大和郡山城ばーずあい -図説 城郭と城下町-      ごあいさつ | ア ク セ ス | 更新情報サイトマップホーム



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01◆概説 城下町郡山(上) <郡山城下町形成の過程について一考察>
◇ 郡山城下町形成の過程について一考察
 
 標記のテーマは「03◆柳曲輪・五軒屋敷ー014◇柳曲輪と郡山城追手」において後日の課題としておいた城下町に関する 部分の考察である。

 郡山に城下らしい町々が形成されはじめたのは、天正13年(1585)9月、羽柴(豊臣)秀長の郡山入城以後とされる。
 しかし、その以前にも町邑がある限りそこに“市”が立ち、町が出来るのはむしろ自然の成り行きである。“郡山の市”は、や がて城下町としてかたち造られていく。その濫觴期の一過程として、筆者は魚塩町の発生を第一期とし、本町の形成以下の城 下町発展を第二期として推考を試みてみた。
 管見によれば、最初に郡山の地に町邑が形成されはじめたのは、薬園庄の中心として、天平勝宝元年(749/薬園八幡神社 伝)、東大寺鎮守八幡宮の分霊を祀られた薬園八幡宮が今日の魚町の薬園八幡神社御旅所と肯定したうえで、そこに“魚 座”・“塩座”のニ座が設けられて、“生魚座”と“相物座”に別れ、やがて、それぞれに町を形成して、のち、城下町のもととなる “魚塩町”が発生したと推考、これを第一期とする(02「新編郡山新町中記」【塩町】・03【魚町】参照)。なお、薬園八幡神社の 摂社として“金平神社”や“塩竈社”、“蛭子神社”など九社が祀られることもここでは興味あることの一つである。
 他方、“六斎市”の存在は『多聞院日記』に照らして、郡山においても筒井順慶時代のみならず、前城主小田切春政時代にも その存在を否定することはできないだろう。すなわち、“六斎市”は、すでに15世紀後半に起こった“応仁・文明の乱”ののち各 地でおこなわれていたとされるからである。六斎市は、毎月特定の日に6度おこなわれる定期市の称である。天正12年のころ には“郡山の市”が賑わいを見せたことは、『多聞院日記』(前出)によって知ることができる。奈良多聞院からも前述の味噌や 塩・魚・米・木綿・暦・クロメなど食料や日用品は、ここ郡山で求めていた様子がわかる。したがって、ここでは、本町と次項で述 べる“北の市場”を、ここでいう第二期としてして考えてみた訳である。秀長入城の直前の天正12年から13年にかけての条 に、5日、10日、15日、25日、そして、歳末は28日が記されているから、これが“郡山の市”の開かれた“市日”であったとい えそうである。
 
○小田切時代の城下町(二町の成立と“郡山市”)
 明応2年(1493)、小田切春次(一世/のち17,000石)による郡山城創築にあたって塩町近くにあった薬園八幡宮(現在の魚 町地内にある御旅所附近は、「薬園庄」内の矢田町(のち町の統合により材木町となる)へ遷座したといわれている。のち小田 切家四世の春政のころには、すでに魚塩町や本町などは形成されていたと思われ、こうした城下町ができはじめたころには特 定の場所で六斎市が開かれていた。それが今日の「本町」(厳密には本町の近く(後出))であって、その町名のとおり郡山の “もとまち”となった町である。市の立つ“市場”は人々が集まるので自然に広場や道幅の広いところでおこなわれたことは他に 例を求める必要もない。管見によれば、本町の西寄りと接し、かつ、堺町東に隣接する新町と中町は、その町名のとおり、“新 しく出来た町”、“町々に囲まれた中ほどに出来た町”との名称であることは言をまたないが、両町は天正のころ、本町と一体 の広場として“北の市場(筆者仮称)”を成していたことは、後で述べる矢田町と洞泉寺町辺りの“南の市”とともに、郡山にお ける城下町の発展過程を知るうえで見逃しにはできないことの一つである。
 今日の新中町は、もとは二つの町で、町の四周にあたる本・藺・堺・綿の各町よりもあとで成立した新しい「枝町」である(左 の図参照)。すなわち、新町は茶町の、中町は雑穀町の枝町とされている(1.「大和郡山旧記」)。その広さは計測して約1 6,200u(平均値で南北約180m、東西約90メートル。)はある。

○筒井時代の城下町(八町の成立)
 ちなみに、藩政時代から変化していない旧城下町地区の道路幅員を計測してみると、表通りの狭いところで10尺(約3m)、 通常は13尺(約4m)程度であるのに対し、本町は16尺5寸(約5m)と旧城下町ではもっとも広い道路幅である。なお、「辻 子」や「ゼリ」と呼ばれる路地は6尺(約2m弱)前後でなかには傘を斜めに差してやっと通れるといったところもある。
  また、城の追手に対して竪・横に形成される町、つまり、城下の町々には竪町と横町の二つのタイプの町がある(注2.)。ここ 郡山でも今日に竪町(のち建町/武家屋敷地)の町名が残っているのはその現れである。筆者が筒井時代の城下町と考えて いる区画を北端から南へ追ってみると、魚塩町(現在は2つの町)・本町の2町は小田切時代に発祥の地となった竪町タイプ で、それより以南の西から順に、堺町(新町・中町はのちに成立)・藺町・奈良町・雑穀町・茶町までの5町は順慶が造った横 町タイプである。それに加えて、これら5つの横町を締めくくる当時南限の綿町を竪町としてこれら5町を造って締めくくってい る。
 ではなぜ、順慶がここを自らの城下町の南限としたのだろうか。ことについては、平城京の「条坊制」、そしてそれ以南の「条 理制」に発して、室町幕府崩壊後に至る、郡山の地割りにその要因を求めることができる。今日の左京堀と平行する東西のラ インは平城京九条大路に当たり、それ以南は「条理制」による地割りとなる。遡って平安時代の荘園、清澄庄(東大寺)の南に 分かれたかたちで新しく開かれた「薬園庄」(添下郡京南二条・三条)は、今日の今井町から南へ本庄町(筒井)附近までに営 まれた荘園として知られている。すなわち、順慶が造った城下町南限の綿町の位置関係は、「薬園庄」の北限とされる今井町 附近の境界線と一致することになるのである。
 このように、街路の割りの規矩準縄は“条理制”に基づくほぼ半町をメッシュとして、各町の固有の型式である竪町・横町に合 わせてそれぞれ機能的に“通り・筋・辻子・ゼリ”などと呼ばれる街路が設けられ、そして、以後も踏襲されて行ったわけであ る。
 これら8つの町の意味するところを推考すれば、竪町と横町から構成されている。つまり、小田切春政時代の郡山城下を前者 に充て、天正8年(1580)以後における筒井順慶時代に加えられた城下町を後者とすることができる。
 筒井の一族である小田切家時代と、信長から“国中一円筒井存知”、すなわち“大和守護”を与えられて国主(近世における 国主とは相違がある。)となった筒井順慶時代とは格段の相違がある。名城筒井城を、想像するに“後ろ髪ひかれる”思いであ とにした順慶が、ここ郡山城の拓修にかけた思いはいかばかりであっただろう。やがて、国主が居城するにふさわしい城郭と 城下へと郡山は大きく変貌することになる。順慶は先ず往古からの「昔、堺海道」(近世の陣甫曲輪のラインを南北に走る街 道。)を、東へ約200mにあたる本町の西端へ移し替えて、その旧名にちなみ「堺町」通りを成立させたと筆者は推考する。そ れは、春政時代、追手前の二の丸の東下を東西によぎっていた「昔、堺海道」は、もはや、城郭の拡張をはばむ存在となって いたからだ。これによって新しい「堺海道」は、北から奈良市七条町を経て九条村、現在の九条何和町から竪町(のち「建町」と も。)へと真っ直ぐに郡山へ入ることになり、左京堀を東へ迂回して塩町、そして、堺町通りから南西方向に進み箕山を通過し て新木町の芦ヶ池端をとおり、やがては泉州堺へと街道はつながることになるわけである。
 そして、順慶は堺町通りに平行して城内側に堀や土居を設け、堺町通りと本町通りが交差する西端に新しく追手虎口を開 き、門前の大手前広小路に制札(札の辻)を立てて、ここに城下町八町の整備とともに郡山城の追手の威容を整えたと考えら れるのである。(「郡山城百話014◇柳曲輪と郡山城追手 参照。)また同時に、商人を奈良(南都)から郡山へ誘致したこと は言うまでもないことである。
 これとは違った意味において城下町の発生に関わる事柄として見逃せないのは、本町の北隣の「魚塩町」(当時は一つの 町)である。ここで注目したいのは魚町地内に鎮座の薬園八幡神社御旅所と、塩町地内に祭られている恵比寿神社の二社で ある。
 薬園八幡神社は、前述のとおり、はじめ魚塩町の近くの“塩の庄”に鎮座して、のち現在の矢田町(享保年中、材木町編 入。)に遷座されたといわれている(『郡山町史』(注3.)。このため、その昔“塩の庄”の中心は、現在の薬園八幡神社の御旅 所とされ、そのためか魚町地内の地割り(家並み)から北へはみ出しているため、表通りからは奥まったところにある。(左の 図・写真参照)。四方に石垣を組み、玉垣をめぐらし、傍らの大クヌギの古木のもとに朱も鮮やかな社が祀られている。この地 は薬園庄の鎮守として天平勝宝元年(749)、あるいは貞観2年(860)に鎮座されたといわれているところである。この御旅所 と、現、材木町の薬園八幡神社の位置関係は、魚町より約600mの“丙”の方向(関連事項後述。)に当たっている。そして、 前述のように小田切春次の郡山築城に際して矢田町に遷座されたといわれる。明応2年(1493)のころのことである。なお、薬 園八幡神社には、祭神として誉田別命・息長帯比売命。ほかに九摂社が祭られているが、そのなかには稲荷社・塩竈社(製 塩や海の神)・蛭子神社などがあり薬園庄の総社としてその勢力をうかがえて興味深い。
 また、塩町の東寄りには、平安時代発祥して鎌倉時代に広がりをみせ、室町時代には一般化された、生業守護の福神とし て知られ人々に信仰された恵比須神社(祭神蛭子命)がある。“市神”としての恵比須信仰と、そして、縁深い塩(海神)にちな んだ町に祭祀されたということのほか、この町に恵比須神社がおかれたのには事由がある。それは、薬園八幡神社(御旅所) とともに春政・順慶の城下町の都市計画の規矩準縄ともいうべき城下経営の“地選”としてここを北限の町と定めた証左として 捉えることができるからである。つまり、魚塩町の裏に背割りで接する茶園場(平城京「典薬寮」/茶園)から南方に城下町が 形成された。そして、市の北限の町、魚塩町(塩町)に恵比須神社(筆者仮称“北の市”)が北面して祀られているのである。

○豊臣秀長時代の城下町 
・箱本十三町の成立
 天正13年9月以降、羽柴(豊臣)秀長の本格的な城下町の経営によって、前述のように町は次第に南へと伸延していくこと になる。秀長は城下繁栄の方途として、順慶時代に既に成立していた八町に加えて、大和南部で寺内町として勢力を誇ってい た今井(奈良県橿原市)を意図的に郡山へ移し、綿町の南隣に今井町を造った。これによって近麟の三大商業都市として繁栄 していた今井・堺・奈良の三っの町がここ郡山城下にそろったことになる。加えて秀長の絶対権力を背景に順慶時代にも増して 有力な商人が郡山に呼ばれたに違いない。こうして、本町を基準とした東西約200m、南北270mの矩形内に、いわばミニブ ロック経済圏を構築して、これを郡山城下繁栄の“富”の象徴としたのである。その位置関係は、次の『大和郡山城下町図』↓ (以下「城下図」という。)を参照願えれば一目瞭然であると思う。
城下町図
 そして、秀長は郡山城下の発展のため、強力な施策「禁制」(『春岳院文書』/天正20年、後継秀保時代のもの(4.))を打 ち出している。恐らくは秀長入城の間もないころであろう。それは、@南都・郡山以外での酒造、A郡山以外で市を立てること、 B他国より酒を持ち込むこと の三ヶ条からなる禁制を発してこれを巖に遵守させたのである。かくして、秀長は城下町の草分 けとなった町々には特権・特許(専売・専業権)を与え、朱印(状)をその町に遣わした。
 このようにして、城下経営の初期段階で造られた町を「箱本十三町」と“となえ”ている。「箱渡日記」(注5.)に記された次の 町々がそれである(○印はその順番)。@綿町、A紺屋(こんや)町、B本町、C今井町、D奈良町、E堺町、F藺(いの)町、 G柳町、H茶町、I豆腐町、J魚塩町、K材木町、L雑穀(ざこく)町の順番で全町のことを執り行うために定められた覚書で ある。
 豊臣時代の初期の十三町のなかで、秀長によって造られた新しい町は、竪町プランの今井・豆腐・紺屋の3町と、横町プラン の柳町・材木町の2町、合わせて5町である。
 今井町は筒井順慶時代の堺町から西南方向の箕山方向に向かっていたと考えられる堺街道を改め、堺町南詰から横に迂 回・屈曲させてこれをつなぎ、柳町通りを造って高野街道からの入り口を設けて城下町内の街道通りを整備している。これによ り、堺海道(西の京道)・京街道(奈良街道)・高野街道(筒井道)にそれぞれ口を開けた城下町の三街道通りの基礎は固まっ た。
 また、柳町・豆腐町・紺屋町・材木町の四町の成立については、就中、“水”との関係を抜きにしてこれを論ずることはできな い。  柳町(村)に関しては、秀長の郡山城拓修には最優先の課題であったことはすでに述べたとおりである。それは、もと城 内西部一帯を中心とした柳町村本村(郡山村)の城下(柳町)への移転問題と、関連する放水権問題である。これによって、秀 長は、城郭の南部を東西に走る谷筋である鷺池(のちの鰻堀も。)・蓮池(仮称“古池”)からの水系を、用水路として整備に着 手してそれまで地形(じなり)に東の秋篠川へ流れ下っていた小川に抜本的な手を加えている。先ず三の丸の追手に堀を設 け、ここからさらに柳町の裏に南北の用水路を設ける一方、この用水路の柳町一丁目裏ならびに矢田町通りに樋を設けて分水 をおこない、これを東へ引き込んで町の道路中央に通してそこに紺屋町を造っている。このことは城下町の紺屋町一町のみの ことだけでなく、城下全体の都市整備の一環としての用水・下水(背割り水路)の完備、かつまた、“古池”(前出)に放水権を 持つ柳町村・高田村両村への対応でもあった。(「郡山城百話」15◆<郡山城の天守【その2】・「秀長郡山城拓修とその後の 柳町村」参照。)
 そして、秀長は紺屋町へ「紺屋町として定めたうえは、他町では紺屋を一軒も認めないものである」との判物を天正15年 (頃)8月26日(注6.)与えているのである。また同時に、この水路は地形の低い材木町南端附近に導いて秋篠川に落としてこ の用水(紺屋川水系)を完成させたのである。さらに、十三町の一つ材木町が秋篠川の水運を利用できる川端に成立したこと も妥当なところである。
 一方の豆腐町も湧水など水の確保無しには成り立たない町である。この今井・柳・豆腐の三町が成立したほどないころ、ここ に“千貫辻子(路地)”を設けて堺町北端、今井町近くから豆腐町の間にバイパス通路を確保している。この話しには、通路を 設ける必要から1,000貫文を費やしたという故事が伝えられているからであるが、深読みすれば、一つは豆腐町で使用され る水源である湧水の確保のための鑿井(獨鈷杵)やそれを各軒に通す水道(簡易)などに要したか、または、伝えられるとおり 立ち退きに要した費用であったかであるが、詰まるところ、それほどの価値があるという一つの言い回しであると解釈するのが ここでは適切な答えなのかも知れない。
 しかし、さらに推考を進めてみると、“千貫辻子”の成立は単に豆腐町のみにとどまる問題ではなくて、鷺池筋の用水路の整 備とあいまって、秀長による追手虎口の付け替えをも意味するものと捉えることができるのである。それは、追手前(さき)とい ういわば表向きの街道通りに対面(追手に対し街道が平行に面しているのではない)している場所柄から、戦時における城郭 の防御や平時においてもこの千貫辻子(近世“八百屋店”)と呼ばれた“脇道”は追手前には必須の迂回路と言え、また、他城 下にもこの種の傍例は幾らでもある。つまり、これら三町の成立と同時に豊家郡山城の追手を、ここに移した重要な傍証として “千貫辻子”の存在を捉えることができると考えるからである。
 ともあれ、郡山の城下は“地子免”とともに“箱本の制”によって大いに繁栄した。秀長が発した特許の朱印状を大切に“朱印 箱”へ収めて封印され、町のステータスとして機能、そのもと(箱の本)に十三町の自治的地縁組織が創られ、そして、箱本制 度が創制されたからである。すなわち、箱本の当番町は、月番交代で当該町が全町の世話をおこない、重要案件は先番・跡 番とともに三者協議してこれに当たるという合理的な仕組みになっていた。かわりに箱本に課せられた公役は、@城下の治 安・A消火・B伝馬などであった。これらは信長による安土における“楽市楽座”にその淵源を求めることができる。
 その後、枝町として発展した町々(「城下図」参照。)も十三町と同様に地子免除とされ、次第に拡張して行って「内町」と称さ れ、特例対象とならない年貢地(課税地)の「外町」とは区別されていくことになる。そして、郡山城下はここに百万石にふさわ しい町として急速な発展をとげたのである。

・城下町の拡大
 ところで、のち枝町(「城下図」参照。)として新しく形成された町のなかでもっとも早いのが鍛冶屋町で本町の枝町として天正 16年までには成立。さらに京街道通りのメインストリートとして急速に発達し、同19年11月には、南・中・北鍛冶の三町に分 けられるに至っている。次いで成立したの「内町」が柳町の枝町(「城下図」参照)になる車町である。
 ここでは、なぜこの町(天正19年8月)に地子免除が与えられたのかを考えてみたい。物理的な面では紺屋町と柳町(2丁 目)通りに隣接して一町として機能し得る町であろうことはうなづける。
 このことから読み解けることは、言うまでも無く城下町の形成過程を述べる証左としてとらえることができ、他の一つは城下町 に執られた都市プランの基準が天正19年に至って早くも変化し始めているという事情の傍証として捉えられることができる。そ れでは、豊家城下町経営の基準となった都市プランが、わずかに6年足らずにしてさらに南下の兆しを見せたのはなぜか。もち ろん、関西における管領職ともいえる秀長の強大な権力を背景に執られた城下繁栄政策によって急速な発展をとげた要因とな っていることは言うまでもないことである。また、この年天正19年は、郡山豊家にとって禍事(まがごと)が起こっている。豊臣 政権の要として東奔西走してその基礎を築いた、大明大納言秀長がこの年正月22日薨去したことである。
 かくして、後継となった豊臣秀保はこの年13歳の少年で、政治向きのことは家老横浜一庵法印良慶・小堀新介正次、それ に重臣藤堂与右衛門高虎らがこれを輔けた。そして、秀保は新国主として秀長治世の守成に務める一方で、自らによる新政を 示す施策として天正19年8月23日、改めて(筆者は秀長時代すでに地租免除がおこなわれていたと考えている)“地子免”の ことを町中に発し、ここ車町にも新たに地子免除を与えたのである。

・車町形成の意義と市神としての蛭子社
 このころになると、明応の昔から矢田町に遷座していた薬園八幡神社をはじめ、洞泉寺(天正13年)などもと薬園庄地内の 中心部にある寺社門前の道が、やがて東の“伊賀街道”に開く矢田町通りに発達していたと考えられ、それに、永正(1504- 21)のころ成立し、文禄(天正20年12月「文禄」と改元)に、もとあった尼ヶ辻(奈良市)辺りから郡山に移ったとされている西 方寺は、寺地が南側の矢田町にも面していることから、今日でも通称“抜け寺”と称されているが、実は車町地内に属した寺で ある。また、わけても西方寺の車町側東隣に鎮座の“蛭子社”(筆者仮称“南の市”)が祀られていることと同時にその位置関 係に注目していただきたい。車町の蛭子社は、先に述べた塩町の恵比須神社(北の市)から計測して約490mの真南に位置 (同北面)しているという事実である(もとは通りの向かい北西側にあったともいうが)。これによって解るように両蛭子社の位置 関係は何人かによる明らかな恣意によってここに配置されたことは疑う余地はない。換言すれば、“恵比須様”を町の繁栄を守 護し、町の生業繁盛の“福の神”ととらえたとき、秀長入城後6年にして早くも、城下町の中心核が南へ伸延して、しかも城下 の南北二極化の兆しをここに読み取ることができるのである。つまり、車町の蛭子社を二次ポイントとして捉えることで、その南 方に位置する洞泉寺町や北大工町界隈は“南の市場”に当たり、“北の市場”を前述のように真南へ490mのところへ分けた たかたちになっている。以上のことから、“南の市場”を北大工町と洞泉寺町地内と推定し、試みた市場の計測値は、概数で1 7,000u(東西約170m、南北約100m)と、“北の市場”よりやや広いが、この場合は大同小異といえるだろう。
 また、以上のことから西方寺の成立についても文禄からわずかではあるが天正19年までには遡れるということになりそうで ある。
 さらに推考すれば、車町は、当時家数十六軒であり、西方寺と光専寺(のち寛政16年)の二寺、そして蛭子社のみならず、 蛭子社と背中合わせの矢田町側に、これも車町地内の“宮内社”がある。このように、車町は同町内で寺社地の占める比率が ことに高い町であることがわかる。このことは城下の発展にともなう人口の増加により鍛冶町周辺の“北の寺町”とあいまって、 ここ矢田町周辺にも“南の寺町”形成の兆しを見て取ることができる。なお、この時点では外堀などの“総構え”は未だ形成され ていない。
 ともあれ、地子免の塩・車両町は現前として存在し、ことに、真南への意図的な蛭子社鎮座のもつ意味は、やはり“北市”に 対する“南市”という観点から、城下町が南へ伸延することを二次的にプランニングした証として捉えることが、柳町(村)領から 分立していった柳裏町・外矢田町・南大工町・東岡町・西岡町・外五町目のほか侍屋敷町や、「内町」に編入された車町・洞泉 寺町など、その後の城下町の形成の結果からみても容易に理解できよう。
 ただし、蛭子社に関してはこの論には穴がある。それは車町のみならず塩町の蛭子社が“鎮座年代未詳”であるからだ。た だ、ここでいわれている“未詳”のもつ意味は、それほど古くからこの町に祭られていたということを言っているわけでもある。
 車町蛭子社がもと道路の北西側にあったといわれることをどのように解くかの問題が一つ残っている。ここで述べて来た真北 から真南へということより、筋向かい側にもとあったということは、はじめは南向きであったものを、のち北向の、しかも塩町を標 準に真南の土地に移し替えたということを示していることになる。その事由に確証らしいものは見出せないものの、市との関係 においては、塩町の例をとれば市を背にする方向に祭られていることになる。片や車町では、故あってのち位置を変えたと伝え られているのである。このことは、陰陽道にいう“卜地”の術をもって遷座されたとみるのが自然な考え方であろうと思うし、それ は寺社(為政者)の関与があったといえるのである。
 ちなみに、全国恵比須社の総本社である西宮神社(兵庫県)は海側(南)にむかって祀られている。閑話休題。

