−生まれてこなければ 本当はよかったの・・?
空気が凛と澄んだ、そんな夜だった。
まだ、夢は現実の一部とも認識できていなかったころ。
闇色に染められた空は、でも不思議と優しくて、それはその闇空を唯一ほのかな光でひっそりと、美しく飾る。
月の光。
『きれいな花だね。・・・名前は?』
−この花は、砂月華。
何年かに一度、月がこの花の蕾を白く輝かせる一日だけ、花を咲かせることができる・・・
『一日だけ・・?・・可哀想・・・』
−どうして?・・ずっと欲しかったものをもらえたのだから、幸福だよ。
『じゃあ、どうして・・あなたは−』
一筋の光。白い月光は、その花をとりまく。かすかな影が地面に落とされる。
月は影、太陽の光にいつしかすべてを奪われていく。静かな闇にのみ、その存在は輝く。ほんのりと、闇色を優しげなものに変えるために。
照らすことのできない、光は・・それでもよかった。
その一瞬だけ、何かを優しく包んであげられるなら。
その光に、包まれることができるなら・・・。
とても、きれいね。
白い頬に、手を添える。冷たい頬は、白く、でもきれいにうっすらと色づいていた。
−わたしは、きれいじゃないよ。だって・・・
『幸せなのに、どうして哀しそうなの?この花、なんだかとても・・・』
何も残らないことが哀しくて。
でも、怖くて。
哀しいことが怖いのではなくて、それがすべて、消えてしまうこと。
−わたしがいることは・・いけないのですか?
それでも、あのとき、一瞬でもいいから願ってしまったんだ。
たったひとつのことを・・・・。
◇ ◆ ◆ ◇
「ねえ、どうして泣いてるの?」
思わず声をかけてしまってた。とても、可愛らしいのに。大きな、くりっとした瞳。頼りなげに、見つめてくる瞳がとても淋しげで。涙が瞳を濡らしている。
「どこか、痛いの?」
それまでじっと自分を見つめてきた瞳が、かすかに揺れる。その後、不思議そうにちょこんと首をかしげた。唇が微かに言葉を紡ぐ。
−私が・・・・・の?
澄んだ、きれいな声。でも、聞き取れなくて・・。
違う。聞き取れなかったんじゃなくて。
・・ソウ・・・ナンテイッタンダロウ。
いつも、ここで終わり。大切なことが、あったはずなのに。
彼女の、白い頬と紅い唇。
月の雫が、彼女に降ってくる。消えそうなくらい、儚げで、柔らかな笑み。
その笑みを象徴するような、小さな白い花が彼女の涙を優しく受け止めていた・・・。
「椿!!早く支度しなさい!!」
がばっと、布団から跳び起きる。あわてて枕の隣にある目覚まし時計を引っつかむ。
時刻は7時00分。なんですとー、な時間だ。
学校へはダッシュで行けば20分でいけるけれど、今日は朝練がある日なのだ!
「なんで、目覚ましならなかったのお・・・!?」
もう愚痴を言う暇も無い。遅刻にはうるさいお姉様がたを思い浮かべて、ぞぞーっとする。集合は、体育館に7時20分。どう考えても間に合う時間じゃない。
とにかく、あきらめるのはまだ早い!とばかりに、必死で着替えてだだだーと階段を駆け降りる。
「おかーさん!どっかでパン買ってくから朝ごはんいらない!!」
そのまま洗面台に直行する。
「早くしなさい!渉ちゃん待っててくれてるんだから!」
「渉、迎えに来てくれたの!?」
こりゃいかん、と大慌てで歯を磨いて、顔を洗って、簡単に髪を整える。ショートだから、水で濡らせば簡単に整えられる。
玄関にむかって廊下を走り抜ける。まるで、朝から運動会のようだ。
なんで、練習前にこんなに疲れるんだろうって感じだ。でも、それでも・・・!
