大和郡山城ばーずあい -図説 城郭と城下町-       ごあいさつ | ア ク セ ス | 更新情報サイトマップホーム



トップへ
戻る
01 ◆郡山城の大手虎口【その1】  
 <・大手虎口と御先手十八組・大手口と藩主の入部・城の口と御使者宿・大手前・使者屋敷と徒目付長屋>
001◇大手虎口と御先手十八組
 城郭の入口には城外から容易に進入できないように多くは右に折れ曲がった「枡形」という広場をつくる。もちろん、左折れの枡形もある が、「横矢」の関係から少ないこうした要所を軍学・兵法のうえで「小口」とか「虎口」といい、平時から虎口の出入りは、人に限らず馬・牛 などの動物や荷物、極端な例では風呂敷包みに至るまで厳しいチェックを受けた。郡山藩柳澤家中では、享保9年(1724)の国替えに際し て要所の固めに『御定目』」(注1.)が定められ、以後これに改・廃を重ねて廃藩まで運用された。藩職制中の弓鉄炮頭(物頭)と与力、それ に弓鉄砲組の同心を18の組に編成し、これを「御先手十八組」と“となえ”て昼夜輪番制で諸門や辻番所を固めた。1868戊辰年(9月8 日、慶応を明治と改元)の史料(注2.)によれば先手十八組の同心の編成は弓7人、鉄砲14人の都合21人を1組としていた。欠員もある ので実数は変化するが、職制上は定員378の御先手組の人々がこれらの勤務に就いていたことになる。なお、辻番所十箇所のうち、大 織冠辻・蔵前辻番所の二箇所は、「御持組」の鉄砲組同心22人、弓組同心21人による輪番制の持場となっていた)。
002◇大手口と藩主の入部
大手虎口絵図
 「大手虎口絵図↑」を参照されたい。
  絵図右下の堺町方向から郡山城追手の柳門を目指して直進し、大手前(さき)を進むのが城内への正規の道順となっていた。参勤交代 などにより城主が帰城の際、ここ大手前までの城下を練り歩く城着のセレモニーがおこなわれたのである。
 それでは、ここで郡山藩柳澤家の帰国の様子を紹介しておこう。
 時の将軍より暇(いとま)をもらって“参勤御礼”を済ませ、江戸幸橋門内(千代田区内幸1丁目)の上屋敷を発足。東海道を上って、尾張 (愛知県)熱田の宮から海上七里を鳴海へ渡り、桑名城下から四日市方向へ伊賀道(三重県)をとるのが郡山藩の通常(最短距離)のルー トであった。さらに、伊賀上野城下から山城(京都府)の加茂、やがて木津から相楽(さがなか)村に入り、山城・大和の国境に至る。ここに建 っている国境道標には、郡山へ「柳三丁目元標二里一八町四十九間」とあるから、あとわずかな距離である。さて、行列は大和国添下郡 に入り歌姫村(郡山街道という)を南へ、横領村、六条村と通過して、秋篠川に架かる奈良口大橋を渡り、郡山城下の総堀の北東部に設 けられた鍛冶町大門を入る。ここは近世における郡山城下の表口で、高札場などの施設や、門内の鍛冶町には旅籠屋のほか郷庄屋宿・ 飼葉屋・馬宿・飛脚屋などが建ち並び、道中往還の人々で賑わったところである。鍛冶町から右折して本町へ、このあたりは酒屋業(造高 160石)を営んで藩御用の“掛け屋”を務めた永原八右衛門(伯網)など多くの豪商が住居していたところである。西進して左折するとそこ は堺町、さらに進んで突き当たりを右折して「城の口」に至る。長途の旅をした一向は、ここ城の口から「大手橋」を渡って「大手前/現在の 市役所前)に出る。ここで“下馬”してのち追手ニの門の「頬当門」(冠木門)を入って枡形を右折し、一の門である「柳ノ門」(柳門)をくぐって 城着となるのである。
 写真↓は、大手橋(右手に擬宝珠と欄干が見える)手前から西方の大手門枡形(前方に見える横断歩道周辺)方向を見たところ。右手に 市役所への“百壽橋”と大手堀。左側は消防署北分署につづいて中央公民館・体育館(三の丸会館)などがある。

 甲府廻りや京都廻りもしばしば道中したが、ここで述べた東海道・伊賀道りがもっともポピュラーなルートで、江戸から116里(456キロ)、 “川止め”なども無い順調な旅行で12日間を要して郡山へ城着した。その費用は(参勤交代道中金ならびに手当金共)予算的には約2,0 00両であった。これを隔年江戸・郡山を往還するのだから大名にとって大変な出費であった。また、行列の総人数は、延享3年(1746)7 月、二代藩主柳澤伊信(1724-92/信鴻)初入国のときで1,000人を超え、また、安永3年(1774)7月、三代藩主柳澤保光(1753- 1817)の入部で800人と記録されているが、これでも“万事御倹約の御入部”とささやかれたという(注3.)。そもそも、徳川に対する軍役が かたちとしての参勤となったから、勝手に人数を省略することはできなかった。のち公儀の弱体化により大きく変化はしたが、藩政時代を通 じてつづけられた制度である。ともあれ、“おらが殿様”の初入国をひと目見ようと集まった物見高い見物人のほか、藩領各所から呼び寄せ られ参集した人々で沿道の城下町はもちろん、ここ大手虎口あたりにひしめいて、行列本隊をはるかに超える人数が出迎えたと伝えてい る。

003◇御城の口と御使者宿
使者宿
 話が少し横道にそれた。堺町から柳町一丁目をよぎるところを古くから「城ノ口」といった。この角にある菓子屋で老舗「菊屋」の銘菓を今 でも「城の口」というのもこの場所にちなんでのものである。大手橋の手前右側にあった「御使者宿」(現在は緑地公園/写真左↑)は、大手 前の「御使者屋敷」とともに各方面から来城する使者の供応施設の一つであり、柳澤家入封に当たっていずれも新しく設けられた施設で、 人々は使者宿を「御使者御馳走所」と呼んだ。平生は他藩などから使者によって届けられる封状などを小人目付が受け取り、目付から大 目付へと伝達、御用部屋で処理される仕組みとなっていたし、藩御用達の銀主らの宿所となり、接待の場として使用されたり、また、近江 国藩領の海津・金堂両役所に赴いている代官が登城の際の宿所となっていた(近江神崎郡佐生に遺されている制札場鬼瓦に見る“柳澤 花菱紋”。/写真右↑)。このようにその時々に応じて都合よく利用された施設であったようだ。なお、使者宿は藩が町屋を購入して御用屋 敷としたが、維持管理のことは隣家の塩屋四郎右衛門の預りとなっていたのである。 
 このような逸事もある。安永3年(1774)7月、三代藩主柳澤保光は能楽を好んで宝生友道・友勝に師事したが、家督後の郡山入部には、 当時、江戸浅草で活躍していた宝生九郎友通の弟子日野平兵衛安利の子、源之進安之を、庄屋並みの扶持を与えて郡山詰切りの能役 者とし、安之は殿様の入部に供をして郡山へ来たときにはこの使者宿に入っている。やがて安之は、住居を与えられて郡山に定住した。 以後、宝生の能楽は代々受け継がれて、のち「郡山宝生」と称されるようになる。そして町人文化の爛熟期となった化政期には郡山固有 の文化の一つとしてこの町に深く根づいたのである。明治のころにはいまだその遺風があって、「郡宝会」(会長柳澤保承)の活躍とあいま って盛んであった。城下の町々や行き交う人々が謡曲を謡って歩く姿がそこここに見られたのである。
 さて、使者宿を右手に見て幅の狭い大手橋(木橋)を渡るが、橋の手前左手に“番所”と“馬繋”(2007年、彦根城大手口で復元されてい る)があった。「城ノ口」は町の管理に属するところであったから、柳門の枡形内にあった「柳箱番所」のように、御先手同心が詰めまたは巡 回した武家地内の辻番所10か所には含まれない。したがって、ここは使者宿を預かっていた塩屋四郎右衛門の管理とみるよりも、箱本 (豊臣秀長以来の町の自治組織)と塩屋が協力して管理したと考えるのが自然であろう。とは言っても、一城の玄関先に当たる場所柄や、 使者宿は徒目付の所掌に属した施設であるだけに御使者屋敷ならびに大手枡形内の「柳箱番所」との連携は密であったというべきであろ う。

004◇大手前(おおてさき)
 大手橋を渡ったところを大手前(おおてさき)と言い、長さ約80メートル幅約25メートルほどもある広場で、前項で述べた、出迎えや見立 つ(“見送り”とは言わなかった)の人達の前でおこなわれるセレモニー広場となっていたことも事実であるが、本来は城郭の虎口として最 大・最強の要所という位置にある。大手前の右側には長さ39間(堀幅9間)の大手堀があって、ここには堀際(南端)に沿って低い柵(遺構 /写真↓)が設けられていた。
大手柵
 堀幅9間(11間とも)、水深6尺余の大手堀は、その対岸の柳曲輪(五軒屋敷)側に高い土居と“横矢掛り”に効果的な屏風折の狭間 塀、長さ約50間が設けられて、弓狭間(18か所)や鉄砲狭間(19か所)が大手前各所に向けて狭間配りをされていた。つまり大手口の攻 防を想定した場合、門に至る距離や幅が堀(横矢掛かり)に面して適度の大きさであることは当然であり、しかも進行方向に対して右側に 堀を設けてあるのは、虎口の枡形が右折れの類例が多いのと同じ理由で、それは兵士の右利き(当時左利きは矯正された)に起因してい るといわれる。
 また、城下町や城郭近所に出火のあるとき、門外のここ大手前には箱本の町年寄のほか町人足50人が詰めて警戒にあたったところで もある。もちろん、大手堀の堀水を用水として使ったことはいうまでもない。
 また、明和から天明にかけては旱魃や霖雨など天災・災害のため大飢饉がおこって、公儀や各藩の磐石をもゆるがせる大事件であった ことは著聞であるが、ここ郡山藩においてもその例外ではない。なかでも天明4年(1784)2月の凶作による施米や、天明7年5月の“打ち 壊し”はよく知られている。そのようなたびごとにここ大手前には人々が集まり、不穏な空気がただよったところでもある。

005◇使者屋敷と徒目付長屋
 大手橋を渡ったすぐ左(南)側には使者屋敷があり、『大和郡山市史』所収の「五軒屋敷の写真」(明治30年(1897-06)代)に、この御使者 屋敷が写しこまれいてるし、表長屋門は維新後も戦前くらいまでは残っていた。取り壊された年代は明確ではないが昭和の初めのころで ある。使者屋敷は、公儀あるいは他藩からの正式な使者を迎え入れるために設けられた屋敷で、使者接待以外普段はあまり使用されるこ の無い(むしろあれば難儀か)大手前の飾りのような施設であったようだ。現に安政5年(1858)12月1日の御屋形(御殿)の火事には、屋形 内にあった諸役所向きも焼失のため、ここにも一部の役所が置かれたことが知られる。あるいはまた、儒学講義のため会場として御使者 屋敷を用いたりもしている。しかし、これらは記録に残るほどだからむしろ例外を記したわけであるから平素のありようではない。なお、先代 の本多時代ここは家中屋敷として使用されていたところである(注4./(貞享の家中図)。
 使者屋敷はもう1つの機能を有していた。徒目付組頭兼帯の「使者屋敷預り支配」が1人任命されていて、門番(長屋門)に中間が1人い た。また屋敷内には組頭の支配に属した屈強な徒目付が起居した公邸として「御徒目付長屋」があり、彼らは「横目」とも称されて目付支 配のなかでも警衛や探偵“御隠密之儀”などを務めて内外ともに恐れられた存在であった。

(注1.「郡山藩旧記」・注2.「御分限帳上・中・下」柳沢文庫蔵)。注3.「諸事諸色留書(仮)」個人蔵。注4.「郡山城之古図(家中図)」個人蔵/ 郡山町史所収。参考)
★次回は<02◆ 郡山城の大手虎口【その2】>を予定しています。
02 ◆郡山城の大手虎口【その2】 
 <・頬当門・大手枡形の規模・柳の門櫓・枡形内の箱番所・南屋敷・柳蔵と天明の大飢饉>
006◇頬当門
 大手虎口の最も重要な部分がここ柳門の枡形である。枡形内には二つの門があり、その構成はニの門にあたる「頬当門(ほおあて門」と 一の門にあたる「柳御門」からなっていた。写真↓は、横断歩道の手前から奥にかけてが頬当門跡で、左方は大手枡形内、左奥に見える 石垣のところが柳門櫓跡である。

 頬当門の名称は、小具足の頬当からその名を引いていて、武具のうち顔面を防護する面頬の一つのかたちをいう。左右の石垣にはさま れた狭い通路に設けられた門であって、かつ、枡形全体を兜になぞらえて、二の門が頬当のような機能をもっていたところからこう称される ようになったといってよい。
 大手虎口のニの門のである頬当門は、「冠木門」と表記されているが「高麗門」様式の門である。いずれ紹介することになるが、郡山城 の諸門のうち、頬当門の名称は、ここ以外には「南御門(頬当門)」がそうである。なお、江戸時代に書かれた史料には、「高麗門」や「薬医 門」、「冠木門」をひっくるめて「冠木門」と記されることがよくあるので注意しなければならない。門には横に渡される“冠木”があるためで、 さすがに「櫓門」までは冠木門とは言わない。
 また、郡山藩の記録では他の諸門とは違い、頬当門であって“頬当御門”と記さない。これは明らかに単純な門の形容を述べているので あって、“となえ”として統一された名称ではないということになり、やはり「冠木門」が正式名称なのである。頬当門の名称については郡山 城のほか熊本城にその類例がある。すなわち宇土櫓近くにある「耕作櫓門」への虎口に設けられていた「頬当御門」である。熊本城がそう であったように、郡山城の頬当門も当初から設えてあったのではないかも知れない。それは城郭の築城年代や各虎口の形態から類推して あとから付加されたものと考えられるからである。なお、多くの各流兵学・軍学は学問として形成されて行った結果、ことに、守城各論のう ち、虎口の守備上の要目として「ニの門(頬当門)」、「一の門(櫓門)」、「五・八割りの枡形」などと諸事細々と規定されて、まるでシュミレ ーションゲームのようだ。このことは、実戦を伴わない永い太平の世がつづいた一つの傾向であるともいえる。

007◇大手枡形の規模
 現状の大手枡形跡は道路の拡幅によって大きく改変されている。原状を保っているのは頬当門跡に向かって右側(北)からつづく東の雁 木坂(現在では石段は無く、“南京ハゼ”が大きく一本立ちとなっている)と柳門東袖櫓台(北面は崩落して後補のブロックになっている)ぐら いで、そのほか西側の石垣は1988年の「三の丸街路工事」と、上流である鰻堀、鷺池堀、そして蓮池堀から流れ下るバイパス流路の確 保のため、市民生活の安全性・利便性を優先された結果である。本工事によって柳門西側の石垣は移動されて、ちょうど10メートル西側 へテークバックして積みなおされた。今も道路の地中にはもとあった石垣位置を示すポイントが埋設してある。
 また、この下水道工事によって、移動前の西枡形石垣のあった道路下約1.5mのところから檜製の箱型木樋(内法約35cm角/四方 釘止め/継ぎ手粘土止め)が検出された(1988年3月3日)。上流の蓮池堀の樋から東へ伸びた木樋は、道路の中央あたりを東の大手堀 に向かってのびているように思われ、それは枡形内の東雁木中央(南京ハゼ付近)の石垣水面下に水吐が想定される位置関係にあったこ とをほぼ確認している。
 一方、頬当門の右側(南側)の石垣の台や枡形の状況も大きく変化している。『明治41年(1908)測量図』(注1.)を見るとその旧状がよく わかる。柳蔵跡(後述/NTTのところ。)に明治39年4月設置の「郡山女子尋常小学校」が見えている。この学校は、のち昭和16年(1941) 4月「国民学校令」の公布施行により「郡山国民学校」となったが、そのときの学校建設によって石垣の積みなおしなどがおこなわれ大きく 改変されたとみてよいだろう。筆者の記憶によると小学校の小使室横に普段は閉まったままの臨時の大校門があり、門内の真ん中に大き な銀杏の木があって、ここがその後道路(現在の三の丸会館横の道)となったときには、いまだこの銀杏の木は道路の真ん中に“ぽっんと” 立っていた。自動車などで散々根元を踏まれたためかやがて大銀杏は枯れてしまった。この銀杏の立っていたところはもとの柳蔵敷地内 にあたる。
 ついでながら柳門西側の土居上には「郡山町役場」が先ほどの「女子尋常小学校」と並んでいたし、「生駒郡役所」は堺町に記載されて いるから、現在の市役所のところは旧五軒屋敷の南屋敷と北へつづく土塀の中にあった一面の田んぼになっていた。当然、NTT前北側を 東西に走る坂道まだ無い。坂のうえの近鉄電車の踏み切りのところは、もと蓮池堀の一部であったが、「大阪電気軌道(現、近鉄)」開通 の大正10年(1921)までには埋め立てられたところである。
 大手虎口枡形の規模は、記録による狭間塀の長さを目当てにすれば、西方で12間2尺5寸、南方で13間3尺5寸となっている。

008◇柳の門櫓
 柳門は、東袖門台側が東西9間に南北3間と大きく、西袖門台は東西約2間に南北3間(いずれも台上の天端値)で、前者の櫓台は、柳 門際で高さ2間半、この東面の大手堀を望む石垣台上は堀(水面)から高さ3間半、その南続きの東雁木石垣の高さは2間あった。また、 後者の西側の柳門際から南へつづく枡形石垣の高さは2間となっていた。柳の門は東西(桁行)5間、南北(梁間)3間の渡櫓門様式の櫓 門で、その門扉の真上になる二階部分には格子窓1か所、東袖門台上の櫓南面には窓1か所がつく。格子窓は「石落し」(門に近づく外敵 に対し、二階の格子窓下の揚げふたを開けて石を落とす仕掛け)を兼ね、窓は物見のために設けられた。それに矢狭間2・鉄砲狭間3か所 が櫓の表向きに配置されていた。なお、柳の門は元和5年(1619)、伏見城(京都府)の廃城にともない公儀によりここ郡山城に与えられた “伏見城の遺構”と称された“城門六基”のうちの1基であった。
 さて、“阪神淡路大震災”でゆるみをみせたのか、東袖門台の東南隅にあった石段が近年崩壊した。前回の「コラム【目安箱】」で述べた のでここでは省くが、あそこが柳門二階への登櫓施設と誤解されては困るので念のため附言すれば、柳門二階へは西方の蓮池堀に面す る土居上から(現在西方の緑地内に設けられたコンクリートへ製の白壁の塀のあるところ。)入った。ここから櫓内へ進んで二階部分の渡櫓 を通り抜けると、大手堀に面する東の台上に至るようになっていたのである。枡形の機能のうえからも、桝形内の東雁木坂から上るような ことはあり得ないことである。なお、「柳門目付」は門をくぐった右側(東)にあり、門の出入りをきびしくチェックした。番所建物は、間口約7 間半に奥行約2間、これに庇が付いていた。門扉の大戸の開閉は午前、午後とも6時、潜戸は午後10時までは退出する家臣などのため 開いていた。柳の門は普段、当番の弓鉄砲頭(物頭)1人と与力1人、それに弓鉄砲支配の「御先手十八組」(前出)から同心5人のあわせ て7人が詰めて往来する者に目をひからせていたのである。

009◇枡形内の箱番所
 柳門をくぐったところにあった番所(柳門・桜門に限って「柳門・桜門目附」と称した)とは別に枡形内には「柳箱番所」があった。ここは柳門 目附の職掌ではなく、武家地の各所に10か所あった「辻番所」に勤務する辻番勤務の範疇で、御先手同心2人が昼夜懈怠なく輪番勤務 したところである。
 枡形内には、ほかに井戸1か所(その昔、弘法大師(空海)が法具“獨鈷杵”(どっこしょ)を用いて井戸を掘ったという言い伝えから、郡山 では湧水(井戸)のことを“どっこいしょ”と称している)があり、飲料水ほか打ち水など清掃用にも用いられた。それと、東雁木坂の石垣は堀 からの高さは2間(前出)あったし、枡形南側石垣内側にも頬当門まで雁木坂が設けられてあった。有事の際、城兵が弓矢・鉄砲をこの雁 木を駆け上り狭間配りに就いたところである。
 このため両雁木の上には狭間塀が設えてあったが、前述の震災による石段崩壊現場の横、柳門櫓東台の南面上部の石積に、もとあっ た狭間塀の“棟木”と“ぬき”が入っていた“ほぞ穴”(写真↓)が今も残されているので、その復元(長さ10間5尺)は容易である。なお、正 保の絵図(注2.)によれば(その後も同様)白漆喰仕上げの狭間塀である。

 ○柳門枡形内の狭間塀の規模は次のとおりである。
 ・枡形の西方、12間2尺5寸、矢狭間4、鉄砲狭間4
 ・南方、13間3尺5寸、矢狭間5、鉄砲狭間9
 ・東方、10間5尺、矢狭間3、鉄砲狭間7
 ・柳門櫓台上(東南面)、5間5尺、矢狭間3、鉄砲狭間5

010◇南屋敷
大手虎口図
 「大手虎口絵図」↑に見える柳曲輪(五軒屋敷)の南端が南屋敷跡(前述)で、現在、大和郡山市役所本館の建っているところである。間 口32間(58m)、奥行きは約100mあり、東部に大手堀が回り込んで不整形ながらおよそ1,240坪ほどの邸地であった。ここは柳澤家 譜代の大井衛守の役宅であった時代がある。『和州郡山藩家中図 安政年間』(注3.)にその書き入れがあって、ここでいう大井衛守は賀 直(1838家を継いだ)で、郡山三代藩主柳澤保光(号堯山/1753-1817)時代に家老を務めた大井英直(1723-1802)は、その曾祖父にあ たる。賀直もまた郡山藩六代藩主柳澤保申(1846-93)の藩政をたすけたて老職として重きをなした人物である。