・火伏せの神としての稲荷社
 また、車町地内(矢田町向き)の宮内社にも触れておかなければならない。宮内社は“倉稲魂(うかのみたま)”を祭祀する稲 荷神社であり、商売繁盛の神として一般の篤い信仰をうけたことはいうまでもないが、さらに宮内社の約200m(本殿位置間) に当たる洞泉寺町には、同じく“保食神(うけもちがみ”(倉保魂祭祀)ともいう源九郎稲荷神社(「近辺見どころ」参照)がある。 それだけではなく、方角が車町宮内社から“丙(ひのえ)”の方角に当たる。これを陰陽五行説に当てはめると“火”である。こ れは偶然のこととは思えない。つまり、稲荷は“火伏せ神”として武家社会のみならず町衆の常識として信仰があったはずだか らである。のち江戸に稲荷が数多あるのはこのためである。これらの二社はともに年代未詳ということになっているが、少なくと も宮内社は、車町が成立して“地子免”となる天正19年のころには祭祀されていたのではなかろうか。この点では、西方寺の 鎮守として宮内社が建てられたと伝えていることがその傍証の一つとなり得るだろう。それは廃仏毀釈の結果としても捉えられ るからである。

・水神としての弁財天
 “火の神”があれば“水の神”もあるのが八百萬(やおよろず)の神国であるわが国のこと当然の理である。すなわち、「郡山 城百話」105話(15号)において述べている秋篠川の流路変更と“郡山城総構え”の築造に関して述べなかったことに、茶町 の良玄禪寺内にある“郡山弁財天”のことがある。弁財天(弁才天とも)は智恵の神としても、また、川の神(水神)としてもよく 知られているところである。ではなぜここに水神たる弁天様が祭られているのだろうか。
 どうも方位や位置関係ばかり述べて来たようで、いささか読者の興趣を削いでしまうような気もするが、事実なのだから仕方 がない。この弁財天の立地(「城下図」参照)が、寛永17年(1640)、本多政勝((1614-71)よって拡張された外堀東方の付け 直しによる張り出し部分(鍛冶町・野垣内(のちの野垣内)地内)の真中心(四方等間隔)にあり、同時にまたことことは増田長 盛による総構えのとき外堀として利用された旧秋篠川の川跡に近いところへ設けられてることからも、ここに弁財天が祭られた 事由は明白である。
 なお、この弁財天のある良玄禪寺は本多家(第一次)の菩提寺であり、政勝による外堀の付け替え後、上野大多喜藩((忠 勝(1548-1610)ー忠朝(1582-1615)/千葉県)時代の本多家菩提寺良玄寺をここに移したものである。

(注1.柳澤文庫蔵。注2.『城下町のかたち』矢守一彦著 1988。注3.6.『郡山町史』郡山町 昭和28年。注4.5.『春岳院文書』春 岳院蔵。参考)

☆次号からは、郡山の城下町を巡りながら、その見どころなどを紹介してゆきます「新編郡山町中記」。 
02 「新編郡山町中記」【一番 塩町(しおまち)】
 「新編郡山町中記」という題号は、以下に城下各町を述べるに当たり筆者が適宜に選んだものである。したがって、その内容 も筆者の官窺をもとに新しく編んだことを意味しているので、念のため付記しておく。

◇例言 郡山城下においては、街路に関して「町通り(大通り)」や「筋」などの呼び慣わしについては、現在では明らかな定義 や呼称がわからなくなってしまっているので、ここでは次のように分類して述べることとする。
 ・地子免除を与えられた町を、「内町」および「枝町」という。枝町は、のち内町に編入された町をいう
 ・年貢地(敷地年貢)とされた町を「外町」という
 ・城下町内に通じる各街道(京・江戸・堺・大坂・高野・伊賀などの街道や地方道)に面する大通りの町を「町通り」という
 ・その他の町を単に「町」という
 ・横丁(町)を「辻子(ずし)」という
 ・大通りから隣町に抜ける路地道を「ゼリ(世里)」という
  ・そのほか「○○店」などの固有名詞をいう(参考)
 以上、注1.、2. 参考。 
◆塩町(内町)◆
 塩町は、城下町の北西隅に位置し、それより北の武家屋敷地とは背割りを成している町並である。町の西方に内城の塩町 口黒門をひかえる虎口に面して南北の通りをともない、黒門前にあった土橋の南側は堺町裏堀、北方は左京堀を臨んでいた。 また、東方には魚町、南に本町通りと接する、いわゆる、城に対し“竪町”である。写真左↓は、手前の電柱のところ(“木屋の 辻子”)を右折すると塩町の東西の通り(写真右)に出る。また、最も奥の電柱前を左折したところに塩町口黒門があったとこ ろである。
木屋の口 
 門内が“割場”(木割り場)であった天和(1681-84)のころには、割場に必要な用材を搬入したと考えられるが、本多家・柳澤 家藩政時代、門内には評定所が置かれていたため、塩町口には、刑事(公事)、民事(吟味物)の各事件に関する内容などを 必要に応じて張り出す建て札があったところでもある。塩町から北西につづく武家屋敷地内(堀之側)の桜門外に“箱訴”のた めの“目安箱”があったのも、評定所が置かれたこのあたり周辺の事情を物語っている。また、今日、通称“木屋の口”といわ れている町は、本来は塩町口から以北の武家屋敷地である茶園場に位置し、近くの塩町で醤油商を営んだ豪商駒井長九郎 の家があったことから、その屋号“木屋”にちなんで呼ばれたもので、藩政時代の町名ではない。
 塩町の道幅は約3.6m、道路長は東西約156mと南北約55mで、丁字型を呈している。そして、東西に伸びる街路には “条理”の概ね半丁ごとに、道幅約2mから2.5mと狭いゼリ(世里)がそれぞれ南方の本町通りに向けて3か所(南の1か所 は魚町との町境の道。)口を開け通じている。町内を東西にのびる街路と南北の街路とが交わるところを“木屋の辻子”(前出) という。この辻の傍には番所をともなった木戸が西向に1か所と、また、本町から新町に抜けるゼリの、塩町と本町との背割り の境界(水路)付近にも1か所南向の木戸があり、これらは町の東南部にあった会所とともに塩町支配に属して町内で管理さ れていたものである。なお、江戸時代(享保9年(1724))当時、郡山城下の町数40町のうち、57か所の木戸(「郡山城 下の一般的な木戸」参照/多くは番所付である)がおかれていたことは前述のとおりである。
木戸図
 平時、木戸は午後10時(夜四ッ時)から、翌午前6時(明六ッ時/定時法)まで閉じられて往来はできなくなる。城下町(内 町・外町)にはこのような木戸が57か所設けられていたが、事件出来(しゅったい)のときは少々様子が違って来る。天明7年 (1787)5月13日夜には、柳町・高田町・豆腐町・堺町の米屋などにおいて“打ち毀し”が起こったため、その翌日から木戸を閉 めて町奉行組が守護にあたっている(3.)。この事件は、多人数で郡山市中や大和における藩領村々に乱入したので世に “郡山藩天明の打ち毀し”といわれた。なお、事件は間もなく鎮圧された。
 塩町は、遠く天正19年(1585)8月、郡山豊家により箱本十三町が定められたとき地子免となった町である。のち享保9年 (1724)のころの『和州郡山町鑑』(4./以下「町鑑」という)によれば、箱本二十七町の地子免許のうち、19番目に記された 町で、町内には、医師(先代浪人)本道1人、針医(先代浪人)1人、外科(先代浪人)1人が開業し、これら先代の本多家(無 嗣断絶)を浪人した知識階層の人々が医師となり、あるいは商人となって城下各町に住んでいたことを物語っている。なお、城 下各町の詳しい統計はわからないが、内町のなかで塩屋はわずかに4人となっている。
 塩町の町割りは50番地までを数えることができる。また、左京堀西方の堀の側(武家屋敷地区)に水源のあった水道“七ツ 井戸”からの配水を受けたところは、塩町では黒門前の米屋某宅ほか“木屋の辻子”の南西にあった町屋3軒である(「宝暦の 絵図」(6.))。蛇足ながら、塩町は町名としてはもともと塩魚(しおざかな/相物)または塩屋を営む商人が住んだ町というこ とになるが、のち、他業種の商人が移り住んで入り混じり、次第に塩町の町名が名目を残しながらも形骸化していった事情は 城下の他町と同様である。
・塩町に恵比須神社を祀ることも既述したとおりであるが、ここでは蛭子にちなむ狂歌を紹介しておきたい。時は文化8年 (1811)10月20日(恵比須講の日)に塩町蛭子社に奉納された狂歌で、露吸亭里蝶という御仁が詠じたものである。
 “神々は出雲の国へ縁結び 祭りを留主にことしろの主”  (注7.「集艸七篇」柳澤信復)
 このほかにも塩町は恵比須様にあやかる事物が多い町である。現在の恵比須神社の東、ゼリ(路地道)を挟んで隣に二階建 ての民家がある。ひときわ丁寧を尽くした建築で、塗り込めの漆喰壁に見える左官の“鏝さばき”など尋常の技ではなく、その 他随所に見どころのあるお宅である。わけても屋根を見上げれば鬼瓦をはじめ各所に七福神を模った瓦を一体一体を掲げてあ る。これらはすべて別注品であり、建築施主のなんと粋人であることか。隣の恵比須神社と見事に同化した町屋建築物であ る。一見の値、まさに千金であり、大切にしたいものである。塩町はこのような先人たちの声が聞こえてくるような情緒のある町 である。
 また、蛭子社の近くには“恵比須湯”という風呂屋さんがあった。長年通い続けた熱烈なファンの期待に応えて頑張ってこら れたが、平成15年ついにその長い歴史に終止符をうたれ廃業された。日本人の風呂屋さんにかける思いが特別であること は、筆者の年代ではことさらである。入り口にあった暖簾や下駄箱、そして番台や“いろは”に分けられた脱衣箱、足触りの良 い棕櫚のマットや浴場内の高い天井から滴る冷たい露、壁面を飾った富士と松原の絵など、それに風呂上りに坪庭の縁で八 ツ手を見ながら一気に飲み干したコーヒー牛乳の美味かったこと。このように数えあげれば切りのないほど、たくさんの思い出 がそこには込められていて、風呂屋さんは深い郷愁を感じる特別な空間である。戦後のピークには郡山の旧城下町には10軒 はあっただろう。こうして各所に林立していた銭湯の煙突も、時代の変遷とともに衰微してゆき、今、塩町の恵比須湯が閉じら れたので、旧城下町地区では柳町の“大門湯”だけになってしまった。長い間ほんとうにありがとうと申し上げたい。
 ちなみに1724年のころ、郡山城下の風呂屋は、内町4人、外町が3人となっている。

○魚塩町成立の一考察
 この町は古来、魚町と一個の町として“魚塩町”と呼ばれた郡山最古の町並みである。小田切家の後、大和守護職となった 筒井順慶が城主となり、隣町に“京街道”(鎌倉街道)へつながる大通りを設けて、そこを郡山の“もとまち”として「本町」(ほん まち)通りが定められるまでは、魚塩町が実質的な“もとまち”としてかつての“郡山の市”の中心であったところである。そし て、魚塩町は豊臣秀長の町づくりに“箱本十三町”の一つとされたのである。
 すでに述べたように一つの町として魚塩町が総称されたことから管見を述べれば、さかのぼって、大宝令(701)による典薬寮 とされるこの辺り(地字(小字)茶園場、魚町・塩町辺)は、そののち10世紀前の初期荘園として東大寺の清澄庄から分かれ て薬園庄となり、今日の城下町全域を包含してさらに南部の地域に開けた荘園の中心であった。もと典薬寮の地には薬園八 幡宮が祀られていたといわれ、これが今日の魚町地内に御旅所として残された宮地であるとされている。この宮地は、魚町地 内から北の茶園場方向に不自然なかたちで突き出していて、“地割”においてもここがもと典薬寮の地から時代が下って、薬園 八幡の宮地に由来するところであったことを確かにしている。このような東大寺の各荘園には東大寺鎮守(八幡)から勧請した 八幡宮が祀られることを例としたことも一つの証となりうることである。
 このころ、薬園八幡宮の近くには“魚座”と“塩座”が設けられて、生魚と相物(塩魚)の両座が置かれた。これが門前市を成 して、のちの近世初頭に至り、前者が魚町と、後者が塩町となって町が形成され城下町の濫觴となったと推考することができ るのである。これは、石清水八幡宮(京都府八幡市)を本所とする魚座(注8.)を、その傍証として引いたものであるが、史料な どのない現状から、いささか暴説に過ぎる嫌いは無いとはいえないが、まったく故のないことでもない。記して後考に備えた い。
 なおまた、塩は人間の生命維持に欠くことのできない物質として、原始の昔から生産されていたことを考えれば、城下に欠く ことのできない町として魚町とともに全国の城下町にその例は数多あるが、郡山における魚塩町は、10世紀のころ八幡宮を 本所とする魚座・塩座に、ここではその淵源を求めているわけである。

●恵比寿神社

 祭神は蛭子命。元和9年(1623)鎮座といわれるが詳しいことはわかっていない。ただ、ここ塩町に祀られることは生業守護の 福神・市神としてゆえなしとはしないし、江戸時代から同業の町人や職人による講中として組織化された恵比寿講(10日戎) は、城下のみならず大坂など近隣都市の多くの人々に厚く信仰され、恵比寿講は現在もおこなわれているのである。なお、郡 山城下には車町の蛭子神社ほか柳町(村)にもある。)

(注1.「郡山町旧記」天理図書館蔵。注2.『和州郡山藩家中図』柳澤文庫蔵。注3.「虚白堂年録」柳澤文庫蔵。注4.(複写本.柳 澤文庫蔵/原本.立正大学日本史研究室蔵)。注5.注6.注7.柳澤文庫蔵。注8.『日本史広辞典』山川出版 1997。参考) 
03 「新編郡山町中記」【二番 魚町(うおまち)】
◆魚町(内町)◆
 魚町は、塩町の東方へ真っすぐにつづく城下町の北限の町並で、塩町と同様に北隣の茶園場武家屋敷地と背割りになって いる。背割りの形態は前述した薬園八幡神社御旅所のほか、その東隣には法泉寺(廃寺)、さらに東方には茶園場と隣接する 松壽院(廃寺)、超龍寺(廃寺)の寺地までそれぞれに張り出したかたちとなっている。他方、町の南は本町通りと接し、塩町と 境を分ける辻子は本町通りを横切って藺町に通じ、さらに東方へ魚町の街路には半町ごとに本町に向かって2つの辻子があ る。写真↓/左右道路は魚町の通り。奥は本町から奈良町方向。手前道路右には薬園八幡神社御旅所・左には法泉寺境内 がある。
魚町
 街路は道路幅約3.6m、辻子は約2.5mで、町は城郭方向に縦方向のいわゆる竪町を呈し、その東西の道路長は155m である。町並みの地割りは塩町と同じ50番地まで数えることができるが、一部本町の豪商家と一画地となっているところがあ る。魚町支配の木戸は東の中鍛冶町との町境近くに番所をともなった木戸1か所と、南方の雑穀町に至るゼリの本町との背割 り水路近くに1か所、さらに、その反対側(北端)に当たる松壽院前に至るゼリの茶園場との境に1か所の都合3か所である。 なお、会所の位置が見出せないが、あるいは塩町会所を二町で使用したのかも知れない。
 享保9年(1724)ころの城下内町(魚町とは限らない。)における魚問屋は2人、魚屋が60人であり(『町鑑』(前出))、綿屋7 5人、荒物屋65人に次いで当時多い商売として数えられている。また魚町は、内町のうち18番目に記されている町である。そ のほか医師本道(内科)1人、針医1人がこの町にはいた。
  また、前述のとおり魚町は塩町と同様に郡山城下における最古の町であり、また、薬園八幡宮門前を本所とする“魚座”・塩 座に起源を求めることが想定できるのではないかと筆者は考えている。とまれ、小田切家、次いで筒井家、そして、“箱本十三 町”の一つとして豊臣秀長の時代から地子免を許された町でもある。

●法泉寺(廃寺)と藩医宮澤家について
 魚町の街路から北へ奥まった薬園八幡神社御旅所の東隣には法泉寺跡がある(現在は市内野垣内町常念寺の管理地)。 この寺は真宗東本願寺派末の寺で、開基は慶長年中(1596-1615)、僧雲哲である。今は朽ち果てた土塀と、倒壊した山門 (薬医門)、また、本堂跡の礎石22基がそのまま残っている。ここにあった本堂は、戦災で焼失した大阪の天満別院の仮本堂 として移築されたと伝え、本尊もまた常念寺(真宗東本願寺派末)へ移されて、同寺の脇壇に安置されている。(注1.)。寺地 東北部には同寺の墓地があり、現在も約30基余りの墓石が残されている。開基雲哲の墓石や伊勢屋・寺戸屋・柿本屋などと 読める墓石のほか、ここは郡山藩目医宮澤家の墓域でもあったことが残された墓石群(写真)からわかる。俗名宮澤道閑・ 志道などのほかに、一代の墓誌を刻むものが二基あり、その頌徳を記している。
法泉寺墓
 その一基、宮澤照方・藤本國子の墓石の台座にある墓誌によると、宮澤照方は、高梨氏(藩医師家「高梨」であろう)より出 て宮澤家に入り、諱を直重、のち照方と改め、号を道悦といった。江戸に生まれた道悦は、眼医をもって郡山藩柳澤家に仕え、 そして、天明2年(1782)9月17日、71歳で没した。
 安永3年(1774)のころ、国許にあった宮澤道悦は、この年10月12日に江戸へ出て、先代藩主、当時隠居の信鴻(伊信)の 近侍となり、駒込下屋敷(六義園)において拝謁している。そして、1年余ののち、身内の弔事により帰藩のため翌年12月24 日に暇乞いをして、信鴻より綿入れ羽織などの餞の品を拝領、丸毛司馬蔵(御近習取次役)とともにその翌日郡山へ旅立って いる(『宴遊日記』(注2.))。時に奥医師宮澤道悦64歳である。
 なお、もう一基(写真↑/(左の列4番目))は、宮澤公豫(道玄)の墓で、墓誌によると、その性敏にして恪勤し、家声曰く盛階 して秩禄進加せしめ、本業のほか、ことに漢詩文・誹諧をたしなみ、また、華道をよくしたとあり、このことは前述の『宴遊日記』 によってもよくわかる。駒込の隠居信鴻、ならびに藩侯保光(堯山)に近侍して可愛がれた人物で、わけても信鴻(米翁)から “米”の字を賜り、俳号“米牛”を称した信鴻の発句連衆(れんじゅ)の一人として、しばしば登場する人物である。
 やがて道玄は、文化12年8月17日(墓石17日)、66歳で没し、ここ魚町の法泉寺に葬られたのである。藩侯保光の兄柳 澤信復が編んだ『集艸』(注3.)には「辞世発句八句左ニ記」と題したなかに、米牛(道玄・公豫)の辞世の句を記念しているの で、ここに記しておく。
 這ふて来て ほふてもどるや 露の道
 それにしても、このあたり地字茶園場は、大宝の昔にさかのぼるもと曲薬寮“くすりのつかさ”(医療・医師の養成所)が、のち 平城遷都により移され、その薬園が都の羅城門外の西に営まれたといわれているところである。そのような地にある法泉寺を 家の墓域と定められたのは、やはり医師の見識とおもえらく。

●松壽院(廃寺)ほか
 松壽院は、浄土宗知恩院末の寺。元和9年(1623)、郡山城主松平忠明が百万遍(京都市左京区)の徳誉上人を、郡山の 植槻に招いて開基した。のちの城主本多政勝のとき魚町の地に移されて、寛文年中(1661-73)知恩院末となる。安政年間 (1854-60)『和州郡山藩家中図』(注4./以下「安政の図」という。)によると、この寺とともに北隣に超龍寺(松龍寺/ママ)の 存在が記されているが、両寺とも今は無い寺である。

(注1.『郡山町史』昭和28年。注2.『宴遊日記』柳澤文庫蔵。注3.注4.柳澤文庫蔵。参考)  
04 「新編郡山町中記」【三番 本町(ほんまち)】
◆本町(内町)◆
・鎌倉街道
 本町通りはその昔、鎌倉街道とも呼ばれた。天下の一大事の代名詞となったあの“いざ鎌倉”往還である。
 いざ鎌倉と言えば、北条時頼(1227-63)の廻国伝説でよく知られる能「鉢木」(はちのき)の物語が有名である。上野国の佐 野源左衛門常世(架空の人物)が、ある大雪の日にゆきくれる旅僧(実は時頼)を閑居に招い入れて一宿一期の縁に、粗末な 粟粥とせめてものもてなしにと愛蔵の梅・松・桜の三つの盆栽を伐り囲炉裏にくべて暖をとらせた。そして旅僧の問いに、“・・・ かように落ちぶれ果て候へども、今にてもあれ鎌倉に御大事いでくるならば、ちぎれたりとも此具足取って投げかけ、さびたりと も長刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り一番にはせ参じ・・・”と鎌倉に対する忠節を述べる。やがて、鎌倉に帰った時頼が早 速大小名を鎌倉に招集、常世もあの雪の夜に述べたとおりのいでたちで鎌倉へ馳せ参じた。時頼は常世を称賛して、本領とな お梅・松・桜の名にちなむ三領地村々を加増されるという物語である。
 閑話休題。こうした鎌倉時代の往還は、のちの室町時代や江戸時代においても鎌倉への通じる街道として一般に総称され、 かつ、関東地方に限らず畿内においても今日なお各地に語り継がれて“鎌倉往還”の名残となっている所が多い。なお、大和 郡山市にはこのほか、額田部寺町の額安寺(757-65にはあった古寺/真言律宗)近くに「鎌倉坂」といわれる小さな坂道があ るが、そのかたわらに重要文化財に指定の五輪塔群“鎌倉墓”があり、中でも北條氏の帰依を受けた僧忍性(1217-1303)の 墓は鎌倉幕府とのゆかりを色濃くとどめている。

