大和郡山城ばーずあい -図説 城郭と城下町-       ごあいさつ | ア ク セ ス | 更新情報サイトマップホーム




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平安時代
古代.後期
 

  1162
 応保2年  5月1日、郡山の名あらわれる。
鎌倉時代
  中世

  1300
 正安2年  11月20日、郡山庄、薬園庄より分立する。
  1429   永享元年   筒井城の名あらわれる。郡山中殿に内乱起こる。
  1441  嘉吉元年  郡山辰巳殿、大乗院領西京今林代官職に補任される。
      このころ郡山に、郡山衆(中殿、辰巳殿、薬園殿ら)が割拠する。
  1459  長禄3年   6月13日、筒井順永、筒井城に入る。
  1490  延徳2年  1月5日、郡山城陥落する。3月4日、郡山戌亥氏、大炊職に補任せられる。
  1493  明応2年  中(下総守助弘)殿の郡山城陥落する。小田切宮内少輔春次郡山城を居城とする。
  1496  明応7年  3月15日、越智方郡山中殿、筒井のため没落する。
  1506  永正3年  京軍沢蔵軒大和へ侵攻し、8月24日、郡山城陥落する。
  1507   永正4年  10月18日、京軍赤沢長経大和侵攻し、郡山に陣す。
  1549  永正18年  3月3日、筒井順慶(幼名藤勝)生まれる。
  1559  永禄2年  8月8日、郡山辰巳の手引きにより、松永久秀信貴山城に入る。
  1560  永禄3年  松永久秀、多聞城を築く。
  1566  永禄9年  6月、筒井順慶、三好三人衆の加勢あって筒井城に帰城す。11月15日、 郡山辰巳(小田切)春政、春日社へ灯篭寄進す(現存)。
  1568  永禄11年  9月、織田信長京に入り、松永久秀降伏する。郡山向井、松永久秀に寝返る。
  1573  天正元年  12月25日、松永久秀反旗を翻す。多聞城陥落し、久秀信貴山城に入る。
  1574  天正2年  郡山宮内殿(小田切宮内少輔春政(四世郡山辰巳之介春政))、郡山を築城、本丸(近世)カキアゲ堀、二の丸に家中住居、百姓まじ
りなりと。知行地は6千石(1万7千石とも)という。
  1577  天正5年  10月10日、信貴山城陥落し、信長、松永久秀を自害させる。
  1579  天正7年  8月1日、筒井順慶、多聞城廃城の石材筒井城へ運ぶ。9月12日、織田信長上洛する。
  1580  天正8年  筒井の市にぎわう。3(?)月17日、筒井順慶、会ヶ峰にて鉄砲を鋳造する。8月4日、国中破城令、筒井城も破城となる。11月9日、
順慶、信長より郡山城主を命じられ、「国中一円存知」(37万余)となる。11月12日、順慶郡山城へ入る。信長の上使より郡山城を受
取る。11月24日、順慶、矢田において郡山辰巳(小田切春政)父子を成敗する。
  1581  天正9年  このころ小田切創築の郡山城の城郭拡張工事はじまる。5月、順慶、奈良中の大工を郡山へ集める。9月17日、信長の命により、明
智光秀、郡山城普請の見舞に来る。
  1583  天正11年  4月22日、郡山城に天守閣(三重)あがる。
  1584   天正12年  郡山市にぎわう。8月11日順慶死去する(36歳)。10月、筒井定次家を継ぐ。10月15日、順慶の葬儀執りおこなわれる。
  1585  天正13年  閏8月18日、筒井定次、伊賀上野(20万石)へ国替となる。閏8月23日、秀長家老伊藤掃部郡山城を受取る。閏8月24日、筒井定
次、伊賀上野へ向かう。9月3日、羽柴秀長、大和、紀伊、和泉三か国で100万石余を領し、秀吉とともに総勢5千人ほどを従え郡山城に
入る。9月6日、秀吉、多武峰堂舎を郡山へ移転を命ず。羽柴氏改め「豊臣氏」と名乗る。9月20日、秀長妻、郡山城へ入る。9月30
日、秀長「参議中将」に昇る。10月14日、秀長、奈良中の一切の商売を停止、すべての商売は郡山城下とする。11月29日、夜亥下
刻、奈良大地震起こる。
  1586  天正14年  秀長により郡山城の拓修はじまり、本丸、二の丸の堀、石垣普請あり。作事も着々と進み、天守の用材に生駒の鬼取山に大木を伐ら
せる。天守成就を直前に大地震にて崩れたという。このころ、秀長「中納言」に昇る。8月28日、秀長、紀州熊野平定のため出陣。9月2
3日、紀州平定、秀長帰城する。
  1587  天正15年  2月10日、秀長山崎にて勢揃いして九州へ出陣する。3月6日、紀州根来寺の大門を運搬のため奈良中ほか国中の人夫、木津(京
都府)まで行き、回送の大門を引く。6月、根来寺大門を郡山城門とし成就する。7月22日、秀長郡山へ帰城する。8月、築城のため奈
良水谷川から大石を運ぶ。9月、豊臣秀長「権大納言」に昇る。
  1588   天正16年  1月、秀長、奈良中に五郎太石(石垣裏込め用の石)家並みに20荷ずつを命ず。1月8日、秀保(10齢)叔父秀長の養子となる。4月
3日、多武峰大織冠を郡山へ遷座し、城の鎮守とする。8月29日、徳川家康、郡山城へ、秀長木津まで出迎える。9月1日、家康、秀長
の案内で南都見物をする。9月4日、毛利・小早川・吉川、郡山城へ来る。
  1589  天正17年  1月30日、秀長、淀城修築のため出立する。5月12日、郡山城普請につき、秀長淀城より帰る。6月18日、郡山築城のため、興福寺
境内の大石を悉く車にて運ぶ。旧大寺の石を集める。8月、越智氏滅亡して、秀長、高取城を郡山城の詰城にし、大修築をおこなう。
  1590  天正18年  10月19日、秀吉、秀長の病気見舞に郡山城へ来る。12月18日、大織冠多武峰へ還御。
  1591  天正19年  1月、秀長女と養子侍従秀保と祝言をあげる。1月22日、秀長病没する(51歳)。同27日、豊臣秀保、(三好吉房が三子/侍従)秀長
遺領のうち大和・紀伊を継ぎ、郡山豊臣家を相続。後見家老横浜一晏法印。1月29日、秀長葬儀。8月23日、秀保地子免除をおこな
う。このころ郡山城天守閣(七重)成就?。
  1592  天正20年  3月8日、豊臣秀保朝鮮出兵のため軍兵1万を率い肥前名護屋へ赴く。6月、豊臣秀保、中納言に昇り、大和中納言と称される。6月1
0日、秀保改めて禁制を発し、秀長の法度を守成する(奈良と郡山以外、国中の造酒禁止。郡山の外商売停止。他国より酒の持ち込み
禁止) このころ、郡山衆とその氏神郡山八幡宮、柳町へ移転する。
  1593  文禄2年  10月15日、豊臣秀保名護屋から帰陣する。
  1594  文禄3年  3月18日、郡山城移転の議おこり、候補として多聞山(奈良市)か、会ヶ峰(大和郡山市)があがる。(沙汰止む)
  1595  文禄4年  4月16日、豊臣秀保痘瘡により夭折し(大和十津川で暴死とも(妄説))、郡山豊臣家、断絶する。秀保遺骸は京へ送られる。7月17
日、増田長盛22万3千石に封じられ郡山へ入部(城番・三国預け)。8月17日、総国検地(文禄検地)おこなわれる。
  1596  文禄5年
 
