大和郡山城ばーずあい -図説 城郭と城下町-       ごあいさつ | ア ク セ ス | 更新情報サイトマップホーム


      
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01◇大手口は城と城下町郡山の顔(T)
 およそ、城の大手は、城の顔・城の玄関口であることはいうまであり ません。むかしは、多機能なセレモニー広場としても使用するためにわ けて大切にされて来たところです。 
 現在の市役所のところは、藩政時代の五軒屋敷-南屋敷跡で、ここ に明治41年(1908)ごろ、設置された生駒郡役所は、昭和4年 (1929)になって郡山町に引き継がれて町役場となりました。郡役所 時代に大手堀に架けられていた木橋を、昭和11年(1936)11月、町 の篤志家(百嶋芳松氏)が現在の「百壽橋」を建設して町に寄贈され ました。また、それを多とした郡山町(町長戸口米次郎)は、翌年7 月、今ある石造りの「大手橋」を架橋し、ために、このあたりは当時面 目を一新されたところです。

   現在の大手橋は、石造の随分立派な欄干と擬宝珠のつく親柱が あり、むかしここに大手橋があったことを唯一物語ってくれます。残念 なことに片方(竣工年次が記されている方)の擬宝珠が自動車でもあた ったのか早くから無くなっていますし、欄干の手すりももとあった石材 のものとは違い鉄製のパイプに代わりはてています。近年、大手堀の 浚渫や水質改善のための土砂沈殿槽とパイパス流路や、消防用水な ど機能上必要な構造物が設けられ、橋の横には水流調節のための水 門が“にょきっと”出ていたりします。また、橋の下を流れる堀(柳営排 水路)はもとあった幅員の三分の一くらいにはなっていますが、いまも 下流域に流れて紺屋川などに良質の水を流すため、行政の努力がお こなわれて来たところです。ただ、残念なことに大手橋の南側水路(堀 跡)のうえにはデッキが置かれ、駐車場になっていてその水流に泳ぐ 金魚や鯉の姿を見ることはできません。
 大手虎口の大手橋あたりの復原図を参考のため作っておきます。大 手橋の欄干から西方に向けてつづいている大手堀の木柵は、まつす ぐに柳門のニノ門である頬当門跡までのびています。このため、突き 当たりの頬当門の石垣に、その柵の入る木型状の彫込が今も残って います。
 なお、頬当門より北へつづく東の石垣から柳門台に上るための石段 があり、阪神淡路大震災の影響があったのか近年崩壊してしまいまし たが、あれは、明治10年(1877)に起こった“西南戦争”の戦没者の 「招魂碑」(明治12年(1879)5月に有志者が建立)や、そのほか戦没 者慰霊のための石碑などが櫓門台上に設置されたとき新しく積まれた 石段ですから、城郭の一部としてもとからあったものではない。
 この崩れた石段跡の柳門台側の南面天端石と次の石に、旧狭間塀 の棟木と“ぬき”が入った二つのほぞ穴が残されています。ともあれ、 この辺りは郡山城の玄関先である大手虎口として大切にしたいところ です。(2003.04.10-07.15了)                  
02◇大手口は城と城下町郡山の顔(U)
 写真は、大手枡形内から東方の頬当門跡と、その左の東雁木跡です。写真に写ってい るのは、近年植栽された石垣の際にある「南京ハゼ」の木です。早秋には見事な紅葉を 見せてくれる美しい木で、奈良公園の飛火野あたりでも近年よく見かけるおなじみの木に なりましたが、この木は「楠」などと同じで非常に成長が早い木で、ここ数年でむくむくと巨 木化しています。地下ではそれだけ根も張っているということです。問題は石垣の前面か らあまりに近いところに植栽されたので、これはいずれ石垣におおきな影響を与えること は必至です。
 このことは城址一円共通の問題だと思います。根の張りによる石垣の“はらみ”だけで なく、逆に木の枯死によって生じる根腐れのために石垣内が空洞化して、やがて、石垣 に崩壊をもたらすことは専門家の指摘するところでもあります。また、石垣を設けない土居 には城郭独特の“かざし”・“しとみ”と呼ばれる植えものとして松や竹を植え、ことに土居 の崩落などを防ぐため、“塵防”などの工夫や笹などで土居面を護っていたのです。 (2003.04.16-05.26了)
03◇鉄門虎口付近の石垣
 ここは、五軒屋敷(北郡山町)から城跡へ向かって近鉄電車の踏切を渡り切っ たところです。もとは鉄門前の南側にあった蓮池堀と北側の五軒屋敷堀を二分 する土橋の跡で、左右には豊かな堀水をたたえていた美しい景観のあったところ です。“白川夜船”で、見てきたようなことを言いますが、そうなんです。それは、 堀や水生植物の藻や水、竹木をはじめ、鳥・魚類への殺生に至るまで細かな規 定を設けて管理していたからです。
 江戸時代には五軒屋敷の“下乗”付近(現在の地蔵堂近く。)から、土橋の左 右を鉄門枡形まで木柵が設けられていたところで、今でも天端石に木柵を固定 するために彫り込まれた穴が二箇所ほど残っています。
 ここは“お城まつり”や“親子まつり”など、毎年郡山城跡でおこなわれるイベン トのメインゲートになるところで、また、近鉄電車の車窓からの眺めもよいことはご 存知のとおりです。
 写真(北の五軒屋敷堀側)は、ご覧のように植栽された桜の木が成長した結 果、その根が遂には積み石を押し出した石垣崩壊の典型的な例です。ことに木 の植栽は、私たちの目にすぐには結果として見えてこないという難点をもってい ます。かといって積み石をコンクリートで固めるなど本末転倒していて論外のこと です。なお、このあたりは南北ともに長年にわたる坂上からの土砂流入が、現在 のように堆積して旧観をとどめず、元あった水堀(写真手前の石が落ちているとこ ろは、五軒屋敷堀で、水深6尺5寸もあったところです)との落差などまったく感じ られないほど埋没しています。そのためむかしは鉄門番所横に“砂止め大舛”が 設けられていたところでもあります。こうしたことは、堀端に設けて石垣や土居の 崩壊を予防した“塵防”(雨水の流れをコントロールして所定のところへ水を流す ために設けられた導水施設)などとともに先人の知恵にはただただ驚くばかりで す。