011◇柳蔵と天明の大飢饉
 柳蔵(「郡山城絵図(い)」↓参照)は、郡山城三の丸に属する独立した一曲輪で、郡山城詰米4,000石(1万俵・郡山藩は4斗詰めの 俵を用いた。)を常備した米蔵である。「城附詰米」は、江戸幕府が寛永期に創設した制度で、当初は戦時の兵糧米として備蓄しはじめた が、のち飢饉時の施米や米価調整機能をも果たした。ことに畿内に位置する郡山城においては将軍上洛時の手当米としても用いられた。 ここ郡山城に城詰米(城米・御用米)4,000石が定められたのは元禄4年(1691)4月からで、時の城主は本多忠平(1632-95)であっ た。詰米は、公儀代官小堀仁右衛門・万年長十郎・西山六郎兵衛・今井七郎兵衛の4人から京・大坂において代銀として受け取っている。 ちなみに米4,000石の代銀は当時175貫200目とある(注4.)。
絵図(い)
 柳蔵は面積1,240坪半あり、曲輪南方で東西33間、西方で南北29間あつた。曲輪内には4か所に9戸前の土蔵が建ちならび、それ に井戸が1か所あった。建物は漆喰塗大壁造りで基礎は高く通風のための口が開けてあるなど米蔵独特の建物であった。柳蔵の位置は 大手頬当門の南隣にあって現在のNTTのところにあたる。
 柳蔵を取り囲んで水堀があり、堀は柳蔵入り口への土橋のあった東側から南へ、そして西側から蓮池堀に廻りこんでつながっていて、一 つの曲輪構えであるところから三の丸柳蔵とも称された。出入りは頬当門横の土橋を渡り柳蔵の表門(棟門か。)からおこなわれた。蔵前 には「米直し場」(三の丸会館の一部)とさらに近くには、郡代支配の「大和代官所」(現在の、UFJ銀行、三井住友銀行の周辺一帯)が設置 されていたが、柳米蔵と、これらは有機的な必然性をもって配置されていたことを物語っている。なお、柳蔵の管轄は郡代支配で、そのもと に蔵奉行4人、さらに蔵同心勤7人、中間1人の体制で“御蔵御用”の勤めていたのである。ちなみに「大和代官所」の地は、その昔、水野 勝成藩政時代に「下台所」が置かれたところと旧記に見える。
 天明2年(1782)といえば諸国に「天明の諸国大飢饉」が起こった年である。公儀、諸藩とも対応に苦慮したことはよく知られるところである が、郡山藩もその例外ではなく、凶作や洪水などによる領分の損毛は天明期(1781-89)にあわせて75,500石におよんでいる。このと き、ここ柳蔵の郡山城詰米の4,000石の約半数は、すでに江戸浅草の公儀米蔵に御用米として海路回送済みのところ、残余の2,749 石もすべて送り出すというありさまであった。城下25町の飢民あわせて501人へ米15石三斗9升の施米をおこなったが、空っぽの柳蔵 のほか藩庫にも余剰の米は無かったから、こうした未曾有の大飢饉では十分なことはできなかったのではないだろうか。天明4年2月から 同3月にかけてのことである(注5.)。

(注1.『奈良県・大和国郡山/明治41年測量/明治45年6月30日発行』。注2.『和州郡山城図』公文書館蔵 注3.柳澤文庫蔵。注4.「郡山 藩記事」柳澤文庫蔵。注5.「虚白堂年録」柳澤文庫蔵 参考)。

★次回は<03◆ 柳曲輪・五軒屋敷>の予定しています。
03 ◆柳曲輪・五軒屋敷 
<・柳曲輪・中世の郡山城地・柳曲輪と郡山城追手・四人の家老・桜の門と目安箱・下馬札と下乗札・評定所>
012◇柳曲輪
 柳門をくぐれば、そこは三の丸の柳曲輪である(「郡山城絵図(い)」↓参照)。
絵図(い)
 柳曲輪の広小路を北へ約130m進むと、西方には二の丸への関門である鉄(くろがね)門の虎口が控えている。鉄門前の土橋左右に 分かたれた水堀は、柳曲輪よりやや高く位置している。鉄門の枡形に向かって左側が「蓮池堀」、右側が「五軒屋敷堀」である。柳曲輪か ら本丸までの一・二・三段(ひふみだん)を標高差わずかに17メートル(天守台上までは約24メートル差)を利用して縄張りされている。ち なんで、郡山城は「平山城」(平城とも)なのである。
 柳曲輪を機能的に分類すると、柳曲輪の南北両大手門である柳門と桜門とを結ぶ広小路(馬場)の部分と武家屋敷の部分とがある。武 家地部分の総面積は13,101坪(13,801坪とも)あった。なお、ここ五軒屋敷には重役の役宅が置かれていたが、時の家老職ばかりがこ こに屋敷を拝領していたわけではないので注意を要する。このことは別の項で述べる予定である。
 南の柳門側から順に屋敷の間口を紹介すると、南屋敷の43間(ただし柳門大番所の部分約10間を加えねばならない)、次が36間3 尺、中屋敷が42間、そして52間3尺とつづき、評定所は43間(桜門南袖櫓台まで)あった。屋敷の奥行きは100mから120メートルほど で、評定所奥でもっとも広く「塩町口黒門」のあるところで約170mはあった。
 屋敷の前は南北にのびる広小路で、「柳之御門櫓」から北へまっすぐに突き当たった「桜之御門櫓」までつづいている。広小路の幅は堀 端まで広いところで50メートル、狭くとも22メートルはあった。また、柳門内から桜門雁木までの距離は南北230間余とあり、郡山城は6 尺5寸縄を規矩としたので、その距離は約450メートルということになる。
 なお、柳曲輪と五軒屋敷の厳密な違いは、柳門から桜門に至る約450メートルの広小路を“柳曲輪”とし、藩の評定所ほか侍屋敷4軒の 部分を“五軒屋敷”と呼んでいたので念のため申し添えておく。ただし、“五軒屋敷前広小路”などと記されることもあった。
 二の丸の「鉄之御門」虎口に通じるここ三の丸の柳曲輪は、コの字形の“出丸”(梯郭型)を配した縄張りになっている。そして、その両脇 に柳門・桜門の両大手が虎口を開いている。ところが、郡山城全体の縄張りから見たとき、いかにもここはあとから付け足したような形態と なっている。諸城(会津若松城など)に似たような縄張りはあるものの、郡山城において柳曲輪が最初からプランニングされたものではない ことは『大和国郡山城古代絵形』(下図/注1.)などによって明らかである。

013◇中世の郡山城地
 中世郡山復元図 
 中世のここ郡山城地の形態は、上図の「中世郡山復元図」↑によってその概要をつかんでいただけると思う。『大和国郡山古代絵形』 (前出)に示された「昔堺街道」が、蓮池と鷺堀との間(トップページの絵図参照)を南北に貫いて鉄門あたりを通り、「陣甫曲輪」からまっす ぐに堀際を進んで北方の「堀之側」方向へと抜けていた。このことについて従来は、ここでいう「昔堺街道」のラインをこれより西方250mの 南門土橋のあたりに平行スライドしたかたちを比定して述べられて来た。それは古代絵形の「昔郡山ノ宮(郡山八幡宮)」を、伝承地「神之 木乃松」(『柳淇園先生一筆』)にあてて論拠としているからである。ところが一方、同絵形の「大師の井」(通称「弘法の井戸」とか「甘泉」 (しみず)という。)の位置関係に大きな矛盾を生じる結果となっている。現在、「大師の井」は城見町にあって大師堂が建てられているとこ ろにあるが、もとはこれより真南20mの道路の角(現、米本歯科医院の筋向かい)にあったものを、石造りで「修井碑」(明治32年(1899) 12月)の碑銘と撰文の刻された一面の井戸側のみを現在地に移されたものである。この井戸はすでに中世には存在したといわれている 郡山における古蹟である。なお、残された大師の井“獨鈷杵”の井戸桁三面は今でも原地の暗渠水路のなかにある。
 なお、「神之木乃松」については、柳澤権太夫(柳里恭)屋敷の“北園”とされているため、屋敷内を比定地にあてられているが、これは屋 敷より北北西300mのところにある郡山八幡神社御旅所(柳町字幾知山)の地を指しているもののように思われるが、この点についてはな お一考を要するところである。
 そのほか、「五本木松」の存在について伝承はされていないが、三の丸の急峻な土居は「古代絵形」に画かがかれている山とぴったりと おさまりがついて自然である。また、「五本木松」は『細川両家記』などにあらわれる地名であることから、街道筋の目印として遠目にも見 える所にあったに違いないし、「筒井道」ならびに「堺海道」の分岐という点でもふさわしい位置にあるといわなければならない。
 以上は1984年、東京大学稲垣栄三教室が発表された論文(注2.)を参考にさせていただいた。論文は、郡山における城下町の変遷や 郡山城史研究に一石を投じたすばらしい業績である。
 なお、中世郡山の地侍として郡山に割拠した名のある者は、小田切春次、辰巳之助春政や向井十郎などのほか、東・戌亥・中(下総守 助弘)・辰巳・野興(薬園)などであるが、多くはここに示した「中世郡山復原図」のなかに散在する郡山村、薬園村の近くに館を構えていた と考察できる。なかでも、東・戌亥・中・辰巳などは、その館の所在した方位や位置関係をあらわすところからの名称である。すなわち、近 世郡山城の麒麟曲輪付近には中・戌亥、三の丸(五左衛門坂)に辰巳、柳曲輪(割場)に東といった具合である。こうした地侍の集団を称 して時代により薬園衆、郡山衆などと呼ばれていた。

014◇柳曲輪と郡山城追手
 柳曲輪(柳澤家藩政期の名称)は郡山城三の丸の一つの曲輪で、豊臣秀長時代には重臣屋敷があったとされているところであるが、元 和5年(1619)に松平忠明が郡山城主となり、ここに重臣屋敷を五軒置いたことから、以後、通称“五軒屋敷”と呼ばれ、その地割りもほぼ 幕末まで踏襲された曲輪である。
 この曲輪は天正8年(1580)11月、筒井城(大和郡山市)からここ郡山に入城した大和守護の筒井順慶が工を起こして縄張りをしたと き、はじめて曲輪としてかたちづくられた(筆者考察/後出)。それまでは、北側の「割場」(後述/評定所の東奥)の位置には、中世にお いて“薬園殿”の館跡であったところを、松平忠明の家老山田半右衛門が屋敷地として与えられたし、また、柳曲輪の北端に隣接する柳蔵 (三の丸/柳澤家藩政期の名称)の位置(現在のNTT)には、その昔、豊臣秀長の家臣福地三河守が屋敷地として与えられた跡である。 そしてのち、元和元年(1615)、郡山城主水野勝成のとき、勝成が公儀普請の進捗を待って仮宿所とした洞泉寺から、ここ福地三河守屋 敷跡に仮住居を建てて入り、柳曲輪の一隅(中屋敷)に嫡子勝俊を入れた。そして、勝成がおこなうべき作事を、伏見城から一部の建物を 用材として拝領し(“第一次伏見城遺材の拝領”/筆者自称)その指揮を執った。勝成が、それまで城下の洞泉寺に仮住まいしていたの は、長年にわたる番城(廃城ではない)によって荒廃した城郭を、公儀直轄による拓修(天下普請)がおこなわれていたからで、その公儀 普請場とされたのが柳曲輪の鉄門下一帯の広場であると考えられる。この時期は「元和偃武」のいまだ不安定な時期であって、このころ 畿内各城に備えられた城附き御用米(兵糧米)の郡山城分は20,000石(3間梁に100間の土蔵)であり、後世元禄に定められた4,00 0石のころとはやはり状況も違い、半ば臨戦態勢のなかで大和郡山城は近世における拠点として公儀挙げての普請が急がれていたため である。これより約30年後の『正保の大和郡山城絵図』(注3.)によれば「柳蔵」と「割場」(後述)を含む柳曲輪(五軒屋敷)、そのほか、三 の丸五左衛門坂や麒麟曲輪は侍屋敷地「侍町」にあてられている。
 それでは五軒屋敷・柳曲輪ができる以前の郡山城追手の位置はどこにあったのだろうか。ここに「大手口本町の西垣手北向きの所に広 小路あり、大手制札東向きに建つ」と記された文献(注4.)がある。「大手口は、本町の真西方の城壁(垣手、あるいは鍵の手)にあって、 北向きのところに広小路(追手前広場)があり、大手の制札が東向きに建っているところ」ということになろうか。これだけではなんとも言い 難いが、これを城址にあてはめてピッタリとするのは、本町と堺町がT型に交わる近辺である。はたまた、柳澤時代の常盤曲輪への関門で ある梅林門前の広小路の位置とも方位としては一致するものの、これは城下町の成立過程を傍証とすれば、はるかに前者が勝っている。 このことは後者(注5./以下「安政の絵図」という)に「大手」の書き込みが認められて彷彿させるためであるが、これは本丸の大手(追手) ということであって城郭の大手ということとは意味合いが違う。ちなみに梅林門は、本多(第二次)時代には追手門と称していたのである。
 なお、このあたりのことは、“城下町の形成過程について一考察”とでも題して、後日改めて「城下町百話」のなかで述べる予定である。 01◆概説 城下町郡山(上) <郡山城下町形成の過程について一考察>参照)
 追記 柳澤藩政時代には、大織冠・小川丁馬場とともに、ここ柳曲輪は「三馬場」と呼ばれて、馬術や砲術の訓練の場ともなった曲輪で あった。

015◇四人の家老職
 一般的に藩主が交代すればその執政たる老職も代わるのが普通である。江戸城内(柳営)で執りおこなわれる典礼のなかでも、藩にと って最も重要なのは、家督を「相許す」の将軍目見であり、前藩主の隠居名代をともない、家督(藩主の急逝による跡式相続もある)御礼に 柳営内へ出仕したが、このときに新藩主の執政を務める老職たちも公儀奏者番から順次名前の披露がなされることを例とした。郡山藩柳 澤家の場合は4人である。
 近世中期以後、統制機構の弛緩や財政の疲弊を立て直すためおこなわれた“藩政の改革”のために藩主のブレーンとして代々宿老家に 限らず、譜代の名家のなかから多く登用されたのである。なお、柳澤家藩政時代の宿老家には家格大身の柳澤(曾禰氏)権太夫や松平 但見、柳澤(藪田氏)五郎右衛門、柳澤(平岡氏)宇右衛門などがあった。
 『近世畸人伝』(寛政2年(1790)刊)で有名な文人柳里恭(1704-58)は柳澤家の家臣曾禰氏である。初めは貞貴、名乗りは権之助・帯 刀(たてわき)・九左衛門・図書・下野・権太夫(ごんのたいふ)と変え、享保12年(1727)、藩主柳澤吉里(1687-1745)に偏諱を受け里恭 と改名、同15年、“柳澤”の称号を賜ったのである。字は公美、号は淇園などと称した。

○ 家老など上級の武家屋敷の構造についても少し触れておく。柳曲輪(五軒屋敷)や左京堀・鰻堀などの中堀を取り巻く外周のことを「堀 之側」と称したが、このあたりには上級の武家屋敷が配置され、旧藩政の時代郡山においては一つのステータスでもあった。
 表門は、本瓦ないし桟瓦葺きの“長屋門”で“冠木”に数本の“桟梁”で門の小屋部分を支えている。門は中央に“大戸“、左側に“潜り 戸”が付く、その他“肘金”(ヒンジ)に“八双・饅頭金物など門を破壊から護るための一般的な武家門の意匠を凝らしていた。格式により門 左または両側に出格子の中窓が設えられ、長屋の要所には物見・採光を兼ねた“突き揚げ板戸付き”になる“角柄窓ねじ子格子”の堅牢 な窓が配置され、その下に腰高の“南京下見板”を張って防水・防腐のための“黒渋塗り”が施されていた。俗に“黒門”といわれるのはこ のためである。また、その上部の白漆喰の大壁とのストライプは独特の建築美を見せていた。
 門につづく長屋は、主人の分限に基づいて、番所・馬屋・用達中間部屋として適宜使用され、このことは、玄関・中門・式台などの拵えに も反映されている。表の主家は大床を備えた“玄関の間”、隣室には“使者の間”があった。玄関からつづく入側廊下を回り込んで“溜りの 間”、そして、表の主室である“書院”まわりの部屋のほか、“表台所“、“若党部屋”などが中庭に面している。ここからは奥回りの各部屋 がつづき、瀟洒な“小書院”、“小座敷”が中奥、そして、奥の“茶の間”へとつながっている。“奥居間”周辺には家族の生活空間である各 部屋があり、また、奥建物の両側には築山泉水庭園が築かれ、茶室のほか湯殿・仏間・土蔵・炭小屋など小建物が備わっていた。なお、 これら建物群の屋根は時代によって相違はあるものの草葺が中心で、防火上必要のあった建物のみ瓦葺とするのが江戸期の通例であ る。また、建物を取り囲むようにして塀が設けられたが、囲い塀の奥は菜園・薬園があって、ある程度自給自足ができるようになっていた し、当時の武士は、薬種にも通じたため薬草も栽培した。現に二代藩主柳澤伊信は家臣や奉公人にしばしば調薬して与えていたし、ま た、各家臣家には“家伝の妙薬”なるものも多く存在したのである。
 さて、これら上級の旧武家屋敷長屋門は、今は一棟も存在しないと思われているが、実は毘沙門曲輪跡の柳澤文庫構内にその一部が 移築されて現在も遺存している。それには次のような事由があった。明治20年(1887)7月、旧藩主柳澤家は、当時、堀之側(現、植槻町) にあった旧家臣の屋敷に手を加えて郡山別邸として転用されていた。その後、別邸内に設立された「柳澤養魚場」(金魚研究所)の一部機 能を毘沙門曲輪へ移すことになり、別邸には表門長屋の右側の表門部分をそのまま残し、毘沙門曲輪跡へは表門長屋の左過半と、養魚 池の中心にあった亭(ちん)一棟を移されているのである。移築は昭和6年(1931)頃とみられている。
 現在、柳澤文庫の構内にある長屋は、一時住宅として使用されていたため、外壁部は後補の材料となり、ことに屋根(元桟瓦葺)は葺き 替えられたため見かけは旧観を大きく損なっているものの、葺き替えられる以前まであった鬼瓦には“文久三年”のヘラ書きがあったし、ま た、現に左格子窓(もとは左右一対)や、母屋の狐格子・破風に懸魚が付くほか、注視すれば、角柄窓格子の“ねじ子”をはめた“ほぞ穴”な どが認められる。本体構造は桁行4間半・梁間2間で、6畳二間に押入れが付く、もと門番が詰めた番所部分の建物で、土間からの“上が り框”の前には、沓脱石まで残っている。今や旧藩政時代の長屋門を偲ぶ現存唯一の建物であり、五軒屋敷の中屋敷(薮田家)にあった長 屋門の保存遺材とともに、いずれ保存・復元に手を入れられることを願うのみである。

016◇桜の門と目安箱
桜門跡

 さて、南の柳門とは反対側の柳曲輪北端に位置する桜門虎口は、やはり城外側から右折れ形式の枡形で、前面の左京堀に設けられた 水戸違い(水位の差を調節する堰)を兼ねた土橋から城内方向に進む格好になっていた。桜門櫓は左右の櫓台上に渡り櫓を乗せた門櫓 形式(写真↑/手前側が枡形の跡)で、間口10間に奥行3間、出格子2か所(北・南面)、鉄砲狭間4、窓1か所(西面)となっていた。それ に枡形内東南のL形に積み上げられた石垣上には、20間余の狭間塀が建ち、その間に矢狭間5、鉄砲狭間10が設えられていた。ここ は、旧状とは大きく違い、今残されている南櫓台は、修補の痕跡か積みなおされた形跡を残しているし、北櫓台はもとの石垣を東へ積み 替えたものである。わけても北側の櫓門台は、近鉄線路の西側まで切れ目なくつづいて一つの石垣を構成していたもので、大正7年 (1918)の「大軌(現在の近鉄)」敷設工事によって石積みは崩されて切り通されている。積み石のうち伽藍石(転用材)は市内の粋人の庭に ある泉水の役石として運ばれ、今も遺されているという。他の石材は土砂とともに左京堀に入れられて道床の基礎とされたと思われる。こ れによって城内側にあった桜門雁木も、今は雁木坂の石段は跡形もなく一部(線路の西側。)に土壇を残しているのみである。桜門目付 (ただし枡形内の「箱番所」などはなかった。また)は桜門櫓を入った堀際にあり、間口6間半に奥行き2間に庇がつく、門扉の開閉などは 柳門と同様である。この桜門も柳門と同様に元和5年(1619)、伏見城から郡山城に移された城門6基のうちの1基である(後述)。また、 桜門の土橋前には「目安箱」が置かれていた。八代将軍の発意でおこなわれはじめた江戸城の目安箱制度にならって郡山城でも、ここと 南門・西門の三か所に目安箱を置いて庶民の訴えを広聴したが、明治2年(1869)には廃止されてここ南門のみとなった。目安箱の置か れた桜門虎口の向かい側の屋敷群は宿老松平但見邸などがあった「堀之側」の侍丁である。
 桜門の南櫓門台にはもと枡形を形成したみごとな石積みの壁が一段低くL型に付随していたが、昭和40年代に市の手によって取り壊さ れて(当時のことで今ならそうはいくまいが。)今は無い。また、この付近一帯には(現「やまとこおりやま城ホール」と道路の向かい。)旧制 の高等女学校や新制の中学校などが長く設置されていたところでもある。高等女学校時代、桜門の南櫓門台うえには忠魂碑が建てられ ていたが、戦後石垣下に下ろされ桜門枡形の北側へ埋められたという。櫓台のうえには碑の建っていた土台の石(セメント等)が今も残さ れている。碑文の揮毫は、のち薬師寺住職となる橋本凝胤師(1897-1978)である。また、桜門櫓の北の台の石積みのなかに「弁慶の足 形」(コラム【目安箱】10◇源九郎狐と弁慶の足形 参照)といわれる石が積み込まれている。
 いかにもあのつわもの武蔵坊弁慶が踏みつけたような豪快な足跡石である。もと古寺院か何かの雨だれ石か安山岩と思われるが、みご とな足形にいずれかの御仁の名づけであろうが、市内洞泉寺町に祀られている源九郎稲荷神社の源九郎狐(義経)と英雄主従そろってこ の町に伝説があるのもゆえなしとしないし、また男のロマンでもある。

017◇下馬札と下乗札
 下馬札は、それより先城内への乗馬を禁じるための制札の一種であるが、これがなかなかに故実があって難しい。城郭や寺社などの 別、表門と裏門の別、また、ことにうるさいのが各々の字体、その様式、材質、札や札柱などの寸法・割合などにも事細かく規定があって 切りがないほどである。その典型は、「下馬札のことを“二字札”と唱え、決して下馬札(げばふだ)などとはいわぬものなり。」と小笠原流 (他流でも)故実では強く戒めている。
 郡山城にも下馬札ならぬ二字札はあった。柳・桜の両門にはそれぞれ枡形の内外に1か所ずつ、それに南門土橋の外東側と西門土橋 の外北側の都合4門、6本の二字札が建てられてあった(注6.)。なお、松平甲斐守(柳澤吉里)が享保9年(1724)3月の国替えに際し て、府中(甲府)城の二字札を拝領して、ここ郡山城に移したというエピソードが残されている。
 一方、下乗札の方はここ五軒屋敷前(厳密に言って)の柳曲輪から「鉄御門」に向かう土手(現在の近鉄軌道敷内)に東面して建てられ ていた。下乗は駕籠から下りて、それより先は徒歩でなくてはならない旨の制札である。といっても便法もある。家老など特定の高齢者に は、伺いのうえ特別の許可が与えられて二の丸屋形前まで駕籠で出仕した例がある。それでもここ鉄門(下乗)は通れず、搦手側の西門 か、南門から迂回して登城したのである。なお、念のため藩主の乗物(大名駕籠の呼称。駕籠(かご)とはいわない)はその例外であること はいうまでもない。
 ここ下乗前は藩主が江戸参府で発駕するとき、鉄門内の陣甫曲輪で供揃えがおこなわれ隊伍を整えてやがてここを通るとき、家中の 人々が見立てして別れを惜しんだところでもある。また、弓術の通し矢や、幕末には大筒を持ち出して発射法の予行の訓練もおこなわれた りもした。なお古例により、郡山八幡宮(神社)をはじめ、薬園八幡宮(神社)、植槻八幡宮(神社)や新木村(町)の牛頭天王の各祭礼に は、神輿がここ柳曲輪を通行することを常とした。
 