 長盛、国中へ夫役を課し、郡山城の総堀(48町13間(第1次))の普請に着工する。順慶からはじまった郡山築城は20年を費やして、
このころ大概完成をみる。(11月27日、「慶長」と改元)
  1598  慶長3年  8月18日、豊臣秀吉没する(62歳)。
  近世

  1600
 慶長5年  9月、関が原の戦。10月2日、増田長盛除封。10月6日、郡山城、本多正信・藤堂高虎城請取、長盛家臣渡辺勘兵衛活躍する。郡
山城の建物伏見城に移築。大久保長安、郡山在番(番城)、大和代官(奈良町支配)となる。
  1607  慶長12年  城番大久保長安、郡山を去る。
  1608  慶長13年  6月20日、定次改易となり筒井家断絶する。
  1610  慶長15年  山口直友、郡山城在番となり、城番与力36人騎を郡山(近世の小川丁三筋)へ置く。
  1614    慶長19年  筒井定慶・慶之、郡山在番となり、与力36騎を付けられる。大坂冬の陣おこる。10月25日、大和国の先鋒、藤堂高虎郡山へ参着す
る。
    1615   元和元年  4月、大坂夏の陣おこる、4月26日、大野治房ら生駒より大和に入り、郡山城攻防戦。定慶は福住(天理市)に、慶之は興福寺妙喜院
へのがれる。翌27日、城下焼討。7月7日、幕府、武家諸法度を制定する。7月21日、三河刈屋城主水野勝成、軍功により郡山城主
(6万石)となる。勝成、洞泉寺に仮住居し、のちの三の丸柳蔵に仮住居を建築、嫡子美作守を、柳曲輪に入れる。城郭の普請(石垣・土
塁・堀など)は幕府直轄工事としての修築。建物は勝成の自分普請、本丸御殿、二の丸台所角櫓、一庵丸、三の丸、家中屋敷などを作
事する。
  1619   元和5年  6月2日、芸・備太守福島正則除封(減封)。7月22日(8月4日)、水野勝成備後福山(10万石)に移封。7月22日(10月)、大坂城
主松平忠明、郡山城主(12万石200石余)となる。忠明、二の丸に御殿を造営して居屋敷とする。のちの柳曲輪に重臣屋敷等五軒を置
く。8月、伏見城廃城となり、郡山城へ六基の城門を移築される(柳門、桜門、鉄門、一庵丸門、西追手門、南門(?)。 9月9日、将軍秀忠
大和郡山城へ来城。翌日、南都春日社へ参詣あり。
  1623  元和9年  6月、将軍秀忠上洛する。7月13日、徳川家光上洛し伏見城に入る。7月27日、家光三代将軍となる。8月19日〜同23日、新将軍
家光大坂・堺を巡覧して伏見へ、閏8月8日、膳所城に止宿し、同24日江戸に帰着。
  1626   寛永3年  6月、大御所徳川秀忠上洛して二条城に入る。郡山城本丸(御殿)に普請などあり。8月2日、将軍家光上洛して二条城に入る。9月8
日、将軍家光ら、後水尾天皇二条城行幸を奉迎し、松平忠明供奉する。9月17日、将軍家光大坂城より二条城への途次、郡山城に立
寄り、忠明、饗応して、家臣ら拝謁する。
  1629  寛永6年  松平忠明、領内一円に2割半無地高増を命ず(15万石の軍役)。
  1639  寛永16年  3月3日、松平忠明、播磨姫路(18万石)に封ぜられる。5月5日、姫路より本多政勝(第1次本多時代)郡山城主(19万石)となる。こ
のころ各所に家臣屋敷地拡張され、郡山城外堀の改修(50町13間(第2次))がおこなわれる。
  1644  正保元年  公儀より国絵図(城絵図)作成の命あり、翌年頃作成なる。
  1617  寛文11年  10月30日、本多政勝没し、九六騒動おきる。12月23日、本多政長、遺領のうち9万石と加増分をあわせて12万石を受け、本多政
利、6万石を受ける。
  1679  延宝7年  4月24日、本多政長没(47歳)。郡山藩2割半無地高増で本高に込み入れられ、確定する。6月26日、遺領を継ぎ、本多忠国(平八
郎政武)陸奥福島に、本多政利(出雲守)播磨明石(6万石)に、本多忠英(肥後守政貞)播磨宍栗(山崎1万石)に転封する。松平(藤井)
信之、郡山城主(8万石)となる。本丸御殿(行殿)破損により、幕府の許可を得て取毀。
  1685  貞享2年  6月27日、松平信之、老中となり、下総古河に転封。9月15日、本多忠平、郡山城主(12万石余)となり入封(第2次本多時代)。
