大和郡山城ばーずあい -図説 城郭と城下町-       ごあいさつ | ア ク セ ス | 更新情報サイトマップホーム 


   
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 ◇中世の郡山城
 ここ大和郡山の地は奈良盆地の西方に位置して、東部の秋篠・佐保川と、西部の富雄川に挟まれたところに立地した。また城館の中心部は約
1キロメートル四方の小高い丘陵上にあって、その北東と東・南方向には平地が広がり、西北部は“西の京丘陵”の谷筋を幾重にも擁した天然の
要害地にあった。
 久安2年(1146)、東大寺の寺領荘園であつた清澄荘から分立した薬園荘は、のち、鎌倉時代末期の正安2年(1300)11月には、さらに薬園庄
と郡山庄に分立している。このことは大和国各寺領の盛衰を時代背景として起こったことであり、同時に大和武士の勃興を生んだ。のち、郡山に
は「郡山衆」と称された中殿、辰巳殿、薬園殿などの地侍が勢力を保持し、現在の郡山城跡一帯に館を構えていたのが中世の郡山の姿である。
やがては、丘陵地には郡山村が、その東の平坦地付近には薬園村がそれぞれ散在して村落を形成するに至っている。

 ◇筒井順慶の大和統一  
 永享2年(1430)、大和では筒井順永が筒井の地(大和郡山市筒井町)に築城して、城は平地の縄張りながら当時の大和一円では随一の堅城を
誇っていた。筒井氏とその一族はここを拠城として次第にその勢力を養っていたが、時は流れて天文19年(1550)6月、筒井順昭がわずか27歳で
病没し、その子順慶も誕生の翌年ということもあって順昭の弟順政がとりあえず後見となり、筒井家はこの急場をしのぐため順昭の死を秘し順慶
の成長を待ったという。このことが世に「元の木阿弥」のことわざを生むもととなっている。永禄2年(1559)8月、郡山辰巳氏の手引きにより信貴山
城(奈良県平群町)に入った松永久秀が、翌年、多聞山城(奈良市眉間寺山)の築城を足がかりに大和地方に強大な勢力をのばしていた。永禄7年
順慶の叔父順政も堺(大阪府)に客死し、このころ布施(大阪府)にのがれていた筒井順慶は、同9年、18歳のとき三好長慶の家臣、三好三人衆
(三好長逸・岩成友通・三好政康)に援けられて筒井城に還り、以後、宿敵松永久秀と善戦した。永禄11年、京に入った織田信長に久秀は一旦は
下ったが、元亀2年(1571)叛旗をひるがえしたため、天正元年(1573)信長に多聞山城を攻められ、信貴山城にのがれたものの城は陥落、久秀は
天正5年(1577)10月自害して果てた。順慶は、天正7年(1579)廃城となった多聞山城から石材を郡山に運び、そして小田切宮内小輔が築城した
郡山古城に入って縄張りをはじめていた(*)。翌天正8年には信長により「国中破城令」が発せられ、郡山一城を残して大和国中の城はことごとく
廃城となり、同年11月、信長から「国中一円存知」(37万石余)を与えられた順慶は、ついに大和の統一を成し遂げ、ここに永年の根拠地を筒井
から郡山に移した。順慶は郡山城の築城を急ぎ、やがて天正11年(1583)、城郭は一応完成して、その4月には天守閣をあげるところまでこぎつ
けている。

 ◇豊臣時代の郡山  
 筒井順慶は36歳の天正12年(1584)8月11日この世を去った。筒井氏は同年10月に筒井定次が家督を継ぎ郡山城にあったが、天正13年閏
8月には伊賀上野(20万石)への国替えを命じられている。そして、定次に代わって羽柴秀長が若山城(和歌山城)から、大和・紀伊・和泉と伊賀
において100万石余の太守となって、同年9月3日、兄秀吉とともに家臣ら5千人を従えて威風堂々の郡山入城を果たした。秀長は城郭の拓修に
とりかかるとともに、奈良において商売を禁じ郡山にのみに許すという城下町の繁栄政策を講じ、楽市とするため郡山に「箱本十三町」を定め、城
下に一定の自治権を許すとともに、その地子(地租)を免除している。そして秀長は、天正15年9月に権大納言に昇進して“大和大納言”と称され
ることになる。一方、城郭はこれまでにないととのいをみせ、この年には紀州根来寺の大門を海路大坂に送り、山城(京都府南東部)の木津に回送
して郡山に運び城門とするなど、大和の中心として大々的な城づくりがおこなわれて、ほぼ今日にみる郡山城の内郭が完成したといわれる。やが
て郡山は大和国にならびない都市として急激な発展を遂げることとなった。その矢先の天正17年、秀長は大病にかかり、翌年の10月には大坂
から兄秀吉が病気見舞いにかけつけている。小康状態ののち、ついに天正19年1月22日、51歳で大明秀長は薨じた。わずか6年足らずの郡山
在城であった。
 秀長の跡、養子豊臣秀保が郡山豊臣家を継ぎ、養父秀長の政策を守成して箱本制や地子免などを踏襲された。また城郭の整備も秀長遺志を
継ぎ引きつづきおこなわれて、このころには天守閣(七重)が完成されたという。文禄元年(1592)3月、秀吉の“文禄の役”に秀保は出陣して名護屋
城(佐賀県鎮西町)に布陣、翌年10月には郡山へ帰っている。ところが、文禄4年(1595)4月、秀保は痘瘡のため17歳で夭折した。また、十津川
(奈良県十津川村)で水死したともいわれるが妄説であろう。同年7月には、のち豊臣五奉行の一人となる増田長盛を22万3千石で郡山に封じた
ため、郡山豊臣家はわずか二代10年で絶えたのである。
 長盛は、“文禄の役”後の世情の不安に郡山城の総構えを整えるため、秀吉の命により入城の翌年には総堀の普請に取りかかっている。この
ため秋篠川の流路を変えて旧川跡を城の外堀とするなど、工事は急ピッチに進められ、城下町や武家地を取り囲む、約48町13間におよぶ外堀
と土居が完成、街道に接して柳町・高田町・鍛冶町・九条町の四大門を開いたのもこのときで、ここに筒井順慶から数えて20年の歳月を費やし
て、郡山城は内郭・外郭とも完成してその威容を誇り同時に城下町も整った。
 