018◇評定所
 時代(各城主)によって城内の各所の名称は変化する。いや、藩政に混乱を来たさないよう改称するのである。蛇足をいえば、藩政時代 の永い歴史のなかで遺された史料のうちから、研究者の目に触れる数少ない文献に出てくる呼称や“唱え”は、「被仰出之」とか「為被御 定」などのかたちで書き表されることが多いが、規定のうえでは評定所とも言い、会所ともいう、などということはありえないことである。それ にしても、とかく“わからぬことの多かりき”とは先学の口癖であった。
 享保9年(1724)の柳澤氏入封に際して、ここ評定所も、本多(第2次)時代には「会所」と、隣に「普請小屋」と別々に唱えていた(貞享の 家中図)のを、一つにして「御用御屋敷」とし、そしてのち「会所」などを包括して「評定所」と改名された。少ない史料のなかで、評定所の 東側の通用門「塩町口黒門」内にあった付近の広場を「割場」とするものもがある(注7.以下、本稿において「天和の絵図」という)。割場の 名称は、“木割の場”から来ている。つまり、普請方の割場を指しているのである。なお、小普請には別に普請小屋があった。
 塩町口黒門土橋から北方へ、そして西方へとつづく堀を「左京堀」という。本多政勝(第一次本多)の家臣石川左京の屋敷がこの割場一 帯にあって、塩町口黒門がその表門であったという。なお、この左京堀内の角地は中世における“薬園殿”の館跡でもある。のち昭和の初 めのころか、郡山高等女学校時代の校庭拡張により桜門外の左京堀は埋め立てられた。その結果東側に残された左京堀の東北角の部 分を「奈良堀」と記載した地図があるが、この埋め立て以後に用いられた名称で、さらに、ここも近年埋め立てられた。
 評定所は、藩政の最高裁判所で、重要な裁判や評議をおこなった機関で、御用部屋とあいまって藩政の中枢を成した。今日のような行 政と司法の区分はなく、行政官吏が司法権をも行使した。評議には式日と内寄合とがあり、前者は月の7日・19日・26日で、後者は3日・ 13日・23日と定められていた。評定列座にも定めがあり、月番の家老・月番の年寄・寺社奉行・大目附・郡代・町奉行・目付・勘定奉行の 錚々たるメンバーであった。これに下役がつくと相当な人員となるのである。ただ、19日の列座だけは、寺社奉行・大目附・郡代または町 奉行でおこなわれ、これを“三役”と称した。家中・在方(領分村々)・町方それぞれの民事・刑事に関することを掌理した。なお、公儀に係 る問題はその管轄の京の東町または西町・大坂・南都の各奉行所に提訴することになる。俗に言う“支配違い”である。評定所内には、年 寄詰所、列座之間、纏之間、白州、揚屋(牢舎)、塩町口(評定)建札などなど評定所としての結構が整えられていたが、藩主もここには出 御して公務を裁いた。
 これだけが評定所の役割ではない。前述した会所・勘定方・御金方・普請方・火消方など多岐にわたる機能も兼ね備えていたのわけで ある。なお、柳澤家の享保入部のころは評定所内に「金蔵」があった。評定所は郡代支配で勘定奉行や金奉行の職場でもあったから、ここ に御金蔵があっても不思議ではない。金蔵は後年、二の丸屋形下の大腰掛内に移されることになる。また、郡代を通して大和、近江、(伊 勢)、河内の各領分に大庄屋・庄屋・帯刀人など在方の村役が年貢上納など事あるごとにここに集められた。また、町方の支配はいずれも 小川町・茶園場にあった南・北両町奉行(役宅)の管轄で町年寄などを通じてこれを治めたのである。とかく評定所は多忙を極めたのでそ の資料も筆紙に尽くしがたいほど諸事多岐におよぶため、ここでは評定の基準を述べた事柄「評席新訴取上間敷願」(注8.)を紹介するの みにとどめたい。
 ○評席新訴取上間敷願 
  一、其身一判(私事)之願、一村役人・大庄屋奥印無之願 
  一、其支配方へ可相願儀を直訴
  一、其支配ニ而取上ヶ不申聴は次第(に)寄り取上ゲ
  一、村役人等相手取候願は村役人奥印無之共取上ゲ

(注1.『大和国郡山古代絵形』(明治10年写し)/個人蔵/複写図柳澤文庫蔵。注2.『大和郡山城下町における住宅形勢の解析』<東京 大学工学部建築学科 稲垣教室/1984.2>新住宅普及会 住宅建築研究所/研究No.7902。注3.公文書館蔵。注4.『石造物郡山城趾 転用材調査概要』/南村俊一(「和州郡山城主御代記」)。注5.『和州郡山藩家中図 安政年間』柳澤文庫蔵。注7.『和州郡山城図』公文 書館蔵。注6.8.『豊田家文書』大和郡山市教育委員会蔵本。参考)    

★次回は<04◆ 三の丸・五左衛門坂【その1】 >の予定しています。 
04 ◆三の丸・五左衛門坂【その1】 
  <郡山城の縄張 三の丸の地形 民話や伝承にあらわれる五左衛門坂>
019◇郡山城の縄張
 三の丸は、城郭の第三の曲輪を指していう名称である。言うまでもなく第一の曲輪が本丸、第二の曲輪が二の丸であり、「曲輪」(くる わ))は「郭」とか「丸」と書きあらわされることが多い。本丸を中心とする城郭の縄張りのうえでもっとも“丸”が自然な形であることや、矩形 より丸形の方が守城の人数や曲輪内の移動に有利なことからの解釈であるという。とはいっても、四の丸・五の丸というのはまず無い。
 柳澤家が本多家(第二次)断絶の跡、享保9年(1924)の入封の年、10月1日に定められた城内の唱称は次のとおりである。まず、本丸 の範疇に入るのは、「天守曲輪」と「本丸二の曲輪毘沙門曲輪・常盤曲輪・玄武曲輪」の四曲輪である。さらに二の丸は、二の丸(屋形)・ 菊畑・大腰掛・緑曲輪・厩曲輪・松倉(「蔵」とも。)・麒麟曲輪・薪曲輪・陣甫曲輪の諸郭をいう。そして、三の丸は、柳曲輪(五軒屋敷)・柳 蔵とあり、ここまでの総郭坪数は、堀や土居・石垣・道などもあわせて76,158坪半(約251,700u)ということになっている。ただし、本 稿において筆者がこだわりをもって三の丸(五左衛門坂)と称しているは、太平の世が長くつづいたためか次第に城郭の縄張りである三の 丸としての意義は薄れて行ったようで、史料でもここを城内(郭内)扱いにしていないので面積の記載が無い。つまるところ、城郭の定義と しては縄張りのうえで重要な拠点であり堀などの構築物がたとえあったとしても、曲輪に虎口をもたないということに尽きるのだろう。
百話004用トップマップ
 ということで、更新したのが上の図(「郡山城縄張図」↑)である。鷺池堀と蓮池堀からつづく「御土居」との境界である「竹矢来」の内側を 除いて三の丸五左衛門坂は、水平投影面積で6,816坪(約22,500u)という数字が出た。山三倍(縄伸び)の傾斜地なのでもう少しはあ ったかも知れない。
 なお、近世初頭の郭名であった本丸・二の丸・三の丸は、のち本丸(本城/天守曲輪)・本丸二之郭・二の丸・三の丸(三郭/三曲輪)とな り、その位置も変化している。それに加えて通称名(雅名など)が各藩主の恣意によって名づけられたから、これが後世において混乱を来 す要因になっている。改めて柳澤藩政期の名称を整理しておくと次のようになる。
 ○本  丸= (本城)天守曲輪 ・本丸二之曲輪毘沙門曲輪 ・常盤曲輪 ・(附)玄武曲輪(焔硝蔵) 
 ○二の丸= 二の丸屋形 ・陣甫曲輪 ・菊畑 ・大腰掛 ・松蔵(米蔵) ・緑曲輪 ・厩(曲輪) ・麒麟曲輪 ・薪曲輪
 ○三の丸= 柳曲輪(五軒屋敷) ・柳蔵(御用米蔵) 
 ○(郭外)= 三の丸・五左衛門坂
 附記 近世初頭の正保の絵図による区分は、二の丸の位置が上記の毘沙門曲輪で、居館(本多政勝)の位置はすでに二の丸屋形のと ころにある。また、麒麟曲輪・柳曲輪・柳蔵・五左衛門坂は侍町(侍屋敷)となっているから、当時は、三の丸に属していたことがわかる。

020◇三の丸の地形
 東方からはるかに郡山城を観て、そう高くない平山城であるうえに天守閣の無かった江戸期において、「それはまるで犬が伏せたような 格好」と言わしめた郡山城の渾名「犬伏城」も、城跡の全容のなかでも、ここ三の丸(五左衛門坂)の地形に因るところが大きい。南東方向 に崖状を呈した丘陵の突端に位置する三の丸の地形は、東方の大手枡形あたりと14m余り、南の矢田筋からでも8mから12mほどの標 高差があり、位置が近鉄駅前ということもあって、建物が建て込んでいるのでそれと判り難いが、ここはやはり天然の要害(出丸)であると 気づかされる。関連する話しとして郡山城には今1つの渾名がある。それは「千亀利城」である。名称の出所は、有名な荻生徂徠(1666- 1728)の軍学書『ツ録』(けんろく/享保12年序)にいう四つの縄張法のうち“蟄亀利縄”に由来しているとみてよいだろう。
 先に記した東京大学工学部建築学科の稲垣教室が1984年に発表された論文(003柳曲輪(五軒屋敷)参照)による中世郡山『大和国 郡山古代絵形』の復原のなかで「兵三郎・孫七・アホ次郎三郎」が割拠した現状比定地としてここ三の丸五左衛門坂を指摘されていること はすぐれた見識である。なお、近年の発掘調査で蔵跡か櫓跡とおぼしき遺構が三の丸の頂上部近く(現在マンションが建っている。)で検 出され、天正8年(1580)築城の筒井順慶時代のものではないかといわれている。
 三の丸の中央には東西に山なりの道路がついていて、西方へはなだらかな坂を右折して、さらに左折して鷺堀端を梅屋敷に沿って南門 方向へと進むことができ、反対に東側の急峻な坂道は「五左衛門坂」と言い、その昔は「猫坂」とも呼ばれていた。現在、この坂の頂上部 に「奈良総合病院」が建っているが、もとこの坂のうえに病院の表門があったのだが、急坂であるために病院へのアクセスとしていかがな ものかと考慮された結果、改築時には新しく南側の近鉄郡山駅西口近くに入り口を造られたほどであるが、なんのその五左衛門坂(写真 ↓)は近鉄電車が通つて坂が途中で無くなるまでは、柳蔵(現在のNTT。)横から一気に登っていたのだから城下切っての急坂であった。
惣稽古所
 現在のように中高層の建築物などはまつたくみられない時代のこと、ここ三の丸の丘は城下町のどこからもよく見えた。享保9年 (1724)、甲斐府中から入部した柳澤吉里(1687-1745)は、新藩主としていち早く五左衛門坂の突端に藩校「惣(総)稽古所」を設け、藩 内外に向けて文教への意気込みを示したところでもある。(後出)
 三の丸は東・南・西の三方に弓なりの土居(崖地)とその外側に堀をめぐらせていた。堀と言っても江戸時代初期の正保の絵図でも水量 は少なく、低地に水がたまったような半分以上は空堀状態で、その堀幅も広いところで10m程度である。
 また、前回に述べた大師の井(弘法井戸)はこの堀の堤にあった。真言宗の広がりとともに高野山を開いた弘法大師空海(774-835)に まつわる伝説はここ奈良県には山ほどもある。大河を持たない大和地方にあってわけて米作の水源にも事欠いた土地柄だけに、「弘法の 井戸」伝説は各所にあって、ここも大師が錫杖で地を突いて出したと伝える清水である。ちなんで、柳澤家の家老柳澤権太夫(曾禰氏)の 里恭こと柳里恭(1704-58)は絵をたしなんで有名であるが、この清水を用いたと伝え、また、三代藩主柳澤堯山(保光/1753-1817)は 石州流の茶道をたしなんでここの清水を好んで用いたといわれている。 

021◇民話・伝承にあらわれる五左衛門坂
 三の丸の五左衛門坂には二つの民話・伝承がある。
○五左衛門坊狸(高坊主)
 『勝地漫画大和めぐり(勝地漫画第五巻』(奈良県観光聯合会/昭和11年(1936)4月発行)に出てくる話しを紹介しておく。
「昔郡山町で、狸が高坊主になって人を悩ました。或夜、一人の武士の前に高坊主が現れた、武士は少しも驚かない、高坊主は少々いら だって是でもかと大きくなった、武士は猶驚かない、『是でもか。是でもか』とふくれて行くうち、狸は腹がハジケて死んでしまったとい云ふ」 これが「五左衛門坊狸自腹を切るの図」とともに記され、かたわらに高下駄を履いた屈強の二本差しが笑っている図が滑稽である。なおま た、川柳に曰く「だます気でウカと自腹を切っちまひ」とある。
 五左衛門というのは実は人名で、大坂夏の陣で武功をたてて、寛永16年(1639)3月、郡山城に入った“鬼内記”こと本多(第一次)政勝 の時代、本多家重臣で1,500石取りの大橋五左衛門(図書)という人があり(注1.)、ここ三の丸に屋敷を与えられたことから、のち地名と なったといわれている。

○猫股の怪(あやし)
 五左衛門坂の異称に「猫坂」がある。昔ここに「猫股(又)」という化け物の怪(怪事)があり、人々に災いをもたらしたという伝承がある(注 2.)。猫又は兼好法師の『徒然草』(八九段)に著されている。「奥山に猫又といふものありて、人をくらふなる」と人が言ったのを、山でなく て、ここらあたりにも猫が年を老いて正体が変わり「猫又」となって人を取り殺すことがあるという(後略)・・・という話しである。老猫で尾が 二つに分かれ、化けて人々に災いをもたらすという想像上の化け物なのである。なぜ、このような伝承がここにあるのだろうか。そういえば 外堀の溜池にも「猫塚」の話しが残されているが、つながりなど一切は判らない。

(注1.注2.)大和郡山市文化財審議会編/大和郡山市『ふるさと大和郡山歴史事典』/1989年/原典『郡山町日記』天理図書館蔵)
★次回は<05 ◆三の丸・五左衛門坂【その2】の予定しています。
05 ◆三の丸・五左衛門坂【その2】
 <・大名柳澤家・柳澤家の家学・江戸の文武教場・藩校惣稽古所の沿革・藩校の教育・鞍背坂(法光寺坂)への新道の成立・鷺 堀堤新道の成立と廃止>
   022◇大名柳澤家
 ここで紹介する藩校は柳澤時代の『惣稽古所』を対象としているので、藩主家の学問(家学)に関してまず述べて、その淵源を求めてお かなければならない。
○名門柳澤家
 柳澤氏は清和源氏義光流で、中世、甲斐の守護であった一条時信(-1321)の子孫にあたり、甲斐国巨摩郡(山梨県韮崎市)柳澤村に 住みついて柳澤氏を称したことにはじまるとされているが、さらにその発祥をさかのぼる説もある。後世、一条氏にかわって同族の武田氏 が甲斐に勢力を張り、柳澤氏もほかの武川衆とともに武田信玄(1521-73)に仕え、上野国膳ノ城において武田勝頼(1546-82)軍に属し た柳澤信兼が逸って軍令に背き、このとき絶家(『寛政重修諸家譜』)となったが、この戦いに武功をあげた青木長俊(1548-1614)は、勝 頼から忠賞として名族「柳澤」の一跡を与えられ、柳澤家を継ぐことになった。そして、名を兵部丞信俊と改めた。これが柳澤吉保の祖父で ある。信俊の父は、「武川衆十二騎」に数えられ勇猛で聞こえた青木與兵衛信立(-1590)で、信俊はその三男である。
 近世の柳澤家はほかの甲斐武川衆とともに徳川家に勤仕して、吉保の父柳澤安忠(1602-87)のとき、徳川秀忠(1579-1632)、徳川忠 長(1606-33)、そして、やがては五代将軍綱吉となる徳川徳松(1646-1709)の家臣(館林藩)となった。慶安元年(1648)9月のことであ る。寛文4年(1664)12月、吉保7歳のとき「神田御殿」において綱吉に初めてお目見えしている。
 のち延宝3年(1675)7月、父安忠の隠居に際して吉保は18歳で家禄530石の家を継いだ。決して大身とはいえない家に生まれた吉保 は、「積善家余慶」(『易経』)を信条とした実直な父に育まれた。吉保は、「小善といふとも、なさずといふ事なかれ、小悪といふとも、おか す事なかれ」(注1.)ということを常に父安忠から訓じられていた。
 そして、徳川一族の一大名であった館林(群馬県)公、徳川綱吉は延宝8年(1680)8月に、将軍宣下あって徳川第五代の将軍となっ た。天和元年(1615)、吉保は将軍綱吉の学問の弟子となり、翌年、“主忠信”(『論語』学而第一ほか)と和歌の書き物を拝領した吉保 は、これを主(もっぱら)として精励恪勤し、側近にあつて“真忠の勤”を生涯注ぎつづけて綱吉政権を支えた。元禄元年(1688)の加増で諸 侯に列せられて、吉保はここに大名柳澤家の創業となったが、元禄14年11月、ついには「向後、親族と思召せとの仰せ事」(注2.)により 吉保・吉里父子に「松平」の称号と偏諱(「吉」の一字)を許されることになる。
 やがて将軍の後継に徳川綱豊(家宣/1662-1712)が決定、これに腐心・奔走した吉保に対し綱吉は、宝永元年(1704)12月、その本 貫(本籍地)甲斐府中(山梨県甲府)151,200石に封じ、後継決定の褒賞とともに永年の忠勤に応えたのである。

○ところで、吉保にまつわる俗書の類には、綱吉将軍の側近として政事において専制することが多かったかのような評が随分むかしから なされている。これらの淵源となったのが、五代綱吉(憲王)・六代家宣(文王)・七代家継(章王)までの三代にわたる徳川将軍家の歴史 を綴った『三王外記』(成立年不詳)である。著者として「東武野史訊洋子」と署名するこの人物は、儒学者太宰春台(1680-1747)とする説 もあるようであるが、もちろん、その内容は信用に値するものではない。
 こうした歴史書をもととした『護国女太平記』や『日光邯鄲夢之枕』(にっこうかんたんゆめのまくら)、『文武太平夢説』、『元宝荘子』など 柳澤吉保にまつわる俗書の類は少なくはない。これらは当時の大衆娯楽小説として歌舞伎劇や講談話芸にまでおよび、戯作者の生活を 潤し大衆を満足させたのであろう。江戸時代における町人文化の盛時がもたらした元禄期の文化興隆の所産ということのほかに今ひとつ の要因として、後代において(吉保致仕後の早い時期から。)時の権力におもねる官僚や学者、また、それまで館林の一大名の陪臣が国 政の執政となった立場は、徳川創業を支えたつづけてきた諸家との軋轢がそこにあったように思う。それに維新後の文筆家にまでもその 時々都合よく歪曲評論された虚説であったという側面をもっている。
 永い時をかけて塗り重ねられてきた“虚説の壁”は厚くて硬い。これらの虚説を実像であるかのように、21世紀の今日に至ってもなおマ スメディアをとおしてこうした妄説を小説化した本を基とした発信が無造作に繰り返されている実態を視聴するにつけ、当時から、吉保を正 当に評した『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき/注3.)のような史料や、吉保の“真忠の勤”がどれほどのものであったかを物語ってくれる 「楽只堂年録」をはじめとする実録・実紀類などの真意を知らずして、吉保公の実像をむなしくされることをほんとうに遺憾だし残念に思う。
 少なくとも私たちは大和郡山市民の一人として、正しい歴史認識を持つことと、こうした時代を生きる術としてますますメディア・リテラシー を研かなければならないと思うのである。

023◇柳澤家の家学
 さて、ここで述べたように、吉保は綱吉学校(綱吉御成御殿)の優等生であったから学問に傾倒した。そのため柳澤家中には学者や有識 者が多く抱えられていたことは言うまでもない。なかでも儒学者で書家の細井広沢(知慎/1658-1735)、儒学者荻生徂徠(茂卿/1666- 1728)、徂徠の門人で文人学者の服部南郭(元喬/1683-1759)、漢学者の鞍岡蘇山(元昌/1678-1750)、北村季吟(1624-1705)門 のなかでも優れた儒学者として知られる藩儒谷口元淡(新助/1676-1742)など、彼らはことに著名な人物である。また、徂徠に「日本に は過ぎたる大豪傑」と称美された儒学者伊藤仁斎(維驕^1627-1705)に師事した柳澤家中の柏木素龍(全故)は、北村季吟の門人松尾 芭蕉(1644-94)にこわれてあの俳諧紀行『奥の細道』を清書、これを底本とした版本(素龍跋)が元禄15年(1720)に上梓されたことはよ く知られている。さらに、ここで紹介した和学者で歌人・俳人としても知られた北村季吟とは学問上柳澤家と強い縁がある。季吟は綱吉時 代の公儀歌学方を務めた人物でもあったが、元禄5年(1692)3月、将軍綱吉に『古今伝授』の切紙を献上し、同13(1700)年9月には吉 保に古今伝授の秘訣を伝授している。古今伝授は江戸初期から地下(じげ・大名)の間にも広がりをみせ、古典歌学のシンボル的な存在 となっていたわけである。また吉保は、このころ和歌詠草を霊元上皇(1654-1732)の叡覧に備えることたびたびであったが、元禄16年6 月、ついには「名所和歌百首の和歌詠草」が百首のうち「点26、うち長点2」との宸筆を賜っている。このことは古今伝授とともに柳澤家の ステータスとなり、その家学の淵源となるに至ったのである。 
 ところで、三代(吉保からは四代目)郡山藩主柳澤保光(堯山)は和歌にはことに傾倒して、日野資枝(1737-1801)、冷泉為泰(1737- 1816)に師事し、“宮廷の雅”とされた堂上(公家)和歌への憧れと、「古今伝授」を受け継ぐ家学として、復古歌学の研究に力を入れた。そ のころ諸侯のなかでも有名歌人となり、伊達重村(1742-96)など多くの邸で催される歌会を主宰しいる。ことに保光の和歌は日光輪王寺 門跡(隋宜楽院宮准后公遵法親王/1722-88)に好まれ、ほどなく推挙を賜って、安永10年(1780)正月、詠草和歌二十首を後桜町院 (1740-1813)の叡覧に備えた嘉儀の報を得ている。これは保光がなした業績のひとつであるが、吉保以来の家学の取り持つ縁でもあっ たわけである。なお、十一代将軍家斉の御台所茂子(広大院/1773-1844)の和歌・筆道の師範を務めたのが郡山藩主柳澤保光であっ たことは知られざる史実である。(注4.)
 さて、吉保は嫡子吉里(1687-1745)に与える庭訓には「五倫五常」(『孟子』)を撰んでいる。人として常に守るべき道、“父子の親・君臣 の義・夫婦の別・長幼の序・盟友の信”そして、常におこなうべき“仁・義・礼・智・信”の道である。青年期父からこうした帝王学と世子とし て教育を一身に受けた吉里は、やがて「古今伝授」を吉保から口訣伝授されている。