  1695  元禄8年  10月15日、本多忠平(64歳)没。12月12日、本多忠常遺領を継ぎ、郡山城主となる。
  1699  元禄12年  本多忠常、このころ江戸藩邸類焼のため、本丸御殿(行殿)の遺材を江戸に送る。
  1702  元禄15年  2月12日、忠常、郡山城追手(柳門)門脇石垣張り出しの修復を願出る。
  1707  宝永4年  10月4日、“宝永の地震”起こり、郡山城内・城下侍屋敷・町屋、領分もことごとく甚大な被害をこうむる。
  1709  宝永6年  4月17日、本多忠常没(49歳)。6月、本多忠直遺領を継ぎ郡山城主となる。
  1717  享保2年  5月8日、本多忠直没(45歳)。6月27日、本多忠村、遺領を継ぎ郡山城主となる。
  1722  享保7年  9月30日、本多忠村没(11歳または13歳)、弟本多忠烈、忠村の遺領のうちから5万石を受ける。
  1723  享保8年  11月27日、本多忠烈没(8歳)、本多家(第2次)断絶する。
  1724  享保9年  2月18日、丹波篠山城主松平信峯、郡山城請取、在番する。3月31日、甲斐府中より柳澤吉里、郡山(15万石余)へ国替え。
  1725   享保10年  11月28日、郡山城(土居・堀端崩れ・埋まり)修復の伺いを出す。
  1731  享保16年  8月15日、郡山城破損所々(大手堀土居、桜門西続石垣)修補の願いを出す。
  1732  享保17年  12月15日、郡山城(土居・堀端崩れ、堀埋まり)修復の伺を出す。
  1745  延享2年  9月6日、柳澤吉里没、10月20日柳澤伊信(信鴻)遺領を継ぎ、郡山城主となる。
  1773  安永2年  10月3日、柳澤伊信、隠居して名を信鴻と改める。柳澤保光、家督相続して郡山城主となる。
  1784  天明4年  5月8日、霖雨により郡山城内本丸二重櫓1箇所ならびに渡櫓9間ほど石垣とともに崩れ落ちる。同25日、後日修補を願う旨届出る。
  1785  天明5年  3月23日、昨年5月の城内損所修補の願書出す。(5月23日、修補許可)
   1787   天明7年  4月26日、4月中霖雨降り続き、城内二の丸鉄門北続き石垣崩落等の被害あり、5月26日、後日修補を願う旨届出る。
  1788  天明8年  2月21日、昨年4月の城内損所の修補願い出す。(3月4日、修補許可)
  1792  寛政4年  3月3日、柳澤香山(信鴻)没(69歳)。
  1811  文化8年  8月5日、柳澤保光隠居して堯山と号する。柳澤保泰家督相続して郡山城主となる。
   1828  文政11年  5月12日、竹林門修復はじまり、鉄門を地車出入りする。
  1817   文化14年  1月20日、柳澤堯山(保光)没(65歳)。
  1838  天保9年  5月25日、柳澤保泰没(57歳)。7月12日、柳澤保興遺領を継ぎ郡山城主となる。
  1848  嘉永元年  8月12日、柳澤保興没(34歳)。10月12日、柳澤保申遺領を継ぎ郡山城主となる。
  1854  嘉永7年  6月14日、安政伊賀地震起こる。11月4日、安政南海地震起こる。(11月27日、「安政」と改元)
  1855  安政2年  6月24日、居屋敷・櫓・多聞など大破による拝借を願い、金5千両と決定する。
  1858  安政5年  12月1日、郡山城二の丸屋形全焼する。飛び火して五軒屋敷2軒および茶園場武家屋敷1軒類焼する。12月26日、竹林橋新規架
け替え上棟する。
  1859  安政6年  5月22日、二の丸屋形再建につき、拝借金3万両を幕府へ願い出る。
  1860  安政7年  2月26日、二の丸屋形再建拝借金5千両と決定する。
  1861  文久元年  11月14日、郡山城二の丸屋形(大書院・松の間・玄関)上棟する。その他屋形向き逐次ととのう。
  1863  文久3年  8月6日、伴林光平と門弟平岡鳩平、郡山柳町大門の冠木に斬奸状を貼りつける。8月26日、天誅組討伐のため郡山藩2000名、吉
野へ出兵する。
  1865  慶応元年  6月、郡山城櫓、多門(弓櫓・北続多聞)并石垣損所覚(修補願)を提出する。
  近代

