下郡郡山町地図」(独立行政法人国立公文書館蔵)
注2.「宝暦四年 御家中屋敷小路割名前図」(財団法人郡山城史跡・柳澤文庫保存会蔵)(前出)
 
68 代官丁【武家地 32】
○“代官丁”は、寛永16年(1639)郡山へ入封した本多政勝により城下各所において新規に造成された武家地の一つに数え られる。代官丁は西に高く東に低い地形上に築造された武家地で、幕末期には総構堀端の通りを“片原代官丁”、北の通りを “中代官丁”と称し、住居表示法の施行前までは通称町名として親しまれたが、現在はその南部を“代官町”、北部を“九条平 野町”という。
 代官丁成立当初の第一次本多家のときは屋敷数13軒に過ぎなかった。のち藩主家が入れ代わったので当該規模により武 家地も少なからず変化し、ここ代官丁も一時は武家地を廃止されたことがあった。第二次本多家初期の貞享2年(1685)には2 6軒を数えるまでになり、そして、享保9年(1724)入国の柳澤吉里のとき、片原代官丁に10軒(明屋敷1軒)、中代官丁に23 軒の屋敷地として家臣にあてがわれて以後は、屋敷割り33軒もおおむね定まったいえる(「郡山藩家中図」享保9年(前 出))。また、江戸中期以後の代官丁は、職制上各職にわたる中級家臣の屋敷地となっていた。
 なお、本稿は「安政家中図」(縮小印刷本)を資料としているため家臣名を判読できなかった部分を中に「□」でもって示し ている。したがって無記入となっている屋敷地はこのときの明き屋敷である。 
 の右中央の道路が何和町との境で“鍵の手”になっているのは、北西部に大坂海道をひかえている何和町界隈の古式の 戦略的遺構であることは「正保絵図」(前出)で明らかである。すなわち、何和町側から代官丁は“突き当たり”の袋小路に見え る。また、同様に東部の道もこれに対応して鶴翼のように結構されていたが、天和期以後の絵図においてはこれを見ることが できない。
◇総構の外堀(溜池)には古くから取水権があることは、本稿において再三にわたって述べているところであるが、代官丁付近 の外堀(溜池)もその例外ではない。中左下の鴨池から北方へ流れ出る水路には、九条領を経てやがて蟹川中流域に至る 水系と、野垣内領ほかを潤す代官池外堀水系とに分ける分水分けがある。
 
69 地蔵田畝【武家地33】、70 別所【武家地34】、71 梅ヶ谷【武家地35】
○“地蔵田畝”
 江戸期には“地蔵田畝”、近・現代において北郡山村(町)“割場”と通称し、現在は住居表示により“城北町”という。ただし、 の上方のごく一部が九条村(町)へ入り込んでいる。
 「正保城絵図」(1645)には、“侍町”と記され早くから武家地(中☆印の部分)であった。本稿ではその背後の13軒を地蔵 田畝に含めて計16軒の武家地としているが、元来は大坂海道筋へ通じる街路と片原代官丁の辻を固めるような形で造られた 小さな侍町だったのである。この13軒が武家地になった事情は、前述の“新屋敷”(【武家地31】)と同様、柳澤家藩政期の幕 末に至って家臣に新しく割り宛てられた武家地である。ただし、新屋敷と地蔵田畝には相違点がある。すなわち、前者は正保 期からすべてが武家地であったのに対して、後者は表通りの3軒分ほどが武家地で、あとは田畑(年貢地)であったことであ る。
○“別所”
 “別所”は、幕末期11軒の武家地であった。内、2軒は北隣の町場である平野町の西端を侍屋敷としたものであり、他は年 貢地を武家地としたものである。現在は、九条町の一部で地字の別所谷がそうであろう。
○“梅ヶ谷”
 梅ヶ谷の地名が物語るように、地形がやや谷状になりここより西方は丘陵地となり、その上にはもと西岸寺が建っていたとこ ろである。なお、梅ヶ谷は、第二次本多時代までは足軽町であった。現在は、北郡山町の一部で地字に梅ヶ谷をとどめてい る。

 近・現代において通称町名となっていた“割場”は、地蔵田畝・別所・梅ヶ谷の一帯を総称した地名として成立したのではない かとみられ、かつ、このことは近世末にまでさかのぼることができるのではないかと筆者は考えている。また、“割場”は、幕末 期中・下級の郡山藩士の屋敷地となっていた。
◇西岸寺
 現在、北郡山町に“西岸寺台”の地字を遺すこの寺は、もとは“浄真寺”と号し、寛永16年(1639)、本多政勝が郡山に入部 後、間もなく拡張した東外堀内一角の野垣内町(現、西野垣内町の常念寺寺地)に建てた菩提寺で、前在所の姫路から移し た本多家菩提寺であったと考えられる。しかし、浄真寺は松平信之の郡山入封の翌年、延宝8年(1680)12月15日の郡山大 火に焼失し、その翌年北郡山村に移されて西岸寺と改号されたと伝えている。なお、西岸寺が廃寺となった時期については明 確ではないが、享保家中図(1724/前出)にはその存在を認め、宝暦4年(1754)家中図(注1.以下本稿において「宝暦家中 図」という)にはすでに無くなって侍屋敷地となっていることがわかる。
 なお、延宝7年、松平信之の郡山入封と入れ代わりに、陸奥福島へ転封の本多忠国(平八郎政武)は、西岸寺の寺籍のみ をかの地に移したという。また、寛文13年(1673)造立の西岸寺開基天誉上人(梅南大和尚)像が車町西方寺に伝えられてい るが、政勝の治世に活躍した超誉上人(天誉上人の高弟)を西岸寺一世とする説もある(『郡山町史』)。
注1. 「宝暦四年 御家中屋敷小路割名前図」(財団法人郡山城史跡・柳澤文庫保存会蔵) 本図は、宝暦4年に新調されて より幕末まで引き続き使用されたといえ、そのおびただしい貼紙を履歴として家中の異動などを時系列に読み解くことができる 貴重な史料である。
 