○本町の見どころ
 このように鎌倉また京に通じる街道の本通りとしてして機能する本町は、同時に郡山城下の“もとまち”として、魚塩町ととも に城下町の規矩凖縄となった町であり、既に述べたとおり(「城下町百話002(魚塩町成立の一考察)」、その発生は薬園八幡 宮の本所として魚町・塩町は魚座・塩座として盛んとなり、やがて、小田切家から筒井家時代のころ郡山市(六斎市)としても 活況を呈したところで、ために、のち郡山豊家の成立とともにいち早くその特権の表象として地子免(屋敷地年貢)の特典に浴 した町である。
 さて、本町の形態は竪町で、通りは西の堺町角から、東の茶町(川中町ゼリ)角までの約310mと、また、堺町角から北方 への道路長約25mでもって塩町と境を接している。道路の幅員は前者が約5m、後者が約3.5mである。本町は城下で一番 広い道路幅を誇ったが、そればかりでなく町割りの屋敷地一画地(間口)が他町に比べて際立って広いところが多く、これらは 各地から誘致した有力な豪商がここに住み着いたことを物語っている。例えば八尾村屋権三郎、永原屋八右衛門などの藩御 用の金融業者である掛屋株を有する豪商や、酒造業を営む扇屋彦十郎や笹屋甚七などの家々である。いわば本町は、後出 の奈良(奈良市)・堺(大阪府堺市)・今井(奈良県橿原市)からここ郡山へ有力商人を誘致し、移住地ごとに商人の町を形成し た、いわゆる、奈良・堺・今井の3町とともに城下町郡山の富裕の象徴的存在でもあった。天明7年(1787)のデータでは、本町 通りには本家(持ち家)66軒、借家46軒があった。現在でも70番地(枝番を除く。)までを数えることができる町並みである。
 本町通りの北側は魚町・塩町と並行して直線的な背割り水路によって町境となっている一方、反対に南側は、本町通りと魚 町・塩町から伸びている、あたかも梯子の横木のような街路形態を規矩にそれを延長したところに、宗延寺(後述)辻子(隣町 の新町境まで半町(約50m)や、そのほか本町通りに対して直角につながる堺町通りや藺町、奈良町、雑穀町、それに茶町 の各町の、いわゆる“横町(よこまち)”がある(城下町百話001◆概説 城下町郡山(その1)「大和郡山城下町図」参照。以 下「城下町図」という)。
 これらの合わせて7か所で本町通りから左右(南北)の隣町に通された街路は、碁盤の目状の町割りを形成し、やはりこのあ たりは城下でもっとも古い街路プランを残していることが解る。本町は文字通りの城下町の基幹道路にふさわしく、“ひずみ” (見通しの利かないように道路に付ける緩やかなカーブ)を造らない真一直線のメインストリートとなっている。これがまさに本町 通りの町並の大きな見所となっている。つまり、道路の幅員とあいまって本通りの遠近(奥行)の深さを見せるために計算され 尽くした演出ととらえることができるからである(写真↓/本町西詰めから鍛冶町方向を望む)。
本町通り
  といっても、城下の守りに手抜かりがあるわけではない。半町ごとに設えられた左右の辻子やゼリに展開する伏兵を隠して、 側面からの攻撃、ことに魚町・塩町からの横矢掛り(外敵の侵入に対して左側位置の優位。弓・鉄砲射撃の便)を有利にしつ つ、これらの兵力の移動を容易にするため、背後の町々や、“横町(よこまち)”がその機能を十分に発揮でき得るよう、周到な 防御システムが城下町のプランニングのなかで当初から予定されていたとみることができるわけである。
 また、通りや辻子、ゼリ(世里)に設けられた大小の木戸や番所(城下に総数57か所。内町43か所、外町14か所(享保9 年))などに関しては、現在その成立年代を確定するに足る資料は見出せないが、当初、豊臣創設の城下町政策である“箱本 制”により、地子免の対価的義務としておこなわれていた火消や治安、公用伝馬などのメニューのなかで、自らによる平常の 治安・警備をおこなっていたものであるが、そののち郡山豊家の滅亡後も、この“箱本の制”は江戸時代を通じて引き継がれて ゆくことになる。このことが郡山の城下町政策の大きな特徴であるといえよう。言い方を変えれば、これが郡山の町衆の気骨で あったかも知れないし、また、為政者側もその方が何かと都合よかったのである。
 およそ南北21丁16間、東西8丁40間といわれる郡山の城下町は、江戸時代(柳澤家藩政期)には南・北両町奉行所の支 配で、参勤発駕・帰国、京都駆番、火事出京、春日祭礼や各種行事のほか、大事出来(しゅったい)時には、町奉行所の命に より平生の「条目」(往来は午後10時閉扉)に限らず、臨時に木戸を開閉したことはいうまでもないことである。なお、一つの蛇 足を加えれば、毎年行なわれる春日祭礼(春日御祭)に人数618人余を出すことを常としていた郡山藩だから、祭礼の日は武 家地や城下が手薄になってしまうなどというようなことは藩の職制や、“箱本制”に基づく町衆の自治を考えてもありえないこと である。
 通りの治安は堺町と本町の交差点近くに西向のひときわ大きな木戸と番所が通りをさえぎり、また、通りのはるかに3町先 (東方)の南鍛冶町との境にも通りに大きな木戸と番所が設置されていてこれらは本町が支配した。また、本町通りに通じる横 (南北)の通路では、北の魚町・塩町方向では3か所の木戸と、南側の奈良町境の1か所のみは本町の支配となっていた。いう までもないがそれ以外は当該他町の支配で、このあたり、町々の自警にもそれぞれの町間の格式に則った合理的な事由が見 て取れるわけである。つまり、同じ“横町(よこまち)”であっても、奈良町と新町・藺町・雑穀町などとは町間に格差があったこと を示していることになるのである。

○郡山藩掛屋と酒造株
 柳澤家の入部後の藩の掛屋は、ここ本町の八尾村屋権三郎と永原屋八右衛門、柳町二丁目の太田又兵衛が郡山藩三掛 屋として掛屋株を有して活躍した。掛屋は藩領の年貢米を取り扱って、その代銀を預かり、融通した藩の金融業者で、当然こ の三家は、享保15年(1730)12月15日に発行した郡山藩の新銀札には、“此札持参次第銀子相渡申候”と“札所”に指定さ れている。元禄5年(1692)の本多忠平時代に藩札を通用したのが郡山におけるその始まりで、やがて公儀は宝永4年(1707) 諸大名の札遣いを差し止めた。以来23年郡山藩(他藩も)は、柳澤家入部後の享保15年6月の公儀大目付回状(触書)が出さ れるまで藩札は遣えなかったのである。そののち掛屋はその時々代わって一定はしない。江戸末期には駒井清九郎(塩町)、 森村平助(綿町)、宇野源四郎(材木町)の三家が“御扶持被下候者”のとして『御分限帳』(柳澤文庫蔵)に記される三掛屋となっ ている。なお、現在でも永原家のあった近くの民家に“丸に永”の鐙瓦を見出すことができる。
 この町には、今も大梁、塗り込め造の酒蔵が林立する豪壮な中村家があり、貴重な造り酒屋の建築として、“平成2年景観 建築賞(大和郡山市)”を受けられている。そのほかにも、本町は伝統的な古い町屋形式を持つ家々が建ち並び、かつて一帯 の建築美を誇った城下町の町並みの代表的存在として、今でも伝統的な町屋建築が残されその旧観を比較的よく残している 町通りである。
 また、享保ごろの町のようすを伝える『町鑑』(前出)によると、ここ本町には4軒の造り酒屋があって、筆頭は八尾村屋権三 郎の180石、次に永原屋八右衛門160石、笹屋甚七130石、そして、扇屋彦十郎の120石である。享保期郡山城下で酒屋 株を持つ造り酒屋は38軒、造り高はあわせて3280石とあるから、本町の4軒で590石、約18%がこの町で造られていたこ とになる。このうち笹屋と扇屋には名水“七ッ井戸”の水道からの給水権(株仲間)を有していたことが「宝暦の絵図」(前出)から 読み解くことができるので、あとは敷地内の井水を用いていたのかも知れない。
 とかく江戸時代の酒造は公儀の厳しい統制を受けたから、当然公認の営業権・鑑札が必要で、このため酒株を所持していな ければならない。つまり大店の豪商がこれを占有していたのである。もっとも名目貸しもあったから実質的にはそうは言い切れ ないかも知れないがいずれにしても富商が酒造業を営んだのである。

○文人豪商
 ここで述べた豊かな商人たちは、掛屋として苗字・帯刀はもちろん、藩から扶持を与えられ、登城して二の丸屋形(御殿)内 の“鎗之間”に通ることを許されていたし、種々の特権を与えられたので藩財政に大きな影響力を持っていたことはいうまでもな いが、ときに藩から「運上」(営業権などに係る租税)が賦課されることになる。少し横道にそれるが、間違えやすいのは「御用 金」で、本来御用金は藩財政の窮乏を補うために臨時的に期間を限って藩領全域の各地から借り入れられ、返済を前提とした 借り入れ金であるという性格を有していることである。もちろん、藩の方では徹底的な“厳しき倹約”(おおむね3年単位)をおこな った末のことである。(柳澤藩政期)
 さて、やはり御用商人ともなれば、それ相応の“たしなみ”が必要とされるわけで、彼らは、和歌・漢詩文・俳諧などの文芸の ほか、茶の湯、挿花などひととおりのことはたしなんだのである。それだけに家蔵の書籍や典籍類なども多く、貴重本や珍本な どもその財力を活かして収集していたことが窺われる。たとえば、本町に住んだ永原八右衛門伯綱は、和歌や俳諧(号鴈行) のほかことに漢詩文をよくし、このころ京にいた朱子学派の儒者として有名な丹後宮津藩儒者江村北海(1713-88)に師事した 人である。このころ郡山藩二代藩主柳澤伊信、三代藩主保光に仕えた家老森信門(1730-91)は、この永原伯綱を漢詩文(和 韻)の師とし、またその仲立ちにより儒者北海(伝右衛門・綬)の指導も受けていた。このことは、「永原家文書」(柳澤文庫蔵) に収められている伯綱宛ての森信門書簡からその一端を窺うことができるのである。当時、王朝和歌の集大成といわれた「八 代集」の注釈書として有名な、「八代集抄」(北村季吟著/108巻/成立天和2年(1682))や、ことに珍本といえる元禄16年 (1703)刊の「類題和歌集」(後水尾上皇編/31巻。)が(おそらくは)伯綱から借り出されていたと考えられ、これをもって類推すれ ば、その他にも物語など和歌の典型的な基本書というべきもののほか、相応の書籍・典籍類が蔵されていたとみるべきであろ う。もちろん、蔵書の貸し出しないし借用は、ただ披見するのみを指しているわけではなく、清書(筆写)を前提としているわけ で、浄書することによって詩想を涵養したのが当時の学習法の基本であったからである。時がゆったりと流れていた時代のこと である。
 やがて、伯綱の没後の天明6年(1786)上梓された、『南山遺稿』(上・下/柳澤文庫蔵)によって、伯綱こと南山(彼の号)の 遺稿が広く世の中に知られることとなったのである。もちろん、序文は江村北海が、校訂は伯綱の師友で城下薬園寺の住職名 僧覚浄(字一道・号滄海)の手になるものである。このように郡山城下のみならず、藩領全域(大和・近江・伊勢・河内)を一つの 文化圏として考えても、知られざる文人墨客は数多いたはずである。

●宗延寺(写真↓/山門の鐘楼門と堂宇)
宗延寺
 山号は長頭山、日蓮宗妙顯寺末でその開基は天正2年(1574)と内町のなかでも古い寺院の一つである。開山は蓮光院白 仙。本尊は日蓮上人坐像。城下の度重なる災禍に堂宇は失われ、明治8年(1875)に奈良興福寺の塔中一乗院の一宇の堂を 移したものであったが、同寺の平成大改築により今は、山門である伝統的な鐘楼門が郡山城下の寺院建築のなかでも異彩を 放っている。楼門にあげられた梵鐘は、萬治元年(1658)の鋳造といわれ、その銘文は深草元政上人(ふかくさのげんせい/ (1623-68))の撰文になり、このことは元政上人の著「艸(草)山集(三十巻)」にも収められている(『郡山町史』参考)。
 少し元政上人のことについて記しておく。元政はその字で、法号を釈日政、また、妙子などの号がある。上人はもと彦根藩に 仕える武士で石井俊平を名乗ったが、やがて病弱のため26歳にして出家して、京、妙顯寺(上京区/「四条門流」/尾形光琳の 墓所などある。)の日豊上人につき、33歳で京都の深草に草庵をむすんで「瑞光寺」と号した。学僧の名ことに高く、経典開版 につとめ、また、文人としてことに有名で、北村季吟(1624-1705)や、郡山にも住んだことのある熊沢蕃山(1619-91)など、交友 も東西一流の著名人ぞろいで、わけても、漢学者詩仙堂石川丈山(1583-1672)などとは並び称される存在であったという。齢 48で病没して瑞光寺に葬られる。
 さて、宗延寺には、郡山旧藩士の墓がことに多い。なかでも、藩主柳澤吉里の武芸師範として府中(甲府)藩時代から無辺流 槍術をよくした岩田六左衛門正甫の墓所がある。岩田家は代々無辺流真鎗を伝える家として藩内外にその勇名を馳せたが、 藩主の鎗術師範を勤める家としても知られた存在であった。三代藩主保光もまた、岩田正方(1698-1769/御旗奉行)に師事し て、師弟の礼をとった人物である。藩主家の「過去帳」には、その忌日である明和6年11月18日のところに、“予、為鎗術之 師範岩田六左衛門正方”と保光が自筆して正方(唯妙院顕壽日了)の追福を祈ったのである。また、継ぎの四代藩主保泰の師 範は岩田正勝がこれを勤めた。 
 同寺には、このほか九条山に“宗延寺九条ヶ丘墓地”がある。墓地の奥に建つひときわ大きな七字の題目碑のもとに古墓が 数多たちならんでいる。ここにも名立たる旧郡山藩士家の墓所がいくつもあり、そこここの墓石に認めることができる墓誌をして そのことを物語っているのである。 
05 「新編郡山町中記」【四番 鍛冶町(かじまち)】 ・ 「新編郡山町中記 附 【川中町(かわなかちょう)】」
◆鍛冶町(枝町)◆
 現在の鍛冶町は、南鍛冶・中鍛冶・北鍛冶と三つの大字からなつている。これらの町は、天正16年(1588)の『郡山惣町分日 記』(春岳院文書)などで明らかなように、もとは“鍛冶屋町”と称した。鍛冶屋町はこの3年後の天正19年11月、早くも三町に 分割されいる(前出「郡山町旧記」天理図書館蔵)。このことをして、鍛冶町が城下町郡山の表口、かつ、京・奈良街道をひかえ る交通の要所にあって急速に発達した町であることを如実に示しているし、これがまた鍛冶三町それぞれの大きな特徴ともな っているのである。

○鍛冶(屋)町の拓修
 前項にいう三町分立のほか、鍛冶町を述べるにあたっては、その物理的変化をとらえるキーワードとして“秋篠川”および“郡 山城総構え”を抜きにして語ることはできない。すなわち、豊臣秀長による箱本十三町の成立後間もなく、本町の枝町として成 立(前出(1588))したころの第1期鍛冶屋町と、文禄4年(1595)、増田長盛入封ののち創築された“郡山城総構え(外堀・土居・ 虎口)”の完成のころの第2期鍛冶町、そして、寛永16年(1639)の本多政勝入部後の“外堀の付け替え”が完成したころの第 3期鍛冶町と、ここ鍛冶(屋)町の様相はまさに目まぐるしい変化を遂げたのである。なお、詳しくは前出(「郡山城百話」(15◇ の内、105◇増田家時代の郡山城・107◇つけかえられた外堀)のとおりである。

・第1期鍛冶屋町
 総構えが創築される以前の、成立期の“鍛冶屋町”の形態についてまず考えておきたい。ここにそもそも鍛冶屋町が置かれ たのは、秋篠川の水際で防火・水運の利便性などが考えられるが、それ以上に陰陽師や軍学者など、当時その道の見識者 の選地に負うところが大きかったと考えられる。たとえば、城からの方位東は、八卦の「震宮」・「三碧」、二四山の「甲(きの え)」「卯」「乙(きのと)」であり、五行説の木星、“木は火を生ず”で吉といった具合である。
 鍛冶町の発祥が興福寺などが営んだ“鍛冶座”までにはさかのぼれなくとも、城下の居職(いじょく)としてその最適地に置か れたことは疑いのないところである。
 鍛冶屋町は、本町通りに直ぐつながる町として、本町ならびに南に茶町、北に川中町ゼリをひかえる地点を町境として、その 東方に位置する町であったといえる。当時の鍛冶屋町の東端には秋篠川(河川、堤ともで幅約30mと推定)が横たわってい て、その向こう岸(秋篠川左岸)から程なく北方(左折)に向って京街道を開いていた。とすると、本町のつづきから秋篠川に架 かる大橋(郡山城総構え創築後の「奈良口大橋」と紛らわしいので、ここでは仮称“鍛冶屋口大橋”としておく)までの東西半町 (のち南鍛冶町)の街路に張り付いた町屋部分と、その北隣に並行して位置する(のち中鍛冶町)部分とを合わせた南北約13 0mの、わずか6,5000u(参考。魚町約8,500u)足らずの町域でしかなかったとことになる。ただし、ここで述べているの は、現状の町の境界に準拠して推理しているので、町域の変更をも考慮するとなれば本当のところはわからなくなってしまう。 しかし、秋篠川の向こう岸(左岸)の街道沿いに鍛冶屋町が時を経ずして伸展していったことは容易に考えられることである。
 以上述べた鍛冶(屋)町は、いずれも本町の枝町として位置づけられ、街道筋に立地する有力な町として地子免除の恩典を受 けたのである。なお、このように居職町である鍛冶町では、旧暦11月8日には休業して鞴(ふいご)祭りをおこなうことを例とし たようで、ここでも稲荷・住吉社などの信仰とつながりがみえてくることになる。

・第2期 町
 突貫工事で進められた郡山城総構えは、慶長年間の早い時期に完成していたと考えられ、遅くとも慶長5年9月の“関が原 の戦い”までには当然竣工していたといえる。工事が早期に完工したと推考する根拠として、増田家のみならず大坂城の東の 守りを担う郡山は、ことに重要な拠点として、豊家を挙げておこなわれたということに疑いをもたないからである。
 こうして、竣工した増田家時代の総構え(第一次)の総延長は48町13間余りである(前出)。

・第3期鍛冶町
 つづいて江戸時代に入り、寛永16年(1639)5月には、徳川譜代の名門本多政勝が播州姫路から郡山へ入部した。加増が あってあわせて190,000石であった。前城主松平忠明(12万石)の姫路転封で、入れ替わって入って来た本多家は徳川四 天王の筆頭として武名を馳せた家柄に相応して武家奉公人なども多く、ことに加増のためその家臣団も膨張していたから当時 の郡山城下はこの点においては手狭であった。政勝は、入部の早々工を起こして菩提寺浄真寺(野垣内町)・良玄寺(茶町)の 造営をはじめ、各所に家臣屋敷地の造成を急いだ。なかでも、ここ鍛冶町では外堀の付け替えとともに、鍛冶町大門の移動が おこなわれ、付近はその大改修(第二次総構え)の中心となったわけである(前出)。その結果郡山城総構えの延長は50町13 間となり、外堀長にして差し引き約2町が、面積にして約54000uが城下に取り込まれて、今日の鍛冶町・茶町の一部分、 それに西野垣内町が新たに形成されたのである。
 こうして、鍛冶町三町はすべて外堀内に取り込まれて現在のような大きな町となったのである。なお、正式に3大字となった のは、明治22年(1889)4月1日、町制を施行され“郡山町”となったときからである。あまりにも、町域の変化が大きかったた めに、その時々便宜通称的な扱いを受けたことはあっても総称として、また、藩の取り扱いにおいて結局は一つの町であったこ とは、享保9年(1724)『町鑑』(前出)によっても明らかである。ちなみに、このころの内町における諸職人422人中、鍛冶細工 をおこなっていたのは21人となっている。また、もはや彼らは鍛冶町に限って居職していたわけではない。
 天明6年(1786)、鍛冶町には、本家160軒、借家146軒とあるが、現在の町割りでは、南鍛冶町は33番地、中鍛治町43 番地、そして北鍛冶町49番地を数えることができる。町の道路長は東西2本、南北1本の合計で約434.5mである。ただし、 今日にみる中鍛冶町から野垣内町(村)への新道、ならびに良玄禪寺横の茶町への新道は、明治以降において付けられたも のであって当然これを除いた数値である。街路にひずみをもたせ、見通しをさえぎる工夫がみられるのも、本町と魚塩町を除く 他町と共通の形態である。また、道路の復員は中鍛冶町でやや狭くて約3.5m、北鍛冶町で4m、南鍛冶町で5mと広くなっ ている。この道路復員の差は、当然意図して定められたものである。つまり、ここで述べた鍛冶三町それぞれの町の立地の違 いを物語っているわけである。なお、町境を仕切る木戸は前述の本町支配の大木戸と魚町、それに茶町支配の木戸のみであ って、鍛冶町支配に係る木戸は1か所も設けられていなかった。ただ、南鍛冶町東の角奥ならびに大門横の番所は鍛冶町の 支配である。なお、重複するが鍛冶町大門付きの町割は、近隣の本町ほか茶・藺・魚・塩・奈良・雑穀・西奈良口、そして鍛冶 町の9町で、大門内外および番所のほか月次の勤番にあたっていたのである。