 記録
 郡山城跡内の鉄門虎口下乗(五軒屋敷地蔵尊堂前)から二の丸屋形までの 区域は、平成11年(1999)4月20日から同年10月29日まで市の事業として道 路改良工事が施工された。現、カラー石敷状の道路面舗装工および歩道面敷石 工、排水側溝(鉄門枡形付近の旧石製側溝は撤去。)、鉄門土橋への排水工な どはこのときのものである。また、松陰門跡から西門土橋までの道路も同仕様で 施行され、このための特に西門土橋は復員が狭隘のため南側に歩道確保のた めのデッキが付設されてある。総体的に修景・道路復員確保などを目的とされ た。なお、工事名は「三の丸幾知山線道路改良工事」です。(2003.05.08-07.01 了) 
04◇郡山城中堀(鰻堀・鷺堀)で実施された特定保水池整備事業【T】


 ◇写真(上) 写真に見えるの構造物は、平成6年(1994)3月から事業着手され、 その後、平成9年10月から同10年3月29日までの間に大和郡山市によって実施 された「特定保水池整備事業」の際に新設されたもので、左の写真は、郡山城南門 跡土橋の鰻堀中央部分を鷺堀まで切り崩して建設された堰堤と抱壁です。手前の プラスチック製偽木の柵は遊歩道、水面は鰻堀の南東部で、堰堤うしろの繁みのな かにわずかに見える白い土塀付近が南門(頬当門)跡で城内側、右手前が南門虎 口前の広小路のあったところです。南門土橋の長さ約48mの石垣は、手前側、向 こう側の両面とも野面積みが施された石垣(実はここに郡山城を解き明かす鍵があ るのです。)が続いていましたが、お追従にも旧観をとどめたとはいえなくなってしま いました。左側の南門跡(頬当門左石垣)には銘木「駒止め桜」があって“桜まつり” (お城まつり)開催時には随分花見客を楽しませた彼岸桜でしたが、昭和30年頃枯 れてしまいました。駒止めは、南門広小路に建っていた下馬札(二字札)に因む名 称です。なお、この土橋には水位調節のための“水吐け”(水戸違い)と樋の施設が あったところです。
 この事業は大和川(奈良盆地各河川から大阪湾に至る)流域の総合治水対策の 一環として保水機能を高めて、下流域の洪水などを軽減する目的で市(鰻堀側)と 県(鷺堀側)の手によって行われた事業です。このためこの辺りの旧観は大きくそこ なわれる結果となりましたが、郡山城跡の内ここ史跡指定外の「周知の遺跡」という 制度上の文化財的価値と、200年に一度の洪水にも対応でき得る施設の建設によ り市民および流域の安全という、2つのエレメントを秤にかけながら実施された事業 でもあったわけです。とにかくも、郡山城跡内で執り行われた事業としては最大・広 範にわたる事業として今後のためにも記録にとどめておかなければなりません。
 
◇写真(中) 写真は鰻堀を南から北方を望んだものですが、左側が新設された白 い石張りの堤と遊歩道。右側が薪曲輪跡に新設された石垣で、5年間で早くも古色 となった現状です。しかし、本工事によってこの石垣内の奥には旧城郭の石垣が多 くの転用石材とともに、再び平成の埋蔵文化財とされて眠っているわけです。夏草 に石垣がおおわれているためか城址という感じが希薄になっていますし、やはり以 前よりかなりスリムな感じのする鰻堀になりました。堀の真ん中に見えるのはコンク リート製の橋で、西門土橋下につながっている「親水施設」(写真下参照)の一部で す。

 写真(下) 西門跡から南方の鰻堀を見たところですが、堀内にある瓦葺の建物は 揚水ポンプ棟で地下水を横に見える「親水施設」に流し、ひいては下流の大手堀・ 紺屋川までの水質を改善しようと設けられたものです。また最近、ことに環境権の1 つとして“大都市”を中心に主張される「親水権」を確保するために各所でよく設けら れるようになった「親水施設」です。
 この写真を撮りに出かけた早朝のこと、折りしも散歩中のお年寄りの方々が、“あ の橋なんのためにあるのやろ。わたしらこんなわけの分からんのいらんわ!昔のま まで良かったのに・・・。”と小耳に挟んでしまいましたが、みなさんはどうお考えです か。少なくとも施工側としては、城跡としての風格と歴史的遺産の継承・保全という 古いものへの敬意」に配慮・努力された結果だったのですが・・・。