72 大坂口通り【武家地36】、73 三組丁【武家地37】、74 南田中【武家地38】、75 北田中【武家地39】、76  矢場【武家地40】
○大坂口界隈
 大坂口は大織冠とともに柳町村の枝郷であった。文禄検地においてすでに柳町村の新開地“柳町開”として村高に数えられ る地域として知られ、柳町村の枝郷である大坂口は、その西過半南側の約300m(東西2町42間)に形成された片側町で、 家数105軒の内、農家63軒のほか借家52軒で、街道筋ということもあり米屋、小間物屋、八百屋、請酒、豆腐屋など18人 が商いをし、医師・職人などもいたところである。(「和州御領郷鑑」(前出/以下、「享保郷鑑」という)
 で示した郡山城総構外の北西に位置する大坂口一帯は、正保図(前出)においてすでに武家地として成立し、後述となる 大織冠・矢田口とともに“足軽町”と記されているし、のちの第二次本多(忠平〜)時代も同様である。また、天和の絵図(前 出)において大坂口通り辺りには、「与力」、「普請方・郡奉行組」、「借中間・下男」、と記され、職制・分限に基づく家臣団の居 住地としていたことがわかる。これらは時代・家風・分限などの要素によって表現が変化しているわけである。蛇足になるが、 本多家(政勝〜)の時代の正保図による武家地等は、「侍町」、「侍屋敷」、「かちのもの町(徒の者町)」、「足軽町」、「奉公人 町」と分限上の区分けがなされた一団の武家地に家臣を集中的に配置する傾向はこの時代の特徴のひとつであろう。近世に おいて足軽は歩卒として士に区分され、鉄砲伝来後は戦術上に大きな変革を来たして鉄砲隊組織が重要になり、足軽も分化 して鉄砲足軽・長柄足軽・弓足軽の名称が生まれた。
 さて、幕末期の城主柳澤家の分限帳をみてみよう。柳澤家に“足軽”という名称は無きに等しい。わずかに代官役所附小使と しての足軽4人と、評定所門番に1人を確認することができるのみである。それではここ大坂口の界隈には柳澤藩政期どのよ うな家臣が配置されていたのだろうか。このことについての一考察をここに掲げておく。なお、以下において「郡山藩の」という のは、1868「分限帳上・中・下」(注1./前出))にいう分限を指している。

◇組之者
 郡山藩の分限帳には、“組之者”という表記があり、国許に定員666人、江戸を合わせると741人の家臣が抱えられてい た。ただし、増減は相当数にのぼったし、時により他の組へ加人として臨時配転などもされたので人員は一定しない。組之者 というのは、近世において“同心”、または“組同心”と呼ばれた下級職として知られている。与力1人(一騎)に一定人数の同 心が組を編成しその職務を遂行したのである(以下、「組」に番号を付した)。
@御先手組
 郡山藩のなかでも最大数の武装組織であった“御先手十八組”(前出)は、与力18人に対して定員399人で、藩内では“御 先手同心”と呼ばれた。与力1人(一組)に当時の実数で弓7人、鉄砲14人をもって組織し、主に城門を守っていた。これを統 括した弓鉄砲頭は“物頭”・“武頭”とも呼ばれた武装集団の大将のことである。
A城代組
 城主参府の留守年に城を預かり守護した。郡山藩の場合、城代は国家老の筆頭という位置づけではなく、家老の支配に属 する席次である。また、添城代組の存在も確認できるが、幕末期には席次のみで欠員となっていた。城代組には鉄砲組21人 が附属されていた。たとえば、城下近所の出火には、城代は本丸(天守曲輪)にあって、毘沙門・常盤・玄武曲輪の各門を開 け、また、曲輪内の各櫓・多門・渡櫓・武器蔵・納戸土蔵などの火の用心に采配を揮った。
 なお、城代組の組屋敷については矢田口に置かれていた(注2.)。
B御持二組
 いわゆる、持筒頭・持弓頭を郡山藩では御持頭と呼び、その定員は3人となっていた。ときの持頭の姓名を冠した組名を称 し、鉄砲組与力一騎に、同組同心22人、弓組与力一騎に同組同心21人を組織して、地廻り(郡山周辺)・南都・京都などを舞 台に職務を遂行した。藩主在国にはその警護の任にあたることを主にし多岐にわたる職掌があった。また、持頭のうちの一人 は京都留守居を兼帯し、京壬生藩邸(下京区綾小路大宮西入)に赴いて藩務たる禁裏火消し御用や、京都所司代ほかと各種 の折衝を行うなど重責を担った。
 持頭の勤書をみてみると、寄合並と申し合わせて月に三度ほど屋形に詰めること。地廻り出火の節、手組を率いて警衛にあ たること。緊急の藩主京都出馬にそなえること。藩主の諸流砲術見分の立会いなどが記される。平時、平同心は要所にあった 武家地辻番所のうち、大織冠辻番所、蔵前辻番所(柳蔵前)の二箇所に勤務したほか、出火の節家老中へ3人ずつ駆けつけ ること。龍華山法事の砌、番所前へ出勤すること。南都祭礼の砌、4人ずつ出勤すること。京都出馬の御供を勤めること。家老 中御借供、小人目付・御金蔵同心・御厩小頭などの加人を勤めること。納米加人を勤めることなど、事細かに規定されている (注3.)。
C郡代組
 郡代組には、川除在中普請方山奉行の配下に川除方下役(同心)が5人、蔵奉行配下に蔵同心7人のほか、鉄砲36挺を預 かる同心26人が附属していた。なお、郡代支配の役所としては“山之手”の大和代官役所(代官役所とも)があった。
D町奉行組
 町与力二騎の下に町同心2組が附属、与力一騎に鉄砲40挺預けとなっていた。町奉行2人が月番交代の勤務で、南・北町 と称した(前出)。