・鍛冶町大門の成立
 鍛冶町大門は、ほかの三大門と同様、“郡山城総構え”の普請がおこなわれた文禄5年(慶長元年)ののち、慶長年間(1596 -1615)に伏見城の惣門を移築されたといわれている。この間20年の歴史的大事件といえば、同5年の“関が原の戦い”であ る。また、この間の郡山城史をひもといて、その事情のなかから、伏見惣門移転の妥当性が最も高いのは、やはり、関が原以 前といえそうである。
 ともあれ、鍛冶町大門は城下の表口に位置する惣門として“大御門”と称され、その結構また壮大・堅固であり、虎口枡形を 構えているのも大門のなかでは鍛冶町大門のみである。左に、「鍛冶町大門近辺絵図」↓と題してその概略を示したので参照 いただきたい。
鍛冶町大門
 もちろん、古くは、『正保の絵図(和州郡山城絵図)』(前出)から、幕末の『安政年間郡山藩家中図』(前出)など、各種の史料を 注意深く検討すると時代の推移とともに少しずつ大門付近の状況にも変化を認めることはできる。ただし、本稿においては寛政 10年(1798)の『町割図』(柳澤文庫蔵)ほか、諸絵図を照合してここに図示したものである。なお、大門の建築様式は瓦葺の高 麗門で、表から向って左側に潜り戸をもち、また、総体の意匠は柳町・高田町大門と同じである。
 作成した絵図には大門内外の名称を記してあるので、詳しい説明は省くが、まず、絵図の上部は適宜の方位として西を選ん でいる。大門の枡形は右上の広島池外堀と、左下の高付上池外堀との間に枡形を設えて、大門に塀や矢来を補って門構えと してあった。右側の西観音寺町方向が、城下から京・奈良・江戸街道に口を開く街道筋で、ここから右(南)の石橋の橋を渡っ て枡形(広場)を右折、対面する東向きの大門を潜って高札場前に入る。ここから左折して番所前(大門付町中の勤番)を通っ て北鍛冶町から城下へ進むことになるのが表の順路である。
 外堀の内側には高い“御土居”が設けられてあったことは、ここ鍛冶町口も例外ではないが、そのなかでも枡形を設けて石垣 を積むなどその壮大さを誇示していたのは、やはり郡山城下の玄関口であるからだ。また、門外の石橋の下には、広島池と高 付上池をつなぐ水路が穿たれてあり、水流の方向は、石橋西方の広島池から水を取り込み、石橋の下から南方に向けて広場 (枡形)の下を暗渠として高付上池の“水吐け”までつながっていた。なお、水量調節のため、大門前枡形の南寄りの塀近くに は、その暗渠の南出口があって、ここに水門が設けてあった(現況は、水路が付け替えられているのでもとあったものとは違 う。) 。また、大門内にあった高札場の左と、右の土居上には厳しく竹矢来を結い廻してあり、後方には視線をさえぎりその奥 が見えないようにするため、蔀(しとみ)の塀が設けてある。ここから奥(西方)の武家屋敷地や小川丁馬場方向への進入は、家 中や許された者以外は立ち入ることはできず、このため、小川丁角には「辻番所」(前出。武家地内10か所辻番。)があり、 先手同心2人が昼夜その通行を厳しく監視していたのである。
 なお、現在、広島池からの水路の横に建てられてある石造の道標(写真左↓/(現況南面))は、昭和50年代に通行中のトラ ックによって折られてしまって約半分ほどの丈になっている。また、現在の鍛冶町大門跡付近は大幅な道路工事のため旧観と は随分変わってしまった(写真右↓/電柱の立つ辺りが大門跡(正面))ので、この道標の向きが違っていることさえ今ではわ からなくなっている。
道標  鍛冶町大門跡
  具体的には、「すぐ 高野山・大峰山」などと刻されている面の「すぐ」は、“道なりにこのまま(まっすぐ)進む”という意味であ り、また、裏面の「左 京・なら」などが記されている面は、“左折”を指し示しているわけである。さらには、「御城主様御武運長 久」と記されている方が道標側面でも表となり、「町内安全 萬延二辛酉年三月吉日建焉 世話人」と建立などの記述がある 方は、道標側面でも裏ということになる。もう一つは広島池から高付上池までの水路の位置である。藩政時代の水路の位置と 現況では流路が変わっているため問題をさらに複雑にし、なおまた、西観音寺町側には街道から東方につづく野垣内村や清 涼院(廃寺)ほかへの里道(径)もあり、旧状を導き出すのはなかなかに難しいといえる。
 以上のことからこの道標は、現在地から南南西約数mの地点付近の、もとの大門外北側(現在は道路敷内/「鍛冶町大門近 辺絵図」に図示。)に建てられていた。また、道標の方位についても、つぎのように、その必然性を解き明かすことができる。す なわち、「すぐ 高野山・大峰山」の面は東向きに建っていたので、当然、「御城主様御武運長久」の面は、通行側表の南向 き。「左 京・なら」の面は、西向き。そして、「町内安全 萬延二辛酉年三月吉日建焉 世話人」の面が裏側の北向きである。
 なお、蛇足ながら、「萬延二辛酉年三月吉日」についても、誤解を生じ易いのであえてここに記しておく。つまり、萬延2年 (1861)は、2月19日に改元されてるから、現在からみれば当然“文久元辛酉年三月吉日”ということになるが、当時この程度 のタイムラグはよくあることで、さして珍事でもなく、誤謬には当たらないのである。

・北鍛冶町
 北鍛冶町は南鍛冶町を経る街道の本通りとして、次第に街道筋へ「掛け作り」に開けていく西観音寺町、東・西奈良口町へ とつながる位置にある。北鍛冶町も街道筋に広がった新開地の一つではあるが、当初は“火鉢町”(前出)の号を与えられた町 であった。その意味するところは、つまり、「火鉢のように火の周りに人が集まるの称」を指しているものと筆者は考えている。 各街道に沿って城下から外へ突出した形態の、いわゆる「掛け作り」の町とはこの点において大きな違いがあるわけである。と にかくも北鍛冶町は、南・中鍛冶町より後年に成立した町であることは明確である。なお、北鍛冶町と中鍛冶町との町境となる 街路には外堀に流れる出る水路に架けられた石橋があった。これらの水は内堀の“左京堀”および、小川(北・中・南丁)三丁 (本稿において武家地には「丁」(ちょう)の字を充てている)付近から流れ下る水路で、当然のことながら水利権がある。この水 路は今も野垣内(村)町の高付上池の隣接、宮本上池の外堀に落ちる水路として機能している。現在ではこのように外堀とはい わず、それぞれ野垣内村(町)の地字(地租改正)に由来する池の名称となって残っているのである。
 このように、大門をひかえる街道の要所としての北鍛冶町は、江戸時代には居職としての鍛冶屋は、もはや衰えたかたちに なって分散し、替わって城下入口の街道に栄える町として変貌し、それなりの商業や職人が張り付くことになるのは当然のこと である。それは、旅籠屋や郷庄屋宿・飼葉屋・馬宿・薬種屋・飛脚屋・足袋屋・髪結・提灯・風呂屋などなど、より道中や往還の 便宜に密着した商人が張り付いていたことは想像に難くない。
 なかでも郷庄屋宿は、藩庁や評定所への触れ出しや用務のために郡山へ出向いた庄屋の宿泊に供するためにあらかじめ 指定された商家で、平生の生業は別にあった。たとえば、天保9年(1837)11月、時の藩主柳澤保興(1815-48)の家督入部(前 出)の節、“御機嫌窺い”のため各領分から藩庁へ登城の呼び出しがあったが、このとき北鍛冶町の畳屋治兵衛方に宿泊した のは藩領近江国浅井郡・高島郡の大庄屋格ほか帯刀人5名であった。また、郡山へ向けて出津した浅井・高島郡の大庄屋 格・庄屋格・帯刀人はこのとき計36名で(前出)、それぞれ、他の郷庄屋宿などへ分宿していたのである。このように当時城下 町の表口の象徴的存在であった鍛冶町大門の姿と、その門内に位置する鍛冶町界隈に集まる人々の喧騒がしのばれる盛業 の町だったのである(写真)。


・中鍛治町
 鍛冶町のうち、南鍛冶町は本通りに面した町であることに比して、中鍛冶町は、また、違った機能を有していた町である。大 別すると二つの要素が考えられる。すなわち、中鍛冶町は本町・南鍛冶町本通に平行して、西方の塩町から魚町、そして鍛冶 町と線状につながるパイパス街路として形成された町であることと、かつ、城下町の“北の寺町”として大きな特徴をもっている 町である。それは、西隣の魚町裏の法泉寺(廃寺)・超龍寺(廃寺)・松壽院(廃寺)の三寺院につづいて、中鍛治町の龍巌寺 (後出)と一帯を成していることでもわかる。つまり、寺町は当時の都市計画のなかで寺社地として指定され、配置されたこと は、他の城下町の例を引くまでもないことである。ちなみに、中鍛治町の龍巌寺は、天正9年(1581)に開かれ、江戸期におけ る城下寺院の総代役を務める寺格を誇った古寺である。『安政年間和州郡山藩家中図』(柳澤文庫蔵)による、龍巌寺門前に標 記されている“寺町”は、こうした寺格にも一つの要因があったかも知れない。なお、嘉永7年(1854)6月の大地震には、“寺 町”で龍巌寺門がゆり潰れ、民家4軒ゆり潰れの被害を出している。
 また、寺町の背後は茶園場から広がる武家屋敷地と、城下町屋とを分ける境界を成していることも、この町の特徴の一つで ある。中鍛冶町は、町名においてもここで述べた“寺町(てらまち)”のほか“川(河)中町(かわなかちょう)”の異称も残る町な のである。江戸期の文書類にこうした固有の町名を記したものがあるが、これらは厳密な意味で、その所在を詳細に示す場合 に限って用いられたと考えられ、たとえば、前者の寺町では寺院(寺社奉行支配)とその隣接地を、後者は川中町(中鍛治町の 古名。/町奉行支配)と本町につながる川中町ゼリとを指すかのように思われる。また、中鍛冶町の町域は南鍛冶・北鍛冶町の 中央に位置して東西方向に形成されている。したがって、その街路も龍巌寺の門前の通りと、大門への本通りとがTの字形に なっている。なお、『町鑑』(前出)によれば、この町には高70石の造酒屋八尾村屋があった。また、鍛冶町会所はこの町の表 通り東側にあった。

・南鍛冶町
 鍛冶町三町のうちでは中鍛冶町とともに最初にできた町であり、どちらかといえば、その道幅などから本町の延長という雰囲 気のする町である。“すわ郡山”と城下本町を目指す位置にあり、往き交う人々の通行量も当時町中では最も多かったところで ある。ことに、城主の帰城・発駕(参勤交代)の節は、路上に塵一つ無く掃除されてあったから、行列などもこの辺りでは隊伍を 整えて進んだに違いないし、また見物人も多かった。なお、南鍛冶町は北隣の中鍛冶町とは、比較的直線的な背割り水路で 仕切られているが、それでも堀際の東部において南鍛冶町と入り組んだ形状となり、また、本通りの南側においても町境が一 部茶町と入り組み、南東方向に斜めに延びる背割り水路に沿った町割となっている。

●龍巌寺(中鍛冶町)
龍巌寺
 堂々とした薬医門を山門とする龍巌寺(写真)は、浄土宗知恩院末の寺。山号を登天山、天正9年(1581)、鏡誉上人の開基 といわれ、始めこの辺りにあった“河中寺”を受け継いで、のち宝永のころ(1704-11)光誉上人のとき境内地および堂宇を拡張 して現在のようになったといわれている。また、すでに述べたように江戸期における郡山城下の寺院総代役としての寺格を有し ていた古寺でもある。本堂は、木造四柱の本瓦葺で郡山城下の寺院のなかでも古い江戸時代初期の建築様式を残していた ようである(『郡山町史』参考。)が、昭和40年代に老朽のため建てかえられた。それまでは選挙の投票所などにも開放・借用 されていたので、市民にも馴染みの深い龍巌寺本堂であった。また、50年代に入って土塀改修の際、塀下の石垣からおびた だしい数の石仏、墓石などが発見されいる。
 なお、当寺には俳諧をよくして梅月堂鶴州の俳号で知られる柳澤家の臣、樋口喜七郎正忠の墓碑ほかがある。
 暮遅く夜明けは早し梅が谷 梅月堂鶴州 
 文化8年(1811)11月12日、69歳卒の辞世の句である(「集艸」柳澤文庫蔵)。

◆川中町(枝町/写真↓)


 川中町は、本町の枝町として成立したが、今日の地字では本町・南鍛治町・中鍛治町の三町のなかに含められている。町の 所在は、「御家中屋敷小路割名前図/宝暦四年」(柳澤文庫蔵)の絵図によって確認することができるし、また、旧記に枝町とし て発生し、往古より地子免の町であったことが記されている。私見ながら、増田長盛の郡山総構えの築造前は、旧秋篠川端に 立地することから、ゼリ(大通りを連絡する路地)というよりも通りとしての機能を十分に果たしたと思われるが、総構え築造後は 本格的な鍛治町の形成とともに一つの町としての形態は次第に薄れていったように思われる。このため、時代が下るにつれて 本町に呑み込まれた単に通称町名となっていった。しかし、今日においても家々の地割り(画地)を残していることから、小さい ながらかつては独立した町であった遺構をとどめているのである。なお、本稿において川中町は 「新編郡山町中記の附として 取り扱っているのでお断りしておく。  
06 「新編郡山町中記」【五番 茶町(ちゃまち)】
◆茶町(内町)◆
 茶町は、筒井家による城下の経営によりできた町で、のち、豊家が城下町郡山の基盤となる町として最初に定めた“箱本十 三町”の一つにも数えられ、また地子免やその営業に特権を与えられた商人町である。
 郡山は、古くから茶をたしなむ人々が往来した土地柄であることは論をまたないが、たとえば思いつくまま名を挙げても、筒井 順慶をはじめ、豊臣秀長・秀保、千利休、徳川家光、小堀政一(遠州)、津田宗及、神谷宗湛、増田長盛、松平忠明、本多忠 平、柳里恭(柳澤家家老)、柳澤保光などなど、郡山で茶の湯を愛した人たちをここで紹介することは紙幅に余る。
 そもそも茶は、蘇我天皇の代(809-23)に朝廷において栽培されたというが、あるいはもっとさかのぼれる歴史をもっていたも ののように思われる。鎌倉期に入って、臨済宗の僧栄西(1141-1215)が、修行を重ねて入宗(中国)するうち、やがて日本に “抹茶”を伝え、以来主に禪寺において薬用に用いらていたとされる。栄西は、のち東大寺の大勧進職となってその復興に尽 力した名僧である。また、茶の湯の開山と称され奈良流の茶道を成したことで有名な田村珠光(1423-1502)らが活躍し、さら に織豊時代に、千利休(1522-91)が茶の湯としての茶道を大成し、武家社会のみならず町衆へも広がって行った。ことに茶の 湯は時の為政者がもつべきたしなみとしての地位を確立していたから、自らの城下に茶町を置くことは、一つのステータスであ ったかも知れない。
 また一方、早くから“番茶”が一般に普及して煮売りが商売になっていたから、茶は単なる飲料の域を出て、必需品として 人々の社会生活のなかに深く取り入れられていたのである。
 茶町は、天明6年(1786)の記録によると、町の長さ116間5尺、道路の幅員2間(約4m)、持ち家40軒、それに借家43軒 となっている。道幅が約4mとやや広いのは城下のなかでも“準街道筋”として位置づけられている証である。現在の道路長は 南北約240mで、南部において隣町の綿町と道路を2分して材木町と接しているし(写真↓/手前が材木町、左へ綿町、右へ 西野垣内の常念寺参道、奥が茶町の通り)、北部でも南鍛冶町と本町との間で町境を複雑に入り組ませている。
茶町北
 また、現在の町割りの地番は49を数えることができるが、あとはその北部から広小路を設けて東方へ造営(本多政勝)した 寺地部分の4地番が茶町の区域である。これらは、現在の良玄禪寺(後出)ならびに天満宮(慈眼寺(廃寺)/後出)の境内地 につづく広小路(道路長43m、幅員約4.5m/現況の道路ではない。)となっているところである。さらに、茶町南部の綿町との 町境近くから、当時の浄真寺(のち常念寺)への参道部分(道路長約38m、幅員3.5m)も茶町の領域である。
 話題が前後するが、前述(寛永16年/本多政勝)の“外堀の付け替え”によって鍛冶町と同様にここ茶町の様子も少なからず 変化している。それまでの茶町裏東に沿って北から南へ流れ下る秋篠川が横たわっていた。その川向こうには当時野垣内村 (現西野垣内町)があり、政勝は野垣内村の農家20軒を堀外の東北のほとり(現野垣内町)に移し、村跡の南部に郡山にお ける本多家の菩提寺浄真寺(野垣内領/のち西岸寺と改号し大坂口へ移転。跡地は常念寺となる。)を造営、さらに、北部(茶 町)へ良玄寺を大多喜(千葉県)から移した。そして、その他の残地(約12,500u)を家臣(武家奉公人)の屋敷地に充てた のである。
 『町鑑』(前出/享保9年頃)によると、内町に茶屋は6人とあるが、このころになると茶町で商いをしていたわけではないだろ う。また、茶町には造り酒屋が2軒あり、うち八尾村屋平兵衛が造り高170石、田原屋長次郎が高85石となっている。なお、 茶町北部には豪商柳屋五兵衛(柳原姓)が住み、郡山藩(柳澤家)に寄与したことが知られている。当時、屋号の“柳五”で通 っていた。
 その他の施設としては、町の南・北にそれぞれ木戸および番所があり、それに茶町から西隣の雑穀町へ延びるゼリ(道路幅 約2m)2か所には、町界の背割り水路付近にそれぞれ木戸が設けてあった。また、会所は町のほぼ中央西側に置かれてい た。これらはすべて茶町支配であった。
 
●良玄寺(写真↓/左奥が本堂、その手前が“時雨塚”、境内左側に“郡山弁財天”がある

 良玄禪寺は、臨済宗妙心寺末で、寛永16年(1639)、播州姫路から郡山城主となった本多政勝(1614-71)の菩提所であ る。墓所には政勝とその母、妻、長子勝行の墓がある。もともと政勝移封のとき、上野大多喜藩((祖父忠勝(1548-1610)ー 父忠朝(1582-1615)/千葉県)時代の本多家菩提寺である良玄寺を移したのが郡山におけるこの寺のはじまりである(前 出)。のち雲幻寺(本多忠平家菩提所)となって現代に至っていたが、昭和39年、境内から政勝(前出)ほかの墓碑が発見され た。というのは、江戸に薨じた政勝の遺言により、その遺骸は郡山へ送られここ良玄寺において火葬されていたからである。こ れによって昭和56年、雲幻寺はもとの寺号である良玄寺に復し、今は瑞龍山良玄禪寺という。境内には郡山弁財天(後出)を 祭るほか、芭蕉の“時雨塚”(後出)がありことに俳諧の寺としても有名である。

●雲幻寺
 本多政勝(第一次本多家)の菩提寺良玄寺は、のち貞享2年(1685)に郡山城主となった本多忠平(1631-1695/第2次本多 家)によってその前封地の宇都宮にあった菩提寺雲幻寺を、郡山の良玄寺を改めそのあとへ移した。雲幻寺は、元和元年 (1615)に宇都宮で草創された寺で、忠平の女子の菩提所であったという。臨済宗妙心寺末寺である。なお、忠平の墓所は奈 良市二名町の王龍寺にある。
 また、雲幻寺には郡山藩柳澤家中の和田文大夫茂貞(号文入/79歳)ほか、井野口淺右衛門徳恒(69歳)、雨森宗鉄常福 (俳号知足軒/76歳)、そして、後藤貫兵衛武基(76歳)などの墓碑がある(「集艸」柳澤文庫蔵)。
・キリシタン殉難者碑
 明治2年(1869)、新政府によっておこなわれた長崎浦上村キリシタン3,416人(3,384人ともいう。)の総配流に際し、う ち86名を郡山藩預けとされ、当初、ここ雲幻寺本堂に収容された。その後町中各所に移され、さらに明治5年、伊勢津藩から の28人が送られて114人となって、さらに三の丸へ移されている。時の藩主柳澤保申(1846-93)の寛大な処遇は逸話となっ て語り継がれているが、政府の巡検使の知るところとなってのちは配流の人々に改心や労役を強いられることになる。やがて 明治6年3月、列強外交団の抗議に明治政府はキリシタンの人々を解放した。帰国を許されるまでの配流5年の間に9人が病 死し、大正15年(1926)5月、殉教者6人の墓碑がゆかりのこの寺に建立されたが、のち遺族の願いにより、昭和44年にカト リック大和郡山教会(城南町)へ移されて、“浦上キリシタン配流記念碑”として整備され、今日も祈りを捧げられている(『キリ スト教徒悲話』/カトリック大和郡山教会 参考)。

●郡山弁財天(写真↓)

 良玄禪寺の境内の一隅に祭られている。弁財天像は弘法大師の作といわれている。毎年の夏祭りは6月6日、7日におこな われていて、多くのお参りがある。

●慈眼寺(写真↓/現在では堂宇無く、墓地のみである)

 真言宗勧修寺末。山号は大悲山という。元禄11年(1698)、尊清法印が中興開山である。本尊の千手千眼観音立像は、現 在、薬園寺(材木町)に安置されている。慈眼寺は、今は廃寺となっているが、“北和札所第六拾番慈眼寺”の標石は、慈眼寺 再建記念の碑で住持のほか施主の姓名もあり、大正12年(1923)6月17日の建碑である。また、墓地には、法印權中僧都 覚本和尚(明治45年(1912)7月没)ほか、檀家多数の墓碑があるが、なかには高田町にある釈尊寺の住持無徳法師(慶応 2年9月10日入寂)の墓碑もある。常念寺の管理になっている。
 なお、慈眼寺跡旧境内東南部には天満神社が鎮座している。

●天満神社(写真↓/右手奥に慈眼寺墓地がある)

 祭神菅原道真。鎮座年代ほか由緒は不詳であるが、江戸期の『滑稽三時行脚』(天保四巳歳初秋上梓/山路庵楳日戯述) に慈眼寺天満宮へ参詣したと記されているから、少なくとも天保4年(1833)には存在したのである。このことから、明治の廃仏 毀釈前は天台・真言宗に多い神仏習合の神宮寺であったかも知れない。例祭は毎年6月25日である。

●真行寺
 本多政勝時代の寛文4年(1664)に慶円によって開基された真宗興正寺末の寺。今は廃寺。本尊阿弥陀如来立像は常福寺 (柳4丁目)の脇壇に安置されている。この寺は、『郡山藩家中図』/享保9年』(柳澤文庫蔵)でその所在が確認できるのみで、 柳澤藩政期に廃寺となったようであるが、『町鑑』(享保9年のころ)によれば、郡山光慶寺末とある。