「わたるっ!!ごめん、待たせて!」
「つばきちゃん。いいよ、そんなの。それより、おはよう」
にっこりと笑いかけてくれる、その笑顔があまりにも可愛くて。朝っぱらから、ぎゅうっと抱き締めたくなってしまう。ええーい、抱き締めちゃえ!って感じに、腕の中にきゅうっと渉を抱き締める。
「もう、もーう、なんでこんなに可愛いの!!」
きょとんとした、大きなくりくりの瞳。小さくて、紅い唇。ふわふわ癖毛の、黒髪に、華奢なコンパクトサイズ。典型的、童顔な美少女(?)。
「つ・・椿ちゃん・・く・苦しいよう」
じたばたあばれるちっちゃな手足は、なんか小動物みたいでかわいい。
「・・つばき・・じゃれるのもいいけど・・時間やばいんじゃないの?」
毎朝恒例の抱擁タイムに、何の動揺もない落ち着いた、母親の声・・。
うう・・と唸ると、椿は仕方なさげに渉を離すと、ぱっぱと靴を履いて外に出る。
「・・じゃあ、いってきまーす!!」
ちらっと玄関にかかる時計に目をやると、既に針は5の数字にさしかかっている。世界記録の速さで走っても、到底間に合わないことに気づいたが、一生懸命走っている渉を見ると、もういいよ、とも言えず・・。
そもそも、遅れた原因も、というよりそれ以上に、早く学校へいかなきゃいけないのは椿であって渉じゃないのに・・。
そう、いつもいつも・・、この光景は、ずっと前から・・・。
−ずっと前って・・・いつから?
「え・・?」
だれかの声が、小さく耳に入ってきた。その瞬間、ずきんっと腕に痛みが走る。
「あ・・・」
「・・つばきちゃん・・?」
ちりっとした痛みに思わず足を止めて腕を押さえてしまった椿に、渉が心配そうに振り返って駆け寄ってくる。
その渉にだれかの声が・・・、といいかけてなぜかその言葉を椿は口にすることができなかった。
(え・・・)
(渉・・なんで、泣いてるの?)
大きな瞳からゆっくりとあふれ出す、涙。白いほおを、ゆっくりつたっていく。さっきまでと、微妙に何かが違う。
きれいで、汚れていないのに。その涙は・・・
(ドコニ・・オチテクノ?)
記憶の底。知ってる声。
「・・きちゃん、椿ちゃん!」
「あ・・・」
いつの間にか閉じていた目をはっと開ける。
「どこか、痛いの?」
心配そうに、押さえていた腕に視線を落とす渉が目の前にいて。
ゆっくりスローモーションのように、椿を見上げる。今にも泣きそうな、瞳。
でも・・・
(泣イテ・・ナイ)
ブブー!!
「あっ!」
突然、後ろからクラクションの音が投げかけられ、止まっていたかのような空気の流れが再び起こり始める。車の排気ガスが、空気を澱ませる代わりに、日常の世界を連れてくる。
さっきまで押さえていた腕から、手を放す。やっぱり、まだ痛みはある。
「ごめん、渉。なんか、急に腕が痛くなっちゃって・・」
みたところ、なんともなってなくて。ひねったわけでもないし、筋肉痛のぶりかえしだろうときめて、その話を終わらそうとする。
「椿ちゃん!待って!」
再び走りだそうとした椿の腕をつかんで、渉は少しこわい顔でストップをかけた。
「痛いんでしょ・・、いつもの・・やってあげる」
もう朝練なんてどうでもいい状態になってはきているが、それでも今度は朝礼にやばい時間になりつつある。
「すぐだよ、ね、椿ちゃん」
ちょっと首をかしげて、寂しそうに渉に見つめられると、何も言えなくなる。
しぶしぶと腕を出して、痛い所を教える。見かけによらず、頑固な美少女はその椿の反応に満足して、にっこり微笑む。
「でも・・。あれやったら、渉が・・」
「大丈夫だよ!ね!」
だって朝だから、というよく分からない理由で無理やり納得させられる。
そう。アレ。
椿は自分の腕を優しく包み込むように握る、渉の手に集中する。ぽわん、っと何か温かいものがその中から生まれてくるようで。肌触りのいい空気。きれいに浄化された、力。渉の小さな手から、神聖な力が伝わってくる。
自然な空気。かすかにきらめくその空気は、でも・・・。
「きれいだね・・いつ見ても・・・」
自分にだけ、椿にしか見えないそのオーラ。
痛みが徐々に消えていく。
優しくて、綺麗な、渉そのもののオーラの色だと椿は思う。目を閉じる渉の横顔。
不思議なくらいに、可愛らしくて繊細。そして。不思議な力。
痛みを消してくれる、渉の手。ヒーリングの力。
しかも、その癒しの力は。
『椿の痛み』だけを取り除く力だった。
−どうして、ツバキナンダロウ・・・?