 このほかに、E年寄組の一部門である納戸御用役兼腰物・武具奉行の下に、同心11人の組があった。
 また、F大目附・目付支配に属した小人目付58人がいて、これら人々は組之者の範疇に含められてはいたが、同心とはい わず小人目付といった。大目附・目付(徒目付)の指図を受けて監察・隠密をおこなって各所で勤務し、御目見以下の“諸士” の糺察などをおこなったので、職務上他の同心とは扶持や扱いに一線を画していたようである。小人目付の組屋敷は史料(注 2.)により矢田口と確認できるが、矢田口は小人目付すべてを置くにはやや狭隘である。

 なお、藩主の参勤に供をする江戸詰めも恒常的に勤めた。また、普請奉行や台所頭、奥用達・広式御用役、評定所の各支 配に属した組の者があるが少数でもありここでは省いている。

 次に、これら諸組の屋敷(小屋)割りについての考察である。遺された資料からこのことを知ることはなかなか容易ではない。 当時、周知の事実はことさらに記しておく必要がなかったからであり、家中図にもそうしたことは明記されていない。記された家 中の姓名から分限を検索することも、資料の薄さからこの場合ほとんど無力に近い作業である。したがって、以下は、史料によ り明確なもの(前述)を除き、他は一考察に過ぎないということを断って敢えて指摘をしているわけである。
◇組之者屋敷割の考察
 家中図(貞享・享保・宝暦・安政)などから、組之者の屋敷(小屋)の丁割を次のように考えてみた。なお、大坂口通りには、 本稿において、西過半を「上」、東過半を「下」と表記した。
○“三組丁”(大坂口通り上)には、E年寄組(同心11人)、B持組の二組(鉄砲組22人、弓組21人)の計三組と推定。
○“南田中”、○“北田中”(大坂口通り下)、○“矢場”(“三組丁の北”)の3箇所には、@御先手十八組(各丁に6組ずつ、総 数378人程)と推定。
・大織冠・矢田口には、F小人目付(58人)。史料(注2.)により確定できた矢田口のほか、大織冠と推定。
・矢田口は、A城代組(鉄砲同心21人)と確定。
・茶園場(旧袋丁)は(南町奉行所付近)、D町同心組(20人)と確定。
・山之手代官役所内に、C郡代組(26人ほか)と確定。

○大坂口通りは、この北方約390mにある町場の平野町から平行して西に走る大坂本街道(暗峠越え)の間道的な意味合い をもつ道路である。両街道は、いずれも西方の富雄川沿岸の添下郡大和田村木島(奈良市)で落ち合っているからである。な お、郡山からは木島より追分村への道を取り、榁木峠から暗(椋嶺)峠越えに進む大坂道である。
 大坂口通りは、東の鴨池端から妙善寺口の角(参照)まで約370mの登り坂に営まれた丁であるが、丁名としてよりも街 道名として捉える方が当たっている。それは、街道筋の西過半の南側は柳町村の新開地として農家や商人などが住んだ片側 町(大坂口)であり、三組丁・南田中・北田中の武家地はともに大坂口通りに面していて独立した丁とはなりえないからであ る。近代以後は北郡山村の“大坂口”として通称町名となり、現在に至っている。なお、正確には武家地として三組丁・南田 中・北田中・矢場の4丁があった。中のうち屋敷(黄銅濃色)と小屋(同淡色)を色分けして参考に供しているのは、前者が武 家屋敷、後者が小屋(組屋敷)として推定した区分である。