◇時雨塚建立の一考察

 けふばかり人もとしよれ初時雨  ばせを

 この句を刻する碑は、茶町の良玄禪寺境内にある有名な芭蕉の“時雨塚”(写真)である。
時雨塚
 この“初時雨”の句は、松尾芭蕉(1644-94)最晩年の弟子で、蕉門十哲の一人といわれる彦根藩士森川許六(1656-1715)ら が撰んだ俳書「韻塞」(いんふたぎ/元禄9年自序)に収められたもので、その前書により、江戸在勤の許六亭で催された元禄5 年(1692)10月3日の歌仙興行に際して芭蕉が物した句であることがわかる。
 ところで、この句碑の背面には俳諧集団である“燕子菴後米仲社中”54人の俳号は刻されるものの建立の年次が記されて いない。そして、このことについて明解な解釈は現今までされていない。けれども、この句碑に年次が記されていないということ を翻って一考すれば、それはあまりにも周知の事実であって、ことさらに記す必要さえないことを示しているわけである。必要の ないことを記さないというのがその昔の常識であって、なにもかもに年次を記す習慣は現代人の感覚であるといえる。
 改めていうまでもないが、芭蕉は元禄7年(1694)10月12日に大坂で身まかっている。よって、この芭蕉忌を、その季節にち なんで“時雨忌”(陰暦)と称されることは古今を問わず著聞である。また、ここに御当地ソング(発句)ではない“初時雨”の句 が撰ばれたのも、蕉風に心酔した“後米仲社中”の人々をして、芭蕉の忌日である“時雨忌”にちなんでのことであったことは容 易に推量できる。このことは同時に、郡山蕉風俳諧の表象としての時雨塚の存在意義と、そして、何よりも松尾芭蕉の追善供 養のためその年回に、雲幻寺境内を頼んで建碑したものに違いない。

 さかのぼってみれば、郡山の俳諧は、本多政勝の姫路時代からの家臣であり、松永貞徳(1571-1653)門の池田十郎右衛 門正式が城主の転封(寛永16年)に従ってここ郡山に移って来てから、正式をはじめとする家中によって郡山で俳諧がおこな われるようになったとさえいわれている。
 老いが身のしろせめよするせいぼ哉 和州郡山池田正式(『俳諧師手鑑』)

 さらに、のちの郡山城主本多忠平(貞享2年入部)に仕えた平泉鬼貫(1661-1738)もまた大和郡山に来た人である。鬼貫は 元禄期の俳人として芭蕉とならび称される著名俳人であったことはいうまでもないことである。郡山藩士としての鬼貫は、元禄 4年(1691)から4年余りの間ということと、入部後の任地が大坂詰めであったことなどから郡山の俳壇への影響も少ないとの 評価がなされているが、城勤めの実態や俳諧社中の活動のありようを考えてもそうは言い切れないと思う。
 なお、松瀬青々門の坂口草堤(斑鳩竜田)の句碑が、昭和44年、大納言塚(豊臣秀長墓域/大和郡山市箕山町)に建碑(森 田義一/俳号“青也”)されている。鬼貫が一時箕山あたりに住んだということから詠まれた句である。“箕山しぐれ鬼貫がそこ にゐるやうな 草堤”

 元禄六年和州郡山に年を迎えて (鬼貫著i『七車』)
  いただくや大和正月三笠山 

 このように、俳諧史上重きをなした存在として知られる池田正式や平泉鬼貫はともに郡山の武士俳壇の中心として活躍した ことは疑いもないことである。そして、ともにその藩主にゆかりをもつ菩提所の良玄寺ならびに雲幻寺がその後も郡山に永続し たことは、まことにゆかしいことであり、わけても、芭蕉翁の時雨塚建立に務めた“燕子庵後米仲社中”の面目躍如として、今 日、俳諧の寺として、そして俳諧の町として大和郡山の誇りとなっているのである。
 
 ところで、句碑背面に刻された社中の俳号は54人中、42人まで“米の字”を冠していることからみても、この社中は郡山藩 柳澤家中の武士たちであるといってよい。そのなかには、本稿(魚町法泉寺)で紹介した宮沢道玄こと“米牛”が名を連ね、また ことに、建碑の発頭3人(米秋、米用、米彦)のうち“米秋”は丸山亘、同じく“米彦”は豊田猪野右衛門であるとわかっている。 米秋こと丸山亘は文化12年4月に、米牛こと宮沢道玄は文化12年(1815)8月に、そして、米彦こと豊田猪野右衛門は文政5 年(1822)2月に没している。このことから、少なくとも発頭たる丸山亘の没年よりは以前に時雨塚建立がおこなわれたということ になるわけである。
 では、句碑が建立された年次としてその推量がおよぶのは、当然のことながら故人(芭蕉)の年回・遠忌というのが仏事供養 の通例であるが、ここでは、先ず建碑者を特定しておかなければならない。つまり、句碑銘にある“燕子菴後米仲社中”であ る。米仲ではなく“後米仲”と明記されるからには、前の業俳岡田米仲ではない。米仲のあと、米仲の俳号を継承した“後”の 米仲社中である。江戸は霊巌島の業俳岡田米仲は、“月村所”、“八楽菴”などと号したが、明和3年(1766)6月に没してい る。
 そもそも、郡山藩二代藩主柳澤伊信(信鴻)が、談林俳諧西山宗因(1605-82)門の紫子菴前田青峨(・春来)に入門して、大 名のたしなみの一つとして俳諧もよくした。のち延享3年(1746)、青峨亡きあと、師事したのが同門高弟の岡田米仲である。信 鴻は天明江戸俳諧の大名宗匠として活躍して、俳号を蝦明・月村所米徳・春来・米翁と号した。
 さらに、三代藩主柳澤保光(堯山)もまた、父信鴻と同じ業俳に師事し、桃々菴青峨・月村所青峨・紫子庵月邨(村)・八楽庵米 徳と号した。やがて、寛政4年(1792)3月の父信鴻没後、保光は亡父からもらった“八楽庵米徳”から、もとの“青峨”の俳号に 戻り、翌寛政5年に江戸の業俳萬葉菴皐月平砂(1734-1813)に師事、このとき“萬里庵青砂”と号して、少なくとも萬葉庵卒去 の文化10年(1813)11月9日までは師弟関係にあったことがわかっている(「改名引付」・「過去帳」/柳澤文庫)。そのほか、 保光の4人の弟も俳諧をよくしたことが知られ、柳澤信復(実は兄)は松榮亭鶴壽、高家武田安芸守信明は啜龍、高家六角伊 予守広籌は米社、越後三日市藩主柳澤里之は珠成を号したのである。(「美濃守日記」・『宴遊日記』・『松鶴日記』・「信復聞 書」・「集艸」柳澤文庫蔵 参考)。
 なお、関連して時雨塚の“後米仲社中”54人のなかに“八楽”を俳号とした家臣があることに少なからず疑問をもっていたの であるが、藩主保光の改名によってその疑問も解けた。つまり、このとき(時雨塚建碑)すでに保光は、“八楽庵米徳“改め”青 峨”または“萬里庵青砂”を号としていたのである。言い換えれば“八楽”を俳名とすることを許された者(郡山家中/姓名不詳) がいたということである。
 このように、信鴻・保光父子は“米の字”を号としたほか、近侍する藩主の俳諧連衆が“米の字”を賜ったことはすでに述べ た。歌仙(連句)を巻くばかりでなく、これら連衆や近侍の人々は、藩主の筆法までも手習いしていていたり、殿様の歳旦摺物 (年賀状)の版を彫る“二本差し”がいたりして、その徹底した近侍ぶりには驚かされることが多い。
 その数多い連衆のなかで、信鴻から俳号“米棠”を賜ったのが家中の内田又右衛門で、のち、保光の代にはこの俳号“米 棠”を改名して業俳米仲の俳号を受け継ぎ、“燕子菴米仲”と改名したのである(『近世文芸研究と評論/62号』井田太郎/「江 戸座の参加者」2002 参考)。この改名に当たっては、当然、保光公の肝煎りがあったことはいうまでもないことである。つま り、前俳名は信鴻公から賜った俳号であり、なおも、米仲は嘗ての藩主両公“大殿様、殿様”の俳諧指南だったからである。な お、藩主の師範であった業俳の号をその家臣が受け継ぐことは例のないことではない。ただし、“後米仲”と“燕子庵後米仲”と がほんとうに同一の人であるかどうかについては、厳密な考証においてなお資料不足であるといわなければならないが、それ を傍証できると考えられる句箋摺物がある。
  御津の濱や忝くも梅の花  燕子庵米仲
 この発句は、大和郡山市教育委員会の所蔵になる「豊田家文書」のなかにある燕子庵の句箋摺物であるが、筆者が過渡期 と考えている“後米仲”や“燕子菴後米仲”と記されない一例としてここに紹介したものである。
 やや前置きが長くなってしまったが、これによって“時雨塚”の建立は、俳聖松尾芭蕉の遠忌百回忌に当たる寛政5年 (1793)10月を期して建立されたものと結論づけることができるといえよう。

 なお、時雨塚の傍らには、これより31年のちの文政7年(1824)2月に建てられた郡山の俳人山路庵楳日により建碑された “境内ばせを時雨塚”と記される標石がある。
 この標石によってこのころ郡山の俳壇で活躍した月夜庵社中(二世)の動静を知ることができるが(『大和郡山市史』)、興味 深いのは良玄禪寺の門前に設えられた同形・同筆のもう一基の“境内ばせを時雨塚”の標石である。碑の裏に二句の発句が 刻されているが、いかんせん石材が砂岩であるため風化が激しく二句ともに判然とはしないものの、下五が“若菜哉”と“枯野 の風”と解る。問題はこの句の作者が“萬葉庵”と記されていることである。
 とはいっても、寛政5年に弟子入りした藩主柳澤保光の師、二世萬葉庵皐月平砂(前出、文化10年没、78歳)のことではな い。なぜなら、“境内ばせを時雨塚”の標石の二基とも同筆と判定して、建碑されたのは前述のとおり文政7年と考えられるし、 またそのようなことはありえないことである。判読の“萬葉庵”のみによって云々することはひかえるべきであるが、あえて推定 すれば二世平砂の門人、三世萬葉庵皐月平砂(『俳諧人物便覧』)ということになるが江戸の俳人でもあり、その関連性が解 けない現状では、これ以上のことは他日の課題としておくしかない。 
07 「新編郡山町中記」【六番 雑穀町(ざこくまち)】
◆雑穀町(内町)◆雑穀町 写真↓/(“料理旅館尾川”付近から北方を望む)
 雑穀町は、その名のとおり雑穀を扱う商人町である。筒井家が開いた城下であり、のち、豊臣秀長が最初に定めた郡山城下 の“箱本十三町”の一つにも数えられ、地子免などの特権を与えられた町である。
 雑穀の定義は一様ではないが一般的に米・麦以外の、粟・黍・稗・蕎麦・豆類・胡麻などを指すものとされているが、雑穀と はいっても明治までは主食用として栽培され、あるいは他の加工食品の原材料として用いられた重要な穀物である。因んで豊 穣祈願の五穀は、米・麦・粟・黍・豆である。
 雑穀町は、南北に長く町並みを形成し、その形態は横町(よこまち)に分類される。町屋の長さ87間半(約175m)、道路の 幅員2間(約3m)となっている。ただし、隣町である北側の本町と、南側の綿町近くにはそれぞれ雑穀町が支配する木戸およ び番所が町域を飛び出して建てられていたため、厳密な支配地内の道路長は約195mはある。綿町寄りの西側にある会所を 含めて町屋は59軒(本家40軒、借家19軒/現在は33地番)に区画されていた。また、隣町との連絡路であるゼリの4か所 は、東の茶町、西の奈良町に向けてそれぞれ木戸が設けられていたが、いずれも他町支配であって雑穀町の支配には属さな い。

○郡山城下の医師
 享保9年(1724)のころ、郡山城下には59人の町医師が開業していた。城下全町40町の中で、“内町”27町には39人、 “外町”13町に20人の町医師がいた。その内訳には、“内町”で、本道(内科)21人、針医12人、外科2人、目医師3人、歯 医が1人で、“外町”には、本道9人、針医5人、外科5人、目医師1人と記されている。このときの城下町郡山の人数は、13, 258人、家数3,656軒であった(以上『町鑑』(前出)/藩家中は含まれない)。
 雑穀町には江戸期からこの町に住み、代々医業を営んでいた楠本家がある。貞享3年(1686)「雑穀町間数帳」(個人蔵)に はすでに“楠本玄東 本道医師”とあり(『大和郡山城下町における住宅地形成の解析』参考(前出)、のちの「寛政十年町割 図」(1798/柳澤文庫蔵)のほか、柳澤家が郡山に入封した享保9年の『町鑑』(前出)にも楠本玄東の名が見える。また、楠本 家は、御目見町医師として藩医を勤めた家で、『御分限帳 上・中・下』(1868/柳澤文庫蔵)には、楠本玄東の名が記されて いる。すなわち“玄東”は“字”で家代の名である。『大和郡山医師会史』(大和郡山医師会)にも楠本姓の医師が8人名を連ね られている。なお、明治前半には医師を廃して転業されておられる。
・孝女楠本榮子
 大和郡山市千日町にある浄土宗の常称寺には“孝女楠本榮子之墓”が建てられている。墓誌の序文には、“橘榮子父、楠 正成卿後裔、橘楠本静斎。母多門院法印女。榮子天質温順・親至孝、終身不嫁、病死。其家惜其早世、嘗其婦徳、作歌并短 歌。正四位下伊豫守賀茂縣直兄”(以下長歌と反歌二首)と刻されている。
 両親に厚い孝養を尽くした“孝女の鑑”として、榮子の早世を惜しんでその墓誌を撰んだのは、京都賀茂雷神社の祀官(縣 主)であり、国学者で歌人であった賀茂季鷹(1754-1841)の門人松田直兄(なおえ/1783-1854)である。直兄は、季鷹門人 中の碩学で、和歌をよくし著作も多く、また各所に友人と遊覧して紀行文を遺している。そして、やがて伊豫守賀茂縣となった 人物である。
 そもそも楠本家は、橘諸兄(もろえ/684-757)の後裔である楠木正茂(-1336)の末裔で、足利時代の永正(1504-21)のころ から医を業とした家である。孝女榮子は嘉永4年(1851)正月に卒去し、歳37。この年5月直兄により上梓された榮子の「孝女 楠本榮子伝」など2、3の刊本(柳澤文庫蔵本)がある。なお、直兄と楠本家との関係はよくわからないが、国学あるいは和歌 をもってしてか察しても浅からぬ縁があったといえる。 
08 「新編郡山町中記」【七番 奈良町(ならまち)】
◆奈良町(内町)◆
奈良町
 写真↑/(綿町角から北方を望む)
 奈良町は南都(奈良市)奈良町からここ郡山へ移った人々によって構成された商人町で、元亀年中(1570-73)の移住である という(『合併町村願・沿革/明治21年8月』奈良県公文書)。元亀といえば、多聞山城に拠った松永久秀(1510-77)の奈良支 配が終焉をむかえ、やがて大和守護職としての筒井順慶(1549-84/)がみえてくるころである。元亀はとにかくも、早い時期 (天正4年(1576))から順慶による郡山城築城の着手と城下町づくりの基本計画がなされ、間もなく順慶時代の城下町八町 (小田切時代に形成された魚塩・本町に加えて、順慶が造った町である堺・藺・奈良・雑穀・茶・綿町)の形成をみることになる (本稿、01◆概説 城下町郡山(上)・◇郡山城下町形成の過程について一考察 参照)。そしてのちこの町は、豊家により地 子を免除された“箱本十三町”の“しきり”のなかに数えられることになったのである。
 のち柳澤藩政下の奈良町は、53軒(本家34軒、借家19軒)の町屋(現在では43地番)があり、町の長さは90間3尺1寸 (約180m)、その道路幅1間5尺5寸(約3.5m)となっていた。なお、東西に位置する隣町(雑穀・藺町)へのゼリは、東の茶 町から、雑穀・奈良、そして藺町までの町(よこまち)四町を直線状に結ぶ連絡路として、いずれも本町を基準にして南へ約 半町(50m)ごとに2か所設けられ、これらのゼリの道幅は1.8mから2mと狭いものである。
 奈良町支配の町施設は、会所が町の西側に、また、番所をともなった木戸が北の本町との境に1か所あり、南の綿町との町 境には木戸のみの結構となっていた。また、東西のゼリ計4か所に設えられた木戸はいずれもが奈良町支配であった。
 このように町を取り囲むすべての木戸を奈良町が支配していたということは、隣接町のなかでも歴史的にも中心的な役割を担 っていたという証にほかならないし、ことに、奈良町が薬園八幡神社の祭礼時におこなわれていた渡御式の道筋に定められて いたという事実は、城下に占める薬園八幡神社の氏子中町々の勢力分布のなかでも中央に位置していたということになる。ま た、まさに奈良町を直進すればその御旅所(魚町)に至る道筋となっている。 
09 「新編郡山町中記」【八番 藺町(いのまち)】
◆藺町(内町)◆
 藺草は畳表や灯心として用いられる植物である。15世紀の書院造建築が成立してから畳表の需要が伸びた。近世には急 激に普及一般化し、“備前表”のほか、近世郡山藩領では“近江表”がことに有名である。また、藺草は灯心草の異名があるよ うに灯心として使用された日用品でもあった。
 この町(写真)↓は、筒井順慶時代の八町のうちに含まれる。
藺町
のち豊家が定めた“箱本十三町”の一つとして、畳表などを扱う商人や職人が居住したといわれ、地子免除やその成業のため に特権を与えられていた。
 柳澤藩政時代の“鍛冶町大門付”の町々のなかで城下のもつとも西に位置したこの町は、同時に“二ケ所高番付町割”(火 の見櫓を高番と称し、この時代は堺町、柳町大門内の2か所があった)のなかで“堺町高番付十七町”(材木・紺屋・豆腐・今 井・綿・中・新・藺・奈良・雑穀・茶・本・鍛冶・西奈良口・魚・塩・堺町)に属し、堺町通り東の中ほどにあった高番(火の見櫓)の 維持管理と輪番による火の見など城下ほかの遠見の警戒に当たっていた。高番の詳しいことについては堺町のところで述べ る。
 天明調べの藺町は、家数61軒(現、26地番)で、本家48軒、借家13軒、町の長さ98間1尺3寸(約280m)、道幅2間1尺 (約4m)となっている。享保のころの藺町には、造り酒屋が1軒あり、松屋弥兵衛が150石を産した。その井戸は堀之側(大和 郡山市植槻町)の“七ツ井戸”から水道を引いていたが、この藺町松屋までの水道がもっとも末端(延長約820m)であった。な お、松屋への水道は裏手の中町から引き込まれていた。
 藺町の居職ではないと思われるが、このころの城下には 畳細工18人、畳屋3人がいた。敷物としてはあと薄縁屋があり内 町で5人が商いをしていた。
 藺町支配による施設は、町の中央西に会所があり、北の本町境と南の綿町境にはともに番所付きの木戸が、また、ゼリ3か 所(2か所奈良町支配(前出))のうち西方の新町境にある木戸のみが藺町支配である。
10 「新編郡山町中記」【九番 新町(しんまち)】 11 「新編郡山町中記」【十番 中町(なかまち)】
◆新町(枝町)◆
新町
 写真↑/(新町東詰めより西方の堺町方向を望む。通り中ほどから左は中町である)
 新町と中町の成立については明らかではないが、前述のとおり筆者が“北の市”と考察した市場のあったところであり、のち 江戸時代の初め郡山城の復活とともに城下町も再構築されたとき、城下の新しい町として成立したものといえそうである。
 また、両町間ではどちらかといえばその町名・形態からも新町の成立が早といわなければならないが、ほぼ同時期に中町も 形成されたとみるべきであろう。それは、町の位置関係と寺院の成立に関係する。つまり、新町は、狭いゼリながらも堺町と本 町、そして藺町と連絡できる通路があるからで、これに比べて中町は、新町成立後あるいは同時期でなければ、袋小路の町 屋が出来てしまうことになり、武家地はとにかくも城下の町屋としては極めて不都合だからである。
 さらに、新町には豊臣秀長の位牌所で地元郡山の菩提寺である春岳院がある。もと東光寺と号し、開基は不祥であるが、開 山重勢法印が文禄3年(1594)没の古寺である。
 そもそも、藤堂高虎(1556-1630)が、旧主・恩人にあたる郡山豊家の滅亡で壇越を失ったことを惜しみ、“関が原の戦い”の 前の年、慶長4年(1599)に大納言秀長の菩提寺を、亡き豊臣秀吉の信任がことに篤かった古渓宗陳和尚(1532-1597)をその 開祖とするゆかりの京都大徳寺内の塔中大光院に移し、このとき郡山の東光寺に秀長の位牌があずけられ、これによって東 光寺は寺号をその法名にちなんで春岳院に改めて今日に至っている。
 なお、春岳院は、豊家の善政の証となる“春岳院文書”などの史料を蔵されるほか、秀長創始の“箱本の制”がその後江戸 時代を通じて廃れることなく人々に受け継がれたことを考えるとき、城下町郡山における極めて象徴的な存在である。
 【追記】平成17年3月28日、奈良県教育委員会が、春岳院所蔵の箱本関係史料(「御朱印箱」ほか文書)を奈良県文化財 に指定する旨公表された。「奈良新聞」(第21669号)。(注.昭和50年10月より大和郡山市文化財指定のもの/20070409記)
 また、宗延寺(本町町域)は前述のとおり、天正2年(1574)開基でこれまた城下では古寺である。両寺の位置関係は、宗延寺 が本町からのゼリから南方に進んでその山門前に至り、やがて南進して春岳院東横に至る。他方、春岳院の方は堺町(西方) からのゼリによって山門前を通り、宗延寺から南のゼリへとつながるといった具合である。
 また、新町へのゼリは、南北方向には他町と共通する半町(約50m)等間隔に設けられているが、東西方向には城下の規矩 に準じることなく本町通りから約80mとやや遠い位置になっている。これは春岳院寺門前の東西道路のラインを基準にしたも のにほかならず、なおも東進すればゼリ口から藺町に至る。
 また、新町(中町も)への入口はいずれも徳利の口のように狭くこしらえられ、それは中町と一体化されているし、新町は茶町 の、中町は雑穀町の枝町という発生過程もさることながら、他の町々とは一線を画す形態となっている。なお、これらのゼリ口 の地割は現在においてもよく残され一見してそれと解る。通行に障りはあるがこれも城下町の文化遺産である。
 天明調べでは、“内新町”(外新町があるわけではない。町の内側の意)との標記がなされているのが目につく。家数50軒 (本家36軒、借家14軒/現、29地番)で、町の長さ48間2尺五寸(ただし、道路長4か所あわせて約270m)、道幅2間(約4 m/ただし、ゼリ口2〜2.5m)である。新町支配の木戸は、堺町口と宗延寺東裏にあった本町口ゼリの2か所で、そのほかは 他町支配であった。
 文政11年(1828)5月、新町でおこなわれた“曲馬”や、天保2年(1831)4月にも新中町で“俄狂言”が興行された記録(「豊 田家文書/大和郡山市教育委員会蔵)がある。おそらくは、新町の中央でやや道幅のある中町との辻あたりでおこなわれてい たのではないだろうか。
 享保のころ、この町には造り酒屋2軒があり、高砂屋六兵衛が60石を、糀屋甚四郎が50石を産したが、いずれも“七ツ井 戸”(植槻町)の株を持っていて、宝暦4年(1754)のころも造り酒屋として営業がつづけられていたことは、「御家中屋敷小路割 名前図」(柳澤文庫蔵)によって確認することができる。“七ツ井戸”から両家まで約800mを道形に引いた水道であった。