原状変更の記録 
@ 薪曲輪内の鰻堀に面する旧石垣(一部崩壊していた部分を含め)をそのまま土 で埋めてその前面に土の層をつくり、旧石垣を保護する方策を採りながら、さらにそ の前面に新石垣を鞘状に築く工法が用いられたこと。これにより旧状より約3メート ル石垣面が堀内に出ていること。
A 薪曲輪下の石垣より北につづく旧土居部分を垂直に削りとって、ここに新しい石 垣を約50メートル分新設、「親水施設」まで延長して接続されてあること。
B 鰻堀の保水量確保のためその底部を深く掘り下げてあること。
C 鰻堀西堤をはしる道路の拡幅とその堀側に遊歩道を巡らせたため、堀幅が片方 で平均6メートル程度狭くなったこと。
D 堰堤部建設のため幅約7メートル分取り除かれた南門土橋の旧石垣の一部の 石材を、鷺堀側の南門から東方約30メートルの堀内に一塊に積んで保存されてあ ること。なお、そのほかは原状のまま埋設されてあること。また、旧石積みは“野面 積み”であったこと。
E 南門土橋の掘削断面は旧石積の天端面付近で約1.2メートル、底部石積面で 約1.6メートル分、うしろ込めのゴロタ石が少な目に入っていたこと、そして、土橋中 央部の旧土工部分の層を多く取り、漏水に備えつつ粘土を版築状に突き固めた“ハ ガネ”が入っていたこと。
F 西門脇から鰻堀中央付近まではヘドロ除去および親水施設の水路部分の堀底 を大きく掘り下げ、かつ、鰻堀全体の約三分の一のところに段差をつくり、「親水施 設」と「ポンプ施設」などが設けられたこと。なお、ポンプ棟建設のため旧土居を5メー トル程度削られたこと。
G 西門土橋跡の鰻堀側に道路の復員確保のためのデッキを張り出して遊歩道が 確保されたこと。
H 鷺堀は、堀の底のヘドロ除去とともに堀底を掘り下げ、堀の東堤をくい打ち工法 で補強しつつ、その東面に新しく石張りを施し、スロープなどを設け、また、堀中央に 中島が、堤の南岸沿いに南門横から蓮池方向に通じる遊歩道が新設されたこと。 以上が本工事によって原状を変更された概要である。(2003.07.08-08.03了)
05◇堀とアヒル(家鴨)
 堀面を泳ぐアヒル(家鴨)は、その体色の純白さゆえに白鳥などとともに人々に好まれ親し まれています。また、城跡の景観にとけこんで少しの違和感もありません。郡山城跡のなか でも、ここ(写真)陣甫曲輪の内堀は、道路際近くに水面を臨む数少ないスポットで、このた めアヒルもここを訪れる人々に親しまれる存在となっています。 
 城跡の各堀は、長い年月の間にはその様相も少なからず変化を遂げて来ました。陣甫曲 輪前の内堀では、昭和20年代には一面の蓮池で、蒸しかえるような酷暑のなか、吹き渡 る風にほのかに香る蓮華は城跡の夏の風物詩となって記憶に残っています。その後、蓮は 絶えてかわりに菱が自生しはじめ、水中にたくさんいた台湾ドジョウもいなくなって(天守曲 輪廻りの内堀には、今でも生息しています。)、やがて、金魚や色鯉とともに金魚鉢に入れ る観賞用の布袋葵が入れられ、一時は繁茂して薄紫の小花が咲き誇っていた時期もありま した。また、今は見られなくなったギンヤンマやオニヤンマなどトンボの類も水面を飛び交っ て、当時の水質の良さを物語っていたのです。

 ところが、平成7年のころか、最初に2羽のアヒルがこの堀に入れられたことをきっかけに して、みるみるうちに数が増えて、なんと2年たらずの間にアイガモをいれて10数羽に増え てしまいました。アヒルの方も次第に(態度が大きくなって?)道路や宅内、城址のそこここ を徘徊するようになり、えさを求めて庭を荒らし、道路に糞をまき散らかして、また、ことに大 量のえさを与える人(事業者)まであって堀の水質はたちまち悪くなり、周辺は見苦しい有 様となってしまったのです。
 これらのアヒルはすべて心無い人によって捨てられていたかどうかは分かりませんが、そ れまで飼育していたアヒルを堀に入れ、これが連鎖したもののようで、一晩で数羽が増える といったこともあったのです。
 一見、美しく見える水鳥も、やはり生き物ですから、えさも食べますし、糞もするわけで、そ れに子どもに好かれるといったこともあって、万一誤って堀に落ちたりする事故もおこらない とは限りません。
 いつか行った四国の○○城跡でも散々苦労されたことがあると、担当の方から聞いてい ましたので、調べてみると、やはりアヒルなど水鳥は水中で糞をしますし、投げ込まれるえ さで水質を著しく悪化させるとのことでした。(平成15年9月現在、アヒル2羽、アイガモ1 羽。)
 ましてや現今は“ペット時代”といわれるほど「わんこ」や「にゃンこ」が業界ではひっぱりだ この盛況です。それに「アリゲーター・ガー」・「噛みつき亀」・「ニシキヘビ」・「ワニ」などなど の危険動物でさえ人の好みは千差万別で、それで癒されればそれはそれで良いのです が、困ったことに飼い主のモラルが問われるような事件も多発して、犯罪の国際化や行政 へのニーズの多様化から多忙をきわめるなか、このようなことまで処理しなければならない 警察官やお役人も気の毒です。社会こそ違え、動物が人に与える癒し効果は300年経ても 変わりないのです。そのうち平成の“生類哀れみの令”でも法制化しなければならないこと になりはしないだろうかと、危惧の念をいだくのは筆者だけでしょうか。(2003.09.06-09.24 了)
06◇二の丸能舞台と郡山の能楽

 郡山城の能舞台は、このホームページの「郡山城百話」でも紹介してい ますように“二の丸屋形”、現在の郡山高校内の「冠山会館」が建ってい るところあたりにありました。当時の様子をご覧いただけるよう、左に「 の丸能舞台の図」をこしらえておきました。(注1.)なお、平成6年3月郡山 高校“冠山会館”建替えにともなう事前発掘調査時の写真も添えておきま す。
 郡山藩三代藩主柳澤保光(堯山公/1753-1817)が、ことに能楽を好ん でよくしたことは一般に知られているところです。さかのぼれば、柳澤家は 吉保のとき、五代将軍綱吉の“宝生贔屓”の影響もあって、代々宝生流を 家の式楽としたようですが、やがて甲斐の国主となった柳澤吉里は、入国 祝賀能を催しています。能の名手として聞こえた吉里も自ら舞台に立ち、 また、能見物には寺社や町中の人々などを招き、旅行中の人まで見物自 由としましたので、この入国祝賀能はきわめて盛宴となり内外に知れ渡り ました。今から293年前の宝永7年(1710)10月のことです(注2.)。
 のち、柳澤保光が江戸において宝生能楽師の九郎友通に師事、また、 その高弟日野源之進安之を郡山に招聘したことがきっかけとなって、やが てこの町に能楽が根付き“郡山宝生”と称されて盛になりました。
 保光は薩摩藩主島津重豪(1745-1833)とはことのほか親交し、重豪の 四十の賀宴に招かれたとき、舞台開きには<道成寺>を自ら演じて喝采を 博しています。また、宝生九郎友勝から<望月>や<石橋>の伝授を受けた 保光は、その後も研鑚を積んだのです(注3.)。ことに能楽だけではなく諸 芸に秀でた堯山公が郡山に残したものは多く、“赤膚焼き”や“金魚”の名 声とともに、藩中興の祖とうたわれる由縁です。
 このころ他藩で有名なのは、前田家11代藩主治脩(1745-1810)で、保 光と同じ宝生九郎友通を師としていました。前田家もやはり、綱吉の宝生 贔屓がそのはじまりで、“加賀宝生”と称して百万石を背景に隆盛を誇っ ていたのです(注4.)。
 町制時代、郡山最後の能楽となったのは、明治15年(1882)6月、柳澤 神社が本丸に移された造営・遷座の祝典として能楽がおこなわれたとき だといわれています。のち、能は謡曲の普及で一般化され、広く楽しまれ るようになりましたが、中でも「郡宝会」(会長柳澤保承)社中の活躍は県 下でもきわめて有名となりました。現在、この町には残念ながら“能楽堂” はありませんが、郡山の能楽には、このように長い歴史と伝統が息づいて いるのです。