「だって、私、椿ちゃん大好きだから・・・」
「え・・?」
ふいに届く渉の声。揺らめくように、言葉が出ない。
いつも、見慣れた可愛い笑顔。少しの澱みもない、清流のような透明感。
「椿ちゃんは、とても綺麗・・」
すぅっと、ヒーリングのオーラが消えていく。すべての痛みを自分に引き寄せてしまうかのように。
にっこりと、しゃがんだままの位置で椿の瞳を捕らえる。小さな唇から言葉を紡ぎ出す。
「椿ちゃんは、私の存在価値なんだ」
「・・渉?」
ゆっくり渉は立ち上がりながら、人差し指を空に向ける。思わずつられて椿はその指し示す先に焦点を合わせた。
青と白。そして・・。
まだ柔らかな、朝の光。たった一つで、すべてのものに無限の色彩を与えるもの。
「すべてのものに光を与えてくれてるけど、それに気づかなければ意味がない・・」
渉の指は、ゆっくり下げられていく。その軌跡はしっかりとした円を描いているかのようで、どこか定まらなくて。その終着点は、どこにあるのか。
がやがやと騒がしくなる通学路。現実の風景。でも、それは現実のようでなくて。
「渉・・」
「・・つばきちゃん、遅れちゃうね。学校行こう」
まるで何もなかったかのように、うながす渉の言葉に、ゆっくり導かれる。
光の中の光じゃなくて。そう、確かこんな感じをどこかで・・。
でもそれは途中で途切れる。というのも、遠くでチャイムの音が聞こえて来たからだった・・・・・。
◇ ◆ ◇ ◆
「あ、椿!渉!おはよー」
「おはよー」
朝礼時間には何とか間に合い、一時間目の授業の支度の間に、友人にあいさつ。結局、朝練には間に合わず。午後の部活の時間が怖いな、と大きなため息をつく。
「椿ちゃん、まだ痛い?」
それに過剰に敏感に反応して、渉が心配そうに尋ねてくる。でも、はっきりいって、自分よりも渉の顔色の方が気になる。朝よりもいくぶんほおの色素が薄くなっているように思える。
「痛くないよ。それより、渉の方が顔色悪いよ」
やっぱりヒーリングのせいかな・・とつぶやく椿の声を聞き付けて、数人の女子生徒が興味津々に話に加わる。
「それって例の渉のヒーリング?!」
なになに!?ときいてくるクラスメートに朝起こったことを手短に話す。
ふうんとみんなはその話に聞き入る。
「でもさ、不思議だよね。なんで椿だけなんだろう・・」
椿だけの捧げられる、渉のヒーリング効果。朝から妙に気になっていたこと。ずっと昔からのことなのに、全く疑問もなくて。なぜ、今になってこんなに気になるのか。
「いつからなんだよ、それって?椿と水沢さんは幼なじみなんだよね?」
落ち着いた声。いつも、こんな話には加わらない人物の登場で一瞬場がしんとなる。クラス委員長、緒方譲。椿の所属する剣道部の、男子部員でもある。クールで秀才、しかも超美形。近寄りがたい存在とされる中、それでもなぜか椿にだけ、不思議と『普通に』接してくる。渉といい、譲といい自分は美少女・美形に好かれる素質でもあるのかと思ってしまう。
思考回路が全く違う方向にとんでいきつつも、譲に落ち着き払った声と態度で見据えられて、椿は意識が引き込まれていきそうになる。譲の細い切れ長の目。
椿をちらっと見た後に、焦点を彼女の横、渉へと移す。お互いを写しているかのようで、もっと違う何かを見ているような二人への違和感。
「渉・・、譲?」
椿の呼びかけに答えることもなく、渉は譲ににっこりと笑いかける。
普通なら、ため息が出るほどの無邪気な笑顔だが、水を打ったような静けさでは、ある種の現実感のなさすら感じる。
「わたしの力が椿ちゃんにしか効かないなんて、当たり前だよ」
澄んだソプラノ。澱みなく、心からの確信。
ただじっと見つめるだけの譲に、渉はきっぱりと答える。
「椿ちゃんは、私を『見つけてくれた』人だから」
「じゃあ・・」
教室の扉が開かれるとともに、発せられた質問。
「起立!」
がたがた、と椅子を引く音が聞こえてくる。先程の空気は一新される。
すべて、何もなかったかのように。現実の繰り返しが始まる。
譲と渉の間に交わされる、疑問文とその答え。
日常の音にかき消されるように、それらは、椿の耳に届くことはなかった。
椿の少し前で先生が黒板にいくつかの和歌を書き並べる。一週間後の中秋の月にちなんでのことだ。
そういえば、何年も前、確か月の光の綺麗だったときに、何か・・・あった気がした。とても大切なことで、そう、それから何かいつもじゃないことが起きてる?