◇筒井紀充(1668-1747)
 筒井紀充は、大和系文殊派の刀工として知られる筒井久左衛右衛門包国の子で、初名包国、輝国、輝邦と改め、元禄6年 ころに入道して紀充と号した。新刀の業物を鍛刀したことで有名である。延享4年没80歳。紀充は、はじめ大坂において作 刀、享保年中には河内の横小路で鍛刀したが、のち郡山藩の刀匠として抱えられここ大坂口に住した。紀充を三代越中守と し、その子四代に越中守包国がいたとされている。
 幕末期、三組丁の北西には藩の鍛冶を勤め郡代格を兼帯した城代組の筒井忠右衛門が住んでいた(中◇印)。忠右衛門 は紀充の流れであり、近代に入ってなお屋敷内には鍛冶場が遺されていたといわれている。

◇郡山藩の砲術
 郡山藩の砲術には五流、弓術には四流(主に三流)があった。なぜ、ここで鉄砲や弓が出てくるかというと、前述のように大 坂口界隈(三組丁・南田中・北田中・矢場)の武家地には、城代・年寄・持・先手組の鉄砲組や弓組の武装集団が置かれてい たとみているからである。郡山藩士は文武両道を藩校惣稽古所(徒目付兼帯預り)において研鑽を積んだのであるが、城代・ 年寄・郡代・町奉行・持・先手組など諸組の弓や鉄砲の鍛錬には、門弟として藩師範家に属して“矢場”や“演銃場”(大織冠 地蔵矢場を改称/徒目付兼帯預り)を使用することになっていた。このため演銃場内の“大織冠地蔵山角場・大織冠矢場15 間”(現、郡山中学校校地と付近)のほか、“明神山八十間打場”・“九条矢場”・“七条山(七条大池、大和田山)”などで、組ご とに“数打”の訓練がおこなわれ、藩主の臨場もたびたびおこなわれ、その奨励に努めていたのである。
 例えば御先手組は半数の九組で、郡代組は夏季のうちにというように非番や職務上の隙季を利用して訓練が繰り返されて いた(注4.)。これらの打場(射場)が大坂口近隣に集中していたことと、諸組の中心地であった大坂口界隈との位置関係は単 なる偶然ではないと筆者は考えているわけである。
 なお、洋式の大砲などは大橋河原(奈良口)や、藩領七条山から大和田村にかけての長さ5町〜20町、藩領広瀬郡藤井山 (城内村)から石塚山にかけての長さ18町の射場で試射・訓練がおこなわれていた。さらに、郡山藩においてはこれら諸組の ほか、分限上従来の鑓奉行の配下に新式の“銃隊”を組織していた。その時期についてはいまだ知見を得ていないが、しか し、早くて嘉永7年(1854)、遅くとも文久2年(1862)のころまでと考察することができる。そして、最幕末にはゲーベル・スナイ ドル銃など使用していたのである。
 郡山藩は幕命により寛政5年(1793)異国船対策として「勢州備立」の軍役(人数ほか大筒装備)をはじめとして、安政元年 (1854)異国船の泉州沖碇泊による京都警衛、文久3年(1863)の天誅組の乱、翌年、異国船大坂天保山沖碇泊のため安治 川口警衛等々、ことに戊辰戦争などを契機として比較的早くから洋式砲術化への変革が図られていたように考えられるためで ある。

◇妙善寺
 北郡山町(大阪口)にあり、山号を隠々山という。天正元年(1573)、甲斐国に日猛上人が草創した日蓮宗の寺である。享保 9年(1724)、柳澤吉里の国替えに従い現地へ移転した寺で、享保20年(1734)のころにはすべて寺観が整った。境内「妙見 堂」の扁額「妙見星」は、能筆で知られる郡山藩三代柳澤保光が文化6年(1809)6月に揮毫・奉納したものである。妙見信仰 は、江戸時代ことに武士間の信仰が盛んとなり、妙見星(北極星)は神格化された信仰の中心である妙見菩薩を指す。したが って、旧家臣の墓所が多い。藩儒でのち明治期の藩校「敬明館」の総督となった山村狼溪(1814-70)の墓などがある。また、 明治5年(1872)の近代学校制度「学制」の制定によって、妙善寺に小学「遷喬館」が仮設され、同8年、小川町の「養正館」と 合併・移転されるまでここにあった。
注1.「分限帳上・中・下」財団法人郡山城史跡・柳澤文庫蔵本 参考
注2.「郡山藩旧記」柳沢文庫所蔵(転写本) 参考
注3.「御持頭手控」(大和郡山市教育委員会蔵「豊田家文書」) 参考
注4.「文武御用掛控」(大和郡山市教育委員会蔵「豊田家文書」) 参考
  