 ところで、郡山城毘沙門曲輪跡の一角では、「月・城かがり能」と題して 能・狂言の夕べが、「大和郡山市文化体育振興公社」(0743-55- 1700)により毎年開催されています。今年も第14回目となる催しが、9月 27日(土曜日)午後6時から、上田清大和郡山市長が能舞台(仮設)前 のかがり籠に点火して開宴されました。
 能四番目もの<葵の上>の物狂い、“思い知らずや、思ひ知れ、恨めしの 心や、あら恨めしの心や・・・”と美しい「泥眼」から、恐ろしい「般若」へと 変わる姿に、大勢の人々も演じられる高い幽玄の世界を満喫していまし た。

 演目はつぎのとおり。(入場無料)
  仕舞-<八嶋><葛城><天鼓>(宝生流) ・狂言-<清水>(和泉流)
   ・能-<葵上>(宝生流)

 なお、今年の能は藩侯にゆかり深い宝生能楽で、大阪を本拠として活 躍されているシテ方の辰巳満次郎師ほかの演能がおこなわれました。今 年はちょうど堯山公生誕250周年に当たり、遠い“えにし”を感じる催し物 となりました。

(注1.「御住木口居下絵図」、注2.「福寿堂年録」、注3.「虚白堂年録」/柳 澤文庫蔵。注4.『能楽-加賀宝生の世界-』/石川県立歴史博物館 平成 13年 参考。)(2003.09.24-.27了)
07◇郡山城“総構”と特定保水池整備事業(代官池)【U】




 ここは城北の鴨池端から東へ代官町、そして、近鉄線を越えて何和町近くから南に折 れて薫高院池の土橋に至る、郡山城“総構”(外堀と土居/50町13間)の内、北部に 張り出した部分を占める代官町前の外堀と土居で、平成15年度に大和郡山市の手に よっておこなわれた特定保水池整備事業の一部竣工後の姿です。(平成16年度も引 き続いて予算化。「九条口の薫高院池・小川町裏池の一部・鍛冶町大門跡から鍛冶町 裏の高付上池関連(一部広島池地内工事16年6月20日まで)。「こらむ【目安箱】」ー 04◇鰻堀・鷺堀で実施された特定保水池整備事業【T】。参照。

 写真右側の町は、寛永16年(1639)、郡山城主となった本多政勝によって入部後の 家中にあてがうための新屋敷を各所に拡張されたうちの一つで、外堀に面した町の称 として“片原代官”と呼ばれたところです。代官町に面した外堀は、「正保の絵図」によ りますと、西部堀留め(地字“代官池”)の堀幅9間で、東部(“正願寺裏池”)では8間 半、代官町側で堀の長さ東西140間、内側(南)の土居の高さは2間半、その長さ東 西86間(鴨池堤塘を除き。)あり、傾斜地のため当時から堀水は無かったようです。の ちの「貞享の絵図」では、堀底部の幅が記されています。それによりますと、西部で2 間、中部で2間、東部で4間となっています。
 藩政時代の郡山城総構のなかでも、現在では、常念寺裏(堀・土居)・郡山八幡神社 裏(土居)・矢田口(堀)のごく一部とともに、ここ片原代官前の外堀(堀と土居)は、そ の旧観と遺構を残す数少ないところでもあったわけです。
 しかし、堀の南部のもと“正願寺屋敷”地は、その狭隘な道路が要因となって消防車 が入れない住宅地として、かねてから問題となっていたところで、今回の代官町側への 架橋は、市民生活の安全上必要な施設として一定の評価をしなければなりません。

 現状は写真でご覧のとおり、両堤にはブロック製の土留めが施されて(写真@(上か ら順))、堀長のほぼ中央には、新しくコンクリート製の橋が南北に渡され写真A、ま た、東部には大きな堰堤を新設、そして、その東部の近鉄線踏切までの堀(写真B)は 埋め立てられています。堀底には細い水路が造られ水利のある用水であることを物語 っています。
 なお、ここから東部には前述のとおり薫高院池(正願寺裏池)と九条口の土橋があ り、その東部につながる小川町裏池との間には、郡山城下に開かれた“四大門”の一 つ、城と城下町の北方の守り“九条町大門”が建っていたところです。

 写真Cは、平成17年3月に竣工した鴨ヶ池(写真左隣りにある外堀溜池)から代官 池への取水口と水門です。 
 (2004.04.10-2005.05.17了)
08◇25年ぶりの郡山城模擬天守

 平成16年10月、郡山城跡の天守台上に建築用の足場が組み上げられ、同月2 3日には模擬天守閣最上層の大屋根が取り付けられました。これは、11月3日(文 化の日)開催の“第30回親子まつり”に向けて、同実行委員会が早くから準備を進 めていた天守櫓の組み立てがボランティアの手ではじめられたのです。前回はじめ て天守台上に模擬天守(三層/前出)があがってからもう四半世紀にもなるわけです。
 今回の模擬天守は五層になる模様で、その後も作業は着々と進んで10月27日 現在、五層と四層まではできあがっています。南北方向に大棟をもつ大屋根には大 きな鯱があがり、そして、五重目は歩行式廻縁と思われ、窓には“火灯窓”を配して あります。その下の四重目には四方に千鳥破風を備えるなど望楼型天守の雰囲気 をかもしています。
 昭和50年からはじめられた市民のイベント“親子まつり”も今年で30回となり、と りわけ今年は大和郡山市の市制施行50周年の節目にも当たることから、記念事業 としていつにも増して盛大に執りおこなわれることでしょう。なお、今年のテーマは “おもいでのあしあと〜30年目の1ページ〜”とし、多彩な催し物などが予定されて います。まつり本番を1週間後にひかえて同実行委員会をはじめ関係者の手で急ピ ッチで準備が進められているところです。そして、まつりの大きなシンボルとなる郡山 城模擬天守がその全容を見せるのもあと少しです。“天守は一城の飾り”とはまさし く名言ですね(写真上 撮影2004.10.28朝)