  1869
 明治2年  2月、版籍奉還の願書を提出する。6月17日、版籍奉還許可される。6月18日、柳澤保申郡山藩知事となる。6月25日、各県知事
の家禄を10分の1と改められる。10月、柳澤保申藩政改革をおこなう。
  1870  明治3年  3月10日、太政官に、城郭を爾来破壊にまかせて修理しないことを願い、許可される。
  1871  明治4年  7月14日、廃藩置県断行される。柳澤保申郡山県知事となる。二の丸屋形に郡山県庁ならびに同知事邸宅を置く。11月22日、大和
国諸県廃止。郡山県は奈良県に編入される。
  1873  明治6年  3月20日、郡山城(立木、建物)売却処分のため入札される。つづいて解体・搬出される。
  1893  明治26年  10月2日、柳澤保申没(48歳)
  現代

   1955
  昭和30年  森蘊、郡山城跡基礎調査を実施する。
  1960   昭和35年  7月28日、郡山城跡「本丸および毘沙門曲輪、法印郭、玄武郭、陣甫郭等」(堀・石垣・道などを含む)、奈良県指定文化財・史跡に指
定される。(史第17号)
  1979   昭和54-55年  東京大学工学部建築学科 稲垣栄三研究室による、大和郡山城下町の住宅地形成に関する調査実施される
   1981   昭和56年   3月、『大和郡山市・城跡及び旧城下町等の保存と活用のための構想策定調査’81』できる。(大和郡山市教育委員会/奈良国立文
化財研究所/(株)環境事業計画研究所)。『城下町やまとこおりやま-城跡と城下町の保存と活用に関する調査報告-』できる。(奈良
国立文化財研究所作成)
  1984   昭和59年  2月、『大和郡山城下町における住宅形成の解析』論文発表される。(東京大学工学部建築学科 稲垣栄三研究室/(財)新住宅普
及会 住宅建築研究所)
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