024◇江戸の文武教場
 柳澤家の学校創設は元禄年中(注5.)で諸侯の学校創立のなかでも三田藩、芝藩、米沢藩などとともにその草創となる。当時の江戸藩 邸は神田橋門内にあり、名称は「文武教場」と称した。このころの柳澤家は公儀要職にあり、このため藩主は常に江戸に在府する江戸定 府の家であり、吉保は国元の政治をおろそかにはしなかった(三富の開墾(埼玉県)など多く善政を布いた。)が家臣教育という点ではや はり江戸に偏倚し、自然“綱吉学校”の予備校的な役割を担ったところに柳澤家の藩学の根源を求めることができる。言い換えれば元禄年 中創設の藩校「文武教場」はこの時代の文教政策だけでなく元禄文化をリードしたといってもよい大きな特色をもっていたのである。吉保 は、教場の督学には荻生徂徠・谷口元淡をあて、在邸の藩士ほかに対し文武両道の修練を義務付けたのである。このころ近侍の家臣に は実に文人・歌人が多い。依田十助(種重)・岡田新平(行次)・池田才次郎(正堅)・矢野仁兵衛(儀朝)・志村三左衛門(驫イ)・立野通庵 (仙甫)・成田宋庵(玄真)・今立六郎大夫(貴亮)・榊原光政らに前出の荻生徂徠・服部南郭(注6.)、それに伴嵩蹊(1773-1806)により寛 政2年(1790)上梓された『近世畸人伝』に大文人として紹介された柳澤里恭(曾禰氏/淇園/1704-58)の人たちである。また、吉保・吉 里の著述書は数多いがここでは略して記さない。
 やがて宝永6年(1709)、五代将軍綱吉は薨じて、その間もない6月吉保は致仕(隠居)を許され吉里が家督を継いだ。神田橋邸内に創 設した「文武教場」は、吉里代以後の藩邸となった幸橋門内上屋敷内へ移されることになったのである。

025◇藩校惣稽古所の沿革
 前回ですでに述べたが、ここ郡山の『惣稽古所』(注5.)は三の丸・五左衛門坂の突端、坂に向かって右(北)側の土地に、郡山入封間も ない享保年中、藩士教育に力を入れた柳澤吉里によって設けられた郡山藩校である。惣稽古所が五左衛門坂にあったころ、藩士らが汗を ぬぐいのどを潤したであろう“総稽古所の井戸”というのが残されていたように聞いたが、今はわからなくなってしまった。以下、「藩校と近 代の学校変遷図」↓を参照していただきたい。図中の@ABCDEは、学校の変遷順を示している。なお、生駒郡立農業学校郡山園芸 学校は三の丸柳藏跡に開校後、明治39年(1906)に南郡山町の郡山男子尋常小学校内に創立、明治41年には永慶寺前に移され、さら に大正9年(1920)4月城内の麒麟曲輪に移転した。

 吉里は藩儒荻生金谷(1702-76)に藩校督学を、谷口元淡(1676-1742)を教官として藩士教育にあたらせている。享保12年(1727)正 月には荻生徂徠の有名な兵法書『ツ録』を藩校の教科書として上梓もした。
 そののち延享2年(1745)には二代藩主伊信(信鴻/1724-92)、安永3年(1774)には三代保光(1753-1817)と吉里を遺志を継いで、 儒学・漢詩・和歌・俳諧などをたしなみ文人大名と称された殿様であったが、もちろん“弓馬の道”をおろそかにしたわけではない。率先して 文武両道を奨励したのである。荻生金谷ののち荻生鳳鳴(金谷の養子/天祐)を侍講とした保光は、家中に蘭学を用いるため文化4年 (1807)、侍医熊沢尚庵中行を江戸の有名蘭学塾大月玄沢の芝蘭堂に遊学させている。そしてことに教育熱心で儒学を尊崇したことで知 られる四代柳澤保泰(1782-1838)は、天保6年(1835)8月、惣稽古所を大職冠(永慶寺隣地/冠山町)に新築移転し、学費を藩費のほ か藩主手元金より充当しつつ、碩学藤川友作(冬斎/1796-1869)を儒官とし教育の改革を行い、冬斎をして徂徠学派から教育方針を転 じて朱子学色の濃い教育を取り入れて時を読んだ。それはやがて藩学から多くの学者を輩出することになる。平島奎堂・山村狼渓(1814- 70)・水谷竹荘(1824-95)らはその代表的な人たちである。今、永慶寺中(永慶寺町)に「冬斎藤川先生記念碑」、かたわらに「狼渓山村 先生碑」などが静かなたたずまいの中にひっそりと建っている。
 次の五代藩主保興(1815-48)は先代の遺志をよく守成し、やがて嘉永元年(1848)、家を継いだ六代保申(1846-93)は、3歳の幼君で あったので執政はこれをよく補佐して教育にいっそうの力を注いだ。そして維新慶応4年(1868)正月、保申は松平姓を改め本姓柳澤姓を 称し、明治2年(1868)、いち早く版籍を返上して藩政を一新するとともに教育の改革を断行して、その校名を「敬明館」(『論語』「九思」より の称名か/「啓明館」は誤り。)と改め、翌年、校地をさらに北方約300mの柳澤権大夫邸跡(冠山町)に移転改造して学科・教則を刷新 するとともに、さらに校名を「造士館」と改めた。
 このころになると各藩においても教科の刷新を図るのみではなく、公儀奉公のうえでも目を海外に転じ、国難に即応でき得る洋学わけて ますます英語教育の必要にせまられ、郡山藩は藩学の先進としての名にかけてもと洋学各塾に遊学者を送っている。なかでも茂木春太 (1849-81)は、慶応3年(1867)福沢諭吉(1834-1901)方(慶応4年「慶応義塾」と改称。)へ、宮川揆一は津山藩箕作周平(1825-86) 方へ、また、谷口直貞は小泉藩前川迪徳(1847-1912)とともに保申の念願した郡山紡績を設立(明治26年(1893))した人物としても知ら れるが、彼は南校(開成学校からのち東京大学。)へ遊学した秀才であった。このほか明治の黎明期には英語をはじめ藩内で洋学の草分 けとなった人たちは多かった。やがて明治5年11月、郡山県は廃止され奈良置県により、造士館は水谷克庸(竹荘/1824-95)が開いた 私塾「三郭学舎」として受け継がれていったのである。(注7.)
 その後、明治9年8月、三の丸の旧藩邸内に創立された師範学校予備校は、この間4月に奈良県が廃止されて堺県となり、10月になっ て堺県師範学校分局郡山学校と改称され、翌年10月には柳曲輪の旧中屋敷に移された。そして、明治14年1月、大坂府立郡山中学校 が二の丸屋形跡に新設され、同2月に堺県は廃止され大阪府に合併される。再び同20年11月、奈良県再置により同校は奈良県尋常中 学校(このときは県立ではない。)と改称、ところが、当時奈良県下にあった郡山と吉野の尋常中学が明治26年(1893)廃止されることに なり、このため県下で熾烈をきわめた誘致合戦がおこなわれた結果、柳澤保申は旧城内二の丸(藩・県庁の跡地)の土地および多額の学 校建設費に出捐をして、同年10月1日奈良県一中となる県立尋常中学校を開校(写真↓/現奈良県立郡山高等学校)に導いている。維 新の動乱期を生き、旧藩士の就産事業に奔走、またことに教育の振興に寄与した保申伯はこの翌日の明治26年10月2日、郡山本邸 (植槻町)において48歳で卒去したのである。
郡高
026◇藩校の教育
 ここでは明治維新前の藩校総稽古所の概略を紹介しておく。(注8.)
・藩主の布令諭達
 享保年中に総稽古所創立以来、毎年正月元旦藩士一同へは次の箇条を布令することを例としていた。
 一、文武両道は士たる者の欠くべからず義に付、きっと修業致すべき事。
 一、御家中の面々文武修練の為、深き御思召しを以て惣稽古所御取建に相成候。尤も文武修練の義は御奉公の基に候はば、日割りの 通油断無く修業致すべき事。
 以下、天保6年の学校改造のときの布令による学業の概要を示す。
 文学については10歳までに、武芸は13歳までに入門しなくてはならないこと。役ある面々は勤務外のときに出席すること。無役の面々 は平日から出精すること。師家(師範の家)の面々は十分に文武の修行をすること。医師の面々は十分に文学を修業すること。出席時刻 は朝5ッ(午前8時)からと、夕8ッ(午後2時)からとする。激しい雷鳴や強風の日は出席しなくてよい。盆休みは毎年7月10日から7月21 日までと、年始は正月21日始業する。ただし、小の月29日は授業がある。また、藩主の帰城や発駕、春日祭礼のときは朝の授業は休み とする。
・教則
 教科書は、孝経・大学・中庸・論語・孟子・易経・詩経・書経・礼記・春秋を用いた。
・授業の方法
 生徒を5部として毎部箱のなかに生徒の名刺を入れておき、生徒は毎日登校するときに自分の名刺を取って、かたわらにある板のうえに 立ててある竹串にこれをさして出欠をとる。教員は出席した者から、素読を授け、孝経から春秋までの素読を終了した者を「離経生」ととな え、経書そのほか適宜の書籍を読ませてその質問を受け、また一方で詩文を作らせる。授業時間は毎日5ッ時(午前8時)より9ッ(正午) までと、8ッ時(午後2時)より7ッ半(午後5時)まで。ただし延べ50日で温習(復習)をさせる。
・学科学規試験法
 漢学・医学・算法・筆道・習礼(しゅうらい)・兵学・弓・剣・槍・柔術・馬術・砲術。
 馬術・砲術は学校狭隘のため校外に稽古所を設ける。(馬術は厩のほか大職冠・小川町の2か所に馬場があった。砲術は各所でおこな われたが「大職冠地蔵矢場」・「木島」・「明神山小和田山八十間射場」、また、大和川越しの藩領穴闇村(広瀬郡)に大筒射場があった。
 医学・算術・筆道は各師範家で修業すること。経書の大義に通じる者は武術の免許に当たること。毎年春と秋文武両道とも城内大書院 において試験がある。文学は藩士および子弟のなかで、幼年の者は書籍を輪読。そのほかの者は輪講または独読する。武術は、師範一 家ごとに日を決めてその流派の雛型を試み、つづけて試合を行う。また、藩主在国のとき必ず「御覧試験」を行う。また、藩主不在のはとき はこれを家老代理「代理試験」する。なお、試験ごとに家老・年寄・用人・番頭・鑓奉行・大目附役の者が列席することになっていた。このほ か臨時の「御好み試験」というのがあった。
・藩校を運営した人たち
 儒官は約5人で鑓奉行以上の者は儒官、以下の者は儒官見習、子弟に選ばれると儒官雇といった。世話役は約5人。助役10人。兵学 師範(出陣のとき軍師となる。)2人。弓術3人、剣術9人、槍術3人、習礼1人、馬術5人、柔術2人、砲術7人の各師範が置かれ、それに 剣術4人、槍術4人、習礼2人の世話役がついた。そして医学教師1人、算術教師3人、習字教師4人が任命された。
 このほか役方(事務員)として、年寄・用人・大目附・目付、徒目付からあわせて9人。ほか武器を調務する細工人(小人目付)1人。門番 を兼ねる中間2人。以上、教員・事務員・門衛などあわせて82人程度の人たちで藩校を運営したのである。
・学校経費
 一年間の文武の学費を、米500石(俵)(江戸「文武教場」では米150石)を予算として運営、学費は藩士に賦課しない。ただし、師範家 に納められる束修(謝金)は銀札1匁で、謝儀(「祝儀」ととなえた。)は毎年、年頭と中元に銀札5分と定められていた。
・奨励法
 その熟達の度合いにより、加役米・目録金・藩主の衣服賞与・扶持米などが支給され、遊学も許されていた。また、師範家は5年から7 年の勤労を賞して禄積席を増進することを基本とした。そのかわり修練を怠った藩士への罰則は厳しかったと言える。

027◇鞍背坂(法光寺坂)への新道の成立 
 三の丸は、東方より五左衛門坂をのぼり直進して約90間(166m)行くと突き当たりに侍屋敷があり、ここを右折してゆるやかな坂を北 方に60間(110m)下って途中から広小路に出る。さらに広小路を左折して梅屋敷や南門に至るのが往古からの道筋であった。ここで述 べるのは五左衛門坂西端の侍屋敷裏にあった土居と堀に関してである。三の丸西方の堀は崖地にうがたれていたのでここには低い樋岸 (堤)があって、左右の堀を二分していた。樋岸から北側にはわずかに溜まり水のある水堀があり、反対に南側は急峻な傾斜地のため自 然と竪堀が掘られていて崖下の矢田筋横までの約100mが谷状に下っていたところである(「藩校と近代の学校変遷図」↑/参照)。ここ はのち樋岸を高くして、堀向こうの法光坂上(写真↓)を東西にのびる道(鞍ノ背)に直進できるよう接続して新しい道がつけられた。手前電 柱のところを右折すると広小路から鷺堀伝いに南門・永慶寺方向へ進む。真っ直ぐの道が新道で、わずかに下っているところには竪堀があ った。
五左衛門坂上新道写真
 各城絵図を比較すると、この新道は柳澤家入部(1724)のときにつけられたものとみられる。話しは飛躍するが、留書(注9.)に、宝暦12 年(1762)12月、五左衛門坂、矢田筋に“狼”が出現したことが記されているが、地理的にいってどうもこの竪堀の谷筋を狼が通ったもの のように思える。同じように留書類に「新道通り」という記述がたびたび出てくるが、次項で述べる「鷺堀新道」とともにその有力な候補地で ある。なお、この道は現在も存在している。

028◇鷺堀堤新道の成立と廃止
 鷺池堀と蓮池堀の間にある堤は、正保の絵図によれば、堤の長さ37間(約68m)、高さ四間半(約8m)あり、三の丸(五左衛門坂)側 には堰(流水口)があった。蓮池堀(「藩校と近代の学校変遷図」↑/参照)は昭和34年、郡山警察署がここに置かれたときすっかり埋め 立てられた。一面の泥深い底無し沼であったため長い松杭を無数に打ち込んで建設工事が進められてほどなく竣工したが、それでも後日 不動沈下を来して建物後方にあった円形の留置場の壁面には大きなクラックが無数に入っていた記憶がある。蓮池堀はほかに大正期の 近鉄電車開通にともないL型に折れ曲がった堀を軌道が横断したかたちになったので、もとあった水面や旧状は今ではほとんどわからなく なってしまった。なお、蓮池堀に(荷葉(かよう/ハスの葉)池の字をあてる記録もある。
 江戸時代、この堤はなかほどに建てられた二重の柵で城内菊畑側と三の丸側を仕切ってあった。ここは“郡山城の謎【その1】”(筆者 称)といってよい城郭として実に奇妙な空間である。城郭に詳しい方にはすでにお気づきと思うが、当然ながらここには城郭の要所として虎 口の門一つくらいはあってもよいところである。それは、三の丸五左衛門が一つの曲輪として扱われていなかったことと同じ意味をもつ。さ らに、中世にさかのぼってこの土手の上が「堺海道」(前出)にあたるという事とともに、郡山城の成立過程を知るうえでぜひとも記憶にとど めておかなければならない重要な地点である。
 さて、ここは単に「鷺池土手」とか「鷺堀堤」などと呼ばれたが、宝暦3年(1753)6月8日、城内側の菊畑から「五左衛門坂御屋敷」への 通路として新道(写真↓)となった。写真奥の建物は現奈良県立郡山高校で、右端のグランドとなっている菊畑跡から手前の堤のうえが新 道跡である。堤の左手は鷺池堀、提の下右側が蓮池堀跡である。
鷺池新道写真
 「五左衛門坂御屋敷」(御用屋敷)の特定ができないものの、明らかに道路として使用された時代があったのである。そして、この道路 は、文化2年(1805)6月15日に、五左衛門坂の土居のうちに屋敷をあてがわれ、御用達などを歴任した重臣大橋喜三兵衛の屋敷を取り 払うことになり、「鷺堀之道」の往来は差し止めとなり、柵の「結い切り」となった(注9.)。それにしても52年もの長い間ここは道路として使 用されていたのである。もっとも、菊畑南の土塀には、蓮池堀下にあった「米揚げ場」への臨時的な通路として穴門が存在した。今ひとつ 蛇足を記しておく。宝暦12年(1762)6月には大雨により鷺堀の中央部にあった樋が崩壊して大水が大手方向へ流れ出たことがあった。 ここは城の中堀であると同時に、地形上自然の谷筋を利用してこしらえられた古代からの用水溜池の堤防を兼ねていたところである。

(注1.『源公実録』柳沢史料集成第一巻/(財)郡山城史跡柳澤文庫保存会 平成5年。注2.「楽只堂年録」柳澤文庫蔵。注3.東京大学史 料編纂所蔵。注4.「虚白堂年録」・「附記」柳澤文庫蔵。注5.7.8.『旧郡山藩学制沿革調書(控)』・「旧郡山藩校報告抄書(控)」柳澤文庫 蔵。注6.『甲府市史』通史編第二巻近世。注9.「新古見出并留方」(豊田家文書)大和郡山市教育委員会蔵。参考)

★次回は<06 ◆鉄門虎口と菊畑、大腰掛>を予定しています。
06 ◆鉄門虎口と菊畑、大腰掛   
 <・伏見城の遺構・鉄門虎口の構成・持ち去られた石垣・菊畑と巽隅櫓台・大腰掛と御金蔵・櫓太鼓>
029◇伏見城の遺構
 「郡山城百話」も三の丸から、いよいよ二の丸へと話しを進めることになる。
 天正13年(1585)9月、百万石の太守として豊臣(羽柴)秀長が入城した郡山城、そして伏見城(京都市)は豊臣政権の牙城として、ま た、徳川氏への政権交代の場としても大坂城とともにもっとも縁深い城郭であるといえる。慶長3年(1598)8月18日、太閤秀吉(1537- 98)がその波乱の生涯を閉じた伏見城は、ことに徳川家との政争の舞台となったため天下に冠たる名城として知られてきた。このため伏見 城は豊臣氏の築城にはじまり、そして、徳川氏による大幅な拓修を受けた。そもそも文禄4年(1595)に竣工した伏見城は、翌慶長元年の 大地震により全壊した。修築が進められた伏見城は早くも翌2年には天守閣が竣工、そして慶長5年、豊臣方は関ヶ原の戦い敗れ、7月 晦日落城して西軍によって焼き払われたのが豊家による伏見城の最後である。翌年には徳川家康による伏見城修築が成り、家康は入城 した。さらに慶長9年、同11年と修築を重ねて完成されたのが伏見築城史のおおまかな流れである。
 さて、関ヶ原の戦いののち徳川方の手に落ちた郡山城の殿閣は、この年落城の伏見城再建の資材として急ぎ運ばれて行った。そして慶 長8年、徳川家康は伏見城において将軍宣下の勅使を迎えて名実ともに徳川将軍家の天下となり、この時期伏見城は畿内における徳川 政権の象徴的存在となったのである。この間の慶長6年には、二条城の築城を畿内の大名に命じた家康は、さらに慶長10年(1605)3月 には、伏見城において朝鮮使を迎えてその講和に成功し、やがて家康は隠居した。同年、二代秀忠が伏見城において将軍宣下、元和5 年(1619)、再び上洛した秀忠は、二条城の完成とともにその使命が薄れていた伏見城を廃城とし、慶長18年(1613)以来の「伏見城三 年番制」を廃して、城代・城番を大坂へ移している。ここに伏見城は名目上廃城となったのであるが、殿閣などは淀城に移築すべく予定さ れ、このときは大幅な破却までには至っていない。やがて元和9年(1623)には三代家光もこの城で将軍宣下をうけ、これが伏見城の有終 完美となる。家光は伏見城の遺財で淀城を修築し、大坂城にも石材を移している。また、京都の寺社にも遺された構造物を与え、このとき 伏見城には一木一石までも残してはならぬとの厳命に完全に破却されたのである。そののち城址にはいつしか桃の木がうえられてこの辺 りを“桃山”と称されることになる。芭蕉も「野ざらし紀行(貞享元年(1684)8月〜同2年4月)」の折、かの地を訪れて一句ものしている。 
  伏見西岸寺(三世)任口(宝誉の俳号)上人に逢うて わが衣(きぬ)に伏見の桃の雫せよ
 こうしてみると豊臣家というよりも徳川家にとって檜舞台となった伏見の城は、時を経て慶応3年(1867)12月におこった鳥羽・伏見の戦 いを発端にして、開府以来300年の磐石もまたこの地に終焉をむかえるという奇しくも徳川氏の運命の地となったのである。
 さて、元和5年(1619)8月の伏見廃城と同9年の破城に与えられ移築された“伏見城の遺構”は、国宝や重要文化財に指定されたもの や伝承のあるものをすべて含めて全国に60か所を超える(注1.)。このうち元和5年、時の城主松平下総守忠明(1583-1644)に公儀から 与えられここ郡山城へ移築された建造物は次の六基である。
  柳門櫓、桜門櫓、鉄門櫓、一庵丸門、西追手門、南門(?)
 なお、忠明のことについて一言ふれておく。忠明は奥平信昌の四男で、母は家康の長女亀姫。家康の養子となったことで秀忠の義弟に なる。松平姓を称した忠明は、大坂夏の陣(1615)の論功の結果、武功第一番によって10万石で大坂城主となり、元和5年(1619)10月 には加増あって12万石の郡山城主となった。寛永9年(1632)秀忠の遺言により家光の補佐役として政権に昇り、同16年3月には姫路1 8万石の城主となった人物である。今日、郡山城跡の発掘調査で検出され、また、明治廃城に城下へ転用された多くの鐙瓦のうち「九曜 紋」は、忠明時代の築城の証である。