近世郡山城の復活  
 慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉は身まかり、同5年の“関ヶ原の戦”ののち同年10月、郡山城主増田長盛は除封となり、城請け取りのため本多
正信・藤堂高虎が郡山へ来ている。このときの城引き渡しに、その“致し方やよし”と後世まで勇名をはせた長盛の家臣渡辺了(勘兵衛)の活躍が
知られている。この年大久保長安が郡山在番・奈良代官(異説あり)となって公儀より遣わされ、やがて慶長12年には郡山を去った。その後も郡
山城は廃城とはならず山口直友、筒井定慶と在番時代がつづき、そして、元和元年(1615)4月の“大坂夏の陣”により豊臣氏は滅亡する。天正1
3年の“豊臣氏”改称からわずか30年であった。この年7月、徳川秀忠は伏見城に諸大名を集めて十三か条からなる「武家諸法度」を下し、ここに
徳川政権の基礎固め“元和偃武”は成った。
 同年7月、郡山城主には水野勝成が軍功あって6万石で刈屋(愛知県刈谷市)から移されている。長い年月の番城となっていた郡山城は荒廃
し、その復興のため勝成は城下の洞泉寺(洞泉寺町)を仮宿所として城の修築に専念、石垣や堀などは公儀直営の普請で進められるなか、建物
などは勝成の“自分普請”でおこない、ここに近世の郡山城は復興した。元和5年8月(7月)、水野勝成に代わって松平(奥平氏)忠明が12万石余
で入封し、この年廃城となった伏見城の城門6基を移築した。忠明は新しく二の丸に居館を構え、また城郭東の三の丸曲輪を重臣の侍町に(のち
の柳曲輪・五軒屋敷)にするなど家中屋敷も次第に整った。こうして近世における郡山城の内郭はここに定まったのである。
 そして、元和5年(1619)上洛していた将軍秀忠が、同9月9日、大和郡山城を旅館とし、翌日には南都春日社へ参詣し、また、寛永3年(1626)
9月17日、今度は将軍家光が大坂城より二条城への途次、郡山城に立ち寄りがあり、松平忠明はこれを饗応している。このようにあいついで将
軍家の光臨をおうむった忠明は、やがて寛永16年(1639)3月、18万石で播州姫路城主となり、同5月、入れ替わりに姫路から本多政勝(第一次
本多)が19万石で郡山城主となる。大藩の城下となった郡山は、政勝によって武家地の拡張がおこなわれることになった。たとえば、東部“総構”
の一部を拡げて武家地とするなど大規模なものであった。これによって郡山城総構は1町分延長され、合わせて50町13間となったのである。正
保元年(1644)公儀は、全国に国絵図とあわせて城絵図の作成を命じているが、このころになると全国的規模で進められていた慶長度の築城ブー
ムや、各大名などの所領も一応確定した時期にほかならない。以後、城郭に関しては、「武家諸法度」の定めに則って、きわめて厳密に“元の如く
修補たるべし”を遵守され、江戸時代を通じて推移することになる。
 その後、延宝7年(1679)には8万石の松平信之(藤井氏)、貞享2年(1685)には12万石余の本多家(忠平/第2次本多)があいついで入城、やが
て、本多家は享保7年(1722)、本多忠村の早世によりその遺領のうちから、幼少をもって5万石で家を継ぐことを許された本多忠烈も、翌年11月
夭折してここに本多家は絶えた。忠烈わずかに8歳であった。
 これによって、享保9年3月、甲斐府中(山梨県甲府市)より柳澤吉里が国替え(国主格)となり、郡山藩15万1200石余は、以後、伊信(信鴻)・
保光・保泰・保興、そして、6代保申の明治4年(1871)7月、廃藩置県の政治改革まで柳澤家の治世は147年間つづいたのである。
 大和郡山はいずれも徳川氏に近い大名が封じられる、いわば畿内屈指の雄藩であった。この間、明治3年(1870)3月、城郭を破壊にまかせて
修理しないことを許された郡山城も、やがて廃城と決定され、明治6年3月には、立ち木・建物のみを売却のため入札にかけられてつづいて撤去さ
れた。搬出された櫓や木橋、その他の建物がどうなったか定かではない。ただ、城下の町屋には各城主の定紋入りの鐙瓦や軒瓦などがそこここ
に転用されて見受けることができたが、建替えなどにより最近は随分少なくなっている。なお、昭和35年(1960)7月28日、郡山城跡の「本丸及
び毘沙門曲輪・法印郭・玄武郭・陣甫郭等」中心部分は、奈良県文化財の史跡(史第17号)指定を受けて今日に至っている。
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