・追記 写真下(撮影2004.11.01/午後)は、できあがった郡山城模擬天守閣の雄姿 (西面)です。二重と四重の四方に備えた入母屋破風や、二重と三重の床面積を同じ とすることでどっしりとした重量感をかもし出しているのがこの模擬天守の特徴といえ ます。やはり、穴蔵付き?五層五重造りで、最上階に廻縁を設けた望楼式の天守と なりました。季節はずれの台風襲来など、その準備や組み立てが大変だったと思い ますが、ここ10日余りで忽然として姿を現した郡山城址の模擬天守に、早くもこれを 発見した市民の知るところとなって、市内外では“親子まつり”の当日を待たず、お 城談議に花が咲くことでしょう。

・附記 一夜城のつもりで建てられた模擬天守は、11月28日までに解体が終わり ました(2004.11.29了)     
09◇本丸厩向多聞櫓台の修復工事
本丸西石垣修復
 藩政時代、本丸(天守曲輪)の西方には南隅の坤櫓から北方の厩向櫓まで の間を渡る「厩向多聞」という平屋の櫓がありました。明治7年(1874)以後に 城内の立木・建物は入札の結果すべて取り払われてしまいましたが、現在( 澤神社境内)はその基礎部分に当たる石垣と土居が残されています。
 ところが、以前から坤櫓跡近くの一部に幅2.5mほどの窪地があり、その堀 側にあるべき積み石も欠落していて通行に支障があり、かつ、危険防止のため 昭和50年代のころ一時的に切石を入れて歩行できるようにしてありましたが、 このほど、県指定史跡の保存、また修景の観点から手を入れられることにな り、(財)裄V文庫・郡山城史跡保存会が“城跡保存整備事業”の一環として、 その事業主体となって修復工事が施工されていましたが、平成16年3月25日 に竣工して旧観を取り戻しました(写真)。

 石垣は表面に使われる岩石種や加工の度合いによってその築造法も自ずと 違いますから、なかなか簡単な工事ではありません。同時に後ろ込めに使わ れる五郎太郎石(ごろたいし)の質や量などともに難しいものがあります。それ は、水はけや土圧の影響を受けないための工夫にほかなりません。この点は 施工者の力量が問われるところでもあります。
 江戸時代の本丸には3ヵ所に多聞櫓がありましたが、そのうち西方の長さ39 間(約76.8m)の多聞櫓があったところです。なお、大正10年(1921)のころ 撮影されたと思われる写真では、このような石垣の欠落は見られないので、そ れ以後のことであったことがわかり、また、筆者もここをよく飛んで遊んだ記憶 がありますから、実に?年以上もの時を経てもとの姿にかえされたといえます。 城跡の保存は費用も然る事ながら並大抵のことではないのです。(2005.01.30 了)
10◇源九郎狐と弁慶の足形

 今年のNHK大河ドラマ「義経」がはじまりました。
 父は源義朝(1123-60)、母は常盤御前、頼朝(1147-99)の異母弟にあた る“牛若”こと“九郎の御曹司”が、“平治の乱”(1159)ののち京都鞍馬寺に 流されて“遮那王”と称し、当時武勇で名を馳せたといわれる伝説の人物・ 吉岡鬼一法眼(陰陽師/「義経記」)に師事して武術の伝授を受けました。そ のころ寺を追われて刀狩をしていた武蔵坊弁慶(?-1189/「吾妻鑑」)と九 郎の御曹司(義経)との主従の出会いとなる五条大橋(実は清水寺)の場面 など、あまりにも有名な話ですが、「平家物語」や「義経記」で伝説化され虚 構となって、のち江戸時代には歌舞伎・浄瑠璃でもさまざまの脚色が加えら れています(「日本史人物辞典」山川出版社 参考)。

 ところで、大和郡山市の洞泉寺町には“源九郎稲荷神社”(「近辺見どこ 」参照)があり、享保4年(1719)に郡山城内から現在地に遷座されたとい われています。祭神は宇迦之御魂神(保食神)。源義経を護った稲荷社とし て当時の寺社制度のなかで“正一位源九郎稲荷”と称され、江戸時代には “大和国正一位源九郎稲荷社”写真下)として”全国三大稲荷の一つとうた われました。そのため諸国から篤い信仰をうけて、現在も「げんくろさん」と 人々から親しまれています。源九郎稲荷が有名になったのには事由があり ます。それは、延享4年(1747)大坂竹本座において初演の人形浄瑠璃とし て演じられた「義経千本桜」の四段目“狐忠信(きつねただのぶ)”のなかで、 静御前の愛用した“初音の鼓”に皮を張った子狐が、義経の忠臣の一人の 佐藤忠信(?-1186)に化け、静御前を護ったことから、義経より“源九郎狐” の称号を与えられるという名場面にちなんで、虚実皮膜の“時代物”が大当 たりして、やがて、「菅原伝授手習鑑」・「仮名手本忠臣蔵」とともに三大名 作として歌舞伎にも取り入れられて江戸中村座で公演されるに至っていま す。このように郡山には源九郎稲荷伝説が残され、豊臣秀長が最初に祀っ た郡山城内“竜雲郭”の話のほか、洞泉寺の石船(湯舟とも)の話、桜門跡 の“弁慶の足形”などがあり、今でも桜門北の櫓台東面の積み石のなかにこ の足形石を見ることができます(写真上/いかにも弁慶の足形らしい、リアル で大きな足形がついている)。
 毎年4月に執り行われている「お城まつり」の一つのイベント「白狐渡御」 (神社から城内へ)も、今年は「義経ブーム」とあって一層大きな華が開くこと でしょう。(2005.01.30了)
11◇左京堀と郡山城址環境整備事業