030◇鉄門虎口の構成
 鉄門は、“てつもん”とはいわず“くろがねもん”という。銅門を“あかがねもん”というがごとしである。城門には、八双金物、肘金壺金、乳 金物・饅頭金物、根包み金物などと呼ばれる独特の金物類を用いるのが一般的となっている。縄張りのうえから最も重要な位置にある城 門には、さらに堅固な造りが要求され、破壊や火災から防護する方策として弱点となり易い門扉付近の木部やつなぎ目などを中心として 各所に帯金物を打ち込んでいた。文字どおりの“筋金入り”である。それは、日本独特の木と鉄の文化の産物であるとともに、わけても鉄 は日本刀をはじめとする武器や武具の材料として鍛冶の手によってひとつひとつ鍛錬される。こうしたことが武家の精神主義的な作用と融 合しているのである。また、単に強靭で威圧感を与えるばかりでなく、より装飾性を高める工芸品としての価値をも兼備している。このよう にして、「鉄門」・「黒金門」・「筋鉄門」などを称する城門は全国によくある。
 ここで鉄門櫓の規模を紹介しておこう。「鉄門虎口絵図」↓を参照されたい。
鉄門図
 渡り櫓は梁間3間に桁行11間半と郡山城内諸門のうち最大で、門扉は透かし戸、潜戸は向かって左側にあった。櫓門の詳細は、出格 子が2か所(南面門扉の上部二階と東面二階中央(注2.)。)ただし、2か所とも石落し兼用である。窓は1か所(現存の東側櫓台上の二階 南壁。)、矢狭間1つ、鉄砲狭間6つ、門台の石垣高さは2間4尺5寸で、枡形内外の規模は、並木下(鉄門番所の東石垣。)で高さ3間。 枡形内門櫓の向かい側の石垣は、高さ2間3尺8寸で、その東つづきの石垣角、堀の上で3間5尺8寸となっている。また、塀の長さは、鉄 門櫓つづきの西方が6間4尺5寸(矢狭間2つ、鉄砲狭間5つ。)、ここからつづく石垣上の鉄門向かいから東に折れ曲がった狭間塀が26 間4尺7寸(矢狭間7、鉄砲狭間19か所)である。以上が本多家から柳澤家に引き継がれたころの明細である。なお、柳澤時代の鉄門櫓 二階には太鼓がすえられ時刻や各種の合図を打っていた。
 鉄門虎口の構成は、図説のための詳細絵図(前出)を作成しておいたので理解していただけるものと思う。概略の案内を付け加えると、 柳曲輪の五軒屋敷前から城内に向かって直進をさえぎる五軒屋敷堀の前、「下乗」を左折、左右を木柵で囲まれた道路をさらに右折して 鉄門枡形前の土橋に入る。なお、下乗前の「寄場」の書き込みは、火災や台風など事あるときの集合場所を示している。左手の堀は、蓮 池堀でここから鷺堀下までつづいていた。この辺りの堀幅約20m余、水深が5尺ほどあった。また、右手は五軒屋敷(前)堀で、同様に堀 幅約24m、水深6尺5寸である。これら両堀はともに水系を異にして、蓮池堀の水系は柳町村・高田村に、五軒屋敷堀の水系は野垣内村 に水利を与えていた。“古来、御上より下され候御堀の水”としてこれらの年貢地村々の田畑を永く潤してきたのである。
 土橋で区切られた2つの堀は巧妙な食い違いをもっている。その分、土橋から枡形内にかけて、菊畑側の高い石垣上から横矢が効果的 なように考案されたきわめて堅固な虎口である。クランク状につづく枡形の石垣上には馬踏み(武者走り)があり、その前面には狭間塀が 折れ曲がり、合わせて矢狭間9、鉄砲狭間24が切ってあった。こうした縄張り構成は「横矢枡形」といわれている。
 鉄門を通り抜けたところに番所があり周りは塀で囲まれていた。鉄門は、西門、南門とともに“三ケ所御門”と呼ばれた二の丸への関門 である。藩庁たる二の丸屋形、さらには本丸本城への表口に位置するため三門とも重責の職場であった。そのなかでも鉄門番所は、多く の家臣や出入りの御用達商人など特定多数の人々が二の丸屋形に出入りするため、多忙なうえ難しい勤務で、ここも弓鉄砲頭の所掌で ある。また、番所の隣には大きな「砂舛」があった。絵図の左上方向にある二の丸屋形への坂道から流れ落ちる排水の施設であり、かつ、 押し流される土砂を貯めて取り除く施設でもある。水は番所うしろの“水吐け”から堀へ流される仕組みになっていた。  

031◇持ち去られた石垣
 ところで郡山城は明治6年(1873)、廃毀されることになり、奈良県令の通達(第137号)により旧城郭の建物、立ち木等の払い下げ入札 が同年3月20日と21日におこなわれたが、これ以降のことについてはまつたく不明である。しかしながら、これほどの城郭の数ある建物 群が、なかでも“伏見城の遺構”の1つと旧記類などで一般に知られていたはずの鉄櫓門まで、すべて“無用の長物”の風呂柴でもあるま い。奈良県安堵町の個人邸表門に1つの関連伝承(未確定)があるのみで、ほかには“郡山城の遺構”という話しは皆無で、その行方は 杳(よう)としてわからない。これを本稿において“郡山城の謎【その2】”としておく。伝承でもあればぜひ教示を請うのみである。
  さて、入札後ここ鉄門も落札者によって取り毀たれ持ち去られたが、何らかの行き違いがあった模様で、鉄門櫓や狭間塀ばかりか、東 西に対をなしていた櫓門台片方の西門台と、それにつづく枡形の石垣をも取り崩して石材もすべてを持ち去られるという問題がおこってい る。写真左↓は、門内側から見たところ。正面と右手の土手が枡形を構成していた石垣の跡である。写真右↓は、門の表側右(東)の櫓 台で、これと一対となるべき西側の櫓台も今はない。櫓台の右に見える水面は五軒屋敷堀である。
鉄門内写真鉄門東台
 このとき郡山はすでに堺県の管轄であったが、これを知った県は明治13年(1880)、奈良郡役所に対して現地踏査をして回答を促し、そ の調査結果と持ち出された石の数、石垣取毀費の見積もりなど詳細の報告を求めたが、郡役所では詳しくはこれに答えることができなか ったようで、当地北郡山総代の顛末を添え、さらに原状復旧不可能として芝土居に仕立て直した旨をもって報告、結局は、お茶を濁したか たちになってしまった。このために現在でも鉄門虎口は、勾配の関係で元の形態より総体的に枡形は狭くなっている。(注3.)。このことは 前後の関係が判明しないので断言し難いが、どこからか有力者のクレームがついたものとみえる。
 なお、本件とは別に城全体のなかでもとあったはずの石積みが無くなっているところはほかにもある。参考のためここに記す。二の丸屋 形東方の高さ2間の石垣長さ約80m、梅林門内の内枡形の石垣高さ平均1間長さ両方で約50m、南門枡形を構成した石積高さ平均9 尺長さ合わせて約85m、桜門枡形(前出)高さ1間5尺長さ2面で約50mである。なお、柳澤文庫への坂道で毘沙門曲輪の東面約30m ならびに、同曲輪南方の石積み約15mの石材は、崩落(時期不明)してそのまま堀や土中に埋まっている。 
 郡山城の石垣の積み石にはおびただしい転用石材が使用されている。その原因は天正期の筒井順慶築城と豊臣秀長による郡山城の 拓修である。詳しく述べる機会もあるかと思うが、転用石材の代表的なものは、石仏では、奈良の「頭塔」(古来、興福寺僧の玄肪の首塚 と伝えるピラミッド形の土塔)にあったといわれる五尊石仏、両面石仏(泰山府君)、逆さ地蔵尊(大永3年(1523))、伽藍礎石や墓石で は、平城京羅城門の礎石(凝灰岩)、宝筺印塔(永仁6年(1298)、宝塔芯礎などがあり、転用石材は、南門跡や松陰堀のライン、二之丸 屋形跡などを除きほぼ城跡全体で見られる。なぜここで話題が石材になったかというと、明治以降、京都や奈良に限らず、粋人が路地・庭 園に伽藍石や石塔を求めたため、郡山では石材が持ち去られることしばしばであったと、古老によく聞かされた。また新聞沙汰や警察沙汰 になることもよくあったという。
 郡山城は元和期の修築に加えられた“打ち込みはぎ”の石垣は比較的城郭の外側に多く、自然石や転用材による“野ズラ積み(牛蒡積 み)”は本丸や天守台周辺に多い傾向がある。中世の郡山城が、元和期にどれほどの拓修を受けたかいまだ明確にはされていないが、こ れほどの数多の転用材を使用した中世から近世にかけての城郭は稀有の存在である。国宝指定の壮大で優美な天守閣も文化財として の価値は高いが、天守閣は無くても郡山城は全国隋一の歴史記念物といっても決して過言ではないのである。そんなことはあるまいとい われる向きには、“馬を走らせて花を看る”がごときことと、筆者は申し上げたい。

032◇菊畑と巽隅櫓台
 鉄門枡形背後から南方に伸びる曲輪が「菊畑」と呼ばれた二の丸の一曲輪である。また、古くは「風呂屋敷」とするものもある。郡山城に おいて菊畑は「花畑」を意味している。文禄の伏見城に「御花畑山莊」の曲輪名が認められ、また、「山里丸」の発祥も天正度の大坂城が その嚆矢といわれるように、豊臣秀吉によって城郭のなかに自然・風雅が1つの曲輪として取り込まれるようになり、以後、諸城でも多く用 いられてきた。
 菊畑は、前回の“鷺堀堤新道の成立と廃止”で述べたように一定期間はとにかくも、平生は重要な通過点としての機能を持たない閉鎖 的な曲輪であるが、有事の際には「横矢枡形」として柳蔵や、ことに柳門内から鉄門枡形に至る横矢掛かりとして備えられていた曲輪であ った。その面積は1196坪半あり、曲輪の東南の角には「巽隅櫓台」が、菊畑東方の石垣の高さ2間と比べて一段と高い3間半あった。そ して、櫓台の部分は別の狭間塀に囲まれていた。大正期ここは大阪電気軌道(現近鉄)開通のため蓮池堀とともに軌道敷とするため、石 垣は取り崩され、約10m程度テークバックして積み直されたところである。この付近の石垣で“落し積み工法”(矢筈積みとも。)の施され たところがその跡(写真↓/現在の巽櫓台付近)で、石垣に明確な痕跡を残しているところである。
巽櫓台
 菊畑の南方は石積はなく土居で東寄りで高さ2間、西寄りで2間半となっている。そして、土居の近くには東西にわたって“かざし”の植 え物の存在が認められる。恐らくは樹形から杉であったかも知れないが、城郭内には多くこうした樹木が植えられ、建物の用材・薪・松明 などに利用できるようなにがしかの目的をもっていたのである。曲輪のうち鉄門枡形のある北方と同所の馬踏みはすでにのべたのでこれを 除いて、東方の狭間塀は長さ26間4尺7寸、南方の狭間塀は46間2尺7寸5分、この両所に合わせて矢狭間19か所、鉄砲狭間40か所 切られていた。また、大腰掛との境である西方の塀は練塀で長さ28間半である。
 さて、ここ菊畑にも1つの疑問点がある。ほかでもない「巽隅櫓」のことである。現存する郡山城絵図で最古の正保の絵図においては、こ こに櫓のあった形跡はまったく無い。ところが、城主が本多能登守忠常時代の元禄15年(1702)2月の「大和国郡山城修復絵図」(前出、 以下「元禄15年の絵図」という。)には、はっきりと巽隅櫓台の存在が確認できる。これら2点の絵図に関しては、その成立上いずれも絵 図としてA級の史料であることは言をまたない。かように櫓台の存在に関して問題がないとすれば、櫓の有無が最も気になるところで、当 初から櫓台のみを構築する計画で積まれたものか、また、何らかの事由によって櫓の建築が“沙汰止み”になったか、はたまた、建築後に 災害などで無くなったものか、まったく分かっていない。古図に一重の櫓があったというが私の知る限り正保の絵図より古い城絵図は無い し、後世写された絵図にはそのあたりいいかげんなものもあるので注意を要するところである。いずれにしてもこの間、半世紀の歴史のな かで巽隅櫓という名称が生まれたことだけは確かだということになる。これを本稿において“郡山城の謎【その3】”としておく。

033◇大腰掛と御金蔵
 大腰掛は、もともと藩庁である二の丸屋形に呼び出された家臣と供廻の者や御用商人などの控え所の名称であって曲輪名ではない。別 の史料に「二の丸下」というの記述があり、これが妥当なところであるが、城郭に関する文献にはこのように施設名が曲輪の通称名となっ てしまっている例はままある。大腰掛は梁間3間、桁行20間の建物で、本多時代(第二次)には、このうち7間半の部分を「駆番方物置」 に使用されていた。曲輪は東方の菊畑と西方の二の丸屋形にはさまれた細長い形状で、その面積は699坪あった。いつのころか断定は できないが、大腰掛を塀で取り囲んで、その南寄りに2棟の「御金蔵」が建てられた。これは安政年間の絵図(前出)、『郡山町史』の挿図 「二の丸の図」、「大和国郡山城郭之細図」(注4.)によって確認することができる。御金蔵は金・銀・札のほか諸品を納めた蔵で、本来、事 務的(役方)には御金奉行(7人)の所掌で、そのもとに出納係16人が勤務したが、番方(表方)としては別に郡代支配の御金蔵勤番16 人が金蔵の警備にあたっていた。さらにそのうえ、鉄門番所勤務の当番は御金蔵に出入りする者をチェックして、その切手を確認、二の丸 屋形内の目付詰所まで報告した。鉄門に詰める太鼓番は昼夜12度、御金蔵周辺を回って異常が無いか点検することを勤めとした。このよ うに御金蔵に関しては二重三重の厳重な管理がおこなわれていたのである。なお、大腰掛の南端には築山風の土手があり植え物として 松の木と考えられる樹木が植わっていて、大腰掛と御金蔵の建物を囲む塀の前からこの築山にかけては、「矢場」が設けられていた(安政 の絵図)。

034◇櫓太鼓
 太鼓番が鉄門番所に勤務するのは、鉄門櫓二階に太鼓がすえられていたからである。郡山城の太鼓櫓は、常盤曲輪の追手東隅櫓から 二の丸砂子之間前櫓へ移され、そしてここ鉄門櫓に移された。ここにあった櫓太鼓は、明治以降、柳澤神社(明治13年創建)秋祭りの時 代行列に、大鳥毛の鎗・白鳥毛の長柄・千本鎗・赤備えの数具足などとともに無くてはならないお道具の1つとして使われていた。一時は 中断していたが、昭和10年11月2日、復興された第1回の渡御式は、わけても盛大であった。伝統の猩々緋の陣羽織を身に付けた屈強 の少年(柳蔭会子弟)たち十数人によって櫓太鼓が牽きまわされて行列の先駆の一団を務めていた。また、この大太鼓は昭和12年 (1937)正月22日、大阪阪急百貨店で開催の「名城展」に出品されたこともある。そしてのち破損したが、欅胴の裏には皮の張り替えや修 補の記録が随所に墨書(失念したがかなり古いもの)されている。現在はゆかりの追手東隅櫓(木造復原)二階に史料保存とされている。

 (注1.『伏見城豊後橋北詰の調査』伏見城研究会/1975、(原典)桜井成広著『豊臣秀吉の居城』昭和46年。注2.「郡山御城之図」摺物 /柳澤文庫蔵。注3.「郡山城銕門等取崩修繕図並調査書」天理図書館蔵。注4.薬園八幡神社蔵/平田喜蔵/大正14年写。参考) 

★次回は<07 ◆南門・薪曲輪・西門>を予定しています。
07 ◆南門虎口、西門虎口、薪曲輪
<・南門虎口・あとから築造された南門枡形・唯一現存する郡山城の遺構・薪曲輪・西門虎口は城の搦手・西門土橋の仕組み・ 西門枡形>
035◇南門虎口
 ここでは、郡山城二の丸への関門である「三ケ所御門」について、前回の鉄門に引きつづき南門虎口へと話題を移したい。
 すでに述べた城郭の中心である本丸から南東方向の突端にある三の丸・五左衛門坂から、「新道通り」を経て西方へとつづく丘陵は、そ の形態から「鞍ノ背」と呼ばれたが、郡山城の南の防衛線の一郭にあたる。この東西方向にのびる丘陵と並行して南下をはしる矢田筋の 道との標高差はこの辺りで約6mはある。郡山城南門へのルートは、この矢田筋から北へ“たおり”に当たる「鞍ノ背」の中央部に向かって 上る急坂、「法光寺坂」(鞍背坂ともいう)を通過しなければならない。この坂を上りきって、鞍の背を交差して、さらに北進、永慶寺前から南 門前に至る。なお、法光寺坂の古名は、柳澤家の菩提寺永慶寺がここに移される以前の本多家(忠平〜忠烈五代38年間)の菩提寺「法 光寺」に由来している。
 南門前から永慶寺前にかけては広小路となり、ここは郡山城への南の関門という場所柄から「南門前辻番所」が置かれていた。すでに 述べた10か所辻番所の1つである。南門に向かって左の道は鰻堀の堀端を大職(織)冠から「堀ノ側」方向へ、右側へは梅屋敷(御用屋 敷)と鷺堀に挟まれた広小路を東に進んで三の丸・五左衛門坂へと通じていた。
 ここ南門は藩主がよく通った道筋として知られている。それは家の菩提寺龍華山永慶寺への参詣道であったためである。「毎月二日龍 華山 御参詣被遊候事」と『御定』(注1.)に記され、藩祖柳澤吉保・「永慶寺殿」の忌日2日、その牌前に香華をささげることを例としたため である。付けたりながら、城主在府(江戸)の年は、寺社奉行の先番にて家老・寄合衆が名代を務めた。永慶寺は現在、寺号として、また 町名としても親しまれているが、当時は、藩祖の法名「永慶寺殿」を憚って、「龍華山」・「龍華庵」と称されていたことはいうまでもない。土 地では今日でも訛って“りゅうげんさん”と呼んでいる。 
 南門土橋の向かって左(西方)の鰻堀は鰻の姿かたちから来る堀の称で、南門付近で水深1丈1尺と深く、北へ向かうほど浅くなり、そ れでも西門付近で6尺ほどの水深があった。また、反対側の鷺(池)堀は城内できっての大堀で、ここから東端の鷺池堤(前述)までの長さ 約230m、堀幅は広いところで39間(約77メートル)あり、水深は南門付近で5尺、最も深い東方で1丈となっていた。この堀の南門から2 4間東方に、松蔵(松倉郭)と二の丸屋形を二分する舟入(堀)がうがたれていた。形態から“堀切り”ともいわれていた。鰻堀から鷺堀、そ して蓮池堀のラインは往古からの谷筋で、大きな溜池のあったところである。このため南門前の土橋は、両堀の水位調節の機能を持った 「水戸違い」となっていた。両堀には水利があるため、樋・堰の施設があった。明和・天明期の旱魃のため、城内の堀水は外堀をも含めて すべて農家に与えられ、空堀状態になることしばしばであった。大和では農耕のための水の便が悪く、そのため、大和が豊年になると他所 では凶作という喩えから、“大和豊年米食わず”といわれるほどであったが、こうした城郭の堀水まで水利にあてられていたというのも土地 柄ならではのエピソードといえよう。

036◇あとから築造された南門枡形
 ここで「南門虎口絵図」↓を参照されたい。
南門図
 土橋を過ぎると正面左右に低い石垣があり、その間に挟まれるかたちで頬当門(前出)があって、これが南門枡形のニの門にあたる。門 右側の石垣は、左側石垣(高さ約1.8m)より少し高く1間5尺あlり、両袖石垣間の底部通路上、つまり門の幅は約5.9mある。ここから 南隣の松倉(郭)までの石垣上には長さ15間5尺の狭間塀が建ち、矢狭間5つ、鉄砲狭間8つが切られていた。また、その真下には鷺堀 端にそって「犬走り」があったが、平生は用心のためここから堀のなかに突き出した木柵で入れないようにしてあった。枡形内に入ると突き 当たりに高さ1間5尺の枡形を形成する石垣があり、これに沿って右折、正面の南門番所前を、さらに左折して、少しまた右側に寄りつつ 松陰門方向に進む。南門枡形はこのような構成になっていたが、一の門にあたる門櫓は両門台上には無かった(絵図上の黄色の線。)。 はたして、プランのみで沙汰止みになったものか、はじめから枡形のみの計画であったかも知れないし、一旦存在したがのち何らかの事由 で無くなったかはまつたく不明である。それにしても、発掘調査でも実施すれば確認は可能であろうが、現況は枡形を構成した石垣のほと んどが取り払われて、その痕跡をたどることさえ難しい。
 枡形の概要を示すと、南門(頬当門)の正面から左側の石垣上、そこから右回りに西側の鰻堀に面した石垣上、つづいて枡形北側の石 垣の東端までのうえに建っていた狭間塀の総延長は、23間1尺7寸5分(約46メートル)あり、そこに矢狭間8、鉄砲狭間22が設えてあっ た。なお、枡形の西外側鰻堀に面した石垣の高さは水面より2間あったが、この枡形の北の端ではさらに1間ほど高いことになる。以上が 本多家から柳澤家に引き継がれた南門枡形の有様である。 
 さて、南門の一の門が無かったこととは別に、南門付近には今ひとつその構成に大きな変化が認められる。江戸時代のはじめの正保の 絵図(1646)と、その後の元禄15年(1702)の絵図とを対比したとき、前者では、一の門のみで枡形など一切形成されておらず、南門番所 うしろ(東方)の石垣も直線的に松陰門方向にのびている。土橋からつづく右側の鷺堀に面した犬走りもなく、ここから東隣の松蔵(松倉と も記す。)、そして舟入(堀)まですべて石垣の無い“たたき土居”造りとなっている。それどころか鰻堀側に面した石垣上や、ここからつづく 北隣の薪曲輪までの間に土塀すらなく、西方向への備えがまつたく手薄に見える。ところが後者のそれは、幕末安政年間の絵図との間で まつたくの変化が認められない。ということは、南門の枡形はこの間の築造ということになるが、正保3年から元禄15年までの半世紀はあ まりに長すぎる。この間郡山城主家も本多内記政勝(第一次本多)から松平(藤井)日向守信之、本多下野守忠平(第二次本多)、そして 同氏能登守忠常代までと時代は推移している。一方、徳川家も三代将軍家光から五代の綱吉とかわり、公儀の大名統制もすでに確立し て、元和の昔なら知らず正保以後ともなれば、武家諸法度(元和元年発せられ以後改正。)に照らして城郭の変更はなかなか難しかった はず。そうだとすれば公儀をも動かし得たものは一体何だったのだろうかと思うのである。例により本稿において、南門枡形の形成に関し “郡山城の謎【その4】”としておく。
○附記
 あとでいろいろと調べていて、先に述べた「天和の絵図」のことに気がつき確認すると、そこにはすでに南門枡形は存在していた。したが って、南門枡形の形成についての疑問(“郡山城の謎【その4】”)は、天和元年(1681)以前までの20年余りは、これでさかのぼれると考 えてよいので、そうなるとやはり有力視される人物としては、徳川四天王の1人で徳川氏を支えた名門本多平八郎忠勝の孫にあたる本多 大内記(初め内記。)政勝(1614-71)の城主時代(1639-71)である。

037◇唯一現存する郡山城の遺構
 今1つ触れておかなければならないのは、南門が伏見から移された城門のうちの1基であったということである(前出)。これとは別に郡山 城南門の遺構であるという伝承のある現永慶寺(写真↓/平成16年改装後)の山門が、仮に元和5年(1619)、伏見城から移されて来てそ の後も、焼失・朽壊などにあわなかったとすれば“伏見城の遺構”との説もあながち無視はできないことになる。
永慶寺山門写真
 他方、現存の山門がいわゆる黄檗様ではないことや、その間口がほぼ南門跡と合致すること、桟瓦葺ながら桃山様式を伝える城門であ ることもまた事実である。現在、国宝や重要文化財として伝わる伏見城遺構は、遺構という視点は証拠がない限りつけたりであって、桃山 様式を伝える有名建造物の価値をはかって指定されているのであって、絢爛にして豪華が桃山様式ではないのである。つまり、黒渋塗 り、桟瓦葺の質素なたたずまいの城門が伏見城の遺構でないとは言い切れないのである。こうした観点からも永慶寺山門は、郡山城唯一 の遺構として伝えられることのみでなく、わけて興味深い建造物の1つであることを承知しておく必要があろう。ただ、小屋組や全体にやや 重厚さに欠けるきらいがあるのは後補のためなのであろうか。