77 大織冠蛇ヶ池端【武家地41】、78 外大織冠【武家地42】、79 奥大織冠【武家地43】
○大織冠は柳町村の枝郷として、すでに文禄検地帳に新開地として現れている。のちの「享保郷鑑」(1724)によると、大織冠 は、東西1町32間、南北4町10間、家数64軒中、持家42軒、借家22軒で、医師・職人・商人(豆腐屋・酒屋)なども住んで いた。また、このとき25軒の侍屋敷があった(以下、を参照されたい)。なお、大織冠は現在、柳町の一部となっている。
 ところで、かっての柳町村は村高1,000石余の添下郡の一村で、天正期の郡山豊家入城にともなう城郭や城下の拡張に よって、その村領の農耕地を失い、そして、城下町の発展とともに農家として立ち行かなくなり、村人は次第に商家を生業とし て町場に移っている。やがて、延享5年(1748)、柳町村は村領のうち新開地であった大坂口・大織冠地区と分化した結果、本 村である柳町村に農家が1軒という危機のなかで、許可を得て柳町五丁目裏に新しく9軒で新しい柳町村を興し、“裏田圃”(う らたんぽ)と呼ばれる村落を造るに至ったことは前述のとおりである。ところが、大坂口・大織冠地区も、寛永16年(1639)の本 多政勝の入封以後、郭外の同地区にも武家地化(足軽町)がおこなわれてさらに耕地を失っていったのである。以後、城主交 代の都度、家臣団の多少によって武家地は廃止・復興が繰り返され、わけても、大織冠の場合は顕著な変化がみられる。さら に、柳澤藩政期の147年間のなかにおいても、少なからず変化を繰り返したようで、宝暦家中図(1754-1865の間)にかなり の明屋(空家)がみられる。
 前回の「72大坂口通り【武家地36】〜76矢場【武家地40】(参照)」において考察の大職冠は、大目附・目付支配の小人 目付の住んだ武家地と筆者は推定しているところである。
○“大織冠蛇ヶ池端”は、郡山城総構に利用された古くからの“蛇ヶ池”を臨む南西側にあった武家地をいう。なお、“大織冠” の地名はすでに述べたように、天正年間の郡山城主豊臣秀長によって多武峰(桜井市)より郡山に遷座、間もなく還御した新 多武峰大織冠に由来する藤原鎌足の称である。
○“外大織冠”は、大織冠口より南部の武家地をいい、堀伝いに南の“矢田口”と道がつづいていた。
○“奥大織冠”は、北部の通称“地蔵山”(現、地字“幾知山”)に向かって営まれ、農家と侍屋敷が入り混じった地区であった。 ここには、寛政11年(1799)のころ柳町村の“御堀郷惣代”を勤めた喜兵衛が住んでいた。このことは、城下や関係各村々の 水利権に関して、大織冠(柳町村)の特権的慣行としてなお公認されていたことを物語っている。
◇幾知山(地蔵山)
 幾知山は近代に名付けられた地字といってよい。現在の大和郡山市立郡山中学校の校地はこの“幾知の山”の中心部にあ る。
 いささか話は飛躍するが、645年、中大兄皇子(天智天皇)をたすけて蘇我氏を滅ぼし、大化改新に大きな功績をたてた中 臣(藤原)鎌足(614-69)はあまりにも有名である。その鎌足神社がここ幾知山の西域に鎮座していることはよく知られている。 一考するに地字となった幾知(兆しをしる)は、「大化改新」に臨んで「談山神社(多武峰/かたりのやま)」で、その大業の 「幾」をよんだ藤原鎌足公を称え、祭祀してここにおわす山として、“幾知山”が撰ばれたと思うのである。なお、『易経』(繋辞) にも、「知幾其神乎」“キをしるはそれシンか”と見える。
◇大織冠地蔵矢場
 幾知山は、近世末のころには“地蔵山”の通称で知られて、藩の“大織冠鉄砲地蔵矢場”があったところである。地蔵山西方 にある仲仙寺の地蔵堂に因む称であるといえよう。地蔵山は、奥大織冠の北の谷を隔てて、北西にある仲仙寺や鎌足神社方 向から、東の尼ヶ池(外堀)方向に伸びる一丘陵で、前述のとおり現、郡山中学校の校地がそれである。
 「(仮)大織冠鉄砲地蔵矢場の図」(注1.)と推定される矢場の概略を記しておく。東西総長30間(約59m)の外囲いは、下水 (溝)を廻らせ、その水源になる堀(池)が矢場東端に穿たれていた。西向きの“打場”には、その東南側に入口二箇所を設け、 また、東にあった出口付近には矢来を結って進入をさえぎってあった。その矢来の外には土蔵が1棟建っていた。矢場内の入 口近くには勝手棟を設けてある。メイン建物である藩主御覧のため御座所の付いた“打場”棟の西面からアヅチ(的場)までの 射場の距離は15間(約29m)である。矢場の左右には土手を築いて“正木”を生垣とし、“アヅチ”の手前に左側に“矢見塚” を、その陰に“矢見”の小屋を置いてある。アヅチは前後に大・小があり、そこには“龍の髭”が植えられてあった。
 このように本来の結構は矢場仕立であるが、この時代には弓・鉄砲両方の射場(近的)に用いられたのである。
◇大織冠鎌足神社(大織冠宮・鎌足社)
 前述のとおり、郡山にあった(新)多武峰が、天正18年(1580)12月、旧地(桜井市)へ還御ののち、その跡は武家地とされ たので、社地跡の柱礎石の下から出土した神鏡一面を“霊御形”として、旧社の近く大織冠馬場辻番所の西方に「大織冠宮」 を祀っていた。そして、のち宝暦5年(1755)、ときの城主柳澤伊信により、地蔵山の現地に移されたと伝えている。
 現在、神社入口に建つ石造の明神鳥居には、「寛政元年己酉(1789)九月吉日」・「聖護院宮寄附」と刻されている。これは、 郡山藩主三代の柳澤保光の藩政時代に聖護院(宮)が寄附し建立したものである。一方、「享保郷鑑」の“除地”の項には、 “聖護院門主末、本山派山伏仲仙寺”と記されている(次項「仲仙寺」参照)。聖護院は後白河天皇皇子の静恵法親王が入寺 してより、代々法親王(宮家)が相承する門跡としての長い歴史をもっている。近代に至って明治5年(1872)以後は天台寺門 派に編入、さらに昭和21年に修験宗となり、現在の本山修験宗の総本山(京都市左京区)となっている。近世においては修験 道本山派の法頭として同派の諸国山伏を統轄していたのである。そして、明治元年(1868)の神仏分離令(「廃仏希釈」)によ り、大織冠宮と仲仙寺も峻別されたといえよう(注2.)。
◇仲仙寺
 仲仙寺は、現在、天台宗延暦寺の末寺で、山号を神宝山という。寛文年中(1661-73)に本多政勝が生駒の蓮台寺の本尊 (石造地蔵菩薩立像)をここに移して開基したと伝え、堂宇は貞享元年(1684)に開山となった法印大僧都空山雄傳の創立と なっている寺である。
◇蛇ヶ池
 蛇ヶ池は、かつて郡山城総構の一部であるとともに、地形上郡山の最高所にあった農耕用の水源地(差し渡し南北約58 m、東西約84m)でもあった。ここから尼ヶ池、番鐘池、鴨池と雨水を湛えつつ流れ落ち、やがて東から南の外堀、そして佐保 川に至るまで途中の村々の田畑を潤していたのである。蛇ヶ池および下に見える外堀は、現在ではすべて埋め立てられて いる。なお、堀跡は、南郡山町の一部となったが、近世は柳町村領の一部であった。
 蛇ヶ池には、伝説・説話が遺されている。「ある日、郡山城主の豊臣秀保が、有名な幻術師トカマカセン居士(隠士)に、大織 冠池(蛇ヶ池)から大蛇を出して見せよと命じたことがあった。そして、カセンが呪文を唱えると、たちまち池のなかから大蛇が 現れ、秀保を一のみにしようとしたので、秀保は城中へ逃げ帰った。家臣らは再び大蛇が出ないように池の底の穴に大石で蓋 をしたという」。これが“蛇ヶ池伝説゜の大意であるが、また一方では、験(幻)術師トカマカセン居士の住居跡が城下綿町にある と「郡山町日記」(注3.前出)は伝えているのである。
注1.郡山城史跡・柳沢文庫保存会所蔵
注2.『日本史広辞典』同編集委員会編/1997/山川出版 参考
注3.天理大学附属天理図書館所蔵
 