●春岳院
 前項「新町」および、「近辺見どころ」の春岳院の項を参照されたい。

◆中町(枝町)◆
中町
 写真↑/(中町の通り。突き当たりは綿町である)
 天明調べの中町の概要は、家数20軒(本家13軒、借家7軒/現、11地番)、町の長さ35間5尺(約70m)、道幅2間と城下 町では最小の町であった。
 町支配の木戸口は南の綿町口のみである。のち維新、そして明治4年(1871)7月14日に郡山県、同年11月に奈良県、同 9年4月奈良県を廃して堺県となったころには、すでに新町と中町は新中町として一つの町となっている。管見によれば旧藩政 時代は、中町も新町も城下町の諸制度に照らしても独立した町として取り扱われていた。 
12 「新編郡山町中記」【十一番 堺町(さかいまち)】
◆堺町(内町)◆
堺町
 写真↑/(堺町南方を望む。突き当たり右へは郡山城大手に至る)
 堺町は、筒井順慶が造った城下町八町のうちに数えられ、のち豊家より保護を受けた“箱本十三町”のなかでも富裕の象徴 の一つとなった町である。この町は、豊臣秀長によって堺(大阪府堺市)の地から商人を移住させて形成された町であるといわ れている。しかし、この説には奈良町や今井町と同様に確証があるわけではない。当時、郡山豊家の絶対的な権力を考えると 常識的といえるが、はたして、堺に対し前城主大和守護職であった筒井順慶の誘致の手がまったくおよばないと言い切れるだ ろうか。また、当時同じ都市であっても堺と、奈良や今井(奈良県橿原市)の立場には微妙な違いがある。前者は海外貿易港と して発達した当時の一大商工業都市であり、信長もこれを武器調達のために温存したほどの“納屋衆”による自治の町であ る。後者の今井町も自治都市としては似通っているが、仏教勢力を背景としている寺内町という点で相違し、奈良町は、東大 寺、興福寺など仏教国南都の典型的存在で、強大な兵力をたくわえていた。したがって、後者の持つ仏教兵力に対して弾圧、 鎮定を政治的意図としていたわけである。当時の堺は自由貿易都市として、また、全国的な繁栄の表象であり、これを自らの 城下に引くことは為政者たるものの共通の視点であっただろう。
 順慶による堺商人の郡山誘致を是としているのが筆者の立場である。なぜなら、大和を統一しその守護職となった筒井家は もは筒井(大和郡山市筒井町)を拠点とする一豪族時代の家ではなく、これゆえ、筒井城(大和郡山市筒井町)およびその城 下と、郡山時代とを、同じ視点で論じて郡山城下を過小に評価することは過ちであると考えるからにほかならない。
 堺町は、町の形態は城郭に対して横町(よこまち)である。旧記によれば、町の家数は125軒(本家73軒、借家52軒/現、 77地番)で、町の長さは159間(道路長約300m)、道幅は2間(約4m)となっている。道路は本町境からわずかにS字カーブ を呈した南北約265mと、今井町境から大手橋端までの東西約110m、そして、柳町一丁目と境を接する南北約17mがその 本通りである。すなわち、堺町は郡山城大手前につづくメインストリートであり、このため、木戸などは極力少なくし、道案内の 建石を設けるなど街道の通行に配慮した形態となっていた。ほかの道路は綿町辻子と千貫辻子を合わせて50m程である。こ のうち千貫辻子(写真↓/豆腐町から堺町方向へ)は豊家のころにできたといわれている。
千貫辻子
 この辻子は豆腐町へ抜けるバイパス道路として、二次的に造られたため、その費用に千貫文を要したというのである。なお、 この辻子には時代により“百貫辻子”・“八百屋店”などの別称がある。
 町の支配に係る施設は、町の北端の木戸と、城の口(地名)の菊屋の向かいにあった辻番所で、ほかは他町(綿・今井・豆 腐町)の支配である。また、会所は本通りの中央東側奥(中町との境)にあって、“高番”(後出)下の番屋を通り抜けて出入りす るようになっていた。なお、今日柳町一丁目地内となっている菊屋はもと堺町に含まれていた商家である。菊屋横の城の口に は藩の“御使者宿”(代々塩屋四郎右衛門預り)があったことはすでに述べたがここも堺町の町域に属している。

・南町、北町の成立
 堺町は江戸時代の後期、二つの町に分割されている。町の分割の事由やその時期については明確ではないが、現在、町割 図として柳澤文庫に保存されているもののうち、堺町の図(寛政10年(1798)は、町全域を記したものではなく、その南部に限 られている。もともと、町割図は町単位ごとに当該町役の下に作成されたから、町の一部分を記すことはないからである。この ことは、少なくとも町割図が作成された寛政10年には、すでに堺町は南町と北町に分割されていたことを示していることにな る。また、この傍証として意外な文献からもこのことを裏付けてくれる。すなわち、文化5年(1808)12月3日から郡山を測量し た、有名な公儀天文方伊能忠敬(1745-1818)一行が、その測量日記のなかで克明に町名を書き残していたからである『伊能 忠敬測量日記 第二巻』佐久間達夫校訂/1999/大空社 参考)。なお、そのほかにも市内の寺院に残された墓石からも江戸 時代両町の存在を知ることができる。そして、明治15年(1882)堺町は合併してもとの一つの町に戻っているのである。 

・高番
 高番とは、火の見櫓およびその勤番を指していう語であり、城下の番所(木戸)57か所のうちに含まれ、“高番付”町々に課さ れた夫役である。“堺町高番付十七町”については本稿「十番藺町」を参照されたい。高番下の番屋には番人を置いて櫓上か ら火の見をし、高番付の町々よりその賃金が支払われていた。柳澤家藩政期には柳町大門内にもう一か所高番があった。
 郡山城下における火の見櫓や火消しの定めは、貞享2年(1685)入部の本多忠平が、翌年に箱本に命じて城下に火の見櫓 4か所を新設させ(のち宝永4年(1707)、本町と今井町2か所は廃止された。)、以来毎年10月朔日より翌年2月晦日まで(翌 年6月晦日までおこなわれていた時期もあったが、柳澤家入部の直前、町中の願いにより元に戻された。)の間、常時高番が おこなわれるようになった。なお、忠平時代から町屋に瓦葺を奨励しその普及をみたが、反面、武家地では上級家臣邸を除い て依然として藁葺きが多く、幕末に至ってもこの傾向は変わらなかったようである。
 享保9年(1724)2月の郡山城請取のときの本多家から柳澤家への申送りには、町中の火の見についても記されている。これ によると、郡山城下では出火箇所が町中に限らず家中屋敷丁や町つづきの郷中村々へ、町人足もいち早く駆けつけて消火に 努めた。そして、下火に至ったときには、火元(家中屋敷、内町、外町、郷中)の区分により出火地の人々のみがあとの消火に 当たり、外の人足は引き上げるよう定められていた。江戸時代もこのころになると火消しの定めはすでに確立されていたわけで ある。
 このほか、京都(禁裏守護)・南都(奈良奉行所)・大坂(大坂城代)・小泉(隣藩)に出火あるときには、定めにより城下よりは町 人足、郷中よりは郷人足を何百人も出した。もちろん、駄賃(手当)や食事などの支給は藩庁がおこなったことはいうまでもな い。つまり、これらは郡山藩の公儀に対する勤めとして定められていたからである。

・水準点
 現在の高番跡には、水準測量によって土地の高さを測定した“水準点”が設置されている。保護石で囲まれた花崗岩製の標 石には“水準點”(裏面に“一三九四”)と刻されているが、水準点は、0.1mm精度で標高値が定められており、奈良県内に1 12点あるという。なお、水準点の設置位置は市販の測量地図や市基本図に基準点記号(四角の中に点)でもって記されてい る。ちなみに、堺町の高番跡は標高54.64の地点にある。

○奥田木白
 木白(もくはく/1800-71)は、赤膚焼の陶工である。
 木白の先祖は法隆寺(奈良県斑鳩町)に住んだ奥野助次郎であり、二代武兵衛のときに小泉藩の御先手株を持っ家となっ た。三代武兵衛に至って郡山城下柳町の柏屋に奉公し、やがて、宝暦8年(1758)堺町に借家して移った。四代武兵衛のとき 郡山藩御用の小間物商となり、このとき姓を奥田と名乗る(『奈良市史』参考)。これが木白の父である。
 寛政12年、郡山に生まれた木白は、はじめ名を亀吉、佐兵衛を号し、31歳のとき武兵衛と改めた。陶号は屋号柏屋の“柏” の字にちなみ“木々斎木白”と称している。天保6年(1835)には趣味として楽焼を始め、翌年には西大寺(奈良市)へ五個の大 茶わんを寄進して、以来西大寺では毎年正月の茶事に参詣の人々に茶を振舞われるようになり有名となった。天保11年から は赤膚山(奈良市)の窯元伊之助方へ本焼きを依頼するようになって製陶も本格化し、嘉永3年(1850)、ついには陶工師を家職 とするようになっている。木白は上絵を奈良の重兵衛周斎に師事し、また、藩典医で陶芸をよくした青木宗牛(-1859)木兎(もく と)の指導を受けたといわれているが、釉薬の調合に独特の工夫をするなど製陶に精進する一方、江戸に下って数軒から受注 して、やがて盛業となる。嘉永4年7月には藩から扶持を受けて藩御用窯となり、赤膚焼きの名工として名品を数多く残し世に 名をあげた。
 なお、木白の子木佐(もくさ/1826-79)も家職を継いで木白のニ代目となる。木佐は、幼名を辰次郎、のち佐久兵衛と称した が、父におとらず名品を作陶したが、父と同じ印を使用したので見分けがつきにくいとされている。なお、店は現在の堺町砂川 医院付近(写真↑/頁上)にあった。
 堺町には享保15年(1730)、柳澤藩政期の藩銀札遣いとなり“銭売所”となった津乃国屋左兵衛(先代本多家家士)が住ん だ。このほか、享保9年のころ堺町には造り酒屋が三軒あり、蝋燭屋六兵衛120石、綛屋利兵衛100石、八木屋新右衛門9 0石をそれぞれ醸造していた。宝暦の絵図(前出)による“七ッ井戸”からの配水を受けていたのは、蝋燭屋六兵衛と酒屋伊三 郎の二軒となっている。 
13 「新編郡山町中記」【十二番 綿町(わたまち)】
◆綿町(内町)◆
綿町
 写真↑/(茶町角より西方を望む)
 綿町は順慶時代の郡山城下八町を構成する南限の町である。順慶は、小田切家時代からあつた竪(縦)町である魚塩・本町 に加えて、南方に五っの横町(よこまち)を造った。東より茶・雑穀・奈良・藺・堺町である。そして、綿町を南端の締めくくりとし て東西に長い竪町を造ったのである(前出)。のち、綿町は豊家による保護を受け“箱本十三町”の一つに数えられる町となっ た。
 綿町は、いうまでもなく綿を扱う商人が住んだ町である。綿作の始まりは戦国時代といわれ、大和では延宝(1673-81)ごろか ら盛んとなり<やがて輪作農法の普及によって、畑のほか田においても木綿(きわた)が作付けられた。綿の製法は、木綿(実 綿(さねわた))から綿繰車にかけて種を取り去った繰綿(くりわた)を、さらに綿弓(わたゆみ)で打ってこれをほぐし、篠巻(しの まき)にしてから綿糸を紡いだ。そして綿布に織って衣料とする江戸時代の代表的商品としてもっともよく流通した。
 郡山城下ではこの繰綿屋が多く、享保のころの「町鑑」(前出)によると内町および外町を合わせて、職人では綿打11人、綿 荷造2人、商売人では綿問屋7人、綿屋130人とあり、仲間をつくってとりわけ盛業で、世に“郡山繰綿”として有名であった。 奈良の春日神社へ奉納された巨大な石灯篭には“和州郡山城下町中、綿屋仲間二百五十人、明和四年(1767)五月)”の銘 文が残されていて、往時の隆盛を今に物語ってくれる。
 綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥  はせを
 芭蕉が旅した『野ざらし紀行』(1684〜87)のとき、大和で物した名句のなかの一句である。この旅の供をした“千里”の実家 (葛下郡竹の内(奈良県葛城市(旧当麻町))で世話を受けたときの吟である。当時、木綿栽培の中心地であった葛下郡あたり のありようを知ることができる句でもある。蛇足になるが、柳澤文庫蔵「永原家文書」(郡山藩掛屋)のなかに、本文の奥にこの “綿弓や”の句を記した“はせを”?の書簡一通がある。自筆かどうかはとにかくも、郡山を代表する文人豪商の家文書だけに 興趣が増す代物である。
 綿町の天明の記録による概要は、家数70軒(本家53軒、借家17軒/55地番)で、町の長さ130間(道路長約273m)、道 幅3間5尺(約3〜4m)である。町支配の施設は、番所付の木戸2か所が町筋の両端に、南の今井町境のゼリ2か所に木戸 があった。また、会所は町筋の西寄北側にあった。なお、寛政10年(1798)の綿町の町割図(柳澤文庫蔵)には、綿屋の屋号 がことに多く記され、この町ばかりは未だ居職(いじょく)の昔を思わせている。

郡山八幡神社の旧地の考証
 「大和国古代絵形」(前出)にいう「昔郡山ノ宮」、つまり郡山八幡宮は、郡山城内麒麟曲輪の地にあったと本稿において前述 している。その鎮座時期は定かではないが、社蔵になるもっとも古い本殿修復の棟札によれば天文5年(1536)のものがあり、 これに拠れば室町時代初期のころまではさかのぼることができることになる(『郡山町史』参考)。のち、豊家による築城の際、 麒麟曲輪あたりが城地になるに及んで八幡宮も城下の綿町に移されたという。天正13年(1585)、秀長入国からほどないころ であろう。翌14年の小堀新助正次らによる城下再編と経営がこおなわれ、新たに柳町がつくられたとき、郡山八幡宮(神社) は現在地である柳四丁目に遷座し、また、神社近くにその氏人衆(宮座)も移り住んでいる。その時期については、遺された棟 札から文禄2年(1593)5月とするのが妥当と考えられている。なお、柳八幡宮の異称は柳町に遷座されたためである。
 ところで、綿町における郡山八幡宮の旧地についてはこれまで詳らかにされていない。もちろん社地を特定できる史料を欠く ためであるが、城下町における寺社地の配置やその形態については一定の数量や位置によって割り当てられたことは容易に 理解できる。そこには、城下経営のための規矩準綱が存在したからである。
 現在地の社地の地籍は約50m四方の2500u程度であるので、これを基本にして旧地を考察すると、@薬園八幡神社の 氏子中の勢力範囲や同社御旅所の位置関係など諸条件にかなうこと(他社との関係)。A綿町町域に社地を約2,500u程 度一画地として確保の可能性の有無。の2点からその条件を満たし得るところは、堺町との町境近くで、綿町でも奥行きの期 待できる中町(のち枝町)を背にするところを、その形態および位置関係から比定地と考えることがこの場合妥当と考えられる。 しかし、机上の空論とならないためにも何らかの傍証が欲しいところである。
 なお、城下二社たる、郡山八幡神社、薬園八幡神社の氏子中の分布において堺町は特異な町である。すなわち、通りを挟 んで東側の家々は薬園八幡神社の、西側は郡山八幡神社の氏子の家々となっている。このことは町の西側のみが城地と同 じ扱いになっていることを示していることになる。これは、城地がもとの郡山村、城下地区が薬園村という中世郡山の勢力分布 を踏襲したかたちとなっていることを示し、かつ、城郭(五軒屋敷堀)と直に接している点においても他の町には無い堺町の大き な特徴の一つである。こうした意味において堺町は、“境町”なのかも知れないのである。また、近世における郡山城主の二社 参詣においても、“城地の鎮守”である郡山八幡神社(祈祷料10俵)を一とし、薬園八幡神社を二として恒常的におこなわれて いた。 
14 「新編郡山町中記」【十三番 今井町(いまいまち)】
◆今井町(内町)◆
今井町
 写真↑/(今井町通りから西方の城の口方向を望む)
 文禄のころ、“高市郡今井町”(奈良県橿原市)より移り住んだ人々によって構成された町であるといわれている。
 真宗称名寺を中心とする寺内町として戦国時代に成立した高市郡今井の町は、4町四方に堀をうがち、兵力をたくわえたそ の時代の自治都市であり、おもに国中で商売を業とした。のち近世に至ってもその形態を残して豪商が多く住んだ富裕の町で あった。また、天下三宗匠の一人として有名な茶人であり商人であった今井宗久(1520-93)は、この町の出身であるといわれ ている。宗久は、のち堺(大阪府堺市)に移って“納屋衆”として活躍し、やがて、信長の信任を得て“堺五箇荘代官”となり、そ の“茶頭”ともなった。なお、子の宗薫(1552-1627)は、秀忠、家光に茶頭として仕えて、旗本今井家を立てた。
 今井町は、豊臣秀長の城下経営によって新しくできた城下地区の北限の町である。そして、豊家より保護を受けた“箱本十 三町”のなかでも本・奈良・堺町とともに城下で富の象徴となった町である。のち天明のころの今井町の様子は、家の数73 軒、本家54軒、借家19軒/66地番)で、町の長さ128間4尺五寸、竪町である東西の道路長は約255m、道路幅員約3.5 mである。町支配の施設は、東西の町境にある番所付木戸が2か所、南方の豆腐町とのゼリ2か所に木戸があり、会所は町 の東方町筋の南側にあった。
 また、今井町にはもと“米売場”が設けられていたが、総構え(外堀)外の柳町五丁目に移されている。宝暦10年(1760)3 月のことである。米売場は、藩から“払い米”を米屋仲間に売り払った入札など一連の手続きをおこなう公の施設である。なお、 享保のころ郡山城下には内町、外町合わせて91人の米屋が店を構えていた。
 
●光慶寺

 写真↑/(左奥の高い建物は本堂、右方に山門(薬医門様式)がある)
 山号を瑞巖山と称し、真宗西本願寺の末寺である。
 郡山における光慶寺の創立は、天正16年(1588)で、茶町の雲幻寺(良玄寺)の地であったという。そして、現在地今井町に 移ったのは元和3年(1617)のことである。
 そもそもの開基は比叡山の皇慶阿闍梨で、長元元年(1028)に山城(京都府)の久世郡岩田村に草創され、のち平康頼(平 安末〜鎌倉初期の武将)の長男清基(左右衛門尉)の末男千代壽が出家して“光慶”と号して、岩田村の天台宗皇慶寺の住 職を務めたが、蓮如上人に帰依して真宗に改め、やがて、唯宗のとき郡山に移ったというのが寺伝となっている。なお、寺に所 蔵される古文書のうち、“平康頼赦免状”があり、これは、もと阿波国の出身で、後白河上皇の側近であった平康頼が、治承元 年(1177)の鹿ケ谷の謀議(平氏討伐の謀)に加盟、発覚して、仁和寺の俊寛(後白河上皇近臣)、藤原成経とともに薩摩国鬼 界ヶ島に流され、翌年7月、大赦により京都に帰って天台宗雙林寺(京都市東山区)に籠居した人物である。そして、そのとき 平清盛が発給した文書がこの7月26日の赦免状である。これをもってしても寺伝の証として、また貴重な史料であることがわ かる。
 本堂は7間5面の荘厳かつ堅牢を誇る、いわゆる“御堂造り”で城下で代表的な寺院建築となっている。 
15 「新編郡山町中記」【十四番 材木町(ざいもくまち)】
◆材木町(内町)◆
材木町
 写真↑/(材木町北詰めより、南方の薬園八幡神社を望む)
  材木町は、豊家の保護の下に材木商が集まって形成された“箱本十三町”に数えられる町である。
 羽柴(豊臣)秀長が郡山に封ぜられ、三国(大和・紀伊・和泉)太守の城と城下にふさわしい本格的な整備がおこなわれた が、郡山城下の造営に当たったのが三国郡代から老職の一人となった小堀新介(助)正次(1540-1604)である。今年10月1 5日、文化審議会答申によって長谷寺本堂(奈良県桜井市/慶安3年(1650)建築)が国宝に指定されることとなったが、その 前身にあたる“観音堂”の作事奉行を務めたのはこの小堀正次である。正次は検地など多く内政面で業績を残した人物として よく知られている。いうまでもなく、その子は茶人・造園で有名な小堀遠州こと遠江守政一(1579-1647)である。
 豊家の郡山城下経営において最初にプランニングされたのは、小田切・筒井両家による既存の旧城下に加えて、その南部 に新しい城下地区を拡張することであった。その北限となった今井町(前述)や西の柳町に対して、東に設定されたのが材木 町である。材木町が城下の東端に置かれたのは秋篠川がここを流れていたためで、その川岸に臨んで町が営まれたのは、秋 篠川の水運の利便性であったことはいうまでもない。材木町から秋篠川を約1km南下すると佐保川に入り、そして、やがては 大阪湾へ流れ出る大和川に合流することになるからである。また、材木町がその東側に深い奥行きをとっているのは、貯木や 製材を考慮してのことで、このためもっとも奥行きの深い東北部では約70mはあり、城下他町に例をみない広さとなっている。
 やがて、文禄4年(1595)に入部した増田長盛によっておこなわれた秋篠川の付け替え(前出)によって郡山城総構え(外堀) が完備され、このとき川は堀(幅7間)として、河岸は土居として利用されている。現在、“外堀緑地”として整備されたうち、“材 木町裏池”の部分が旧秋篠川の流路で、それよりは真南に流路を取り、やがて現在の柳町字古川付近から佐保川と落ち合っ ていたので、高田町大門跡を隔てて南西方向へ伸びている“薬園寺裏池”は新規に掘られた外堀であり川跡ではない。ちなみ にこの“薬園寺裏池”の外堀は、幅8間から9間半で、内側の土居の高さは1間半となっていた。なお、これによって高田町大 門から南方の秋篠川旧流路はすべて埋め立てられて農地および水路となったのである。
 旧記による材木町は、家数136軒(現在、90地番)で、本家63間、借家73間)である。町の長さは南北の差渡し(薬園神社 境内を含む。)で約320m、道路長は北側に隣接する茶町との町境から、さらに今井町境で南へとクランク状に進み、材木町 本通りから、薬園八幡神社前の外矢田町境まで、そして東方の高田町大門の雨落ちまでを合わせると約330mはある。道幅 は約3mで、薬園八幡神社の鳥居前には高田町大門外の外堀へ流れ出る紺屋川水系の終末水路が流れているため神社や 薬園寺には石橋が架けられていた(現在は暗渠)。町内のゼリは豆腐町・紺屋町から材木町本通りに伸びる2か所となってい る。町境に建つ木戸は豆腐町支配と材木町支配の各1か所である。また、材木町本通りを薬園八幡神社に出る町角にも木戸 があった(注.「町割図」柳澤文庫藏」。「分水訳之事」(個人藏)。 また、享保9年ころの『町鑑』(前出)によると、郡山内町に材 木屋5人とあり、関係の木挽職人が6人と記録されている。木挽はマエッピキと呼ばれる大鋸(おおおが)で製材されるように なってから能率があがるようになったといわれている。
 なお、『町鑑』にみる材木町の酒造業者は、紀伊国屋藤十郎(造高90石)、木綿屋徳右衛門(造高85石)の二軒である。