038◇薪曲輪
 薪曲輪(「南門虎口絵図」↑参照)は、南門枡形後方からつづく細長い三角形を呈した曲輪で、付近より一段低い窪地となっており、その 面積は618坪あった。現在、都市計画公園城跡公園の一部として市民に親しまれているところでもある。前城主の時代は「薪蔵」とか「薪 屋」(貞享の家中図)と記されているように、本多・柳澤時代を通じてここは城の燃料庫として薪などを貯蔵していたところである。二の丸屋 形や緑曲輪、それに厩曲輪などへ薪を供給したが、こうした平時の燃料としてだけではなく軍備としての薪は重要であった。
 それに、火気への配慮から鰻堀や松陰堀近くの防火用水の便や、類焼の恐れて建てこみの無いこうした城内の一隅に置かれているの もそのためである。他の例として、塩硝(火薬)蔵も同じように細心の配慮がなされていたところである。二の丸屋形で使用される薪なども 一旦ここへ運び込まれて、必要な分だけ少しずつ持ち込んでいたのであろう。それは、火を出すことを最も恐れたからで、城内の建物のう ち隅櫓(柿葺きの例外もあるが。)や多聞櫓・城門・土蔵などは瓦葺とし、居館(屋形・御殿と称される。)は、伝統的な書院づくりの柿(こけ ら)葺きを、武家の格式上良しとしたため、瓦の使用が進まなかったことが原因としてあげられる。例外として居館内でも台所や釜屋など火 気を常時用いるような建物は瓦葺きとした。だから火の用心にはことに注意を喚起していたが、それでも火災は発生した。郡山城におい て、安政5年(1858)12月1日の二の丸屋形全焼(後述)がそれである。この火災で多くの史料が灰燼に帰したことことは、近世の郡山藩 政史を知るうえでほんとうに惜しまれてあまりある出来事であった。
 さて、南門枡形北の石垣から49間(約97m)分は鰻堀に面していた“土止めの石垣”で、その高さは1間半である。この石垣は南門枡 形のような切石の“打ち込みはぎ”でなく、自然石を用いた古式の“野面積み”で、筆者は、織豊期に築造された原形を保つ石垣としてか ねてから注目していた。その古さゆえに一部はらみを生じ崩壊していたのである。
 ここには種々の転用石材が使用されていたことのほか、筆者が注目したのは、この古石垣の南端部分には、南門枡形西方の新しい石 垣と隣接したところに1つの排水口が残されていた。これは松陰堀からの排水路の水吐けであり、しかも水吐け下の鰻堀の底部には、朽 ちた柵(しがらみ)が径約5mの半円型に打ち込まれて残っていた。こうしたことからも南門枡形が松陰堀の成立以後に築造されたことと整 合でき、その事実を教えてくれる。
 ところが残念なのは、平成9年(1997/1994年3月から事業に着手。)に実施された市の「特定保水池事業」のため、ここの石垣は全面埋 められて今は目にすることはできなくなってしまったことである(写真↓/鰻堀北より薪曲輪下石垣の旧観、奥は南門枡形の西面石垣/「コ ラム【目安箱】の04◇鰻堀・鷺堀で実施された特定保水池整備事業 参照)。
鰻堀石垣の旧観
 ただ、幸いにして昭和50年(1975)1月までに、ここ鰻堀だけでなく郡山城の転用材の総合的な調査は、今は故人となられた南村俊一 氏による丹念な踏査によりすでに確認・記録され、『石造物郡山城趾転用材調査概要』(注3.)として上梓されている。学恩を享受した一人 として、その業績に敬意を表するものである。

 さて、薪曲輪入り口にはデータは無いが絵図上では棟門のような建物が見て取れる。また、門の左右両袖塀のあった8間5尺分には狭 間は切られていないが、そこから北へ西門の内側の取りつけまで88間2尺4寸(約174m)の狭間塀が屏風折につづき、矢狭間26、鉄 砲狭間56が配置されてあった。また、薪曲輪入り口から南門枡形裏までの27間(約53メートル)にも狭間の無い土塀がつづいていた。こ の53m分は、生け垣にされ中ごろのみ塀になっていたが、柳澤家に引き継がたときにはもとの形に直されていた。狭間塀が無かったこと や生け垣になっていたことは、堀際に城内側を遮へいし、防火や築堤の保護などの目的のほか、薪となりうる雑木が曲輪の鰻掘の堀際に 並木状に植栽された“しとみの植え物”が繁茂していたためである。そして、曲輪の西寄から南東に向かって梁間約2間桁行約15間ほど もある一棟の長屋が入り口に向いて建てられている。これが薪蔵(先代本多時代は「薪屋」。)である。
 
039◇西門虎口は城の搦手
 西門は郡山城の実質的な搦手門にあたる。というのは郡山城の縄張りが地形上西に高く、最も高い大職冠馬場通りで、本丸の地形より 7間8寸(約14m)高かった(「正保の絵図」)が、ここを西に下れば総構えの堀から、さらに大外の天然の要害である惣川の富雄川(古 名、鳥見川。)に達し、そこから矢田丘陵を登って暗越え(くらがりごえ街道)をして大坂城に至る。つまり郡山城は大坂城の“まがき”の一 城としての豊家による縄張りプランのなかで西の搦手とされていたのである。だからといって、搦手は城郭の縄張りを述べるときの用語で あって、ここ西門をそう称したわけではない。「西の大手」とも称した。 
 さて、門外の広小路北寄りの角地は、藩の大夫を務めた柳澤里恭(淇園/1704-58)の屋敷があったところで、“西門さん”と愛称されて いた。本姓を曾禰氏、柳澤家譜代中の譜代で早くから出仕したもと5,000石の大身である。里恭は家老というよりはむしろ文人として著 聞で、“人に教える芸16とぞ”といわれ、『近世奇人伝』(伴蒿蹊著/1733-1806)に詳しい。ことに絵画は池大雅(1723-76)を教えたこと でも知られる。このため贋作が流布してあとを絶たないほどで、また著作に『ひとりね』(注4.)などある文雅の人である。また、兵庫県城崎 の日本海を円山川からさかのぼり、生野の分水嶺を越えて姫路の市川を下り瀬戸内海までの大運河開削計画を立案、現に600両の基 金を積んで真剣に実現をに向けて努力したが、持ち逃げにあい挫折した。これをもってしても、いかに人並み外れたアイデアマンであったか がわかる。 
 閑話休題、柳澤権太夫屋敷前の西門口には、南北とも高石垣で築き上げた土橋があり、ここは郡山城“下馬”の1つである。例により 西門虎口絵図」↓を参照していただきたい。
西門図
 北側の堀は左京堀といい、屏風折に東方へ下っていって、やがて桜門土橋までつづいていた。素掘り幅8間の“かきあげ”堀で“たたき 土居”仕上げである。ここ西門脇から桜門土橋までの標高差は17.6mほどあり、このため左京堀は7か所の樋岸(堰のある堤)で区切ら れていたが、ほとんど空堀に近かった。西門土橋より南側は鰻堀(前述)で、この付近で水深6尺近くあった。

040◇西門土橋の仕組み
 土橋を構成する高石垣(高さ約8m)の南面の中ほどには“抜け穴”(「郡山城の抜け穴伝承は後述予定。)と称する積み石一個分ほどの 穴がある。種明かしをしてしまうと、こうした穴には2つの工夫があって、1つは導水・排水施設であり、1つは土圧緩和のための排水施設で ある。前者は雨水などを一定のところに導いて石垣や土塁などに支障を来さないようにする施設で、例えばところかまわず雨水などが流れ 出すとその下に別の、たたき土居などがある場合、降雨のためとんでもないところに滝状に水が集中して、大穴があいて崩壊してしまうこ とはままある。ゆえに堀端には「塵防」と称する雨水導水の工夫がなされていたのである。後者の方は、高い石垣には石垣面を糸巻き状 (弓形のひずみ)にあらかじめ凹ませて、“はらみ”による崩壊を予防してあるが、土橋のような通路は幅が狭く、ここ西門土橋でも天端石上 で幅約4m強であり、このため、石垣内に水が浸透すると土圧が予想外に増大して石垣に“はらみ”を生じてあっけなく崩壊を来すことがあ る。そのため、石垣内に浸透した水を中ほどに集めて、これを逃がすために考えら出されたきわめて巧みな土圧緩和のための水抜き施設 である。なぜならば、穴の位置が堀の水位よりはるかに高い位置に存在しているからで、これでは左右両堀の水位調節のために設けられ る“水戸違い”(堰)のような働きをするものでないことは明白であり、また、ここ西門は水位を調節する必要のないところにある。なお、ここ の土居の高さは4間4尺5寸、堀幅は8間あった。

041◇西門枡形
 土橋を渡り切ったところに左右両堀の底に向かって木柵が堀のなかまで突き出ていた。堀伝いの進入に備えたものである。ここを土居に 沿って左折すると、そこには西門(伏見城遺構)があった。西の御門と呼ばれたこの門の様式は冠木門、その以前は四つ足門(四脚門)と もいわれた建築様式であったことが知られる。南門と同じく城門としては比較的簡素な造りであったようだ。門を通過すると「西門虎口絵 図」では、正面に南門番所が対面して建っている。これは城図では最も新しいと考えられる『郡山城之図』(注2.)を参考にしたためで、それ より前は西門をくぐった左側に通路に沿ったかたちで建てられていた。これも幕末ごろの変化の1つである。番所前を回り込むかたちでUタ ーンして、左側(東方)にある麒麟曲輪を取り囲む土塀と、外側の鰻堀側にある狭間塀との間を松陰門方向に進むのがここの道筋である。 この麒麟曲輪との境に建つ土塀は南方の松陰門前にあった麒麟曲輪表門までつづき、その延長は90間半(約179メートル)あった。ま た、南門枡形内に麒麟曲輪への穴門(土塀内に設けられる門。)があったが、この門は南北に長い麒麟曲輪の中程にあった矢来より北部 を警戒・巡視するための通用門である。また、番所西横の土居上には狭間塀が建ち、麒麟曲輪境まで15間5尺で狭間数は矢狭間5つ、 鉄砲狭間8つである。また、西門内側から薪曲輪境までの狭間塀は薪曲輪の項ですでに述べた88間2尺4寸の狭間塀が建っていた。な お、西門から南門までの延長は鰻堀際で107間(約211m)あり、そのうち西門から薪曲輪境までは58間あった。

(注1.注2.柳澤文庫蔵。注3.『石造物郡山城趾転用材調査概要』南村俊一編/柳澤文庫発行 昭和50年。注4.『近世随想集』日本古典文 学大系/岩波書店 1965所収。参考)

★次回は<08 ◆麒麟曲輪、松陰門と松陰堀、割普請と刻印石>を予定しています。
08 ◆麒麟曲輪、松陰門と松陰堀、割普請と刻印石
<・麒麟曲輪・麒麟の二字の書・御霊屋、稲荷社への藩主参詣・麒麟曲輪内の変化・松陰の門・郡山城の鎮石・天下普請で復 興した郡山城・新しく加えられた縄張>
042◇麒麟曲輪
 現在、麒麟曲輪跡を中心とした旧城地の西北部には奈良県立城内高等学校(平成18年、県立「郡山高等学校城内学舎」と改称)があ る。明治39年(1906)4月、永慶寺前の地(現郡山高校桜花グランド南西部。)に開校され、のち大正9年(1920)4月、同所からここ麒麟 曲輪に移転した生駒郡立農業学校は城内高校の前身である。現在の校章が、江戸時代に日本に入った牧草、“うまごやし”(和名 ムラサ キウマゴヤシ)の三つ葉と麒麟のデザインがなされているのはこのためである(平成18年、校章変更)。同校は平成17年にその創立100 周年を迎え、そして、今まさに県立高校の再編統合という時代の大きな潮流のなかにある。(追記 奈良県立高等学校等の平成16年度 再編統合分により、同校は奈良県立郡山高等学校となった(平成16年4月1日施行、2年間経過措置)。
麒麟曲輪図
 ここに「麒麟曲輪絵図」↑を作成したので参照されたい。
 麒麟曲輪は城郭の縄張のうえからは二の丸の一曲輪で、柳澤吉里(1687-1745)の郡山入封後、その郭名を麒麟曲輪と改めたもので、 公儀向きの公称は“明地御用屋敷”の扱いであった。それ以前ここは「寒晒所」とか古くは「西ノ丸」と呼ばれたが、寒晒所の呼称は、第二 次本多家(忠平〜忠烈(ただつぐ)/1685-1723)が用いたもので、それ以前のことは必ずしも明確ではないが、正保の絵図(1646/本多 政勝の治政下)によれば単に侍町(重臣屋敷)になっているところである。また、郡山豊臣家時代(秀長-秀保/1585-95)には、麒麟曲輪 と緑曲輪・厩曲輪とをさえぎる松陰堀の構築は未だ無く、これらの三曲輪を引っ括めて西の丸(山里丸)と称していたと考察することができ る。
 近世のここ麒麟曲輪は、南門・西門の両虎口枡形を擁して城郭の主に西方に対する守りの拠点としての意義を有している。事あるときは 守城の兵力が縦横無尽に働きうるよう、建造物をほとんど設けないそのための“明地御用屋敷”なのである。そして、守城に無くてはならな い水の手の大井戸が北部に1か所、南部に1か所ずつ完備されてあった。
 曲輪の規模は、その東限りの松陰堀までと、北から西方にかけては左京堀に臨み、さらに、西門枡形から南東方向への通路沿いに“麒 麟曲輪惣構”と称された内塀が曲輪南端の松陰堀前までつづき一つの曲輪を形成していた。その面積は3191坪半である。曲輪の東側 は松陰堀の堤で土塀などは一切無く、松陰堀を境にして東方の緑曲輪・厩曲輪の狭間塀に対面していた。北側の土居には狭間塀長さ71 間2尺6寸が屏風折に左京堀を隔てて城外「堀之側」の武家地に向かって連なり、矢狭間16か所、鉄砲狭間31か所それぞれ口をあけて いた。また、これにつづく西方の土居上に建つ狭間塀は、西門までの長さ21間3尺4寸5分あり、矢狭間7、鉄砲狭間10か所が切ってあ った。
 なお、内側の麒麟曲輪惣構の延長は90間半(前出)で、松陰堀の近くには麒麟曲輪表門(柳澤時代は薬医門と推定)があった。ただ し、元禄15年の絵図による寒晒所の表門は約20間ほどもある随分立派な長屋門で、やはり曲輪内は明き屋敷となっていたので、この長 屋門の左右は土蔵であったとみてよい。とすれば、この時代の郭名(寒晒所)から穀類を貯蔵していた可能性もあながち否定はできない。
 なお、西門跡の一部ならびに麒麟曲輪の西北部は、城内高校の体育館建設のための事前発掘調査として平成元年(1989)9月18日か ら10月18日にかけて、橿原考古学研究所の手によりおこなわれている。発掘の成果として堀跡や井戸跡などが検出され、これらは筒井 家時代のものではないかといわれているが、正式な概報などはなされていない。

043◇麒麟の二字の書
 柳澤家時代ここを麒麟曲輪と称することになるのは、藩祖柳澤吉保(1658-1714)が五代将軍綱吉(1646-1709)から拝領したとされる “麒麟”の二字の書に由来するといわれる。筆者はこのことに関して確たる証左をもたないので、伝承として著聞であるとのみ認識している ところである。なぜならば、この書の拝領に関しては、吉保の一代の公用日録である「楽只堂年録」(前出)ほか関連の文献にも、そのよう に(後述)記されてはいないからである。
 付言すれば、こうした将軍からの拝領物は、諸家では代々これを“勤書”や“家記(家譜)”、あるいは「御筆之物」として記録することを常 とした。家名存続を第一義とした時代の当然の成り行きであり、また、これを支給した公儀側においても、将軍近侍の“小納戸”において万 遺漏無く日記や記録にとどめてあった。いわば拝領物は諸大名をはじめ武家のステータスとして重く位置づけられていたのである。 
 ところで、宝永6年(1709)正月10日、五代将軍綱吉がハシカのため薨じたため、柳澤吉保は、その子吉里に家督を譲って即、隠居し、 号を「保山」と称して駒込の別業(藩下屋敷・六義園)に移徒(いし)することになるが、このころの吉保は自らの晩節を念願して行動してい た時期であり、将軍薨去の前年の4月12日には、甲州岩窪村(現在、山梨県護国神社が建つ)にあった菩提寺隠々山霊台寺を龍華山永 慶寺と改めている。これは同3月、黄檗山万福寺(宇治)の悦峰禪師(1656-1734/万福寺第八世)が駒込に逗留していることから、吉保 は招いた悦峰禪師に寺号その他について諮っていたものといえる。はたして宝永7年、悦峰禪師をもって龍華山開山の祖に招き、8月15 日には永慶寺の開堂式を執りおこなっている。
 将軍薨去後、吉保は吉里にこう述べている。「こののち龍華山境内に清浄な地を選び、二間四方ほどの質素な位牌殿を建立するように、 結構な造りはかえって慎まなければならず、新築でありさえすけばそれでよい。吉里には、精進潔斎して、毎月10日にこの仏殿に参拝す るように、また、仏殿の門よりなかは必ず一人で参拝し、香炉に線香をささげるように、ことに、祥月には衣服に心を配り、献花、献茶など はかえって憚り(はばかり/恐れ慎むべきこと)になるので決してしてはならない。自分(吉保)は上野廟(寛永寺)へ毎月参拝し、中陰に は白木の香台を新調して線香を献じて座禅をしている。また、御筆の物(将軍親筆の書画)を掛けて拝むことはこれも憚りとなるので、日 夜、厚恩に感謝して座禅するのみである。こうしたことはほかの譜代大名衆も、厚恩の御代様(将軍)の仏殿のことは、内証にしてひそか にしていると聞いている。自分(吉保の死後)の精進などは、少々おろそかになっても、親の慈悲で苦しくはないが、“御上”のことについ て、吉里は少しもおろそかにしてはならない。また、権現様の御宮(東照宮)は、御三家のほかには陸奥(伊達家)、薩摩(島津家)の二 家、松平讃岐守家(高松)は特別であり、ほかの大名には成らぬことである」と指示し戒めている(注1.)。
 御上とは常憲院(綱吉)のことであることはいうまでもない。ここに吉保が吉里に戒めた大概を長々と述べたのは、今、設題としている麒 麟曲輪の名称成立に少なからず関わりがあると考えたからである。このことから類推しても麒麟の二字に関してほんとうは内証のことで、 表向きにされる事柄ではなかったことは容易に理解できる。したがって、これ以上掘り下げて述べる必要のないことではあるかもしれない が、近世大名の精神生活の一端を明らかにする逸事として、麒麟の書に関してもその可能性を推考して過ちを恐れずあえてここに記して おく。それは、吉保31歳の元禄元年(1688)3月28日に拝領の“御直筆・御自判の書”のことである。いかなる書であったかは“憚り”ある とのみ記して一切明記されていないのである。たとえばこの書が件の“麒麟”の二字の書(現柳澤文庫蔵本には無い)であると仮定してみ ると、それは“麒麟”が“白沢”などのように、“聖人”の出る世の前に現れる(中国の)想像上の動物とされることと無縁ではないと考えるこ とが自然であり、ここでいう聖人(儒教で理想の人物とする尭・舜など)とは綱吉自身を“なぞらえ”ていると思えるのである。それは次のよ うな事由による。
 元禄時代は文化面においては百花繚乱であったかも知れないが、徳川もすでに五代に至って太平の礎は成ったものの、未だ人心は大 きく乱れていた。こうしたことから綱吉は先代の家綱(1641-80)によってはじめられた文治政策を守成・強化して、荻生徂徠が提唱した「聖 人の道」をことのほか尊崇して実に“まめやか”な政治がおこなわれたのである。そうした時代背景があるなかで、綱吉がいかなる気持で この二字を書き与えたかは判らないが、拝領した当の本人にすれば恐れ慎むべきものと憚り、日録にその内容をあえて明記しなかったこと は吉保の厳然たる態度の現れである。
 そして、麒麟曲輪の御霊屋(位牌堂)は、享保11年(1726)4月に創建されて、地鎮の法は永慶寺二世寂宗元明和尚(-1757)により執 りおこなわれたのである。

044◇御霊屋、稲荷社への藩主参詣
 麒麟曲輪の惣構の土塀の南にあった表門(裏門は無い。)を入り、北へまっすぐに進めば飛び石のまわりに玉石を敷き詰めた参道があ り、“御霊屋”の斎垣(いがき)に達する。ここに御霊屋への門があって、ここで草履をぬぎ、“たたき”仕上げの床を少し進むと右折れの通 路があって、さらに進むと南向きに建てられた“御霊屋”がある。そして階(きざはし)をあがると御霊屋内に達するのである。
 毎月10日、寺社奉行の先立ちによる案内によって藩主が参拝、その間随行の用人と寺社奉行が刀をうしろに置いて平伏して御霊屋手 前でこれを待つ、参拝が済んだ旨を伺い、先立ちの寺社奉行から本日の随行者の名を披露する。参詣後一旦参道までもどって御霊屋の 西南に祀られている稲荷社にも参拝があり、稲荷前の薄縁(うすべり)に大小を帯びたまま寺社奉行1人が平伏、御霊屋参道の手前で御 用人が待つ、やがて参拝が済んだことを伺い、寺社奉行がまた随行者の名を披露する。以上は、寺社奉行の重要な勤方であった「麒麟曲 輪へ御参詣御先番の図(要図)」(仮称/注2.)に説明を加えたものであるが、図中には、雨天と晴天の致し方など詳しい書き込みがあり、 参詣時のありようが手にとるように分かる。現代人には到底理解し難い所作であるが、これがこの時代の格式・儀礼というものである。
 麒麟曲輪の御霊屋とセット(でないときもある。)で参拝がおこなわれた“麒麟曲輪稲荷”とはいったいどのようなゆかりがあってここに祀ら れたのだろうか。柳澤氏の稲荷信仰に関しては、「楽只堂年録」にその記録がある。宝永2年(1689)2月、神田橋門内の邸内に稲荷社を 勧請したのがそのはじまりである。このころの柳澤家は前年に甲斐府中城を与えられたいわば家の絶頂期にあったタイミングでもあり、府 中(甲府)城においても、「楽屋曲輪」や「清水曲輪」など各殿舎の全面的な修復をおこない、稲荷社を祭祀する「稲荷曲輪」さえあった。思 うに徳川家の産土神としてゆかりの深い山王権現(日枝(ひえ)神社/千代田区永田町二丁目)の末社で山王稲荷社を勧請したのではな いか。麒麟曲輪でおこなわれた綱吉の御霊屋と同列ともいえる参詣ということになればここまでは考えておく必要があろう。ちなみに、日枝 神社は太田道灌が川越山王社を江戸城の守護神として勧請し、のち徳川家康が徳川家の産土神としたのである。また、郡山三代藩主柳 澤保光が生後1か月の宮参りの宝暦3年(1753)5月4日、江戸の山王権現(日枝神社)に参詣し、名代役は奥用人長島兵庫定綱が務め ている。このように柳澤家では日枝神社に宮参りをすることを例としたであろうことは推量できるのである。
 ついでながら、稲荷社は郡山城内の各所にあった。二の丸屋形内に通称“奥稲荷”という社が祀られていて定期的に参詣、寺院へも祈 祷執行を依頼してあった。ほかに確認できただけでも4社ある。すなわち、柳曲輪(五軒屋敷)の北から、評定所跡に“八将社”(稲荷/現 在は植槻神社(植槻町)に遷宮。)、次に評定所の南隣の平岡宇右衛門邸跡にも1社(旧郡山中学校内。現存しない)、次の中屋敷にも1 社、(町制時代信仰を集めたが、現存しない。)そして、柳蔵跡の1社(現在三の丸緑地の一隅にある。)である。この内“八将社”に関して は、宝暦5年(1755)、評定所内に新規し勧請されたものである(注3.)。このほか城外の家中屋敷にも祭祀されていたことは想像に難くな い。
 稲荷の話題には事欠かない。江戸では下世話に“伊勢屋、稲荷に犬の糞”と言われ、屋号の伊勢屋(近江商人)、稲荷社、それに犬の 糞は掃いて捨てるほどあるというたとえである。また、“火事と喧嘩は江戸の華”というのがあるが、毎冬(歳末年始)のころともなれば江戸 では各所で大火が発生した。このため武家屋敷はもちろん各所に著名な稲荷社があった。つまり稲荷社は“火伏せ神”(防火)として、こと に武家社会を中心に信仰が厚かったということである。