80 矢田口【武家地44】
○“矢田口”
 矢田口は、郡山城総構の西南部の街道に開かれた虎口で、ここより外川村(大和郡山市)を経て、主に矢田村(大和郡山市) 方向に達していたためこの地名がある。ことに“矢田寺参り”で有名な金剛山寺(高野山真言宗別格本山)への参詣道として、 かつての矢田口は大いに賑わっていたのである。
 総構矢田口の虎口には当初から総門は設けられなかったようであるが、逆W形に穿たれた外堀や湾曲させた土橋、また、 内側の高い土居などにより防御上の考慮がなされていたことは当然のことである。また、虎口前の矢田口武家地内の各小路 は“ひずみ”や“鍵の手”などにより複雑な結構がなされ、かつ、それらは時代によっても少しく変化を見せてきたことを絵図類 から読み解くことができる。昭和20年代に郭内側の西矢田筋と郭外側矢田口の“矢田街道”(中央上部)とをほぼ一直線に つなぐ道路(中の白線)が、旧虎口北寄りの土居を削り取って新設されたために、現在では一見して往時の姿を知ることは 難しくなっているが、試みに横道へ入ってみると入り組んだ小路はまるで迷路であり、その旧態を体感することができる。
 矢田口には武家地と町場の区分があり、街のほぼ中央部を南北に流れる水路(色分け参照)によって東西に二分されて いた。武家地区は元柳町村領の一部であり、町場は元新木村の枝郷であった。幕末期の武家地区には城代組の鉄砲組同心 と、大目附・目付支配になる小人目付の面々が居住していた(注1.)。なお、「安政家中図」の矢田口に記されている家臣名は “氏”のみであるので、ここではに示すことを省略した。
 街道筋より北部の武家地は大織冠(前出)の武家地に通じていたが、今も小路の中ほどで“鍵の手”(参照)の遺構が残さ れているのは注目に値する。その背後西北部には柳町村領や新木村領の農耕地が、さらに、西方の水路を隔てて小泉藩領 の田中村領があるというふうに、この辺りは領分が複雑に入り組んでいたところである。なお、現在でも新木町の地字には“忍 町”(右上)があり、この辺りに本多政勝・政長藩政時代の“忍(しのび)”の組屋敷があった名残であるといわれている(注 2.)。
 一方、矢田口の町場の規模は「享保郷鑑」(1724/前出)によってその詳細を知ることができる。略記すると、矢田口は新木 村の枝郷で、広さ東西40間、南北1町半で、家数120軒、746人が住んでいた。医師(11人)、職人(4人)のほか、酒屋、 米屋、綿売、細物、たばこ、木綿、青物、綛、茶売りなどの商人(19人)も住んでいたのである。
 なお、現在の矢田口も南郡山(旧柳町村)・新木・田中町の一部としてほぼ旧態の町割りを保っているといえよう。
◇速成寺
 矢田口の旧町場内にある。日蓮宗要法寺の末寺で、山号は寿量山という。寛文5年(1665)に本多肥後守忠英の母、照善 院尼の開基。開山は日宇上人である。なお、“寛永5年(1628)照善院尼開基”と伝えられるのは、忠英(1647-1718)の生誕 からみて、“寛文”の誤伝ないしは誤植(注3.)であるといえよう。
 忠英は、本多政勝の五男で、寛文2年に本多監物政信の養子(名改/政長)となって1万石を分知され、のち延宝7年 (1679)播磨山崎に移封、山崎藩(別称宍粟藩)本多家の初代となり、やがて九代忠明(1833-1901)のとき廃藩となったので ある。
注1.「郡山藩旧記」柳沢文庫所蔵(転写本) 参考
注2.『ふるさと大和郡山歴史事典』1987/大和郡山市 参考
注3.『郡山町史』1953/森田義一編/郡山町 参考
 