●薬園八幡神社 (写真↓)

 本稿「近辺見どころ」の薬園八幡神社の項を参照されたい。なお、嘉永6年(1853)9月27日より29日まで薬園小宮の正遷 宮が執り行われ、權殿から本殿に“みやうつし”の儀があった記録が残っている「新古見出并留方」(前出)。なお、薬園八幡神 社(薬園八幡宮)にについては、郡山の歴史上有名な古社であり、本稿においても関連する記述が多いので申し添えておく。

●薬園寺
薬園寺
 写真↑/(薬園八幡神社境内より見る薬園寺の堂宇)
 真言宗御室派末で、山号を醫王山という。開山は行基との寺伝がある。「薬園寺旧記」によれば、元和年中(1615-24)に高 野山より僧了盤が薬園八幡宮内に道場を開き、僧甚長住持のときの寛永11年(1634)、満願寺山の薬師如来像を請けて安 置した。のち正保元年(1644)に堂宇が出来上がり、僧文心・覚珠・覚現とつづき、このとき高野山末寺より仁和寺末に転じ て、僧覚賢住持の宝永4年(1707)、地震により本堂が倒壊して、やがて同8年に再建されたのが現本堂といわれる。本瓦葺 の入母屋で、梁桁3間四方に1間の向拝が付く。また、大聖歓喜天(聖天)を祀ることでも知られている寺である。
 なお、郡山藩掛屋の一人で本町住んだ永原八右衛門伯綱は、和韻ほかをよくした文人で知られている(前出)が、その没後 の天明6年(1786)に、伯綱の遺稿集である『南山遺稿』(上・下/柳澤文庫蔵)の上梓があった。序文は江村北海(1713-88) の手になるが、校訂は、ここ薬園寺の住職覚浄(字一道・号滄海)がおこなったもので、伯綱の師友として互いに深厚の誼を和 韻によって通じた。その師が、朱子学派の儒者として有名な丹後宮津藩の北海綬先生である(前出)。

○高田町大門
高田町大門跡
 写真↑/(高い電柱付近に大門が建ち、横断歩道から手前は土橋の跡、その左右に外堀(現、外堀緑地公園)があった)
 城下町より東方の伊賀街道に通じる大門である。例によって『高田町大門近辺絵図』↓を作成したので参照願いたい。
高田町大門
 この大門は、“大門附町割”により、材木・紺屋・今井・綿・矢田の5町の箱本により管理に当たっていた。大門は本瓦葺の高 麗門形式で、向って右側(鍛冶・柳町大門は左。)に潜り戸が設けてあり、その門前は広場となっていた。このほか、大門に関 しては他の大門と大同小異で共通点が多く、05「新編郡山町中記」【四番 鍛冶町(かじまち)】の「鍛冶町大門の成立」や、後 述の「柳町大門」のところを参照されたい。
 なお、高田町大門外の南側外堀には紺屋川末端の分水があり、土橋下から北側の外堀への樋があったところである。すな わち、前者(薬園寺裏池)が柳町村の、後者(高田口大門前池)が高田村の水利である。図中の外堀の呼称(括弧書)は、明 治以後のものである。また、城下を流れる紺屋川の源は城内の中堀にあたる鰻堀(柳町村)・鷺堀(高田村)である。

・高田町大門の移築
 「同心鳥山舊藏奈良奉行所細見図」(柳澤文庫藏)によれば、豊臣秀長の滅亡後に、もと郡山の高田口大門を奈良奉行所の 南門(“黒門”とも)として移建され、明治40年(1909)には未だ存在していたとある。関が原の戦い(1600)ののち郡山城の諸門・ 櫓などは伏見城再建の用材として運び去られているのに対し、高田町大門は奈良奉行所へ移されたと伝えているのである。 なお、高田口は明治以後の大字町名で、この場合正しくは高田町であるが、豊臣秀長滅亡後とあるは、増田長盛の外堀築造 ののち形成された高田町伊賀口に、やがて建てられた高田町大門(慶長年間、伏見惣門を移築との伝もある)を指し、奈良移 築も奉行所設立の慶長18年(1613/『奈良市史』)とするかなどなお問題点が多いが、ここでは徳川時代の初めとしておくのが 妥当であろう。 
16 「新編郡山町中記」 【十五番 豆腐町(とうふまち)】
◆豆腐町(内町)◆
豆腐町
 写真↑/(新紺屋町角より豆腐町通りの西方を望む)
 “箱本十三町”に数えられ、豊家の保護を受けた商人町である。豆腐は、奈良時代に中国から伝来したもので、戦国期の貴 重史料としてよく引かれる『言継卿記』(永正7年〜天正4年/1527-76)に、“白壁”とあるのが豆腐のことであるといわれてい る。天正10年代のころには“豆腐”と呼ばれた。また、大豆加工品は古くから普及して、たとえば、豆腐婆(とうふうば)といわ れたのが“湯葉”であり、豆腐殻の“おから”は、食用のほか肥料などにも利用され重宝された。
 豆腐町は、西端の柳町一丁目境の番所付き木戸から、東の材木町境の木戸までの道路長約289mに形成された町で、旧 記によれば町の長さは128間とある。道路幅は約3.5m、狭い材木町とのゼリ付近では2.5mほどである。北方の堺町境に は“千貫辻子”(前出)があり、なかほどには豆腐町支配の木戸があった。また、豆腐町の通りと平行に位置する北方の今井 町や南方の紺屋町には、その町境に2か所ずつ辻子があり、ここにも木戸が設けられていた。前者は今井町の支配、後者が 豆腐町の支配となっていた。豆腐町の家数は、本家62軒(現在、49地番)、借家36軒の合わせて98軒である。会所は町の 東部南側にあった。また、享保9年(1724)のころ(『町鑑』(前出))郡山城下で豆腐屋を営んだのは内町で9人、外町で10人で ある。ちなみにこのときの郡山城下の人数は13,258人であった。

○水木要太郎先生
 梅咲くや一室の家万巻の書 十五堂
 水木要太郎(1865-1938)は、大和郡山の豆腐町に住んだ著名な歴史学者である。号を“十五堂”・“淮南”という。
 梅咲くや・・・の句は、要太郎の一つの理想の生活であったようだと、その二男直箭(1897-1976/民族学者)は回想してい る。豆腐町の家には実際に書斎兼居間(15畳大)を増築してその雅号にちなんで「十五堂」と名づけ、まさに“万巻の書”に囲 まれて研究に余念がなかった。そして、人々をして“大和の生き字引”といわしめた要太郎は、教育者として、また奈良県の 土史研究の草分けとして大きな業績を遺した。著書に『吉野清華』 『大和巡』 『大和歴史地理』 『大和の栞』 『奈良県地誌』  『上代染織真譜』などがある。
 先生の年譜を略記しておく。
 慶応元年(1865)正月17日、愛媛県伊予郡南伊予村宮下に生まれる。明治16年(1883)愛媛県松山中学校を卒業、正岡 子規(1867-1902)より一つ上級生であった。同20年東京高等師範学校を卒業後、三重県地方教員に任ぜられる。同23年に は奈良県に転出して尋常師範学校尋常中学、高等女学校国語科教員を、やがて地理歴史教員となり、奈良県尋常師範学校 教諭となる。同28年(1895)には奈良県尋常中学校(郡山中学)教諭となり、奈良から郡山(大和郡山市)の矢田筋に居を移 し、そして豆腐町に転居する。同42年(1909)の奈良女子高等師範学校(奈良女子)創立とともに教授となる。大正4年 (1915)帝室博物館学芸委員となり、同7年高等官三等に叙せらる。同8年史蹟名勝天然記念物調査会考査員。同12年勅任 官待遇。翌13年、勲四等に叙せられ瑞宝章を授けられる。昭和2年(1927)奈良女子高等師範学校を退官。同校講師、鉄道 省嘱託などを歴任される。昭和13年(1938)6月1日没、享年64歳。
(注.『まほろば』第20号 昭和52年/奈良県高等学校国語文化会。『郷土歴史人物事典<奈良> 昭和56年/乾健治著』。
参考) 
17 「新編郡山町中記」【十六番〜二十番 柳町(やなぎまち)一丁目〜五丁目】
◆柳町(一丁目〜五丁目/内町)◆
 柳町は豊臣秀長入城以後新規に形成された町である。このころは、城の口(堺町)に隣接する柳町一丁目から四丁目までの 約425mが一つの町として“やなぎまち”と称していた。柳の枝のように細長い称から名づけられたというが、管見によれば、 中世の郡山村がその後の城地拓修のために村領を召し上げられ、やがて、その村名たる“郡山”が城下町の総称として用いら れるようになり、郡山村へは換地として、ここ柳町ほか城下東南部のもと薬園村領を割いて与えられたとものと考察される(「大 和国郡山古代絵形」(個人蔵))。そして、堺・高野街道につながる交通の要衝としてことに柳町通りは、やがて、城下町の発 展とともに村領が次第に町屋化され、このため農地を失った柳町村(郡山村)の人々が、鋤鍬を捨てここ柳町に家宅を構えて 商人となって行ったのである。

・柳五丁目の内町編入
 天正16年(1588)の「郡山惣町分日記」(春岳院文書)による“箱本十三町”(鍛冶町は枝町)の濫觴以来、ここ柳町は存在 した。やがて、文禄から慶長にかけておこなわれた増田長盛による“郡山惣構”の築造にあたって、地子免除の“町分け”が見 直され、このとき柳町は町割りをして一丁目から四丁目の郡山八幡宮(文禄2年、綿町より遷座。)までを城下の南限とした。と ころが、このときには柳五丁目が四丁目(内町)と連綴して掛け作りになってすでに町屋を形成していた。そこで執られたのが 柳五丁目の“内町”編入である。この便法は、そののちの柳町大門の町方支配(大門附町割)にも反映されていて、城下の大 門町方支配(大門附町割)に例をみない特別の事情である(後述“柳町大門”参照)。そして、惣構えの土居や外堀、大門など の結構が完了したのである。このため柳五丁目には高野・堺両街道筋として旅宿に関わる商売や職人が住んだ町である。中 でも大門前の“花内屋忠兵衛”の旅籠建築(写真↓/真っ直ぐは“筒井街道”、左方は“柳町村”への間道で、右へは“堺街道” であった)が今も遺されて往時の盛業を想起することができ貴重な文化財となっている。行商人や武士たちも休泊し、歴史上の 舞台となったところである。
花内屋
 かくして、“内町二十七町”の成立もこのころには定まったのである「郡山藩旧記」(前出)。
 旧記による柳町の様子は次の通りである。
 柳一丁目(内町) 家数29軒(本家24軒、借家5軒)、町長48間半、道幅2間2尺 酒造伏見屋弥兵衛50石
 柳二丁目(内町) 家数39軒(本家29軒、借家10軒)、町長58間3尺、道幅2間半 酒造小松屋藤右衛門70石、池田屋 長兵衛60石
 柳三丁目(内町) 家数53軒(本家43軒、借家10軒)、町長73間二尺三寸、道幅2間3尺8寸 酒造糀屋善左衛門95石、 細井戸屋忠右衛門80石、田原屋五兵衛80石
 柳四丁目(内町) 家数66軒(本家39軒、借家27軒)、町長79間、道幅2間2尺五寸
 柳五丁目(内町) 家数77軒(本家44軒、借家33軒)、町長86間、道幅2間4尺五寸 酒造信貴屋又六50石
 正保の絵図(前出)による大門までの柳町通りは、東部に豆腐・紺屋・車・矢田の4町との辻子があり、また、西部には東矢 田丁(武家地)へ渡る山之手橋前の辻子と、柳裏町(本多政勝入部後開かれた外町。)へ連絡するゼリがある。前者は柳三丁 目にあり通称“カサメの辻子”(『郡山藩旧記』(前出)と呼ばれ、とりわけ狭隘な路地であったために、両側の家の間を番傘をす ぼめなければ通行できなかったと言い伝えられている。山之手橋の向こう側は代官役所をはじめ武家地となるため辻番所があ り、弓鉄砲頭(物頭)支配の番士らが目を光らせて警戒に当たっていたのである。また、一方東部には新しく南大工町(外町)と 柳四丁目をつなぐゼりがつけられている。このゼリは、「貞享の図」(前出)以前には見られず、「郡山藩家中図」享保9年(柳澤 文庫藏)が初見であることから、本多家(第2次)末期のころに付けられたゼリとみるべきであろう。ただし、このゼリの旧状は“鍵 の手”となっていたので両町からは袋小路にしか見えない構造であった。これと類似してつけられた柳三丁目から北大工町(枝 町/内町)までの道路は明治以降の新道である。なお、柳町通りは街道筋にあたるため、柳一丁目角には道程石が建てられ た。天保2年(1831)4月3日のことである。
 
○伊能忠敬の大和路測量
 文化5年(1808)1月25日、江戸を出発した公儀天文方伊能忠敬隊の一行は、浜松から測量を開始、兵庫舞子浜から淡路 島、そして四国へと巡り、大坂には11月21日に到着している。つづいて同月28日には、大坂より十三峠を登り、峠で郡山藩 郷役人の出迎えを受けて大和国平群郡福貴畑村に入った。そして、法隆寺から郡山への測量行、翌12月3日、新木村から西 岡町、東岡町、そして柳町大門より郡山城下に到着している。そして、柳三丁目まで測量を終えた一行は、東矢田筋から矢田 口より矢田村までを測量、金剛山寺に参拝して縁起・宝物を巡見、この日の測量を終えて郡山に帰り、柳町(四丁目か)の八 木屋(兒島)九兵衛宅に宿泊している。そのときの郡山城主は松平(柳澤)甲斐守保光で、その日記「虚白堂年録」には、“天 文方伊能忠敬、今日、郡山柳町兒島九兵衛宅に休泊。矢田山巡見あり。郡代、町奉行に接待を命ず。”と記されている。
 翌4日、一行は柳三丁目より堺(※南町・北町)・本・鍛冶町の街道筋を測量、観音寺村から城下を跡にして、この日、横領村 (藩領/奈良市)の茶屋甚助方で止宿して、郡山藩領を去り、そして南都、桜井、多武峰、吉野、伊賀へと進み、この年伊勢で 越年、新春伊勢神宮参詣ののち、同6年1月18日江戸に帰着している。これが第6次伊能測量旅行である(『図説 伊能忠敬 の地図をよむ』渡辺一郎/河出書房新社/2000。『伊能忠敬測量日記 第二巻』佐久間達夫校訂/1999/大空社 参考)。

○柳町大門
柳町大門跡
 写真↑/(道路左へ堺街道、正面横断歩道付近に大門が、その奥が郡山の城下町である)
  “大御門”は、慶長のころ伏見城下の惣門をここに移したと伝えられている。左に『柳町大門近辺絵図』↓を作成しておいた ので参照されたい。
柳町大門
 幸いにして「町割図」(柳澤文庫藏)により、大門の内外を明確に捉えることができる。その逐一を述べる紙幅を持ちあわせな いが、略記して紹介したい。
 大門は本瓦葺の冠木高麗門形式で、基壇上の礎石に本柱2本と脇柱2本を立て、その上に冠木を渡す。冠木下の高さは、2 間半の長柄をそのまま持って通ることができたといわれているので当然5m以上はあったのだろう。門の背面には左右の本柱 からそれぞれの後方へ控え柱を置き、貫を通して門全体を強固するとともに、その上部に内冠木(横材)を渡して、大戸開扉の 雨除けに本瓦葺の屋根を乗せる。正面より左側に潜り(附門)を設けて臨機の用に備えている。また、大門の左右には厳重な 控えの塀(横板)が設えられて大門の結構を重厚にみせている。
 大門の前方には土橋があり、中央値で長さ12間3尺(26.94m)南方に伸びて外堀(9間、11間)を五丁目へ越え、幅は 土橋が撥形の不正形をしているため、均して南北ともに約13m余りはあった。この土橋面積の西半分が柳四丁目の、東半分 が柳五丁目のそれぞれ町支配地となっていた。このことは「町割図」(前出)においても明確で、柳四丁目図には大門姿図の 内側を描写し、反対に柳五丁目図には大門姿図を外側から描いているのは、“大御門”の詳細を捉えるうえで貴重な史料(前 出)ともなっている。
 柳町大門左右の堀はともに柳町村の水利権の存する水堀で、土橋下には水利のため西から東に木製箱管が埋められ、八 幡堀池側に樋を、牢屋裏池側に水吐けがあった。
 また、四丁目支配地の大門西寄りの土居際にのみ10坪余りの“溜り”の張り出しがある。溜りには瓦葺き南京下見板張り の土塀が堀際に沿って設えられている。この溜りは、土橋向こうの西方に伸びる堺街道に対する“横矢の勢隠し”として構成さ れたものであって、このことは、土橋の東方が“蔀の塀”を建て通してあるのに対して西方は、“溜り”の塀から土橋上、さらに、 西方の堺街道沿いにL型に矢来を結ってあることからもそのことが解る。
 なお、「天和の絵図」(前出/城主松平信之)に現れる“制札”(のち高札)は、この溜りの場所に建っていたと考えられる。
 高札については、柳澤家入部のとき箱本からの書き上げによれば、天和3年(1683)をその始まりとし、また、鍛冶町のほかこ こ柳四丁目と何和町にも高札があったようであるが、同じころの『町鑑』(前出)にあらわれる高札場は、鍛冶町大門内の1か所 としていて矛盾を生じているし、さらに、公儀(江戸幕府)が大名領へ高札を建てるように申し渡したのは、正徳元年(1711)のこ ととされている。
 ところで、土橋の大門際には左右2か所に“髪結床”があった。それは土橋上の四丁目支配地(西側)と、五丁目支配地(東側) にそれぞれ1軒ずつ建てられていた。そもそも、柳町大門の門前では古来より米の“大門相場”が立つのが通例となっていた から、まさに“門前市をなす”で、城下大門のうちでは大いに繁盛した賑わしい(閙)ところである。したがって、髪結床は大いに 繁盛したに違いない。しかし、その実は諸国から流れ込む隠密や不穏な者などの情報収集の場となっていたと言い伝えられて いる。また、五丁目支配地の東南の柳町村へ辻子近くには一棟の“町屋”が建ててある。これは五丁目支配地の番屋兼住居 である。門前の監視や清掃などに余念がなかったのである。
 大門の内側に話を移そう。大門の内正面は商家(壷屋利兵衛)があり、今日のように柳町通りが見通せるような状態には当 然なってはいない。また、西側の土居際からは郡山八幡神社の境内地で、この神社との境から東へ約30m、大門の雨落ちか ら北へ約6メートル幅のところは大門内の溜りの広場で、ここには大門東の土居寄りに“町屋”があって、前述の五丁目の“町 屋”と同じく、柳四丁目の番屋兼住居である。そして、その東続きに“番所”(高番/火の見櫓)が建っていた。この“柳四丁目高 番付町割”は、柳(1丁目から五丁目)・車・矢田・新紺屋・北大工の9町であったのに対し、“柳町大門附町割”は、柳(1丁目 から五丁目)・堺・豆腐・車の8町であった。