 左京堀は、近世郡山城の中心部にあたる内城(うちじろ)のおよそ半分を東部から 北部、そして南部へとめぐる中堀です。東は三之丸柳曲輪(五軒屋敷裏)から塩町口 黒門前の土橋(現、北郡山町地内)を起点に、北へと進みほどなく西に折れて桜門虎 口の土橋を超え、本丸二之曲輪の北部に位置するの玄武曲輪(焔硝蔵)を包み込 みながら、堀之側武家屋敷地(現、植槻・天理町)との間を丘陵の上部へと登ってゆ きます。さらに、二之丸の厩・麒麟曲輪をぬうように“横矢掛り”の土居が三たび折れ 曲がって南方へと伸び、やがて突き当たりの西門土橋まで全長約780m(堀打ち 回し値)の“かきあげ堀”です。なお、西門土橋を超えたところが鰻堀です。
 現在では、近鉄電車の軌道から東部に当たる左京堀で、昭和40年代以後“奈良 堀”と称された約280m分は次第に埋め立てられてその旧状をみることはできませ ん。それより西の県道(城廻線“奈良大和郡山斑鳩線”)沿いの部分は、旧堀幅で1 8間(35.5m)から25間(49.3m「貞享の絵図」)はありましたが、昭和20年代後半か ら30年代にかけておこなわれた城廻線の道路工事のとき、堀幅の約半分は埋め立 てられ細長くなっています。しかし、左京堀上部の西門土橋から北、そして東への部 分(延長約300m)は埋め立てられることなく土居・堀ともに雄大な旧態を残してい ます。左京堀をめぐるこの道路は郡山へのアクセスのうえからも主要な道路として、 ことに郡山城址をめぐる道路という点では城下町郡山の“顔”の部分にあたります。
 ところで、江戸初期の“正保の絵図(「和州郡山城絵図」)”(国立公文書館蔵)は、 当時、徳川幕府の威信をかけて全国に命じて作らせただけに城郭を赤裸々といえる ほど詳細にあらわしています。城絵図として当時の状況をありのまま伝える超一級 史料といわれるゆえんです。現に追手門をはじめとする郡山城諸櫓の外観意匠は、 この絵図によって復原されています。
 左京堀の旧状を“正保の絵図”によって見てみますと、全体として“空堀”ではなく “水堀”であったことがはっきりとわかります。具体的には、南門(近鉄軌道付近)より 東は平坦地に穿たれた水堀のため、変化にとぼしくみえますが、2箇所の虎口を臨 んで横矢掛りの出隅を施してあり、水深も1丈(10尺)と深く、堀幅も広いところで11 間はあったのです。
 また、南門より西部は丘陵地(坂上までの標高差18.66m(『大和郡山市史』))に かかるため、堀の底でもその東端と南端との高さは約11mの差がありますので、こ のため7箇所に堤(“ひきし”/一箇所当たり平均1.57m>))を設けて堀水の落差を 解消するという工夫がなされています。つまり、堀を8つに小分けしているわけです。 8箇所の小堀の水深は東から順に、@8尺〜6尺5寸・A4尺5寸〜3尺5寸・B3尺 〜3尺、C4尺5寸〜4尺5寸・D4尺5寸・E4尺・F3尺・G3尺〜水少なしとなっ ています。ひょっとすると、昨年大きなニュースとして報道された大坂城三之丸の発 掘調査で期せずして発見された“障子堀”のように、兄弟城の郡山城でもそうであっ たかも知れません。
 また、肝心なのはその水源です。雨水だけでは常時堀に水をたたえることはでき ません。それは、藩政時代の水道の発祥地となった“七つ井戸”に代表される水脈 が左京堀の各所でこんこん湧き出ていたからです。左京堀内の北の堤にあった“七 つ井戸”は、そののち次第に枯渇し、城廻線の道路工事の際、道路幅を広くするた め埋められました。この道路のライン(東西)は、奈良時代までさかのぼりますと平城 京の九条大路と重なる位置にあったこともよく知られているところです。
 太平洋戦争のさなかには、左京堀の随所に大きな防空壕が掘られたり、また戦 中・戦後にかけて米や代用食として奨励された甘藷(さつまいも)を堀底に植えつけ られその後耕地化し、さらには台風による大雨などで土居が崩落(3ヵ所)したことも ありました。このため左京堀は今日までに相当荒れましたが、幸いにして過半の堀 跡やその“ひきし”跡、そして、城跡側の土居や狭間塀(土塀)の痕跡を明確に残し ながら、城址北部の土居廻りの二次林の植生とあいまって城堀の面目を保っていま す。(2005.02.23)

 ところで、このほど近鉄電車軌道敷から西方の左京堀址(写真)では、大和郡山市 による堀や土居など城址の環境整備ための工事がはじめられました。4月に開催予 定の“お城まつり”までには一定の整備がおこなわれることになると思います。 (2005.02.22撮影)

  現在、工事は土居面の二次林の一部竹や木の伐採がこおこなわれています。工 事名は、「郡山城址環境整備事業」。工期は「平成16年12月21日〜平成17年3 月15日」です。(2005.03.05-)

 竣工した左京堀址東部の土居面には桜の苗木が植栽されました(2005.03.15-)。

 写真は、近鉄橿原線の堀止めから、西南方向の西門跡土橋まで全長約580mの 左京堀の様子です(2005.05.10撮影)。本工事によりもとあった小池跡3箇所は埋め られ、わずかに遺存していた階段状の“ひきし”跡は堀の底部を均されて今は見られ なくなっています。 
12◇郡山城“総構”と特定保水池整備事業(正願寺裏池・小川裏池)【V】