81 上箕山北ノ丁【武家地45】、82 上箕山中ノ丁【武家地46】、83 上箕山南ノ丁【武家地47】
○“上箕山は”、総構の一部となっていた高塚池を臨む箕山口から、南方の常光寺下の通称“道通辻子”を通る“東箕山”道を 境にして、その西方一帯に広がる丘陵地(古名“美濃山”)に開かれた武家地の称である。また、その位置関係から細分して それぞれ通称“上箕山北ノ丁”、“上箕山中ノ丁”、“上箕山南ノ丁”と呼ばれた。現在では、住居表示が実施されて“箕山町”と “城南町(一部)”に町名変更されているが、それまでは公称を南郡山町、地字を“上箕山”といい、近世末の通称名が現代ま で踏襲されていた。
 上箕山は、柳澤吉里の享保9年(1724)入城のころには、侍屋敷130軒と記録された武家地である。幕末期の「安政家中 図」によれば、58軒ほどを数えることができるが、“氏”のみを記すものが多数で、分限帳によりこれを明らかにすることは却っ て曖昧に陥ることになり兼ねないので省略したが、上箕山は中級家臣が居住していたところである。
 また、「安政家中図」を基として作成した下は、「正保絵図」(前出)において“かちのもの町”として描かれる上箕山の武家 地と比較してほとんど変わりがないことがわかる。つまり「安政家中図」におけるこの辺りの武家地には大きな省略が見受けら れるわけである。すなわち、の上箕山の西方“大和大納言塚”周辺や、上箕山南ノ丁の南方に薄水色で色分けした部分は、 もと柳町村の農耕地であったが、幕末期にはすでに武家地として宅地化されていたのである。その状況は「宝暦家中図」にお いてつぶさに確認することができる。
 郡山城総構南部の街道口(古堺街道)である“箕山口”には、郭内側に“箕山口辻番所”が置かれ、郭外側には“武者溜り” の広場が設えられて平生から外郭の虎口としての警戒を怠たらなかったのである。上箕山は、昭和30年代には武家屋敷の 遺構が数軒ほど見られたが、現在では老朽化や生活様式の変化などによりほとんど建替えられている。しかし、“北ノ丁”通り の西端に石垣・土塀などの一部を保存され、通行する私たちに往時の佇まいを彷彿させてくれるお宅が2軒残されている。こう したことは所有者の理解があってのことであり、また、大切にしたいものである(中の☆印)。
◇高塚池
 矢田口から箕山口に至る外堀の“大織冠裏池”ならびに“高塚池”(高塚堀とも)は、昭和15年から20年までには埋め立てら れ、今は昔の様子を知ることは難しい。
 高塚池は、旧記(注1.)によると“鷹塚池”とあり、むかし、聖徳太子が愛した鷹を、この池の端に埋めたことからこう呼ばれる ようになったという。その塚は侍屋敷の中にあったと伝えている。 
◇お土居の松
 小川丁や大織冠のほか、ここ矢田筋上・矢田筋にかけての土居には、太平洋戦争の直後まだ多くの土居松が残されていた という。その後、虫害などにより次第に枯死して終に現在は一本の土居松を見ることができなくなってしまった。それは、松に 対する施肥どころか剪定や必要な手入れを怠ったためであるといっても強ち過言ではないだろう。もちろん土居松が重要な文 化遺産などと考えるほど余裕のある時代ではなかったのも事実であり、ことに松の大樹を建築用材として入札に付して処分し たことも実際の話である。
 翻って江戸時代の松は、城郭のみではなく、たとえば五海道ほか地方街道に至るまで松などを植栽し厳重に維持のための 管理がなされていた。近世における幕府の強力な道路行政の賜物として今日私たちがこれらの大樹を目にしているわけであ る。各城郭においても土居上に人を乗せることを厳密に禁じていた。もちろん軍事上の事由が主であっただろうが、根方を傷め ない、ひいては土居を護る工夫であったといわれている。また、現実に郡山城の土居松の根方には大量の“炭”が埋め込まれ ていて、その根の発育を促す工夫であったという古老の実話がある。このエピソードが語られるのは、ここ矢田筋上・矢田筋の 土居の松である。
 なお、城跡近くに植えられた松は郡山尋常中学校(県立一中)の創立を記念として明治26年(1893)頃植え付けられたもの と、明治33年の慶祝記念に植えられた松と桜であり、こうした先人たちの努力があってこその大樹であることを、私たちは心し なければならないのではないかと思うのである。
◇大納言塚(左)
 上箕山の西方に、かつての郡山城主豊臣秀長の墓所となっている“大和大納言塚”がある。昭和50年10月、大和郡山市 の文化財として史跡指定となっている。
 天正13年(1585)閏8月、大和・紀伊・和泉と伊賀の一部で100万石余を領し、郡山城主となった豊臣秀長(1540-91)は、 のち“大和大納言”と称され豊臣政権を支えた名将であったことはよく知られている。そして秀長は、天正19年正月22日、郡 山城内に没した。同月29日、京大徳寺の古渓和尚の引導で執行された葬儀に集まった人々は、あわせて20万人とあり、「野 モ山も人クツレ(崩れ)也」と『多聞院日記』(注2.)に見える。現在も秀長の威徳をたたえ、毎年4月22日には、ここ大納言塚に おいて市を挙げての“大納言祭”が執り行われている。
◇丸山古墳(左下)
 新木町(新木村)地字“丸山”(墳丘部)および“廻り池(周濠部)”にあって、現在、宮内庁陵墓参考地の指定である。古名は “新木山古墳”といい、その全長は122.5m、後円部径67m、前方部幅75mで、周濠を有する比較的大型の前方後円墳で ある。明治20年測量・同25年再版の「大日本帝国陸地測量部」発行の地図によれば、郡山西岡町から小泉町までの旧道 に、このときすでに道路拡張のための計画線が引かれていて、近代郡山における広域幹線道路計画のはじまりといえる反 面、こうした近代化の影で丸山古墳の西北部が間もなく破壊されたことがわかる。そして付近にあったと伝える数基の陪塚も 消滅してわからない。
 幕末期に起こった天誅組の乱に際して、郡山藩が丸山古墳の墳丘部に大砲を担ぎ揚げ、南方に向かって据えつけたエピソ ードを今に伝えている古墳でもある。
◇常光寺 【33「新編郡山町中記」三十八番 西岡町】を参照。
注1.「郡山町日記」天理大学附属天理図書館所蔵 参考
注2.『増補続史料大成』第四十一巻(多聞院日記四)2002/竹内理三編/臨川書店 参考
 