045◇麒麟曲輪内の変化
 遠く中世における古郡山城が現在の本丸にあったころ、麒麟曲輪の地には「昔郡山の宮」があったことは、すでに述べた(郡山城百話0 3)。また、この地は「祠堂」、または「字祠堂」といわれたと、先学の大橋宗舟氏から聞かされていた。単に「御霊屋」か、「鎮守社地」なの かは分からないが、とにかくそういった伝承地であることはまぎれもないというのである。
  そして近世、柳澤家中の『御定』(注4.)のなかでは、毎月2日(前述)には龍華山(永慶寺)、毎月10日には麒麟曲輪へ藩主の参詣が 規定されている。“毎月10日”は常憲院(綱吉)の忌日を意味していることはすでに述べたとおりである。柳澤家代々の藩主は在国の年に はここに参詣したのである。補足を述べておくと、藩主が江戸に在る留守年における龍華山参詣は、名代として寺社奉行のほか家老・寄 合衆の重要な勤務の一つとして恒常的に執り行われていたのに対し、ここ麒麟曲輪への参詣については、藩主の名代などこれを一切許さ なかったことは言うまでもないことである。
 麒麟曲輪の様子も少しずつ変化している。それは城主(藩主)によるものと、藩政改革の“御省略”によるとみられるものとがある。前者は 柳澤家の入城後、曲輪中央の東寄りに南向きの“御霊屋”が建立され、それより西方奥に東南向きに“稲荷”が祀られた。そして、これら の北側をその形状に沿ったかたちで新しく矢来が設けられ、これによって曲輪が二分された。稲荷社の周囲は斎垣として木が繁茂してい たし、御霊屋付近にはそれはほとんど無い。ただし、東の松陰堀の南北にのびる土居には“かざし”の植え物があった。西門虎口の項です でに述べたように、この矢来から北方は西門虎口の枡形内から“麒麟曲輪惣構”の土塀に穴門(埋門とも。)があって、そこから麒麟曲輪 の北部を警護・見廻りしていたことは確かである。
 後者の“御省略”によるものとしては、元文3年(1738)まであった麒麟曲輪の番所はこれを廃止され、表門は平生は締め切りとなり、徒 目付・小人目付に昼夜見まわりをするよう改められた。
 そのほか、宝暦6年(1756)7月には、麒麟曲輪内に宝蔵が出来て(位置は不明)同月6日には祈祷が執行され、同年8月からこの宝蔵 に“御朱印(朱印状・判物・任官位記等・領地目録など)御長持”ならびに“御大切”な武器を収蔵され、以後、重要な場所柄として馬廻組 による重い勤番となっている。これは本来二の丸屋形の土蔵(宝蔵)に収蔵する方が“封印改”や土用や寒の虫干しなど管理上便利では あったが、建物などの建てこみを避け、松陰堀近くに移されたのは、何よりも火災・類火を恐れたからにほかならない。
 さらに、文政2年(1819)8月には、麒麟曲輪の宝蔵を御金蔵(大腰掛(前述)内/現郡山高校東グランド。)へ移築されたため、二の丸屋 形を警護した徒目付の宿直明けに“封印改”をおこなうよう変更されている。大腰掛けに移されたのはやはり内堀近くで消防用水の便から で、城近辺の非常時には“御朱印御長持”など鉄門内の陣甫曲輪に運び出してこれを守護することを普段から申し合わせていたのであ る。なお、朱印長持は、のち二之丸屋形松之間に移されていることが史料から見て取ることができる。
 これ以外にも断片的な史料は散見できるが、前後関係など体系的な文献となるには新出の史料や一定の時間を要することになるが、比 較的重要な事項として掲げておかなければならないのは、社会情勢の変化による江戸末期における幕府の大名統制の弛緩である。それ は、松平慶永(1828-90/春獄)・一橋慶喜(1837-1913)らによる“文久の改革”前後において顕著となる。参勤交代制、正室の在府制 (人質)の緩和をおこなったために、これを受けた諸大名側にもとまどいと混乱を来すことになる。もはや江戸参府あってこその大名だった のである。それはともかくも、こうした武家社会を取り巻く変革は、各藩内の諸事にも敏感に反応して次第に国元中心の生活に傾いた一時 期である。ここでいう麒麟曲輪においておこなわれてきた藩主参詣をとらえても、正月元旦、毎月10日、盆中の7月14日、歳暮12月28 日(ほか“御歓事”のときも。)と頻繁に参詣されるようになったのは、文久2年(1862)5月に江戸から帰城した、時の藩主柳澤保申(1846 -93)の治世からである。
 
046◇松陰の門
 “色かへぬときわの松のかげそへて 千代にやちよにすめる池水” などのように「松陰」は古来倭歌の題材としてことに嘉儀によく用いら れる。常に変わらない“トコイワ”の木であるとともに、長寿・節操を象徴し、江戸時代には家の弥栄を賀し好んで用いられた。また、ここに 掲げた和歌は、宝永3年(1706)2月11日、吉保が神田橋邸内に新築(同年正月15日上棟)した大納言行殿(御成御殿)に、徳川綱豊 (1662-1712/当時大納言として江戸城西の丸に居住、のちの六代将軍家宣(文昭院)。)が初めて訪れたとき、綱豊から吉保が拝領した 和歌一首である(注5.)。
 ところで、甲州府中城(甲府城)は、柳澤家の甲斐受封によって拠(居)城(当時、柳澤松平家は江戸定府。その子吉里の家督から参勤 がはじまった)としての造営がおこなわれたが、城内各所の名称もその際改められた。のち享保(1724)の移封後、ここ郡山城においても 同じように各所の名称を変更されている。このうち府中城(甲府城)と共通する名称も少なくない。掲げておくと、柳曲輪・柳門・毘沙門 (堂)・松陰門・梅林門・竹林門などはそれである。
 松陰門は、先代の本多家時代は“御新宅前御門櫓”と称され、柳沢時代これを松陰門と改められた。父吉保が府中で撰んだ名称の一部 を、吉里もまた踏襲したものである。松陰門櫓は、梁間3間、桁行5間で、窓1、出格子1となっていて、緑曲輪側から階段を登って櫓門(楼 門)に入った。門にはその雅名にふさわしく厳めしい狭間などはつけられていなかった。また、櫓台の高さは2間であった。なお、松陰門の 成立は郡山城元和拓修のときである(前述/麒麟曲輪の項。/「麒麟曲輪絵図」↑参照)。

・松陰門石垣補修工事
 松陰門の北側(左袖)石垣は、平成8年11月から同9年3月10日にかけて修復のための積みなおし工事ががおこなわれた。この工事 によって石積はもとのように復元されて旧観を取り戻している。天端石のいくつかが松陰堀に落下したり、あるいは持ち去られたりして無く なった不足の積み石10数個は、奈良市の柳生で切り出されたものを加工して補充されたが、この工事の施工をおこなった「飛鳥建設」の 現場担当者の言によれば、ここに使用されている石材の花崗岩種は、江戸時代この石垣が築造されたときにもやはり柳生から切り出して 使われた可能性があるとの教示を得ている。また、松陰門跡は、石垣の孕みや弛みのため危険視されていたところだっただけに望ましい 工事であった。なお、工期も比較的短期で済んだ要因は2つある。1つは切石の“打ち込みはぎ”で積み込まれていたためであり、今1つ は、石垣の解体時に発見されるはずでであった石垣の基礎部分を固める“枕木”や“根石”が存在しなかったため、基礎工事が比較的容 易に出来たからである。高々2間ほど、堀の底部からでも2間6尺ほどの石積みであるからとは言え、この事実は本当に驚きであった。全 面解体ではなかったことなど、ここのみをして公儀による元和期の郡山城拓修がいかに急がれた突貫工事だったか結論付けるのは早計 であるかも知れないが、それを物語るといってよい発見であった。なお、根石に相当する石材は、比較的堅牢と思われる粘土混じりの礫砂 層の地山を切土して直に据えつけられていたものである。写真↓右へ曲がると松陰の門跡、奥が松陰堀である。
松陰門前

047◇郡山城の鎮石
 “鎮”は、人柱伝説などとともに城郭にはよくある地神を鎮めるため“鎮もの”とともに伝承されることが多い、郡山城においてもその例外で はない。それは松陰門櫓台に“鎮石”(写真↓)なるものがあるとされている(注6.)。写真中央の大きな石が鎮石と伝えられている。
鎮石写真
 松陰門南側の横矢にあたる石垣内にひときわ大きな一目でそれと判る積み石(幅は1.75-1.66m、高さ1.08-1.05m、厚さが0. 5mある)があり、これが伝承の“郡山城鎮石”ではといわれていた。また、同時に反対側の松陰門櫓台北の石垣の西面上部にも同じよう に大きな石があり、かねてから南側の伝鎮石と一対のものではないかと思いながら、実測不可能な位置にあったために断念していた。そ の後、先に述べた平成9年の石垣修復工事の際、足場が組まれたために、はからずもその機会を得て実測したところ、やはり推量どおり 南北両方の2石は共の石であることを確認することができた。石を割るための“矢”(楔)の位置や寸法もぴったりと一致したのである。こう した大きな共石を城門の左右両袖に用いられていることに多少の意義を感じて“鎮石”ではないかと考えていた。
 ところが、平成9年1月11日、修復工事現場である北石垣の地中約1mのところから、五輪塔地輪1基が発見されてひと騒ぎとなったの である。明らかにこの地輪を地下に据えるために“狸掘り“にされ、また、方位に沿って、かつ、平面に埋設されていた。この付近は本丸な どとは違って切石のみで転用材が混じるところではないことなどから、伝承の“鎮石”と仮定し、移動などせずにそのままにされた。ちなみ に、この地輪(38cm四方の高さ26.5cm)には、上部にごく浅いほぞ穴があり、四面ともに胎蔵界大日如来を表す種子で、汎字の阿「ア」 (anutpada)を刻してあった。鎮石であったかどうかは別として、この工事の際、松陰門跡北側の検出地近くに“郡山城鎮石”の標石を据え られてある。

048◇天下普請で復興した郡山城  
 元和元年(1615)閏6月13日、「元和一国一城令」が発せられて、西国の外様大名をその主な対象とされたが、ここ大和では郡山城と高 取城を除き中世からの城塞はすべて破却(城割)と決められた。また、翌7月、伏見城に諸大名を参集せしめてはじめて公布されたのが 「武家諸法度」で、以後、江戸時代を通じてこれを踏襲・改正を重ねて武家統制の基本法となったのである。その本文中、第六条に定めら れたのが築城や城郭の取り扱いを定めたもので、「諸国の居城を修補するときは必ず公儀に言上し、言うまでも無く新規の城郭の構営は これを堅く停止(ちょうじ)せしむこと。城郭の百雉(ひゃくち/濠や塁の一定の規模)を過ぎることは、国の害なり。塁を高くし堀を深くするこ とは、大乱の本である」というものであった。そして元和5年、この法令に違犯して改易となったのが498000石、芸州太守福島正則 (1561-1624)であり、その旧家臣の一部救済したのが、時の郡山城主となる松平忠明(1583-1644)である(後述)。
 さて、元和元年(1615)7月、郡山城主となった水野勝成が翌年に入城のときは、豊家時代の建築物などは伏見城に引かれ、城は主の 無い“番城”となっていたためにまつたくの荒城であった。このために作事などの建築工事は勝成がおこない、普請(土木工事)は公儀直 轄(割り普請)とされ、大名らに手伝い普請を命じて郡山城は再築造(拓修)されたのでである(前述)。 
 それでも郡山城の場合、天守台をはじめ本丸など城郭の中枢に近いほど“野面積み”とか“牛蒡積み“といわれる古式の積み石工法が 用いられ、かつ、墓石や寺院の伽藍石など転用材の使用の頻度も同傾向にある。このために本丸などはあまり手がつけられていないなど とする向きもあるが、元和の拓修で豊臣時代の郡山城の痕跡は基本プランとしての縄張はともかくも、そのほかはほとんど拓修を受けたと みるところから見直して行く必要があるのではないか。それは石垣の隅石(角石)部分において使用されている石材が、自然石でなく“矢” (くさび)の入った石材を使用していたり、算木積みの完成度合いから推量されるのである。地中深く埋没された豊家大坂城のように、郡山 城においても小規模ながらそのように考えてよいところがある。毘沙門曲輪(後出)などは豊家時代より1間程度高くなってると考えられると ころであることをあえて提起しておきたい。いずれにしても郡山城において“総合学術調査”が実施される日を待たなければ確たるところは 解らないことである。

049◇新しく加えられた縄張
 さて、少し遠回りをしてしまったが、要は松陰門を中心として南北延長約320mの石垣は、元和期に新しく築造された部分で郡山城にお いてこれほど明確なところは少ない。
 新しく加えられた縄張は松陰堀を臨んで左京堀限りまで、南は南門虎口枡形まで伸びている。石材や石垣の積み方が同一であること と、わけても松陰門櫓台左右と、そこから南門付近まで伸びる部分の石垣には刻印石「符牒石」(写真左↓)の分布が濃く、筆者が確認で きたものは合わせて64個で、その種類は17種ある。刻印石のすべてをここで紹介することは紙幅の関係でできないが一部に複雑なもの があるもののその多くは「□・×・日、T・又・−(上下不同)」などの符牒(号)を用いている(写真右↓/松陰門櫓台(北)符牒石3ヵ所(□・ ×・T・)と下部には門“馬踏み”の入るL型の“はつり”が見える)。このほか城内には墨書のある積み石が2か所、刻印のあるものが1か 所確認できるのみで、ここ松陰門周辺の比ではない。ただし、松陰堀に面する石垣面の調査は従来堀にはばまれて未確認であったが、 松陰門および松陰堀の浚渫工事中(平成8年)に概観するところ、松陰門櫓台の横矢掛かり石垣の一部分を除いて、この区域では刻印石 は確認できない。
刻印石
 なお、刻印石については、公儀の命により近世初頭天下普請がおこなわれた城郭に多いことは理の当然で、この点、筆者は傍例として 篠山城と明石城に注目している。
 すなわち、篠山城は慶長14年(1609)徳川家康が天下普請を命じて、その女婿(督姫)にあたる池田輝政(姫路城主/1564-1613)をも ってその普請総奉行にあて、縄張りは藤堂高虎(1556-1630)がこれをおこなった。また、助役を命じられたのは山陽・山陰・南海をはじめ とする15ヶ国で20大名におよんでいる。ところで、実質的な縄張は高虎の家臣がおこなうわけで、ここに登場するのが郡山城で活躍し て、高虎から高禄20000石で召し抱えられたという、あの渡辺勘兵衛了(さとる)その人である。(本稿105◇増田長盛時代の郡山城( 渡辺勘兵衛の活躍と郡山城天守)参照)
 石垣の築造は、近江の穴太三人衆があたり、やがて名城篠山城の骨格を完成させている。一方の明石城は、さかのぼって関ヶ原の戦 いののち、慶長5年(1600)播磨(姫路)の太守となった池田輝政が、その八男利政をここに入れたが、やがて、徳川秀忠は、元和3年 (1617)利政を鳥取に替え、小笠原忠真(1596-1667)を明石に封じて新城経営を命じている。
 これらは、徳川家康によって西国の押さえとして第一石を打たれた姫路城や篠山城、そして、後継の秀忠による明石城などの一例を引 いたのみであるが、このころにもなれば、天下普請をおこなう組織的集団である助役大名および技術集団のシステムが確立していたとみ てよい。ここに篠山城と明石城を摘出したのは、これらの城郭の積み石に刻まれた符牒の文様が、郡山城の刻印とよく符合(その大きさな どは別。)するからである。この一点をしても郡山城の元和の拓修に、築城の名人とうたわれた藤堂高虎が何らかの関与をしたという説に は、もと秀長恩顧の家臣であって、郡山城内に与えられたいう“与右衛門丸”の伝承、かつ、豊家(城主増田長盛)郡山城受け取りの事実 や、藤堂流“犬走り”と目されてきた天守台廻りの遺構などとともに一定の評価をしなければならないだろう。しかし、これには何らの確証 がないこともまた事実である。
 とまれ、符牒石の研究は各城において進んでいるが、マッチングになお時間が必要であり、一つの管見をここに述べて今後に備えたい。
 話題は二転三転するが、松陰堀に面する緑・厩曲輪の石垣には麒麟曲輪方向に“枡形横矢”の手法を2か所に設けて死角のできるのを 防いでいる。これに対し、松陰門から南側に位置するの石垣は、正保(1646)までの第一期において、横矢は存在せず南門まで一直線に 伸びていた。ところが、本多政勝(第一次本多)の時代に、南門附近の形態は一変する。政勝により第二期工事は、南門内の奥(北)に新 しく東西方向の枡形を構成する城壁を設ける一方、真っ直ぐに伸びていた東隣の松蔵曲輪の石垣を改め、その中途から東へ折れ込んだ かたちで“横矢掛かり”を新造している。これによって近世における南門は堅牢な虎口となり面目を一新したのである。
 現在、南門までの石垣はもとの一直線に戻されたかたちになっており、第二期工事で政勝が設けた部分の石垣(約50m)は無くなって、 旧城にゆかりの無い後補(昭和30年前後)の見地石が積まれている。なお、南門の頬当門跡石垣の左右にも大きな相違点が見られる。 それは南門とその附近で、第一期・第二期(二度)にわたって工事がおこなわれた証左となっている。前者は、頬当門(南門)を正面から見 て右(東)側、後者は左(西)側である。その違いは明白で、第一期の元和の普請で構築された部分には刻印石が遺存し、第二期の勝政 の普請(南門枡形)の部分には一切それを見出すことができないからである。ただ、前述の松陰堀を臨む城壁は、すでに元和期には存在 しているに関わらず刻印石の分布が一部分に限られ極端に薄いのはどうしてか疑問は残る。

(注1.『源公実録』柳澤文庫蔵本(筆者が私に文意を要約した。)。注2.「豊田家文書」大和郡山市教育委員会蔵本。注3.「集草六編」(柳澤 信復)柳澤文庫蔵。注4.(小田本)柳澤文庫蔵。注5.「御年録抜書」柳澤文庫蔵。注6.『日本城郭図集成』佐藤左著/昭和48年。参考) 
★次回は<09 ◆松蔵曲輪、緑曲輪、厩曲輪>を予定しています。
09 ◆松蔵曲輪、緑曲輪、厩曲輪
<・松蔵曲輪・松蔵、舟入の発掘調査・緑門と舟入・松陰門裏の武者溜・緑曲輪屋敷の住人・緑曲輪屋敷の結構・縄張上の順 路・厩曲輪・内馬場と外馬場・柳澤家の馬術・家役と厩・厩の職制 >
050◇松蔵曲輪
 “松倉”または、“松蔵”の文字をあてるこの曲輪は、南門虎口枡形の東方に位置することはすでに述べた。曲輪へは、松陰門を入った “御蔵表通り”の右手(南)にあった“松蔵門”が唯一の出入り口となっていた。この曲輪は、縄張上郡山城の二の丸に属し、第二次本多家 時代は“西蔵”と唱えられていたところで、遡って、第一次本多家時代の「天和の絵図」によれば“内倉”(柳蔵を「外倉」)と称している。つ ぎに「松藏曲輪、緑曲輪絵図」↓を作成しておいた。
松藏・緑曲輪図
 その総面積は1055坪、曲輪の南方は鷺池堀に面して長さ20間4尺の狭間塀が建ち、矢狭間5、鉄砲狭間が11か所あった。また、東 は39間5尺の塀(狭間は無い。)が舟入(堀)に臨んで建ち、さらに、西方の薪曲輪ならびに南門枡形に対面した石垣上に延長48間4尺 の狭間塀に矢狭間13、鉄砲狭間29か所が設えられていた。なお、石垣の高さは薪曲輪向き2間5尺、南門枡形向きは1間5尺で、土居 の高さは曲輪南方で3間2尺、東方は4間である。 
 さて、松蔵曲輪の機能・実態を知るうえで必要な史料はきわめて少ない。ここでは松蔵曲輪の結構を各種の絵図を参考に述べておくと、 曲輪の南過半は築山状の高まりに植栽された竹藪のような樹木林が見てとれる。また、この築山状区域の地形が曲輪と並行せず、ここ から南門を経て薪曲輪方向へ伸びる直線、つまり東南から西北方向へ斜めに連続性を持っていることに気付く。このことは築城前の地勢 と少なからず関わっていると言えそうだ。あとでも述べるが(051話)近年実施された発掘調査の結果、調査を担当された小栗明彦氏(橿 原考古学研究所)から、曲輪全体が築造された(地山でなく)形跡があり、また、その地層全体が東南方向に向かっているとの教示を得た こととも符合する。さらには、松蔵になぜ築山をこしらえてまで“うえもの”があるのかと考えるとき、あるいは陰陽道の鬼門除けなども論証 の命題になり得るかも知れない。ちなんでここは城の裏鬼門角にあたるが、丑寅(北東)方向の“鬼門除け”は常盤曲輪にそれを認めるこ とができる。

 以上のことについては、南門枡形の形成に関して疑問点としたことと深く関連すると推量して、すでに記した“郡山城の謎【その4】”に含 めておく。(本稿07◆南門虎口、西門虎口、薪曲輪◇あとから築造された南門枡形 参照)
 それはさておき、ここで述べたように松蔵曲輪は築山区域(450坪余)を除くと、蔵屋敷地となる約600坪分は曲輪の北部に限られる。 表通りにあった松陰門の番所裏には長さ16間半の土塀があり、その東つづきに松蔵門(冠木門。)があった。門からさらに東方へは約3 間半梁に桁行約11間余の長屋(土蔵)が舟入堀境までのびていたが、享保(1724)の柳澤家入部当初、ここまでの部分、つまり松蔵曲 輪の“御蔵表通り”のすべては長屋になっていて、松蔵門の位置に長屋門が設けてあったところである(注1.)。また、曲輪内西方に1棟 (梁間3間半・桁行約10間)二戸口の土蔵、これと対面するかたちで東側に一戸口のおよそ3間梁に桁行6間半余りの土蔵がある。屋敷 地の南端には北部の築山とを分ける屏風折に設けられた竹矢来を背にして一戸口の土蔵(約3間半梁に桁行約6間半)があり、4棟それ ぞれ曲輪の四方から中央の広場に向かって配置されていた。
 松蔵は、二の丸屋形や緑曲輪などで需要のある食料庫としての機能を有していた。貯蔵米はもちろん玄米で、二の丸屋形表長屋内にあ った“舂屋”(精米所)で搗いて、同所“料理所”や緑曲輪の“台所”その他で用いられたのである。平常、ここは二の丸屋形台所向きに詰 めた台所頭の支配で、ここ松蔵の現場責任者は“御賄方并御酒菓子兼役の勘定衆である。また、目付が納米中や月に6、7度不定期に 夜廻りをおこない警戒に勤めていたところでもある。