・大門相場と武田阿波事件
 江戸時代は米相場が物価やあらゆるものの基準となっていた。郡山においては古来から、本町ならびに柳町大門口に毎朝 農家が米を持参、一石あたりの銀相場が立った。取引を扱う“口入”が立会いの御徒目付を介して藩勘定所吟味役に報告、こ れが大和の物価の基準となったものである。のちの貞享2年(1685)、郡山に入部した本多家の藩政時代に藩財政建て直し のために執られた“仕法”が、大坂の米相場の一石(上々米の値)につき銀五匁〜七匁高値から市を立てるようになったので、 これを“大門相場”と唱え、こののち江戸時代を通じて郡山における米値段は2本立てとなった。やがて柳澤家の甲府から入部 後、藩財政を立て直す必要から“仕法”として用いられたのが、この本多家の執った大門相場である。このとき大坂の五匁高で 設定された市は、取引の結果が大和の地方相場より高値のときはそのまま、下値のときは地方相場によった。やがて、大門 相場は大坂相場より一石につき6匁から12、13匁もの高値となり、藩は着々とその財政を立て直して行ったのである。
 この仕法を巧みに用いたのが、柳澤家譜代の寄合衆山東要人で、享保13年(1728)に家老職となった武田阿波里就であ る。
 少々本題からそれるようになるが、ここでは特に俗書の影響など色々と憶測されることの多い称号“武田”について述べてお く必要があろう。吉里が“武田阿波”の称号を許したのは、筆者は次のような事由によると考えている。それは正徳2年 (1708)、ときの家老藪田重守に吉保が称号“柳澤”を許すについて、これ以前に与えていた国名“阿波”とあわせると“柳澤阿 波”となるために“柳澤市正”と改めたという家の先例がある。これは、“やなぎさは”と名の下の国名“あは”とが、“はは”(わ わ)とつづくことは宜しくないとしたものである(『源公実録』柳沢文庫史料集成第一巻 平成5年/柳澤文庫)。この先例によって 吉里は、本姓“柳澤”の称号は許さず、“武田”の称号を与え、そして、主席家老に与えていた国名“阿波”をとったのである。ち なみに藩主が与えた国名は、柳澤家の場合、下野・志摩・出雲・周防・石見・能登・美作、のち能登、伯耆、筑前などあり、そ れぞれに時宜にかなうものを与えたのである。また、いうまでもなく“里就”は偏諱である。肝心なのは、このことについてはす べからく、公儀(老中)へ伺いをすべきものとなされたことであって、家老職の名なるがゆえに藩主の恣意のままにはできず、他 者(公儀)への“さしさわり”を恐れたためである。なぜなら幕政の老中職に対し、藩政は家老職の名において対内外のことを執 りおこなっていたからである。同名は何かと差し支えが多く、故事や先規・先例、そして時宜により控えるべき名があったから で、各藩の家老職の名前は公儀公認のものとしておく必要があったのである。
 家老となった里就は、やがて同16年10月、罪を得て罷免のうえ逼塞、他家へ御預け、のち入牢の身となり、同18年6月、 阿波とその子為之丞や連座したもと番頭水嶋図書とその子鉄治・力弥、もと寺社奉行一色右平の合わせて六人を重科とし、 藩主吉里は、“拙者家来重科の者、今度在所和州郡山において、死罪申付候・・・・・”と公儀へ口上をもって届け出ている。こ れが松平(柳澤)吉里の代に起こった“武田阿波事件”である。この事件に関して、「青柳秘事」や「覚(萬)書郡山記」(「豊田文 書」大和郡山市教育委員会蔵)などの俗書に記される物語は単にフィクションに過ぎず史実ではない。また、阿波と水嶋図書は 討首、子どもたちについては切腹とされた。なお、以上は定法どおりの仕置であって、ちなみに、阿波の妻までも死罪などとい われるようなことはありえないことであるし、また、これ以後“武田”の称号を与えられることはなかったのである。
 事件の真相については、文人柳澤(曽禰)里恭(藩家臣)も、“さのみふかき罪のさたもきこへざりき”(『柳淇園先生一筆』)とし ている。察するに柳澤家も吉保没後から家の守成期に入って四半世紀、この間に起こった甲斐国からの、まさかの大和国へ の国替え(吉里代は准国主の格)などの流れのなかで、次第に疲弊した藩財政を立て直すため、寄合衆から起用した山東要 人こと武田阿波の敏腕なるがゆえの専横(合議制の危機)なふるまいによって、先考以来、磐石を誇った家臣団の結束にも弛 みが生じた。そして、何よりも悪しき事態は“外聞”(悪政評)にもおよび、君公の“御名にかかわる”ところまで惹起してしまった のである。当時、家臣は主君の“御名”にかかわるようなことを決して犯してはならなかったからである。吉里は、ただちに「御 家中御掟書(朱印状)」(享保16年11月)を示して家中を引き締めるとともに、事件に関し詮議を命じ、やがて“泣いて馬謖を斬 る”の処断を執ったのである。

・幕末の大門騒動 【伴林光平(ともばやしみつひら)の斬奸状】
 時は文久3年(1863)8月14日、孝明天皇の尊攘成功祈願のため大和行幸を機に大和挙兵を計画した尊攘派の一団天誅 組は、公家中山忠光(もと侍従/1845-64)を擁して京より大坂を迂回して大和に入り、17日に五条代官所を襲撃した。ところ が、8月18日の政変によって事情が変り、高取城攻略にも敗れて追討諸藩に攻撃され、やがて、9月24日、吉野山中で壊滅 した。これを世に“天誅組の乱”といわれた。
 これより前、8月6日に国学者で歌人の伴林光平(1813-64)は、門弟の法隆寺村勤皇の志士平岡鳩平(のちの北畠治房/ 1833-1921)をともなって筒井村宮井家で糊をつくらせ、翌早朝午前2時に密かに柳町大門前に来て、自らしたためた“斬奸 状”を大門の冠木に貼り付けようとした。しかし、大門は、2間半の長柄(鎗)を立てたまま通行でる程の高さがあり、裏の田圃 の撥ね釣瓶の竿を持ってきて貼り付けようとしたがとどかない。たまたま門前の花内屋前にあった箒を、自らの下帯でつなぎ 合せて、鳩平の肩車でようやく貼り付けに成功したといわれている。いうまでもないが2人は天誅組の志士である。以下に斬奸 状を紹介しておく(筆者が私に、原文の言意を損なわない程度に読み下した)。 
 “当藩の重役等 
 禁裏の膝元の国柄にある郡山藩が、勤皇尊王攘夷の心がけも手厚いはずのところ、毛頭その儀無く、武備に怠り、聚斂(し ゅうれん)を専らとし、忠良を退け、佞邪を挙用い、上主人を欺き、下領民を虐げ、専ら私欲を恣(ほしいまま)に致し候段不埒の 至に候上、剰(あまつさえ)国事切迫の時節
 天朝においても悩ませなされ 震襟(しんきん)候御時節に付、勇悍忠節の士相撰御親兵貢献すべき 勅詔(ちょくしょう)をも 軽易に相心得、君臣の名義も心得ず、柔弱懶堕(らんだ)のものどもを差出候始末重々不届きの至り、早々改心いたし、正儀 に復せざるにおいては邸宅へ踏み込み攘夷の血祭りにいたすべきものなり
   亥八月          天下正儀士
  但し、此書付三日間差し置き、自然取撰候者これあるにおいては其の罪速座に仕置き取計らうべきもの也”

 さすがの碩学伴林光平、その名に恥じない名文ではあるが、このような斬奸状は攘夷論者の常套手段であり、その根拠は 大したことはことはなく文意も決まり文句である。ただし、微妙な立場にあった郡山藩“難中の難”の時期に効果的な斬奸状と なったに違いない。そして、夜明けとともに大騒ぎとなった柳町大門には、町奉行が馬で駆けつけて貼り紙をはがして行ったと いう(随筆「十五堂録」(水木家文書))。
 手元にある光平の和歌一首を記しておく。 早苗 のこりなくかどたの麦はあからひぬ いでやみどりのさなへとらまし 光平

●郡山八幡神社(写真/拝殿と写真右柳町通りからの参道)
 
 コンテンツの「近辺見どころ」の郡山八幡神社の項を参照されたい。
 なお、城主家国許の鎮守神として崇敬された郡山八幡神社には、最後の藩主となった柳澤保申(時之助)幼少の遺歯などが 納められたりした。また、町衆からは“柳八幡宮”とも称され親しまれたのである。

●常福寺 
常福寺
 写真↑/(常福寺山門)
 柳四丁目の西側にあり、山号を松林山という。真宗西本願寺派の末寺で、その開基は古く元亀元年(1570)僧圓長による。創 立は矢田山の金剛山寺中(大和郡山市矢田町)に草庵を結び、阿弥陀如来像を安置して常福寺と称した。はじめ真言宗、のち 僧超安のとき真宗に改め、慶長元年(1596)、本願寺末となった。不詳ながら、郡山城下へはこのころの移転であろう。
 本堂は、桁行16.16m、梁間15.48mの本瓦葺寄棟造、宝永年間(1704-11)の造営と伝わるが、近時改修された。

●西向寺 
西向寺
写真↑/(西向寺山門)
 柳五丁目東側に位置し、無量山と号し、浄土宗洞泉寺末。慶長3年(1598)僧貞源の建立である。延宝(1673-81)のころそ の堂宇が整い、本堂は正面8.14m、側面10.45mの妻入本瓦葺で、鬼瓦に正徳2年(1712)の銘があったが、山門のほか は近時建替えられ一間の向拝を唐破風とするなどその寺観は一新された。また、天和年間(1681-84)、専誉上人の隠居寺と の寺伝もある。
18 「新編郡山町中記」【二十一番 紺屋町(こうや(こんや)まち】  19 「新編郡山町中記」【二十二番 新紺屋 町(しんこうや((こんや)まち)】
◆紺屋町(内町)◆
紺屋町
 街路の中央には、紺染を晒した掘割水路(紺屋川/写真↑/中央)が今も流れ、紺屋が建ち並んでいたかつての佇まいを残 す町である。この町には近年まで紺屋を営業されていた「柳宗」(奥野邸)があり、平成11年には教育委員会が発掘調査をし て、現在は「箱本館紺屋」としてよみがえり大和郡山市の観光スポットとして親しまれている(「近辺見どころ◇箱本館「紺屋」 参照)。
 “こう屋町相定上者他町ニ壱間もこうや不可相立候也”
 これは、紺屋(こうや)町中に宛てられた豊臣秀長の判物(個人蔵)で、現存する唯一の特許状である。城下に紺屋町を定め たうえは他町に1軒も紺屋を立ててはならないという文意である。日付は8月26日、秀長の城下経営がほぼ成った天正15年 (1587)のものと推定されている。このように独占特許を与えられた町は、箱本十三町(14町)のうち、同業者の町である魚塩・ 綿・茶・雑穀・藺・材木・豆腐・紺屋・鍛冶町の9町があり、これらの町々へは秀長の黒印状や判物が与えられた。『多聞院日 記』(前出)の天正13年(1585)10月15日の条には、“昨日より奈良中は一切のよろずの商売を止め、郡山において商売あ るべしと云々・・・”とある。秀長入国の翌月のことである。国中の商売を止め、郡山にのみそれを許す。そして、郡山の町々に はそれぞれに特許状(判物・黒印状)が与えられたのである。これらは秀長のおこなった城下繁栄政策として、屋地子免除とと もに有名な話である。
 こうした特許はのち江戸時代になって一定の株数に決められ、それぞれ株仲間を組織して発展して行ったのである。『町鑑』 (享保9年)による諸職人のうち、紺屋は内町で36人、紺屋手間取11人、外町では紺屋7人、紺屋手間取6人と記録されてい る。そして、やがては暖簾分けなどで他町にまで出店する者が増加したので、享保19年(1734)に町はこれが統制方を町奉 行所に願い出て、組合規定を定めたものの、その後も止まずこのままでは同業者が共倒れになると、再び宝暦4年(1754)、 藩に訴えている。藩では統制策として町奉行所と箱本に「こう屋仲間名前帳面」を提出させ、結果紺屋町19軒、他町11軒の 合わせて32軒とすることを決められた。こうして藩の権威によって規約遵守の強化を図られたが、その組織として仲間組頭3 人(俵屋庄左衛門・池田屋又七・柳屋甚左衛門)と月行司3人で組織する“こう屋役人”を藩から任命し、「仲間判形帳」を提出 することにより株仲間として公認された。こうした制度下では当然、冥加金(営業税)納入が義務づけられたことは言うまでもな い(注1.)。
  なお、現在郡山では、紺屋を“こんや”と言っているが、筆者の知るところでは“こんや”ではなく、方言で“こやまち”(こうやま ちの転)と呼んでいた。タイトルに併記してあるのはそのためである。
 旧記では、家数151軒(現在、53地番)で、本家63軒、借家88軒。町の長さ116間(道路長約285m)。道幅は片方が2 間で掘割を挟んで並行した道路である。紺屋町支配の木戸は確認できる外矢田町との境に1か所と、材木町境にもあったと考 えているが、紺屋町の『町割図』(前出)が欠本となっているので明確ではない。

◆新紺屋町(枝町)◆ 
 紺屋町の枝町として成立したこの町は、延宝7年(1679)の郡山“内町十九町”(注2.)のなかにその町名を見出すことができ る。“内町十九町”とは豊家により経営された“箱本十三町”に枝町として新しくできた鍛冶・車・新紺屋・矢田・新・中町の6町 を加えたもので、そのうち史料(前出)の存在により、鍛冶町は天正16年(1588)までに、車町も同19年には内町に編入され、 ともに地子免を与えられたもっとも古い枝町である。また、宝永(1704)のころまでには川中・西奈良口・北大工・洞泉寺町とさ らに枝町が加わることになるが、各町の成立を正確に伝える史料を見出すことはできていない。
 ここでは新紺屋町の位置関係について見てみよう。
新紺屋町
 新紺屋町は、城下町の北中央に南北に走る藺町の延長線上にあって、北から綿・今井・豆腐・紺屋の4町を横切ったところに 南北方向に形成された町である。その町域は、北に紺屋町、西に車町と接し、東の外矢田町と、西の矢田町との間に割り込 んだ形態をしている。さらに、矢田町の表通りより南へ路地道を進んで性心寺手前(境内除地)まで新紺屋町の町域である。性 心寺の奥にあった“御土居”の外側は外堀の薬園寺裏池であったが、現在は埋め立てられて外堀緑地公園となっている。新 紺屋町付近(写真↑/南方を望む)は、平成元年のころ始まった都市計画道路(藺町線/幅員18m)工事により、現在ではそ の旧観はないが道路沿いに“性心寺”境内の一部(墓地/写真)が残されている。
 旧記(天明/前出)によれば、家数44軒(現在、25地番)で、本家16軒、借家28軒)。町の長さは44間(東西・南北・路地道 を合わせると延長約155m)。道幅2間(路地は約1間)である。町の特徴としては借家率の高いことや、矢田町は街道筋のた め別としても、町支配の木戸がまったく無く、他町(車町)支配の木戸が唯一である。ことに紺屋町との間に木戸が無いため両 町の一体感は高く、紺屋町の枝町としてのこの町の性格を窺うことができる。また、新紺屋町には六十石の酒造株を持った造 酒屋奈良屋喜助宅があった(『町鑑』(前出))。

●性心寺
性心寺
 この寺の開基は寛永16年(1639)姫路から入部の郡山城主本多政勝で、開山は西岸寺(本多家菩提寺/廃寺/大和郡山市 北郡山西岸寺台)の超誉上人が、添上郡峰寺村(奈良県山添村)の常光寺と替地をおこない建立した。政勝のあとを継いだ政 長(1632-79)がその娘久二姫の廟所をここに引いて寺号を法名にちなみ性心寺(写真)と改めた。

・“石井捨女”の仇討”(注3.)
 これは、実録本して上梓された「西国巡礼女仇討」、「西国巡礼八月女子娘仇討」の物語である。あらすじを略記しておく。
 本多能登守時代の郡山城下で起こった敵討ち話である。13歳の“お捨”が巡礼の旅先で通りかかった郡山城下、研屋御用 を勤めた藤左衛門の軒先で報謝を乞うたお捨の話を聞いて同情した藤左衛門夫婦にしばらく世話を受けることになる。やが て、研ぎを頼みに来た郡山藩士大隅藏人の差料“来国光”の話から、藏人こそお捨の母“お種”の仇であることがわかり、翌 朝、藤左衛門とお捨の両人が藩に敵討を願い出たところ許され、城下のはずれで立会いをする運びとになった。一方、泉州で 非業の死をとげた妻お種の菩提を弔うため六十六部の修行者となっていた石井常右衛門は、その旅先の風聞から郡山で敵討 があることを耳にして、討手が妻と別れたのち生まれていたわが子であることをはじめて知り、急ぎ郡山の藤左衛門をたずね て、娘お捨と親子の初対面を果し、そして、宝永2年(1705)2月21日、藤左衛門・常右衛門の助太刀のもと、お捨は首尾よく 藏人を討ち取り、忠常公からその本懐を賞美された。また、この話は「石井常右衛門廓話」など歌舞伎として上演されたことで 知られている。この物語に登場する石井常右衛門の墓が性心寺にある。

(注1.「こう屋町之儀」柳澤文庫藏。注2.「庁中漫録」奈良県立図書館藏(玉井家記録)。注3.『郡山町史』昭和28年 参考)
20 「新編郡山町中記」【二十三番 車町(くるままち)】
◆車町(枝町)◆

 車町のことについては、本稿において車町形成の意義と市神としての蛭子社”ならびに“・火伏せの神としての稲荷社(宮内 社)”と題してすでに「城下町百話」(01◆概説 城下町郡山(上) <郡山城下町形成の過程について一考察>)のなかで述べ ているので、ここでは重複しない部分についてのみ述べる。写真 ↑ は柳町二丁目角から見た車町である。

・豊臣秀長(1540-91)は、天正15年9月に“権大納言”にのぼった。ところが、この年11月京都において病を得た秀長は、さま ざまな手当てを受けたが病状は一進一退を繰り返し、やがて悪化していった。天正18年10月19日には兄秀吉が郡山へ秀 長を見舞い、そして同22日、朝廷は、秀吉の奏請により諸寺社に対し秀長の病気平癒を祈らせる(「晴豊公記」)などあらゆる 手が尽くされていた。さらにまた、同12月28日には郡山大織冠(新多武峰)を3年足らずで多武峰(桜井市)へ還御とするなどし て全力で秀長の回復を祈ったが、ついにその兆しは無く、翌19年正月22日、豊家の宰相として公儀に重きをなした大納言秀 長は郡山城内において51歳で薨去した。
 ところで、車町文書「車町家持定之事」(天正19年11月)によれば、その前書きに“大納言様、当年郡山町中家(屋)地子御 赦免 被成被下候ニ付、車町之家数合16軒・・・(以下略)”とある。そのままに読めば、天正19年大納言秀長は死に臨んで郡 山町中に対し“屋地子御赦免”をおこなったということになる。このことは、かねて疑問としていた兄秀吉の膝元大坂城下におけ る屋地子免除を、郡山城下は4年ほども先んじたという事情ではなかったかと思えるのである。しかし、なんらの傍証が得られ ていないことからただちに断定することは難しいが、諸般の状況からしてここでは、秀長が屋地子免除をおこない、末期(まつ ご)の仁政を布いたと判読したいわけである。それは没年になる正月、娘と養子の侍従秀保(1579-95)との祝言を急遽進める など明らかに郡山豊家の行く末のことに心を砕いていることからも読み取ることができよう。秀保の祝言(婚姻)は多聞院主英俊 の耳にも入り、秀長の病状を“煩大事ニ聞へ了”と『多聞院日記』に記している。秀長の娘4、5歳、秀保13歳の年のことであ る。やがて秀長の没後、秀吉はその遺領のうち大和・紀伊を秀保に相続して家督を継がせ朱印状を与えて郡山豊家を安堵す るとともに、執政に横浜一晏法印良慶をつけた。そして、秀保は父の治世を守成して同19年8月23日に郡山町中を地子免 (『春岳院文書』)としたのである。これによって車町は、公儀(豊家)から箱本役を仰せ付けられ、箱本町として公儀になったこと によって同11月15日には、箱本役の資格を持つ家持たちが町の世話をする町年寄・月行事(がちぎょうじ)・丁(町)代を組織 し自治的町役を事細かに約定している。このときには町並みはすでに整い本家(家持)は16軒であった(借家は公儀に参与でき ない)。

・江戸期の旧記による車町の状況は、家数69軒(現在、35番地を数える )、うち本屋33軒、借家36軒。町の長さ77間(現、 約175m)、道幅1間1尺5寸(約3m)である。木戸は西に柳町支配が一か所、東に車町支配が一か所あり、会所は町の北側 にあった。ここで注目すべきはその街路の形状である。まさに弓形をなして道路長の割にはその歪みは城下の他町に例を見 ないほど顕著である。また、東方の光専寺門前は道幅がことに狭隘となっている。それに比して背割りの紺屋・矢田町は、ほ ぼ直線に近く車町とは対照的である。こうしたことからも、町の境界の有りようなどとともに車町以南の町並みを含め、前述の 車町形成の意義と市神としての蛭子社”などとあわせ、改めてその成立過程を考えてみる必要があると思うが、ここでは他日 に譲りたい。

●西方寺
 
 浄土宗知恩院末の寺で、山号を従是山という。城下の“南の寺町地区”の西北に位置する大寺であり、さまざまの歴史の舞 台となった。本堂は、桁行15.04m、梁間15.5mの本瓦葺入母屋造で、1間の向拝が付く、その鬼瓦銘寛文9年(1669)か ら同年の建築と推定されている。
 特筆すべきは、経蔵におさめられた「西方寺一切経」2,181巻ほか貴重な経典が多数保存されている。郡山本町の宇野兵 衛尉秀政らの寄進により、摂津大門寺一切経を施入されたものである(市指定文化財)。
 また、寛政10年(1798)の『町割図』(柳澤文庫蔵)によれば、現在東隣の宮内社ならびに蛭子社は「西方寺除地」(旧記/間口 27間、奥行21間5尺)に包含されたひとつの境内地内にあったことがわかる。なかでも宮内社が同寺のもと鎮守という伝えは、 神仏分離(廃仏毀釈)の影響と認めることができる。
 なお、この寺には郡山藩士丸山亘の奥つ城がある。名を蓊高といい俳名を米秋という。文化12年(1815)4月29日、62歳 で没した。有名な“時雨塚”(芭蕉句碑/市内茶町良玄禅寺)の建碑に発頭として奔走した一人である。辞世の句 “ひとり旅尻 からげよき袷かな”(「集艸」柳澤信復編)
筆者がときとしてこうした辞世を引用するのは、故人の人物像を知るよるべとしているからである。
 写真は西方寺の山門(表門)である。真っすぐ奥には矢田町の通りに開かれた高麗門が見える。
 (本稿「01◆概説 城下町郡山(上) <郡山城下町形成の過程について一考察>」参照)

●光専寺

 山号を峰乞山という。真宗西本願寺の末寺で、郡山藩主本多政勝の入部に従い播州龍野(兵庫県)からここ車町に移った。 寛永16年(1639)のことである。本寺は、もと関が原(岐阜県不破郡)に僧南秀が建立したのがその草創である。現在の本堂は のちの藩主柳澤保光の護持によって再建と伝えられている。(『郡山町史』 参考) 写真↑ は光専寺の全景。

●蛭子神社

 祭神は、蛭子命。天正19年(1614)のころ、西宮神社(兵庫県)に勧請して分霊をここに祀ったといわれている。恵比寿講中 の人々により10日戎がおこなわれている。写真↑ の扁額と虹梁は旧来のもの。(本稿 01◆概説 城下町郡山(上) -車町 形成の意義と市神としての蛭子社- 参照)

●宮内社

 祭神は、宇迦之御魂神で稲荷社である。写真に見える本殿は桟瓦葺入母屋の八幡造りで、嘉永5年(1852)の再建(棟梁 小兵衛)になり、小社ながら精緻を凝らしている。左右の狛犬は、“大坂砂糖屋中”の奉納だが年紀は読めない。また、石灯篭 は安政2年2月(1855)、郡山の“塩魚屋中”の奉納で“御城主御武運長久”と刻している。なお、宮内社は車町地内に建ち、正 面が矢田町側に向いている。また、この背後に蛭子神社がある。(本稿 01◆概説 城下町郡山(上) -火伏せの神としての稲 荷社-参照)
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