 “特定保水池整備事業”が城郭地区において起工さたのは平成6年3月のことで す。過去、城郭本城の南西側を構成する鰻堀と鷺堀の整備を皮切りに、その後、 外堀地区の広島池、高付上池(北端)や代官池の外堀まで順次施工されてきまし た。ところでこの2月からは、正願寺裏池と小川町裏池(西部)の工事が上流部の 代官池に引き続きはじめられています。ここでは字名で示しましたが、正願寺裏池 は薫高院池の別称があります。
 郡山城の外堀は今を去る410年前、豊臣秀保の跡を受けて郡山城主となった 増田長盛が当時の世情不安から豊臣秀吉の命により郡山城に外堀と土居、城下 の諸口など“郡山城総構”(総延長約40町/のち約50町)を構築したことは本稿に おいて既に述べてきたところです。今工事に関係することですので少し触れておき ますと、このとき侍屋敷地区には箕山・矢田・大職冠・大坂口の四口を構えたほ か、城下町口として鍛冶・柳・高田・九条町の四口が設けられましたが、現在おこ なわれている整備事業の区間は、まさに九条町口として九条町大門前の結構を 今に残しているところにあたるわけです。九条町口は郡山城北の守備の要として 重要な位置に設けられたため、その巧みな構成は城絵図類から容易に読み解くこ とができます。
  正保の図(前出)によりますと、正願寺裏池の外堀は堀幅7間、九条町口脇か ら回り込んで北へのびる(西側)土居の長さ45間、高さ2間半とあり、九条町口土 橋より東の小川町裏池西部の堀幅は10間、土居の高さ2間となっています。こう した史料とこの付近の現況を対比した依存度は高く、残された数少ない総構え(外 堀、土居など)のなかでも貴重な遺構として知られています。 
 写真上から、@九条町大門跡から北方の何和町を望む。手前左が正願寺裏池、 右が小川裏池へとつづいています。写真A小川裏池西部、右側が城下側になり ます。小川裏池の外堀は奥に見える工場を通って、やがて広島池の外堀へとつな がります(堀水は工事のため排水されている)。写真B何和町から南方にのびる 正願寺裏池の外堀の底部。右側には竹薮となっている土居跡が見えます。写真 C正願寺裏池の北詰、ここから代官池外堀へ屈曲して少しずつ上って行きます。
 なお、大和郡山市によって北郡山地内でおこなわれているこの工事は、「特定保 水池(正願寺上・下池)整備工事その1・その2」で、平成17年2月14日から平成1 8年1月31日までが工期となっている。(2005.05.17-)
 写真Dは、竣工後の小川裏池と、写真E正願寺裏池(薫高院前池)。写真F は、その北詰から代官池方向へ曲がるあたりの竣工直前の様子です。(2006.2.- 撮影) 
13 ◇郡山城“総構”牢屋敷裏・洞泉寺裏池外堀の現状 



 平成17年夏、ジャスコ郡山店が閉店されて、これにともなって建物はすべて取り壊さ れました。写真はその10月現在の状況です。柳町字誓願寺の地にジャスコが開店さ れたとき、駐車場確保の必要からもとの旧外堀(牢屋敷裏池・洞泉寺裏池)は埋め立て られ今日に及んでいます。
 正保図(前出)によると、牢屋敷裏池辺りの堀幅は8間半、西方の柳町大門付近では 11間半とやや広くなっています。洞泉寺裏池の方は堀幅8間で、両外堀とも水深は3 尺と記されています。 
 写真@は、当時、ジャスコ屋上から撮影した洞泉寺と手前土居跡及び堀跡(舗装部 分)の一部です。

 写真Aは、中央手前から奥(西方)にかけて設置されたフェンスの右側が洞泉寺池と 呼ばれる外堀跡で長さ約100mあり、突き当りを左折してまた約100mの外堀跡、さら に左奥に見えるビル手前を右折して旧柳町大門前の堀留まで約120mが牢屋敷裏池 といわれる外堀だったのです。往時このあたりの外堀はこのように屏風折に形成され郡 山城総構のなかでも土居とともに雄大な姿を見せていたところです。
 写真Bは、洞泉寺裏池から南への外堀跡で、舗装面に示された矢印の方向へ堀跡も 続いています。遠くに洞泉寺の本堂を望むことができます。
 写真Cは、路面の矢印のとおり北から西へと続く外堀跡と、突き当りが旧柳町大門前 の土橋の堀留にあたります。

 跡地に掲示された“開発事業計画の概要”によりますと、地上9階建てのマンションが 建てられるようで、工期は平成17年10月初〜平成19年3月末となっています。
 ○外堀のような文化遺産であっても一度埋められればもう元には戻らないだろうと残 念に思うのは私だけでしょうか。(20051008撮影-22) 
14 ◇本町 杉山小児科医院 【登録有形文化財】

 平成17年11月18日付、国の文化財審議会は、保存及び活用についての措置が特 に必要とされる文化財建造物として文化財登録原簿に登録するよう文部科学大臣に答 申がなされました。いわゆる“登録有形文化財”といわれるもので、平成8年10月1日 に施行されたものです。奈良県の登録有形文化財は21ヶ所で106件となり、全国での 登録は5,489件となります(注1.)。
 今回答申されたうち、大和郡山市では本町の“杉山小児科医院”の建築物が答申に 含まれています。
 写真及び(注2.)は、杉山小児科医院の建物です。旧城下町のなかでもことに古い たたずまいをみせる本町の町並の中ほどにあります。その独特な洋風建築(ハーフティ ンバー様式)の美しさは異彩を放つ存在で、この町の人々に長く親しまれてきました。今 後とも大和郡山市の顔として大切にしたいものです。
  答申後、公示手続きを経て、このほど杉山小児科医院診療棟(大正後期)・住居棟 (昭和初期)は正式な登録有形文化財として文化庁の原簿に登録されました(第29-0 095〜0096号)。奈良県登録有形文化財(建造物)111件(20061009現在)。
注1.「奈良新聞」平成17年11月19日・第21188号 参考。
注2.「大和郡山市・城跡及び旧城下町等の保存と活用のための構想策定調査’81」大 和郡山市教育委員会」参考、私にイメージ加工した。
15 ◇郡山城“総構”と特定保水池整備(浚渫)事業(広島裏池・小川北裏池)【W】