・・それがなにか思い出そうとするほど、頭から消えて行く感じに襲われる。
今年の中秋の名月は、10月2日。
(そういえば、この日は確か渉の誕生日だっけ・・・)
そう、この日はいつも・・・
(いつも・・って、いつから・・)
気づくと最後には、『ここ』に戻ってくる思考。堂々巡りを打ち切りたくて、椿は意味も分からない和歌を、機械的に写すことに集中したのだった。
◇ ◆ ◇ ◆
昔、お母さんから聞いた話。
とても、不思議で、とても大好きなお話し。
お母さんが話してくれたたった一つのお話しだから。
お母さんの腕の中で聞いていたとき、その話はなんて不思議で、素敵な話だろうと思った。
でも、すべてを失いそうになったとき、初めてその話が哀しく感じられた。
−生まれてこなければ 本当はよかったのに・・・・
太陽に捨てられてしまった、砂月華。
光は存在しているけれど、それはすべてを拒絶する。
−生まれてこなければ 本当はよかったの・・?
自分と同じだと思った。どうしても、『最期』にその華が見たくて、足の思うがまま、夜の世界へと歩きだす。
そして、見つけたけれど・・・。誤っていることに気づく。
砂月華は、自分と同じじゃないということ。
−可哀想・・・
(可哀想じゃない・・だって・・・・)
−じゃあ、私は?
「水沢さん、学級日誌かけたかい?」
人気のない教室。カーテンの閉められていない西側の窓ガラスから、強い西日が差し込む。時折、どこかでクラブの笛の音が聞こえる以外、静寂が教室を支配する。
渉は記録者の欄に自分の名前を書き込むと、ゆっくりと顔を上げる。
「・・後もう少しだけ、かくところが残ってるから・・・」
静かにそういうと、再びシャープペンシルを動かす。
かりかりという、音も再開する。
静かな足音を立てて、渉の座る前の席へやってくると、椅子の引く音がして学級日誌の上に、影を落とす。
「水沢さんが書き終わるの待ってるから・・」
「・・・緒方君は、今日部活はいいの?」
「いいよ」
あまりにもはっきりした答えに、渉はちらっと譲を見上げる。でも、それ以上、渉は譲を見ることもなければ、譲も教室の窓に視線を固定したままであった。
教室の窓ガラスがすべて閉められているせいなのか、空気の動きが全くなく。人の存在を忘れてしまったかのようだった。
異次元にいるかのような錯覚。
かすかな物音すら聴こえなくなる。
その時、かたん、と風にあおられた窓ガラスが現実の音を伝える。
「あした、だね」
視線を変えることなく、ぽつりと譲はつぶやく。謎掛けのように、一言だけ。
渉の手は、それでも休むことなく動かされる。聴こえていないかのように。
そんな渉の様子に視線を移し、少し目を細める。
ふわっとした渉の黒髪に、譲は自分の指を絡める。
「・・・とても、綺麗だね。変わってない・・」
少しの間指でもてあそんだ後、するっとそれから離れてしまう。
ぱたん、という音とともにシャープペンシルをおく音が響く。
「緒方君、ごめんね、遅くなって」
学級日誌の冊子を譲の前に置いて、いすから立ち上がる。黒板の前に立ち、明日の日にちと日直当番の名前を書き換える。チョークの粉が、少し白く舞い散る。
十月二日、水曜日。
「・・・お前は、これでいいのか?」
「・・・・・・・・・」
日直 向井 椿・・・。
自分で書いた名前を見つめる。あのときから、いつもそばにいてくれた存在。
「・・水沢・・違う、渉」
ふいに、後ろから抱き締められる。優しげに、包み込んでくれる譲の腕。
遠い過去。覚えている、温もりと力強さ。でも、それは突如失われた・・・。
そして、今。遠い過去、まだ『水沢渉』でいたときの、記憶。
「おまえの望んだことなのか?」
温かな吐息とともに、譲の言葉を運んでくる。
優しい感触。絶対的な安心感。
もし、これを失わずにいられたら、今は変わっていただろうか。
自分のすべてを預けるように、渉は譲の広い胸に顔をうずめ、微かに首を縦に振る。
譲は渉の髪に顔をうずめて、最後の質問をする。
「・・・消えてもいいのか?」
「・・・椿ちゃんがいなきゃ、意味がない」
逆戻り。一番、恐れていること。戻りたくない、過去。
「−ごめんな・・渉」
微かに震える小さな肩を再び抱き締めて、消えつつある『渉』を予感をしていた。
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