051◇松蔵、舟入の発掘調査
 平成10年秋から翌年2月にかけてここ松蔵曲輪・舟入跡の一部(松蔵曲輪の中央部東寄り地区)で発掘調査が実施されている。郡山 高校の武道場改築のための事前発掘調査であった。調査は橿原考古学研究所(小栗明彦氏)の手で実施されたが、すでに学校敷であっ たのと発掘調査区域が隣接施設などとの関係から狭く限られたことから、旧城遺構の遺存も少なく比較的順当な調査であったようだ。筆 者も現場に立ち合わせていただいたが、舟入堀は学校敷地となってのち、その三分の二は埋め立てられ校地のほか25mタイル張りのプ ールが構築されていたため、これが排水のための土管やプール本体などの遺物が検出された。また、旧城郭の遺構としては、松蔵側の 舟入に面する塀(前出/長さ39間5尺。)の一部の柱穴列と舟入堀の土居の傾斜が顕著であった。また、曲輪内南側の土蔵跡の東端と 考えられる傷んだ建物基礎の遺構、さらには東の土塀跡内側に深さ3m余りもある深い土壙が2か所異様なかたちで検出され、穴の方向 がいずれも東南方向に向かっていて、かつ、地山のうえに築造された曲輪ではないとの担当者の見解を聞かせていただいた。
 それに印象的だったのが大量の精製粘土と遺物の混入が見られる赤粘土層が発見されことであった。これらの粘土層は隣接施設に近く 調査区域外のため残念ながらその全容は確認されなかった。堯山公(保光/1753-1717)“御庭焼き”を彷彿して興趣ある発見であった が、陶器焼成に適した粘土質でなく、土塀などの補修用に貯蔵された粘土であったかも知れない。
【追記】(松倉と“粘土”について)
 江戸期末の城郭近火の際の“定”(防火・消火)によれば、ここ松倉(松蔵)を守ったのは勘定・川除奉行とその配下の人々であった。松 倉が米蔵であることから米勘定は当然のこととして、注視をすべきは川除普請である。つまり、川除普請には粘土は欠くことができない材 料であることは知られている。一定量の“粘土”の備蓄が必要であったと推考できるからである(20070404)。

052◇緑門と舟入
 舟入(堀)は松蔵曲輪と東隣の二の丸屋形(居屋敷)を区切る堀であるとともに、その堀留が内堀とも接する位置関係から縄張り上きわ めて重要な堀である。この内堀・舟入の両堀が接する地点に設けられているのが“緑門”(高麗門)で、これは二の丸屋形側からみて緑曲 輪に対し意を用いた呼称といえる。先代の本多時代には“中御門”と呼ばれたが、それ以前は機能上の名称である“仕切門”とか“中仕切 門”と称され、柳澤時代に至ってその唱えを“緑門”と定められた。
 仕切門様式は二条城など近世各城においてどこにでも見られるほど類例は多いが、織豊期となるとそれは顕著ではない。とすれば、こ の仕切門(緑門)、さらに舟入の存在を豊家郡山城にまでさかのぼれるか一抹の疑義を残さざるを得ない。これを解明する鍵は、元和5年 (1619)に入城した松平忠明が二の丸に居館を創設したということに尽きるのではないか。舟入を“堀切”と称する記録もみられるのは、当 初の築造ではなく、あとから堀り通したことを意味していると考察すれば、まさに、緑門構築と同期の忠明時代の築造と比定することに無 理はないだろう。
 次に、緑門周辺の結構について述べる。松蔵門の横からつづく長屋(米蔵)の東方、すなわち舟入堀留の土居上には12間1尺の狭間塀 に矢狭間4、鉄砲狭間7が舟入に向かって設えてあった。また、表通り突き当たりの緑門台石垣のうえには南北に8間2尺の狭間塀(矢狭 間1、鉄砲狭間6か所)が建つ。ここを右折して緑門をくぐることになるが、もと門前の北側には東西方向に棟を持つ番所があったが、のち “御省略”のためか廃止されている。さらに、緑門北石垣上には7間7尺5寸の狭間塀(矢狭間1、鉄砲狭間3)が西方の松陰門に向かって 建てられてあった。また、緑門前を厩曲輪方向(北)へ左折したところには緑門北石垣につづく仕切塀があり、塀には左右に袖塀をもってい るが門などの施設は無い。ただし、天和の絵図によればここには冠木門と思われる門が建っていたところでもある。
 さて、舟入堀の奥行きは、二の丸屋形側の坤櫓下角まで貞享の絵図(注2.)では38間(34間/正保の絵図)、松蔵側で40間で、その 堀幅は11間半(8間半/正保の絵図)、水深5尺である。舟入には小舟を舫ってあり、ここから鷺堀へ出て東岸の堤まで行ける。そしてさ らに、鷺池堀堤下の蓮池を利用して柳蔵や鉄門土橋まで荷物を運んだ。また、城内各堀に繁茂する菱などの藻類や石垣の草取りなどの 作業(普請奉行支配(小普請))にも定期的に用いられていた。なお、舟倉の所在については時代によって移された形跡(二の丸屋形毘沙 門堂の位置ではない。)もなくはないが、筆者は舟入内を採っている。いずれにしても水城・海城のような水運の便として整えられた施設な どとは比較できるものではない。

053◇松陰門裏の武者溜
 ここで緑曲輪へ話題を移すにあたって、共通の松陰門守備とそのしくみについて触れておく。松蔵側の表通りに番所があり、平時には番 人が詰めていた。この番所横から短い塀が二口、衝立状に建ち、その奥には“武者溜”があった。ここは松陰門南側の横矢掛かり(側面か ら射る矢・鉄砲)のため設けられたもので、この石垣上には8間5尺7寸の狭間塀に矢狭間3、鉄砲狭間5か所設けられていた。また、通り 向かいの“緑曲輪”の方は、その入り口になる北向の階段をのぼったところは、緑曲輪の表門前の広場であると同時に、松陰門北側の “武者溜”として機能するところで、左(西)にのぼれば松陰門櫓二階入り口および松陰堀に面する石垣上に至る。ここには長さ6間2尺の 狭間塀に矢狭間1、鉄砲狭間4が松陰門横から北方にのび、西方の備えを担っていた。

054◇緑曲輪屋敷の住人
 緑曲輪はもと“御新宅”と称されていたが、柳澤吉里の入部によって改称された二の丸に属する一曲輪である。また、本多忠村時代ここ は“西之丸”と称していたところでもある。緑曲輪の結構については、ごく近年(平成9年)発見された「緑曲輪絵図」(注3.)によって明らか になったところである。いわゆる指図なので詳細が記載され、近世郡山城の有り様を解明するためには欠くことのできない貴重な史料の1 つである。
 緑曲輪はその前名が新宅というように分家屋敷を指すが、藩主家国元の長子(庶子)が成人して居住するのが本来のこの屋敷の意義で あろう。しかしながら、その時々の情況によることでこれを一様に述べることはできないのでここに一例を引いておく。
 たとえば、郡山二代藩主柳澤伊信の長男で延享4年(1747)8月、郡山で工藤氏八重子を母として生まれた柳澤信復(1747-1822)であ る。それまでは長子としての養育を一身に受け二の丸屋形西部屋に居住したであろう信復は、21歳(数え)の明和3年(1766)7月、ここ 緑曲輪に引き移っている。話は前後したが、この間の宝暦3年(1753)4月、江戸に生まれた嫡子柳澤保光が、その後もつつがなく成長し て家の世子となって、安永2年(1773)10月3日、保光21歳のとき、父伊信(信鴻)隠居、保光が柳澤家を継いだ。やがて、保光の国元へ の入部(初入城)は翌年7月と決定、一方の信復は入部直前の7月3日、緑曲輪から三の丸の屋敷へ引き移っている。信復はわずか7年 ここ緑曲輪の住人であった。また同時に、系譜上、兄信復は年長であっても庶出であったため家を継がず、系譜(のちの戸籍)のうえからも 保光の弟という取り扱いになる。これは近世封建社会の家制度による厳格な武家のしきたりである。もちろん、表向きはとにかくとして、 “長幼の序”の秩序に関しては何の変わりもないのである。信復は優れた文人として学問をよくし、わけても俳諧・狂歌は著聞で、筆記編 集した「集艸」、「信復聞書」などは化政期の文芸を知る貴重な史料となっている。そして、鶴寿と号し信復は76歳の天寿を全うして、保光 (1753-1817/65歳)より長生きした。大名の“弓馬の道”(大名奉公)の厳しさというべきか。

055◇緑曲輪屋敷の結構
 さて、緑曲輪絵図(「松藏曲輪、緑曲輪絵図」↑参照)によるとその敷地面積は1,080坪と記されているが、他の記録によれば1,207 坪となっていてここに多少の誤差がある。元和元年に近世郡山城が復興され廃藩置県までの256年間の歴史のなかで極々少ない史料 からデータを求めるのであるから、その間どのような変化があったか、すべてを把握できないからこのようなことはしばしば起こる。ただし、 この場合単純な誤記とは思えない。
 松陰門内を御蔵表通りに出たところ北側に緑曲輪への石段(曲輪外)がある。ここをのぼれば門前の広場(前述の武者溜/約26坪)に 出て、右(東)に表門である“御門”が建つ。棟門または薬医門様式と思われる表門は左側にくぐりが付く。門内左側に番所・腰掛け・二階 付きの長屋からなる1棟あり、直進すれば中門(塀重門)であるが左折して玄関に至る。玄関奥の間は溜の間、手前左(西)台所(勝手/ 膳立)があり“水流し”ほか北方戸外に井戸1基がある。先ほどの溜の間から“奥”への前室である納戸・御次、そして、玄関からの廊下と 台子の各部屋があり、ここを進めば主人の居室である居間に至る。居間は床の間・書院付きの20畳で南東二方に廊下と月見台を備えて いる。この居間から南西側に表庭が広がりを見せ、閑静なたたずまいとなっている。また、屋敷の主人は表庭東の中門から居間へ入るこ とを常とした。
 そして、居間を中心とする“奥向き”は、さらに休息を経て寝所に至る。寝所の東北には奥庭が設えられ本丸を望む絶好の位置にある。そ のほか厩曲輪との中ほど北に内塀と土蔵1棟があった。内塀から厩境の土塀までは広場で薬園・茶園・菜園、そして樹林が繁げけく植わ っていた。なお、屋敷の間取りなどについては、ここへ移徒する主人や家族、家人の構成によっても変更されることがあるので、「緑曲輪絵 図」はある時期の緑曲輪の屋敷指図ということになる。
 なお、昭和45年(1979)10月15日から同月27日まで、城内高校のグランド整備に係る事前発掘調査が奈良県立橿原考古学研究所 によって実施されている。排水路や礎石や排水施設の一部が検出されたが、部分トレンチ2本(長さ約130m)で調査を終えている。この 調査はここで述べた「緑曲輪絵図」の発見に先立つこと18年前のことであった。
 緑曲輪の南・東の外周は、曲輪入り口の石段横から東方へつづく南面の土塀は延長27間半あり、曲輪東南隅から北方の厩曲輪境ま で約36間半、さらに厩曲輪と緑曲輪を二分する内塀は、東西25間となっていた。また、松陰門から北方への松陰堀に面する石垣上には 狭間塀が建てられていた。緑曲輪から厩曲輪境まで延長38間2尺で矢狭間が7、鉄砲狭間が17か所あり、西方に向かって備えてあっ た。ここの石垣の高さは3間2尺であった。なお、緑曲輪は城代組の支配で、1868年の記録によれば城代の下に留守居番兼役2人と各 席より21人、鉄砲組同心21人で構成されていた組織である。

056◇縄張上の順路
 厩曲輪について話題を変えるにあたり、郡山城における城郭縄張り上(攻防戦時)の順路と、平時の通行形態の違いについて述べてお かなければならない。
 前者は、城郭の南・西側からの外敵の侵入に対し、南門または西門から松陰門を破られた場合、松蔵・緑・厩の3曲輪と二の丸屋形とを 仕切っている緑門は攻防上の要となる。ここを固めて左折させ、緑曲輪横の広小路に敵兵を誘導して、ここから馬場先門までの堀際約23 0mの長い道程を、本丸の天守曲輪方向から“内堀”越しに横矢(側面攻撃)の洗礼を受けながら侵攻しなければならない仕組みである。 なお、馬場先門を越えると、そこは本丸に属する一曲輪であった“常盤曲輪”となっている。
 また、後者においては、緑門を進んで二の丸屋形へ進むことや厩曲輪までは日常の出入りはあっても、その先の馬場先門、また、二の 丸屋形前にあった竹林門を通過して本城(本丸)内へ進むことは城代組や普請組など特定の者を除いては無かったのである。
 なお、内堀土居上の広小路の路肩には、土居を保護するため雨水を導水する“塵防”施設が備えられていた。

057◇厩曲輪
 厩曲輪(「厩曲輪絵図」↓参照)は、単に「厩」とも記され、先代の本多時代には「馬屋」としている。南北に細長く、かつ、“くの字”の不整 形地で、その坪数は1160坪あった。西方の松陰堀を臨む石垣上には緑曲輪境から長さ66間5寸の狭間塀(矢狭間15、鉄砲狭間34) と、曲輪の北方にあたる左京堀側土居上には35間1尺分の狭間塀(矢狭間7、鉄砲狭間21)が建っていた。“五十間馬場通り”と呼ばれ た曲輪の表通りには厩の建物が建ちならんでいるので塀のみのデータを引き出すことはできないが、厩曲輪境にある馬場先門の石垣上 には12間の土塀が建っていた。また、松陰堀石垣の高さは4間で、左京堀の土居は高さ6間6尺あった。
 曲輪内には、西方に、梁間約3間半に桁行43間半の“西の厩”(約40疋立)を中心に、“東の厩”(約10疋立)梁間4間に桁行き23間、 ここには馬を洗う“スソ(裾)場”や、馬具一式(鞍・轡・鐙・腹当・手縄などの皆具)を装着する“着置所”も含まれていた。それに、4間に5間 の“釜屋”(洗馬用の湯や飼料の煮炊き用などに用いられる大釜がある)、2間半梁に桁行7間の“鞍部屋”、3間梁に桁行7間の“飼料人 居所”や、その他、馬見所や物置小屋、西の厩北に井戸1基などがあった。
 なお、麒麟曲輪の冒頭でも述べたように現在、同曲輪は城内高等学校(平成18年、郡山高校城内学舎/前述)の校地となっているが、そ のほか厩・緑・玄武(一部)の各曲輪も同校の敷地(約31,600u)となっている。「厩曲輪絵図」↓に示した松陰堀北堀留から南へ約60 mまでは埋め立てられ、現在、麒麟曲輪から厩曲輪へ渡る通路となっているが、麒麟曲輪から厩曲輪へ入ったところの左右に積み石や五 郎太石などが多く見られるのは、もと厩曲輪西の土居上まであった石垣と土居の一部を通路確保のため崩したためである。「厩曲輪絵図」 中に後顧のため“注”として横断面を略記しておいた。
厩曲輪図

058◇内馬場と外馬場
 馬場に関しては城内に設置された“内馬場”と城外の“外馬場”とがあった。外馬場は、城西の丘のうえに“大職冠馬場通”が、城東の小 川丁(町)に“小川丁馬場”があった。いずれも郡山城総構の内側にあり、ともに井戸なども備えられていた。さらに、第一次本多時代(政勝 -政長)の藩政時代には大工丁(町)にも馬場が存在したのである(城下町百話/南大工町 参照)。
 一方、内馬場については第二次本多時代(忠平-忠烈)の貞享の家中図には五軒屋敷前の柳之門から桜門までの広小路(のち柳曲輪) を馬場と称したし(注4.)、柳澤時代も前述の外馬場とともに“三馬場”と称している記録もある。また、本多・柳澤時代初期には、二の丸屋 形奥の南端に長さ52間の馬場が見えるが、いつのころからか廃止されている。さらに、厩曲輪前の広小路に“五十間馬場通”があり、ま た、ここ厩曲輪内にもう1つの内馬場(約50間)があった。このように大名の家風や城主の恣意によって馬場は転々としたのである。

059◇柳澤家の馬術  
 柳澤吉保は学問はもちろん武芸を第一としてその鍛錬に励んだ。兵法は将軍綱吉の弟子であったし、軍学は甲州流(小峰玄人)、弓は 吉田・大和(倭)の両流を、鎗は無辺・宝蔵院・柏原流を修業、わけても馬術には傾倒して八丈・大坪の両流をたしなんだことが知られる。 吉保は「大名は武芸は一通りであっても、馬術を巧みにできぬ者は人前で恥をかくばかりか、火事など肝心のときの公儀御用が勤まらな い。」と述べている。家中に対しても武芸修練を重く申し付けていたし、当時江戸下屋敷であった本郷・茅町・駒込・小菅屋敷その他へ早 乗・歩行の競技をさせ足試しの鍛錬を義務付けた。元禄のころ、騎馬100騎用の馬具(皆具)に長柄・弓・鉄砲を藩邸に常備して火事や固 めの際の用心をしておくよう内々命じている。駒込邸には100疋立ての厩を設け、馬数60から70を神田橋門内上屋敷と10日替わりに入 れ替えていた。これは柳澤吉里郡山へ入部の20数年余りも以前のことであるが、柳澤家の家風と馬術(武芸)を伝えるエピソードとして家 老藪田重守(白鴎/1664-1747)が書き遺したもの(注5.)からここに紹介した。

060◇家役と厩
 さて、柳澤家は江戸においては大手御門番、国元では京都・南都(奈良)の火消し(守護)が基本的な家役(公儀勤め向き)として定めら れていた。また一藩の兵制上、馬(厩)御用は重要な役目を持っていたことは言うまでもない。
 ことに参勤交代の参府年にあたると、厩も一層忙しくなってくる。享保20年(1735)4月22日の柳澤吉里の郡山発駕の例を引くと、4月 初め、留守年中の“御馬御用”1人が家老のなかから任命される。4月の18日にもなると、江戸へ牽いて行く“将馬”の決定がなされ、“御 召”3疋、“御牽馬”2疋、別に貸し馬8匹の計13疋が選ばれて、目前に迫った発駕前の入念な馬の手入れや、厩の火の用心が徹底され る。ちなみに、このときの御召し将馬の毛附と名を紹介しておくと黒栗毛の“一筆”、栗毛“賢木”、栗毛“細眉”であった。22日発駕の当 日、貸し馬8疋のなかから道中預けにされる5騎(人と馬)が決定されている。やがて、郡山城を発駕した一行は、5月3日には無事着府し ている。
 それはさておき、同じ22日、火消方預けの7騎と早乗りの馬2疋、稽古馬7疋が選ばれて京都・南都の火災に備え、二番手までいつで も駆けつけられるようになっていた。また、11月27日、奈良春日祭礼(春日大社“御祭り”(おんまつり))に郡山藩から差し出された馬は、 恒例の神馬(将馬(いさせうま))17疋に、祭礼騎馬13疋であった。翌年は京都火之番の当番であったので、現地(藩壬生屋敷/下京 区)に遣わされる12騎が決定され、また南都火消しの5騎と早乗2疋も5月27日決定されている。(注6.)
 厩の経費については相当の費を要したと思われる。規定の賄方予算がどれほどか現在のところつかめていないが、ここで紹介した家役 などについては、参勤道中に2000両、京都火消しに1500両、南都と小泉火消しに100両、南都御祭りに100両などが藩費の見積もり である。
 ところで、生き物相手の厩勤務はなかなか大変だったようで、飼料の配合や馬の病気も多く“息命丹”などという調合薬を用いたりして治 療にあたる。御馬療治と称して春・秋両度に馬を休めて治療にあたる。このため馬を城外に牽き出すので、通り道になる松陰・西の両門で は門内地覆に菰(コモ)をかけて馬の足や地覆が傷まないようにした。病馬やものの役に立たなくなる損馬などがあるので馬の入れ替え はその都度おこなわれていた。のちに三代藩主となる柳澤伊信の初めての乗馬は、伊信12歳の享保20年(1735)8月25日で、このとき のお召し馬は“黛”であった。また、将軍家からの拝領馬で江戸からの牽馬なども入念な扱いがなされたのである(注6.)。なお、総馬数に ついてはやはり生き物のことで常に増減するし、馬術師範家などへ家臣預けもあったから、国元ではやはり約60から70疋程度ではない かと言えそうだ。もちろん、家臣が分限上備えなければならない“馬持ちの面々”の手馬は別である。
 
061◇厩の職制
 乗馬は武士のたしなみということで、家中では怠り無く稽古に励み、その度合いを見分するため御側向・御表向・乗方・御使者番や武頭 (弓鉄砲頭)、国元各番組の面々など順を追って御馬御用掛かりの家老による“御馬御覧”がある。未熟の面々には厳しい“御叱り”があ る。留守年でこのくらいだから藩主在国年におこなわれる“御乗馬御覧”や他の“武術御覧”は大変だったに違いない。厩曲輪の内馬場の 馬見所に藩主が出御、各門弟(大坪流)による乗馬が順次披露された。そのほか内馬場に限らず城外各所で“御覧”があったがここでは 略して記さない。
 幕末の職制(国元)による“御馬御用”や厩関係に勤めた者は、馬御用掛かりの家老のほか、年寄支配に乗方兼11人、馬御用掛兼帯 の年寄並1人の重役衆に、厩支配でもある大目附、目付から馬御用掛目付1人、そのもとに厩目付兼4人、馬医2人、同兼役1人、乗方兼 1人、さらに厩小頭兼7人、厩中間(釜屋番・口取り(地口之者)など)7人がいて国元の馬御用を勤めた。ただし、この厩中間7人以外に、 藩主に従い行動する厩中間(御口之者)が別に4人いて、江戸在府中は半扶持増しの手当が付いた。

(注1.「郡山藩家中図/享保九年」柳澤文庫蔵。注2.発志院蔵。注3.「豊田家文書」大和郡山市教育委員会蔵本。注4.「郡山城之古図(家 中図)」個人蔵/郡山町史所収。注5.『源公実録』柳澤文庫蔵本(筆者が私に文意を要約した。)。注6.「御厩向御用留/享保二十乙卯四 月」柳澤文庫蔵。参考)

★次回は<10 ◆陣甫曲輪、二の丸屋形>を予定しています。
 
トップへ
戻る

   Copyrights2003-2008. Hiroyoshi Yoneda All rights Reserved.     著作権等