 大和郡山市では、現在も外堀跡において特定保水池整備事業が進んでいま す。今年(平成18年)1月末で竣工を見た正願寺裏・小川北裏池の整備工事のほ か、昨年12月から、外堀跡東北部の広島裏・小川北裏池(堀長約420m+暗渠 部分(写真A↓/桜橋横)約140m)で堀底の浚渫等の工事がおこなわれていま す。本工事の竣工は3月24日です。これら一連の特定保水池整備事業は平成6 年(1994)3月から事業開始され今日におよんでいます。
 ところで、最新の浚渫機器(堀水を抜かずに浚渫/写真@↓/広島裏池)や重 機を使っておこなわれている堀浚えは、現在ではきわめて稀な工事ですが、江戸 時代にはこうした“堀浚え”は頻繁におこなわれていたのです。それは城下町づく りの過程で生じた古来からの慣例によって堀水に取水権があったことがその主な 事由(農耕地の水量確保)ですが、そのほか、城郭としての美観上からも水生植 物の除去や土居の清掃とともに実施されたのです。郡山においては柳町村がそ の中心となって恒常的に堀浚えがおこなわれましたが、もちろん柳町村のほか堀 水に取水権を持つ高田村や野垣内村、観音寺村、九条村、新木村の六ヶ村も応 分の働きをしたことでしょう。これらの村々は「御堀水被下村方」として記録されて います。(2006.2.20-)
 
江戸城の堀浚え
 江戸時代の堀浚えは全国の諸城はもちろん、江戸城においてもおこなわれてい ました。一例を記しておきたいと思います。
 宝暦11年(1761)9月、ときの郡山藩主松平(柳澤)美濃守伊信(信鴻)に対し、 公儀より江戸城の虎之門外より山下御門まで(幸橋の郡山藩上屋敷端ほか)の “御堀浚御手伝”をせよとの命令がありました。将軍家の代替わりには、その権力 を誇示するために、このような各種の手伝い普請がおこなわれていたのです。
 一方、郡山藩では折柄の財政難のうえの御手伝普請でしたからそれは大変な 出来事だったのです。
 翌年の正月25日には、藩主伊信自らの見分がおこなわれ、この日から本格的 な堀浚えに取り掛つています。そして、同5月3日残らず出来上がっています。同 月15日郡山藩主松平(柳澤)伊信は江戸城の白書院において将軍家治に対面、 将軍より“いかい骨折”との上意と、拝領物を請けています(「幽蘭台年録」、「附 記」柳沢文庫蔵。「御堀浚御手伝之節御用状書抜」豊田文書 /大和郡山市教育 委員会蔵 参考)。
 このときの工事規模は、堀幅にして平均35メートル余、延長1.3キロメートル余 (12町余)でしたが、当時、金子(金貨)にして45,000両余を費やしています。こ の工事費は、荒っぽい換算で約54億円(工事面積1u当たり約118万円余)に相 当し、当時、郡山藩年間収入の約74パーセントにもおよんだ巨費だったのです。
16 ◇左京堀と県道大和郡山斑鳩線-歩道拡幅工事 「1ー2ー3ー4」






その1
 現場は、郡山城左京堀の桜門跡端、近鉄橿原線踏切の横でおこなわれていま す。これは奈良県による交通安全施設整備事業の一環として施工されているもの です。工事の概要は、踏切南の左京堀側に幅約3・5m、長さ80mにわたり歩道 を新設するもので、盛土で堀を埋め立てたうえ、堀側を間知石積みとし、同時に排 水設備の整備や道路安全柵なども設けられる模様です。これによって歩行者の安 全と車道の一部拡幅により交通渋滞の緩和などに役立つものと期待されていま す。なお、工期は次のとおりです。平成17年12月〜平成18年5月30日。
 写真@は、踏切付近から西方の左京堀を軌道越しに望む。左側が郡山城跡、中 央に左京堀、右側に県道が見える。
 なお、左端にわずかに見える石垣は旧桜門枡形の北壁の一部です。このあたり は大正7年(1918)に、近畿日本鉄道(株)の前身である大阪電気軌道(株)により 線路の敷設工事がおこなわれましたが、このとき、ここ桜門枡形の石垣中央部が 切り崩されたのです。そのほか桜門の南北両櫓台とも東方へテークバックして積 替えられたため、鉄道敷設後の枡形は細長いかたちになっていましたが、昭和5 年(1930)、櫓台西の線路沿いに新しく南北の直線道路(約30m)が付けられるま では、枡形内を通る道が使用されていました。やがて、昭和38年のころに枡形を 構成するL型の石垣が取り除かれてしまい、現在のように門櫓台だけが独立した ようなかたちになったのです。
 写真Aは、踏切内に新設中の歩道部分の状況です。(2006.3.18撮影-)

その2
 写真BCは、現在の現場の様子です。竣工予定日が1ヶ月延長されて6月30 日となりました。(2006.6.3撮影-) 
  工事は一旦竣工したようですが、写真BCと大差がありません。(2007.1.18)

その3
 平成19年2月20日から、左京堀において前回に引き続き「大和郡山・斑鳩線歩 道拡幅工事」が始められました。現在は、前々回におこなわれた歩道の拡幅の部 分から、さらに西方への延長工事がこおなわれているところです。なお、本工事の 竣工は5月30日の予定となっています。
 現在の県道大和郡山・斑鳩線は、昭和20年代後半から30年代にかけて左京 堀の堀幅の約半分を埋め立てて道幅を拡幅され奈良-郡山-斑鳩を結ぶ基幹道路 として完成し、郡山においては「城廻り線」と称されていました。左京堀の旧状につ いては、本稿「コラム【目安箱】」「11◇左京堀と郡山城址環境整備事業」を参照し てください。(2007.2.20-(写真D3.26))
  2月から進められていた歩道拡幅工事はこのほど竣工しました。今回の工事で は、擁壁/石垣(間知石積)の延長(写真E)と、城内側土居崩落箇所の修復( 真F)が行われました。(2007.5.24/写真撮影)
その4
 なお、左京堀地内における本工事は引き続き施工されることになっており、今後 も注視して行きたいと思っています。(2007.7.15)
17 ◇柳門跡・柳門枡形跡と交差点改良工事
 かつては郡山城の大手虎口であった柳門跡および枡形跡において、現在、 交差点改良工事が進められています。具体的には、交差点から東方にある百 寿橋の袂までと、交差点内東部へ南北方向に歩道を新設されるものです。こ の工事では掘削を伴っていますが門および枡形の遺構面に影響は無いもよう です。事業者は大和郡山市、工期は平成19年9月4日から同年11月15日 までとなっています。(2007.10.6-)
  本工事は、平成19年11月3日開催の「親子まつり」までには竣工されまし た。(2008.01.22)
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