84 下箕山北ノ丁【武家地48】、85 下箕山中ノ丁【武家地49】、86 下箕山南ノ丁【武家地50】、87 六軒丁 【武家地51】
○“下箕山”は、総構の箕山口から南へ伸びる“東箕山”道(古堺街道)から、東方一帯に開かれた武家地である。また、「正 保絵図」(1645/前出)によるこの一帯は“奉公人町”であった。丁名は幕末期、箕山口の広小路下から南へ向かって順次、下 箕山北ノ丁、下箕山中ノ丁、下箕山南ノ丁と呼ばれていた。また、箕山口土橋(堤塘)を東に下った堀端に小規模な片原丁が あった。この丁は、武家屋敷6軒のゆえをもって“六軒丁”と呼ばれていた。享保9年(1724)前後には、すべて加えて下箕山に 114軒の武家屋敷あったと記録されている。そして、上箕山丁と同様中級家臣の住んだところである。なお、下箕山の武家地 はもと柳町村領で、近代になって南郡山町、そして現在は、西岡町と南郡山町の一部となったのである。
 下箕山南ノ丁の南西側は、町場である西岡町ならびに東岡町のほとんどが背割りになっていた。その事由については前述し たが重ねて概記すると、第一次本多(政勝(1639)-)時代に、柳町大門より西方の武家地の道路を利用・延長して“堺街道” 下、左右の道路)を開いたとき、当該街道の南側に町場を開くことを軍事上堅く禁じていた。のち第二次本多(忠平(1685) -)時代になって、この規制は解除され堺街道沿いの南側に町屋を建築することを許した。このため街道沿いの南側に町場の 西片原町と東片原町が成立して、北側の武家地と街道を挟んで向かい合わせの町となった。こうした現象は郡山城下ではめ ずらしいことである。やがて、柳澤氏の藩政期(1724-)になって堺街道沿い北側のみ武家地を廃止して町場としたので、西・ 東片原町は街道沿い町並として外町十三町の西岡町と東岡町が成立したのである。
 江戸時代、箕山丘陵から東北のこの辺りは郡山城下屈指の雄大な景観を誇っていたに違いない。しかし、のち国有地となつ てからは荒れるにまかされて、堀は枯渇し一帯は原野の有様であったという。図中に画いたこの辺りの外堀は、大正13年3 月(1924)、ときの大蔵大臣に払い下げを懇願し、のち許可を得て町有地となり外堀は土居の土をもって埋め戻され、やがては 民有地となったのである。
 なお、図下の東岡町と西岡町の境辺りを現在の近鉄橿原線が南北に縦断している。
 
■「城下町百話【武家地】」 完
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